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天下の魁 斉昭公(烈公)

徳川斉昭公


  • 文政12年水戸藩8代藩主の跡を継いで九代藩主となられた。
    時に30歳。幼時から英邁で、父治紀の尊王の志しを受け、また藤田幽谷の門人会沢正志斎や
    吉田令世の教育を受け、のちに光圀公とならんで義・烈両公と讃えられた名君であった。(1800~1860)

  • 藤田東湖・会沢正志斎など身分の低いものをも郡奉行の重職に取り立て藩政の大改革を断行。

  • 文武を奨励し士風を正し、財政を引き締め、自ら著された『告志編』を頒布して
    朝廷を尊び幕府を敬い、主従一体となって職務に励む事を要望された。

  • また新政策として、学校の創設、海防施設の充実、武士の土着の外、蝦夷地開拓の計画を発表し、
    準備を命じた。
  • これらの政策は光圀公の志を継ごうとされたものであったが太平無事に慣れ、
    また天保年間は凶作が続き財政も苦しかったために遅々として進まなかった。

  • それでも斉昭公は初志を変えず、蘭学者を招いて世界の情勢や洋学を研究させ、
    江戸詰の定員を減じ水戸に新屋敷を造って移住させ、凶作の年にはかねて用意した稗蔵を開いたり、
    九州方面から米を買い入れて救済に努められたので領内では餓死者が出なかった。


  • 斉昭公の事業のうち、最も重要でかつ困難だったのは学校の創設と領内の検地であった。
    天保8年に、文武一致、敬神崇儒などの方針を東湖に示して、学校の趣意書を作らせると、
    東湖はただ水戸藩だけの教学にとどまらず、
    日本全国の基準となる理想を確立しようとして起草したのが「弘道館記」である。

  • また教育制度についても、前例のない日本一の学校を目標に奇抜な構想を練った。
    こうして三の丸、5万4千坪(約18ヘクタール)の大敷地に校舎を立て
    青山拙斎・会沢正志斎を教授頭取として教育を開始したのは天保12年(1841)であった。

  • なお医学館や寮、文武館と称する農民の教場などが建設された。

  • また、追鳥狩(おいとりがり)という大軍事演習や、黒船の来航にそなえ大砲を、
    74門を造って幕府に献上、また慰安のための偕楽園を造るなど、
    その英才を発揮して藩の内外を驚かせた。

  • これらの遺跡は今も残り、その精神を尋ねることができる。

  • なお、検地はかねて藤田幽谷がその必要を力説したが
    重臣や富農の反発を考慮して慎重を期されたが幽谷門人たちの強い支持があったので
    学校建設と平行して二年あまりかけて厳正に行った。

  • この検地の趣旨は豪農の隠し田を無くし、
    貧農に農地を確保させて貧富の差を少なくし、
    勤労意欲を高めようとするもので、藩の収入を高めるためではなかった。

  • ことに一坪を6尺平方から6尺5寸平方に改めたので総高は十万石も減少した。

  • 徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜公は烈公の御子である。

  • [参考文献]

    ・『烈公の改革と幕末の水戸藩』 平成六年度水戸学講座講録 常磐神社発行
    ・『義公・烈公・みかけあふき』 常磐神社発行
    ・『水戸学の達成と展開』 名越時正著 水戸史学選書(水戸史学会発行)
    『最後の将軍』