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義公年譜(黄門様の一生がわかる)

   

[凡例]
事項には( )内に史料を略記した。略号は下記の書名を略したものである。

    行実(義公行実) 年譜(義公年譜) 綜貫(源流綜貫) 系纂(水府系纂)
    紀年(水戸紀年) 文献志(東藩文献志) 実紀(徳川実紀)
    文集(「義公全集」上、常山文集) 文集補遺(「義公全集」上、常山文集補遺)
    文集拾遺(「義公全集」中、常山文集拾遺) 詠草(「義公全集」中、常山詠草補遺)
    公卿書留(「義公全集」下、水戸義公公卿御書留)

   
西暦 年齢 月 日 ・ 記  事
寛永5年戊辰 1628 1歳 6月10日、水戸城下 三木之次の家において御生誕(行実)。
父は威公頼房、母は靖定夫人谷氏。幼名千代松。三木夫婦に養育される。
11月4日、次兄亀丸卒(4)(綜貫)。
寛永6年己巳 1629 2歳 7月14日、弟元生誕(綜貫)。
9月28日、小石川邸落成。威公移居。
11月18日、頼隆生誕(綜貫)
此年、紫衣事件、沢庵等配流。
9月、武家諸法度改正。
10月、春日局、天皇に拝謁。
11月8日、後水尾天皇譲位、明正天皇践祚。
寛永7年庚午 1630 3歳 7月3日、弟頼利生誕(綜貫)
7月11日、弟頼雄生誕(綜貫)
此年、長兄頼重(9歳)京都天龍寺に移る。
寛永8年辛未 1631 4歳 此年、真弓山の僧等覚院が三木邸の門前で群児と遊ぶ公の人相の常人でないことを見抜く。また公は一商人が海上で龍虎の戦いを見たという話を聞き、その虚偽を詰る。(桃源遺事・年譜)。
3月26日、弟頼泰生誕(綜貫)。
閏10月29日、弟頼以生誕(紀年)。
6月、海外渡航につき奉書船制度を定む。
寛永9年壬申 1632 5歳 5月3日、従五位上に叙せられる。但し後年の追賜(綜貫)。
11月、頼重江戸に帰る。
此年、前将軍徳川秀忠薨(54)
寛永10年癸酉 1633 6歳 此年、将軍家光は、威公に対して世子を諸公子の中から選ぶよう命じたのて、中山備前守信吉が公命を受けて5月に水戸に来り、諸公子に面接した。信吉は義公の態度に感服してこれを将軍に報告したので、公を江戸に迎え、11月に世子に立てられた(行実)。
9月5日、従四位下左衛門督に任ぜられる(綜貫。但しこれも後年の追賜であろう--年譜)。
7月15日、弟房時生誕(紀年)。
2月、奉書船以下の海外渡航禁止。
寛永11年甲戌 1634 7歳 4月4日、弟重義生誕(紀年)。公は祖母英勝夫人に従って始めて将軍(家光)に謁した。この時将軍から文昌星の像等を授けられた(行実)。
また此年、威公は桜の馬場で手討にした罪人(永野九十郎)の首を、夜間公に命じて持参させ、度胸を試した(行実)。
六月威公、将軍に従って上洛(文献志)。
寛永12年乙亥 1635 8歳 5月、幕府貿易を長崎に限り、海外渡航、帰国を厳禁。
6月、武家諸法度改定。参勤交代制。
寛永13年丙子 1636 9歳 7月6日、江戸城中において元服(行実)。将軍より光の字を与えられ徳川光国と名乗る。又佩刀(行光作)を賜わる。公も又国宗の太刀と馬代を献ずる(年譜)、従四位下左衛門督に叙せられる(行実)
寛永14年丁丑 1637 10歳 この年、島原の乱起り、翌年平定。
寛永15年戊寅 1638 11歳 正月、将軍より甲冑を賜わり、2月、はじめて着甲す(年譜)。
寛永16年己卯 1639 12歳 正月、疱瘡を患う(年譜)。
夏、浅草川を泳いで横断し、威公より賞として宗近の短刀を賜わる(行実)。
7月、はじめて銃を放ち威公より銃2挺を賜わる。
12月、はじめて放鷹する(年譜)。
7月、兄頼重、下館5万石に封ぜられる(実紀)。同月ポルトガル船の来航を禁ずる。
寛永17年庚辰 1640 13歳 3月29日、従四位上近衛権中将に任ぜられる(行実)。
5月、はじめて日光東照宮を尾紀両世子と共に参拝(行実)。
7月11日、従三位に叙せられる(行実)。
10月19日、将軍の命により小金に放鷹(年譜)。
此年、伊藤友玄・小野言員・内藤高康、公の傅となる(年譜)。
