『大日本史』の編纂と完成
- 光圀公は18歳の時の自覚と立志の達成に努められますが、
元禄三年(1690)の暮、藩主を退き、跡継ぎの綱條や家臣たちに、水戸藩の政治を託して太田の西山に小さな庵を作って隠居し、西山隠士と名乗られます。
しかし風月を愛しながらも、大日本史の編集を続けられ、なくなられるまでには
- 『大日本史』([本紀(ほんき)・列伝(れつでん)・志(し)・表(ひょう)
の四部に分けて構成されている)の「本紀」全部と「列伝」の一部ができ上がっていましたが、
「志」「表」の部分はほとんど手つかずで、あとは後継者にまかされることになるのであります。
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大日本史版本
- 歴史書というものは過去の事実を明らかにするのみだけでなく、
国の歴史書を作るということは、国の本来の姿を明らかにして、
その変遷の跡を見定めて、将来の在り方、理想を掲げ得るものでなければならないと考えられ、
同時に歴史は人が作るものでありますから、読む人は人物を批判し、自分の在り方を正すことができます。
- 光圀公は、中国の史書にならって「紀伝体」という編集形式をとられました。
天皇の本紀にはじまり、皇后・諸臣の列伝、外国伝、神祇志、仏事志などの十志、など
全397巻目録5巻という膨大なものとなりました。
明暦3年(1657)にはじまり明治39年(1906)まで、250年という永い年月をかけて完成致します。
光圀公の立てられた、編集事業の根本方針は代々の水戸徳川家の藩主が受け継いで監督し、
実際の研究と執筆は代々彰考舘員が苦心努力したのであります。
そして明治維新以後、藩が廃止されてからは、徳川家の事業として完成されました。
この事業に携わった史臣の採用は、浪人・庶民でも有能なものを全国的に選抜採用し、各自の能力を十分に発揮できるように致しました。
史料の最も多い京都の人を多く採用したのは朝廷・公家・社寺との交渉に力を入れたからであります。
また、光圀公は編纂上の必要と、史臣の才能を活用して史学以外に新しい学問を興されました。
和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など、
それぞれ貴重な著書編纂物を残されました。
史論の上でも三大特筆は、光圀公の深い思慮決断の結果でありますが、
中でも南朝正統論は湊川に楠公の墓碑を建てられたことと相俟って、後世の志士を感奮させ、
王政復古の運動を導く大きな役割を果たしました。
そればかりでなく、光圀公の理想は後世の史臣に深い思索と発明を促し、
没後100年、藤田幽谷の出現によって尊王攘夷の運動を興させ、斉昭公の大改革を運で、
西洋列強のアジア侵略の怒涛の中で、日本ひとり独立を全うし、
明治維新を生み出したことは最も大きな貢献と言うべきでありましょう。
- 編纂事業が完了し、「本紀」「列伝」「志」「表」の全てが揃い合計397巻と目録5巻が完成するのは
明治39年(1906)のことでありました。
- 実に250年の年月をかけての世界に類を見ない大文化事業でありました。
- しかし完成は100年,200年の後になっても、
『大日本史』編集の目的だけは生きている間に明らかにしたいと考えられ、
元禄5年(1692)に楠木正成公の墓碑(写真)の建立(現在の兵庫県神戸市の湊川神社境内)をされたのです。
- その墓碑に自分で「嗚呼忠臣楠子之墓」と書き、
裏面に朱舜水(しゅしゅんすい)の「楠公をたたえる文」を彫らせたことは、
後世どれほど大きな教訓となったか測り知れないものがあります。
- 光圀公は皇室の永久の御隆昌を祈り、断じて奸賊によって革命が起こらぬことを願われたのであります。
- これが水戸学の根本で、後期水戸学に対して前期水戸学とも言われているものです。
- 亡くなられたのは元禄13年(1700)12月6日、73歳、所は西山荘の一室でした。
- 光圀公の伝記
『義公行実』(ぎこうぎょうじつ)
『桃源遺事』(とうげんいじ)
などが作られたのはその直後です。
また光圀公の編集されたものは、たいへん多く
『禮儀類典』(れいぎるいてん)514巻は朝廷の廃れて行われなくなっていた色々な儀式の復興に大きく貢献し、
『扶桑拾葉集』(ふそうしゅうようしゅう)30巻のほか、
『神道集成』(しんとうしゅうせい)
『釈万葉集』(しゃくまんようしゅう)などは、この後も史臣が継続して執筆し、
契沖(けいちゅう)に命じて作らせた『万葉集代匠記』(まんようだいしょうき)は国学の発端ともなりました。
◆ 関 連 資 料
○大日本史完成の地へ
○水戸学講座「義公修史の目的と構想」

