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光圀公(義公)の生い立ちと18歳の自覚


とくがわみつくにこう
徳川光圀公


  • 水戸徳川家初代藩主、頼房公(よりふさこう)がなくなられると瑞竜山(常陸太田市)に葬られ、威公(いこう)と諡(おくりな)されました。
    これから瑞竜山は水戸家代々の墓地となり、また藩主がなくなると、ふさわしい一字を選んで諡とすることが慣例となりました。

  • 頼房公にはたくさんの子女がありましたが、家を継いで二代目の藩主となったのは三男の光圀公(諡は義公)で、光圀公の時代は、その学問によって善政が行われ、歴史編集の外、文化事業が活発になり、後に、
  • 水戸学と呼ばれる学風が興って、御三家の一つである水戸藩は日本歴史上に大きな役割を果たすのであります。

  • 光圀公は寛永五年(1628)水戸城下、柵町の三木之次(みきゆきつぐ)という家老の屋敷で生まれ、事情があって5歳まで身分を隠して三木夫妻の養育を受けられました。
    6歳のとき、長兄頼重(よりしげ)を越えて(次兄は幼いとき死亡)、世継ぎに決められると、江戸小石川の水戸邸へ移り、父のもとで武士的教育を受けられました。

  • ところが、15~6歳のころから何故か脱線し、江戸の繁華街を放浪したり三味線を楽しむようになられたので、守役が熱心に諌めても効果がありませんでした。

  • しかし転機は意外なことから訪れます。

  • 18歳のとき、ふと『史記』(前漢の司馬遷が書いた歴史書)の伯夷伝(はくいでん)を読まれたことが、一生を全く変えたのです。

  • 第一に伯夷・叔斉(しゅくせい)兄弟の相続の譲り合いから、兄を越えて「世継ぎ」となったことにひどく心を痛められ、これまでの自分の態度を恥じ、ついに兄の子を養子にして跡を継がせようと堅く決意されます。


  • 第二に、読書学問が自分の人格の確立にどんなに重大であるかを知って、これから生涯学問に専心し、人に対する思いやりの心を深められました。

  • 第三に、史記にならって日本の歴史を編集する志を立て、

  • 第四には伯夷・叔斉が周の武王の革命を否定したことから、日本の国柄を守るために、君臣の大義を明らかにすることを決意されます。

    それ以後、光圀公の生涯はこのような志の貫徹を念願としながら展開して行くのであります。

  • 水戸史学会編 『水戸の道しるべ』より

  • (さらに詳しく知りたい方は、お問い合わせ下さい、

  • 下記の参考文献の外にも関連出版物あります)

  • [参考文献]
    『新版 水戸光圀』 ========>名越時正著
    『義公修史の開いた道』 ===>平成五年度 水戸学講座講録/常磐神社発行
    『常磐神社史』 ==========>常磐神社発行
    『水戸の道しるべ』=======>水戸史学会発行