4月、頼重従五位下侍従に任ぜられる。
寛永18年庚辰 1641 14歳 此年、水戸領検地始まる。
4月、オランダ商館を長崎出島に移す。
寛永19年壬午 1642 15歳 正月、「中山備前守信吉をいためること葉」(和文)を作る(常山詠草三)。
4月、日光東照宮参拝(年譜)。
7月18日、将軍及び威公と共に隅田川に遊ぶ(年譜)。
9月、威公と共に鎌倉に至り、英勝院の葬儀に参列(年譜)。
此年2月、頼重、讃岐12万石に改封。水戸領去年に続き飢饉。
寛永20年癸未 1643 16歳 8月、威公と共に鎌倉に至り、英勝院の冥福を祈る(年譜)。
10月、威公熱海温泉に湯治(綜貫)、田畠永代売買禁止。
10月3日、明正天皇譲位、後光明天皇践祚。
正保元年甲申 1644 17歳 3月、小金に猟し銃によって多くの獲物を得る(紀年)。
8月、威公と共に鎌倉に英勝院の冥福を祈る(年譜)。
12月8日、将軍小石川邸に臨み、公に行光の刀を賜わる(年譜)。
4月26日、頼重、土井利勝の女を娶る。
10月、林羅山の「本朝編年録」成る。
此年、明の李自成北京を陥れ、皇帝自殺。清、北京に遷都。
正保2年乙酉 1645 18歳 2月、前髪を落す(桃源遺事)。将軍・威公に従って隅田川に遊ぶ(年譜)。
此年、史記伯夷伝を読み、兄を越えて世子となったことを恥じ、ひそかに家を兄の子に伝えることを期す(行実)。又発奮して修史の志しを立つ(大日本史叙)。
初春、「梁塵愚按抄」を写して跋を作り(文集補遺)、10月、「笑々和歌集序」を作る(詠草三)。
この年より学問に出精する(桃源遺事其他)。
11月、家康、東照宮の号を賜わる。
正保3年丙戌 1646 19歳 正月、三木之次没し「三木之次をいためる詞」を作る(詠草五)。
3月、麻疹を患う(年譜)。
春、公の使いとして上京した人見卜幽によって冷泉為景と相知る(扶桑拾葉集、報源光圀詩歌序)。
此年、幕府、明の救援について議し、ついに拒否。
正保4年丁亥 1647 20歳 正月、元旦詩を作る(文集。これより通常毎年元旦詩あり)
3月20日、「宴夏雪亭詩歌序」(詠草三)。
11月13日、威公と王子村に犬追物を見る(年譜)。
12月、小金に狩りす。此年、小野言員致仕して水戸に帰るに際し、「送言員赴常州」詩歌を作る(文集・詠草三)。その他詩歌多し。「奉天孫詩歌序」も此年か。
9月、皇弟守澄法親王、輪王寺門跡として東下せらる。
慶安元年己丑 1648 21歳 5月、冷泉為景江戸に下り、公と会い、「藤原惺窩先生遺文」の校正をを求め、又「都氏文集」を貸与す(文集)。この頃、文才学識多いに進み、「八月十五日夜賦」「神農贊」「白鵞賦」等を作る(年譜)。
此年、頼重長子松千代(綱方)出生。
8月、中江藤樹没(41)。
慶安2年己丑 1649 22歳 4月、家綱に従って日光に至る。
5月、又弟頼元・頼隆と日光に参拝する(年譜)。「送生万万之京師序」「都氏文集跋」を作る(年譜)。又、林羅山等と詩を送答する(文集拾遺)。
3月、慶安のお触書。
6月、木下長嘯子没(81)。
10月、前関白近衛信尋薨(51)
慶安3年庚寅 1650 23歳 5月7日、伯父尾張敬公義直(51)の薨ずるに当り、「源敬公誄并序」を作って悼む(文集)。
慶安4年辛卯 1651 24歳 幼児の頃養育に務めた老女高島が前年暮死去したため「涙のしづく」なる一文を作って悼む(詠草三)。林羅山に詩の添削を受ける。冷泉為景と詩の交換あり(文集)。
4月20日、将軍家光薨(48)。
7月、由井正雪の乱。
8月、家綱将軍に任ぜられる。保科正行大老。
承応元年壬辰 1652 25歳 八月、近衛信尋女尋子泰姫との縁談はほぼまとまる(近衛家文書)。
11月21日、公庶子頼常出生(綜貫)。
此年真幸忠辰に代わって筆海全書序を作る(文集)。
 3月、金蘭の友冷泉為景卒(41)。戸次庄左衛門の陰謀発覚。
承応2年癸巳 1653 26歳 4月、公子頼常ひそかに高松に引きとられる(松平頼重伝)。
6月23日、皇居炎上。
7月19日、近衛尚嗣薨(32)。
承応3年甲午 1654 27歳 4月14日、近衛尋子泰姫との婚儀挙行。姫19歳(又は17)(行実)。
12月28日、公の寝殿を造る(文献志)。
9月20日、後光明天皇崩御(22)。
11月28日、後西天皇践祚。
明歴元年乙未 1655 28歳 5月4日、谷重代、公の傅となる。
9月27日、公の寝殿成って移る(文献志)。
12月6日、小野言員没(72)。山崎闇斎、京都に開講。
明歴2年丙申 1656 29歳 春、林羅山の妻卒す。公詩數首を作って林家を弔す(年譜)。
9月、兄頼重の求めにより諸弟と法華経各一巻を写し、讃岐金毘羅山に蔵す(年譜)。
8月26日、頼重の二子采女(綱条)出生。
明歴3年丁酉 1657 30歳 1月19日、前日よりの大火のため小石川邸焼失、威公と共に蒲田の邸に移る(年譜)。「盆盞の記」を作る(詠草三)。
2月27日、史局を駒込邸に開く(年譜)。
4月29日、駒込邸に移居(文献志)。
5月、下旬より7月まで所労のために病む(実記)。
8月、夫人泰姫病み、書楼の落成祝い延期されて10月21日挙行(香玉詠草)。
1月23日、林羅山没(75)。
万治元年戊戌 1658 31歳 9月25日、林読耕斎(靖)及び春信、駒込邸を訪れ、文学の交わりを深める(文集拾遺)。
10月6日、夫人赤痢に罹る(文集拾遺)。
閏12月23日、夫人駒込邸に薨す(23、又は21)、哀文夫人と諡す(年譜・文献志)。
12月13日、小石川新邸成る(文献志)。
此年、「孔子贊」を作る(年譜)。
正月、江戸大火。
8月22日、三木之次妻武佐死去(88)。
万治2年己亥 1659 32歳 正月元日、故夫人を祭る(文集)。又夫人の病中及び薨葬の次第を記して近衛家に送る(文集拾遺)。
6月19日、将軍家綱の命によって水戸に至る(行実)。
此年、朱舜水長崎に来る。
万治3年庚子 1660 33歳 6月13日、参府(行実)。水戸製の鏃三百個を将軍に呈す(年譜)。
寛文元年辛丑 1661 34歳 4月12日、林読耕斎の死(3月12日没、38)を悼み、「祭林彦復文」を作る(文集)。
2月より帰藩中の威公は、4月日光に参拝し、帰途那須温泉に浴したが、6月より病状悪化のため、弟と共に7月17日水戸に至り看護を尽す(行実)。
7月29日、威公薨ず(59)。
8月4日、瑞龍山に葬る。諡を威公と定め、墓誌を作る(行実・文集補遺)。又遺命により殉死を禁じ、租税を免じ罪人を赦す(行実・文集)。
8月10日、幕命によって参府(実記)。
8月18日、兄頼重及び諸弟を威公神位の前に集め、兄の子松千代を養子とすることを乞い、多年の思いを述べる。兄ついに承諾。
19日、幕命により常陸二十八万石を領す。
9月26日、領内の墾田を割いて、頼元、頼隆に各二万石を与える(行実)。房時・頼雄・頼利等に各三千石を分ける(年譜)。又威公廟を水戸城内に建立(行実)。
10月14日、生母谷氏卒す(57)。靖定夫人と諡する(行実)。
1月、内裏炎上。
寛文2年壬寅 1662 35歳 4月22日、勅使藩邸に来臨。通例を改正して自ら旅館に至り謝す。これ以後恒式と定める(行実・年譜)。父母の忌辰には大赦を行う(文献志)。
12月21日、参議に任ぜられる(右近衛中将は同前)(行実)。
1月、頼重讃岐守に任ぜられる。
3月、松平信綱卒(67)。
11月皇居落成。
伊藤仁斎、京都に古義堂を開く。
寛文3年癸卯 1663 36歳 4月、将軍に従って日光参拝(行実)。
4月20日、「祭大猷源公文」を作る(文集)。
5月、幕府、武家諸法度改正に当って学問尊重を説き、儒者の特別扱を非難す(年譜)。
7月2日、就国。威公の墓を拝し、9月、諸士の諸掌を定め、10月領内各地を巡視して、11月22日、参府(行実)。
12月4日、綱方(松千代)を世子と定める。後日従四位下左近衛権少将となる。又采女(後に綱条と改む)も養子とする(行実)。
此年、下町水道を造る(紀年)。
1月26日、後西天皇譲位、霊元天皇践祚。
5月、武家諸法度改正、殉死を禁ずる。
寛文4年甲辰 1664 37歳 2月18日、兄頼重、頼常を養子と定める(綜貫)。
4月8日、弟頼以卒(34)。「懿孝子墓誌」を作って弔う(綜貫・文集補遺)。
閏5月、小宅生順を長崎に派遣し、朱舜水招聘の交渉を行わせる(系纂)。
10月20日、姉通子卒す(年譜)。
11月28日、鵞峰を招いて国史について問答(国史館日録)。吉弘元常来仕。
10月、林鵞峰、本朝通鑑(本朝編年録改名続補)の編集を命ぜられる。
11月、忍岡国史館開館。同月、宗門改を励行。
寛文5年乙巳 1665 38歳 3月28日、鵞峰、鳳岡を招いて聖堂の事を談合(国史館日録)。
7月18日朱舜水を招き、弟子の礼をとる(行実)。
8月、筑波山に登り帰国、領内巡視(文献志)。
9月、舜水を水戸に迎える(朱舜水行実)。
12月3日、北河原景隆・山県元纜を社寺奉行に任命、社寺法令を定め、淫祀三千八十八を毀つ。
此月20日、出発、参府。此年、緑岡に高枕亭を建て、又笠原亭を漱石所と称し、又市毛村の古塚に経筒を得る(紀年)。
此年、保科正行、山崎闇斎を招く。
10月、山鹿素行、「聖教要録」を著す。
寛文6年丙午 1666 39歳 春、舜水の病を見舞う(年譜)。
4月、常磐・酒門の地を藩士の墓地として与う。「葬祭儀略」を作る(年譜)。
8月、新建寺院九百九十七を廃し寺僧を還俗させる(行実)。寺院への施物を定める(西山遺文)。板垣宗憺来仕(史林年表)。
5月、池田光政も淫祀破却。
10月3日、山鹿素行赤穂へ流謫。
寛文7年丁未 1667 40歳 1月30日、林鵞峰と談義(国史館日録)。
2月小金に放鷹(年譜)。
7月、又鵞峰を招き本朝通鑑の進行を聞く(国史館日録)。
7月20日、帰藩(行実)。
11月、吉田・静二社の社僧を廃し、神官に神道の学習を命じ社殿を修復。発見された銅印について、「静神社印記」を作る(行実・文集補遺)。
12月4日、七十歳以上の藩士、及び退職者を招いて慰労す(行実)。
此年、舜水を水戸に招き、城鐘の銘を作らせる(年譜)。馬場村に別館を建てる(紀年)。
5月22日、紀州頼宣隠居、光貞嗣ぐ。
寛文8年戊申 1668 41歳 2月28日、参府(行実)。
3月、人見卜幽七十歳の祝宴に臨む。
10月、源頼義の筆跡を将軍に贈る(行実)。
12月、小金放鷹、此年大旱につき救済(年譜)。
2月、江戸大火。
寛文9年己酉 1669 42歳 5月16日、林鵞峰に「本朝通鑑」の疑問を質す(国史館日録)。
11月12日、朱舜水七十の祝宴を開き、16日、公その宅に臨む。
此年、舜水帰国を願ったが、公の慰留により断念(年譜)。
12月、小金放鷹(年譜)。
4月、保科正之致仕。7月松前に蝦夷の反乱起る。
12月、山鹿素行「中朝事実」成る。
寛文10年庚戌 1670 43歳 正月22日、世子綱方卒す(23)。靖伯世子と諡す(行実)。
同月、陣法を定める(紀年)。
8月、帰藩(行実)。
10月、領内北郡巡視(文献志)。
閏10月、領内洪水被害あり(紀年)。
此年前浜村古墳発掘(紀年)。又江戸城中において「本朝通鑑」呉太伯説を非とする議論あり(年山紀聞)。
7月、人見卜幽没(73)。
此年、「神道集成」の稿成る(同書上疏)。
此年、「本朝通鑑」成る。
寛文11年辛亥 1671 44歳 2月26日、参府(行実)。
6月6日、綱条を世子とする。従五位上采女正に叙任。
12月25日正四位下左近衛権少将に拝命(行実)。
同月、小金放鷹(年譜)。
1月、紀伊頼宣薨(70)。
寛文12年壬子 1672 45歳 春、史局を小石川邸内、靖伯世子の旧館に移し、彰考館と命名し、史館警を作る。
5月3日、開館祝宴あり(文献志・文苑雑纂開彰考館記)。
同月、儒臣に史館講義を命ず(文献志)。
12月、小金放鷹(年譜)。大串元善来仕。
6月、池田光政隠居。
12月、保科正之薨(62)。
延宝元年癸丑 1673 46歳 5月25日、帰藩(行実)。
8月18日より9月7日まで北郡巡視(年譜)。
5月、京都大火、皇居炎上。長者町の水戸邸も焼失(紀年)。大成殿を府下に造る考えで、朱舜水に仮の殿堂を造らせ、儀礼等を士に学ばせる(行実)。
此年、頼重致仕し頼常継ぐ。幕府分地制限令を発布。
延宝2年甲寅 1674 47歳 4月22日、水戸を発し、上総・安房を経て鎌倉に至り、5月9日、参府(文献志)。
「鎌倉日記」を作る(同書)。
12月2日、弟頼利卒す(45)(年譜)。
冬、彰考館を河原書院に移す(紀年)。
此秋、凶作。倹約を令し、自ら食膳を節す(紀年)。
玉造村の孝子弥八を賞し金を与う(紀年)。
久米村の願入寺を岩船に移す(紀年)。
9月、佐々宗淳来仕。小宅生順没(37)。
2月、皇居造営。
延宝3年乙卯 1675 48歳 正月、後西上皇の制に応じ雪朝遠望の詩を作り、天竜寺虎林を通じて献上(行実)。
此年、節約を令し士人の上納金を免じ、又酒の販売を停止(紀年)。
1月、山鹿素行「配所残筆」を著す。
8月、許されて江戸に帰る。
延宝4年丙辰 1676 49歳 2月、藩の儒者に蓄髪を命じ、藩士の任を与える(修史始末)。
此年、又凶作。前年の処置に同じ(紀年)。
延宝5年丁巳 1677 50歳 5月20日、帰藩(文献志)。
同月28日、中山信正の卒去に際し歌を詠んで弔す(年譜)。
9月9日、湊別館に在る時、高潮あり(年譜)。
11月、12月、母靖定夫人、武田信吉、哀文夫人、兄亀丸を瑞龍の墓地に改葬、それぞれ墓誌を作る(年譜・文集補遺)。
此年、妹夫酒井忠治の女を英勝寺に住ませる(行実)。靖定夫人のために久昌寺を建て、日乗を京都より招いて住職とする(文献志)。
延宝6年戊午 1678 51歳 正月、和文集三十巻を後西上皇の天覧に供え、「扶桑拾葉集」の題名を賜わり、勅撰に準ぜらる(行実)。
同月、前年制定した諸士服制を元日初めて用いる(年譜)。
2月、参府(行実)。
6月、大野の牧を開く(紀年)。
8月12日、世子綱条と今出川公規女季姫の婚約決定し、11月15日、姫京都より江戸に至り、12月12日結婚(水城金鑑・文献志・年譜)。
10月、鵜飼真昌来仕。
12月、朱舜水の孫毓仁長崎に来る。公は毓仁を招いて祖父を侍養させようとした(舜水先生行実)。
6月15日、東福門院和子崩(74)。
9月、甲府綱重薨(35)。
延宝7年己未 1579 52歳 正月、花押を常山の形に改む(水城金鑑。高倉逸斎は光国を光圀と改めたのも此年と推定)。
2月、霊元天皇の御病気見舞いに使を派遣(紀年)。
4月16日、節約令を発す(紀年)。
同月、今井弘濟長崎に至り朱毓仁と会う(舜水先生行実)。
8月、世子初めて帰藩(年譜)。
12月、参府(紀年)。
此年、「題校訂公卿補任補闕」を作る(文集補遺)。
延宝8年庚申 1680 53歳 4月23日、「扶桑拾葉集」を後西上皇に献上(上表)。
4月29日、同書を将軍に呈す(文献志)。
11月、霊元天皇に同書を献上(行実)。又「一代要記」「公卿補任」を上皇に献上(年譜)。
12月、本朝詩文集の編纂を命ず(往復書案)。
5月5日、林鵞峰没(63)。
同月8日、将軍家綱薨(40)。綱吉継ぐ(後嗣について義公は館林侯綱吉を推すという。紀年)。
8月19日、後水尾法皇崩御(85)。
天和元年辛酉 1681 54歳 正月23日、水戸大火、士人に復興の資金を貸し出す(紀年)。
7月28日、明僧心越初めて公に謁す(年譜)。
此年、中院通茂の奉ずる後西上皇の仰せにより、詩歌を献上(行実)。
佐々宗淳・吉弘元常奈良に史料探訪(修史始末)。
6月、将軍綱吉、越後騒動を自ら裁く。
天和2年壬戌 1682 55歳 2月10日、弟頼雄、宍戸一万石に封ぜられる(年譜)。
9月3日、朝鮮使の無礼を中村顧言わして詰問させる(文献志・行実)。
10月28日、帰藩(年譜)。
12月、後西上皇の詔により、後水尾法皇御遺品の鳳足硯の銘を作って献上(行実)。
此年、山県元纜上京し、部類記編纂の事を、土御門泰福を通じて上聞くに達す(口上覚)。
4月17日、朱舜水没(83)(舜水先生行実)。
9月16日、山崎闇斎没(66)。
天和3年癸亥 1683 56歳 正月、平時成の伝える詔によって、「立坊・立后儀節」を献上(行実)。これによって2月9日、朝仁親王(のち東山天皇)の立太子式が三百十五年振りに復興し、又2月14日には藤原房子の立后の儀式が約六十年振りで挙行された(続史愚抄)。公はこの両儀式に下野遠貞を賀使として上京させた(文献志)。
2月、後西上皇より鳳足硯銘献上に対し、「備武兼文絶代名士」の宸翰を賜わる。公はその文詞を心越に彫らせて印とする(行実)。
6月、領内巡視(文献志)。
7月、藍等の雑税を免ず(紀年)。
7月12日、舜水を墓前に祭り、「祭明徴士故舜水朱先生之霊文」を作る。又諡を文恭と定む(文集補遺・紀年)。
夏、「漱石所規約」を作る(文集補遺)。
8月2日、安積覚入館(系纂)。
同月4日、水戸発、下総を経て9月参府(文献志)。
8月26日、将軍に天地球図を進上(実記)。
9月末、土御門泰福、「礼儀類典」編纂の勅命を伝う(口上覚)。
11月5日、かねて後小松天皇迄で擱筆と定めた紀伝に、その後の事も入れるよう史臣に命ず(御意覚書)。
同月27日、初めて史館に総裁を置く。初任人見伝。
此頃、いわゆる易稿重修行われる(修史始末)。
此年、光国を光圀と改めた(福田耕二郎氏説)。
5月、将軍世子徳松没(5)。
7月、武家諸法度改訂。
貞享元年甲子 1684 57歳 正月、安倍泰福によって尚歯会詩一巻を献上(行実)。
3月12日、勅使を邸に迎える。後西上皇の使平松時庸より宸翰その他の賜品を伝達される(文献志)。
4月3日、史臣に神代の扱い、出典註記等を命ず(御意覚書)。
5月7日、史館を邸内天神坂上に新築し、この日移転す。後9月落成を祝い史臣と共に詩を作る(史館旧話・文苑雑纂)。
8月11日、史臣に皇后を皇妃伝に記すことを命ず(御意覚書)。
同月15日、森尚謙来仕(史林年表)。
同月28日、稲葉正休を家に弔す(年譜)。
12月13日、舜水祠堂を駒込邸内に建て、「祭明故徴君文恭先生文」を作る(年譜・文集)。
同月17日、伯父信吉の母秋山夫人の碑を下総平賀村本土教寺に建て祭文を作って弔す(行実・文集拾遺)。
同月、安倍泰福によって五月雨記一巻を朝廷に献上す(行実)。
8月、堀田正俊殿中に刺される。
11月、渋川春海貞享暦を作る。これ前年公の指摘に基くという(西山遺聞)。
貞享2年乙丑 1685 58歳 4月5日、安藤為章入館(史林年表)。
同月18日、朱舜水を祭る(文集補遺)。
同月26日、佐々宗淳・丸山可澄、命を受けて大規模な史料探訪に出発、五十五国を廻って冬帰府(修史始末)。
8月11日、孫吉孚生誕。公自ら養育す(文献志)。
9月、朱毓仁再び長崎に来る(文献志)。
11月13日、大船房州より出航、暴風に遭って帰らず(紀年)。
2月22日、後西上皇崩御(49)。
9月26日、山鹿素行没(64)。
貞享3年丙寅 1686 59歳 5月4日、安藤為実来仕(史林年表)。
8月、大串元善、命によって長崎へ出張し、張斐と筆談(文献志)。
貞享4年丁卯 1687 60歳 4月11日、帰藩(行実)。
6月10日、六十歳の誕辰の賀。(文献志)。
8月16日より北郡巡視、馬頭村に至り、那須国造碑の修復を佐々宗淳・大金重貞に命ず(年譜)。
10月、神崎寺で発見された経筒について「如法経筒記」を作る(文集補遺)。
11月22日、参府(文献志)。此年、心光寺を久慈郡向山に移す。元禄2年成る(紀年)。
12月7日、今出川公規を通じ、「礼儀類典」の勅題を請願(御書留)。
1月、生類憐令発布。
3月21日、霊元天皇譲位、東山天皇践祚。
11月16日、大嘗祭二百二十年振りで挙行される(続史愚抄)。
冬、熊沢蕃山古河に禁錮。
元禄元年 1688 61歳 2月3日、快風丸湊を出発して蝦夷地に至り、12月27日、帰港(里見氏筆記)。
9月3日、領内の紙買上始まる(御定書)。
11月21日、将軍忍岡聖廟を拝す。公、「賀大樹源公謁忍岡孔廟頌并序」を作る(文集)。
7月、人見伝総裁を免ぜられ、吉弘元常・佐々宗淳新任(系纂)。
此年、栗山愿「保平綱史」を著し、八条宮尚仁親王に献ず。
11月、柳沢吉保、側用人となる。
元禄2年己巳 1689 62歳 2月27日、清原経方(自足軒)と初めて面会(文献志)。
7月2日、帰藩(文献志)。
12月10日、大目付望月盛正誅に伏す(文献志)。
同月、法華寿量品を書し、妙法崎の釈迦像胎中に納める(年譜)。
秋、有栖川宮幸仁親王より「扶桑拾葉集序」を賜わる(扶桑拾葉集版本)。
夏、吉弘・佐々総裁等「修史義例」を作る(修史始末)。
此年、検見法を改め役人の関与を廃して庄屋に検見させる(行実)。
「参考保元物語」「同平治物語」成る。
8月6日、八条宮尚仁親王薨去(19)。
元禄3年庚午 1690 63歳 2月、「続扶桑拾葉集」成る(往復書案)。
3月、貧民・病人・老人救済の制を作り、又凶年に備え稗蔵を設ける(行実)。
4月6日、天妃祠を建て灯台を兼ねさせる(紀年)。
6月9日、参府(文献志)。
10月14日、幕命により致仕(退職を許され綱条就任する。行実)。
同月15日、権中納言に任ぜられる(行実)。
11月29日、帰国のため出発に当たって綱条に詩を与えて戒める(桃源遺事)。
12月4日、水戸に着く、5日より三日間、家臣及び子弟を城中に集め、退職の挨拶を行う(行実)。
同月15日、綱条右近衛権中将(家譜)。
同月末、田中村郷士大内勘衛門宅で越年(紀年)。
此年、「花押薮」成る。
5月14日、史臣修史義例を補正(修史始末)。
「万葉集代匠記」精撰本成る(同書奥書)。
元禄4年辛未 1691 64歳 正月、旧事本紀・古事記・日本書紀・文徳実録・三代実録を校正し、自ら跋を付して昌平黌へ献納(年譜・文集)。
同月11日、中村顧言総裁就任。
2月、粛公史臣を督励して修史の完成を期す。
4月、丸山可澄東北の史料探訪に発つ(以上修史始末)。
5月3日、太田の西山に移居、これより西山隠士・西山樵夫等と称す(行実)。
6月13日、梅里先生碑陰并銘の文を吉弘元常に示し意見を聞く(書翰)。
夏、有栖川宮幸仁親王より道服拝領、今後着用(公卿書留)。
9月18日、威公の廟を拝し、致仕拝官を報告する(文集補遺)。
9月22日、旌桜寺に源頼義・義家を祠る(文献志)。
10月1日、梅里先生墓碑を瑞龍山に建て、衣冠魚帯を埋める(日乗上人日記)。
11月、南郡を巡遊(紀年)。
同月、山方村孝子大串武治右衛門を表彰し金銀を与える(紀年)。
12月、那須国造碑修理成り、自ら作った鏡銘を埋めさせる(文集補遺)。
此年、「参考太平記」出版。
1月、林鳳岡蓄髪、大学頭に任ぜられる。
8月、熊沢蕃山没(73)。
元禄5年壬申 1692 65歳 3月、那須国造碑近隣の古墳を佐々宗淳に調査させ、祭文を読んで祭る(文集補遺・「那須国造墳墓修築記」)。
同月7日、鵜飼真昌総裁に任是られ流(系纂)。
6月15日、大串元善、史館書物目録を作る(同目録序)。
4月、佐々宗淳楠公墓碑建設の命を受けて出発(往復書案)。
6月23日、馬頭・湯津上に至り国造碑を見る(紀年)。
同月、「諸家系図纂む」成る。
8月、湊川に楠公墓碑を建て、自ら鏡銘を作って納め、「嗚呼忠臣楠子之墓」と記す。後に朱舜水の贊を碑陰に刻む(行実)。
11月10日、史臣の疲労を憂慮して月に十日の休日を与える(修史始末)。
元禄6年癸酉 1693 66歳 4月28日、弟頼元卒(66)。翌月、公祭文を作って弔す(文集)。
4月、栗山愿来仕(史林年表)。
6月6日、安積覚総裁に任ぜられる(系纂)。
10月、大内勘衛門の家に宿し、詩歌の宴を催す(紀年)。
11月、天神林の菅公祠を修造し七代天神宮に改める(行実)。
12月1日、粛公、従三位参議に叙任(家譜)。
此年、「救民妙薬集」を村々に配る(同書序)。
江戸交番者の忌引帰郷を許す(紀年)。
4月11日、鵜飼真昌没(46)。
12月、新井白石、甲府綱豊に仕える。
元禄7年甲戌 1649 67歳 3月、将軍の命によって出府(行実)。
4月、将軍に大学を講ず(行実・実紀)。
5月、粛公帰藩。
6月3日、津田閑斎「神道集成」を再校して上呈、公の意に満たず却下(瑤渓手録)。
11月23日、藤井紋太夫を誅す(西山過去帳)。
12月4日、粛公参府(文献志)。
此年、道服を作り、幸仁親王・鷹司房輔に贈る(行実)。
森尚謙に神武天皇陵修復の建議書を草させる(儼塾集)。
6月30日、吉弘元常没(52)。
10月、松尾芭蕉没(51)。
11月、吉川惟足没(79)。
12月、柳沢吉保準老中。
元禄8年乙亥 1695 68歳 正月16日、下総より筑波を経て西山に帰る(紀年)。
3月、北郡に遊ぶ(紀年)。
4月12日、兄頼重薨ず(74)。
6月、「礼儀類典」完成(往復書案)。
8月、領内巡遊(紀年)。
8月25日、公孫吉孚登城、世子に定まる(実紀)。
12月4日、吉孚元服、従五位上左衛門佐に任ぜられる。公満悦し学問精悦し学問精励を奨める(家譜・書翰集)。
此年、舜水の墓を瑞龍山に建てて祭る(文献志)。舜水先生文集を編す(文献志)。「草露貫珠」成る。
9月、心越寂(57)。
8月、幕府金貨を改鋳。
元禄9年丙子 1696 69歳 6月、史館総裁等、「重修紀伝義例」を作る(修史始末)。
12月5日、吉孚正四位下に叙せられ、右近衛権少将に任ぜられる(綜貫)。
12月23日公髪を切る(日乗日記)。
此年7月、佐々宗淳総裁を免ぜられ、西山に近侍(系纂)。
9月23日、人見伝没(59)(墓碑)。
10月25日、大串元善総裁。
12月12日没(39)(墓碑)。
4月、荻原重秀、勘定頭に任ぜられる。
11月10日、明正上皇崩御(74)。
元禄10年丁丑 1697 70歳 2月11日、栗山愿総裁に任ぜられる(系纂)。
閏2月15日、柵町別館の梅花を賞す(紀年)。
春、潮来に遊び、長勝寺に至る(紀年)。
4月、吉孚、将軍の養女八重姫と婚約、公喜ばず(紀年)。
同月、無二亦寺を建つ(文献志)。
5月14日、弟頼雄卒(文献志)。
6月10日、七十の誕辰、祝賀を辞退す(紀年)。
同月12日、安藤卜翁来遊(常陸帯)。
10月、馬場村に村民のための講話を行わせる(年譜)。
12月29日、湊別館を移してイ賓閣と名づける。又異国番所を置く(紀年)。
此年、百王本紀成る(修史始末)。
元禄11年戊寅 1698 71歳 正月25日、史館の水戸移転を命ず。
5月7日、開館(修史始末)。
2月26日、自ら祭文を作り、朱舜水を祭る(文集補)。
4月24日、上圷村藤十郎宅の藤花を見る(紀年)。
6月13日、吉孚、八重姫と結婚(綜貫)。
同月25日、稲田神社祝文を作る(詠草補遺)。
8月、鳥子・馬頭に巡遊(紀年)。
「祭梶左兵衛督文」「長勝寺迦葉尊者像記」を作る(文集・同補遺)。
神職を西山に集めて神学を講習させる(瑤渓手録)。
6月3日、佐々宗淳没(59)。
7月、柳沢吉保、老中の上座に就く。
12月、木下順庵没(78)。
元禄12年己卯 1699 72歳 5月、「釈万葉集」の一部を閲す(往復書案)。
6月3日、三宅緝明来任(史林年表)。
12月、皇妃・皇子・皇女伝成る(修史始末)。
此年、鶴殺しの百姓を許す。又、村松村の孝子治兵衛を賞す(紀年)。
7月25日、有栖川宮幸仁親王薨去(44)。
4月、幕府、歴代天皇陵の修理を終わる。
元禄13年庚辰 1700 73歳 正月27日、中島為貞・小池友賢入館。
2月4日、佐治毘入館(史林年表)。
3月13日、領内の八幡宮を全て破却させる(紀年)。
4月13日、安藤為章を派遣して中院通茂の七十の賀を祝う(紀年)。
5月8日、「祭厳有源公文」を作り、家綱を祭る(文集)。
8月6日、十条の訓戒を作り、安積覚に命じ、吉孚に伝えさせる(西山遺聞く)。
10月15日、公重病のため粛公帰藩して看病(文献志)。将軍より見舞いの使来る毎に、水戸城に登って謝す(行実)。
10月17日、水戸城において修史のことを論じ、毘沙門堂記録に加筆して上野門主に進ず(紀年・桃源遺事は12月1日)。
同月、「献玉海記」を作り、京極宮文仁親王に「玉海」を贈る(文集補遺)。
12月6日黎明、西山に薨ず(行実)。
同月12日、瑞龍に葬る。粛公諡して義公と称す。
10月16日、尾張光友薨(76)。
元禄14年 1701 粛公「義公行実」の編集を命ず(同書跋)。
天保3年壬辰 1832 9月13日、仁孝天皇より従二位権大納言の追贈を賜わる。
明治2年己巳 1869 12月25日、明治天皇より従一位に追贈を賜わる。
明治6年癸酉 1873 3月27日、常磐神社に祀る。神号を高譲味道根命と称す。
明治33年庚子 1900 11月、明治天皇常陸に行幸の際「夙ニ皇道ノ隠晦ヲ慨ヒ深ク武門ノ驕盈ヲ恐レ名分ヲ明ニシテ志ヲ筆削ニ託シ正邪ヲ弁シテ意ヲ勧懲ニ致セリ是レ勤王ノ倡首ニシテ実ニ復古ノ指南タリ朕適々常陸ニ幸シ追念転々切ナリ更ニ正一位ヲ贈リ以テ朕カ意ヲ昭ニス」の詔を賜わる。
昭和3年戊辰 1928 7月11日、生誕三百年の祭典執行され、この前後記念行事行われる。
昭和53年 1978 7月11日、生誕三百五十年の祭典執行される。

この年譜は名越時正氏の編集されたものに拠る。