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文天祥正気の歌に和す(正気の歌)

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                  但 野 正 弘


 これから藤田東湖先生の「文天祥正気の歌に和す」、即ち「正気の歌」につきまして、皆様とご一緒に拝読したいと思ひます。
 まず、どういふ事情でこの「正気の歌」を、東湖先生が詠まれるに至ったかといふことについて、ごく簡単にお話したいと思ひます。
 文政十二年(一八二九)に徳川斉昭会、烈公が第九代の水戸藩主に就任されました。そして翌年が天保元年、以後、この天保年間は、烈会といふ優れた藩主のもとで、水戸藩の藩政改革、特に藩校弘道館の創立などに関して、東湖先生は極めて大きな働きをされました。
 ところが、水戸藩天保の改革も、いよいよ開花結実の時期を迎へるかと思はれた天保十五年、この年は、十二月に改元されて弘化元年となりますが、その五月に、烈公が突然幕府から嫌疑処罰を受けまして、隠居謹慎を命ぜられ、東湖先生もまた同僚の戸田忠敞らと共に、職を奪はれ、蟄居(これは}一種の禁固刑ですが、さういふ重い処分を受けて、小石川邸内の狭い一室に幽閉されてしまひました。
 これが、「弘化甲辰の変」とか「甲辰の国難」と呼ばれる事件でありました。
蟄居の厳命を愛けた東湖先生は、五月七日の明け方に、小石川邸内の厩前の長屋に帰り、自ら固く門戸を閉ざして蟄居生活に入りました。
 以来九ケ月、小石川での垢と蝨との戦ひの後、翌弘化二年の二月二十一日に、東湖先生は、小石川長屋から墨田川を渡った小梅村の、水戸家下屋敷に移され、幽閉されることになりました。
 小梅村の下屋敷は、現在の地名で言ひますと、墨田区向烏に当たりまして、浅草観音方面から、言問橋を東へ渡ったところに、牛島神社および墨田公園がありますが、その辺一帯が小梅の屋敷地でありました。
 その敷地内の一室、わづかに六坪・畳み十二畳程度の狭い部屋でしたが、それを二室に区切り、一室は身の回りの世話をしてくれる家僕の力平の部屋、他の一室を東湖先生が使ひました。
 そこに具足や書物を置くわけですから、東湖先生自身も身を横たへるのがやっと、といふ状況であったでありませう。しかも、監視の目が厳重でありましたので、外との連絡交通は全く遮断され、米や味噌は隣人の手を通じて支給されるといふ有様でした。
 それでも時折、家僕の力平が外に出ては、少しの酒と肴を手に入れて来てくれることがありました。東湖先生はこよなく酒を愛しました。
 そして、自分の小部屋に「蹇斎」(けんさい)といふ書斎名をつけ、汗と垢と虱との悪戦苦闘に明け暮れながら、その意気はますます堅固に、正気はいよいよ高まり、弘化二年の十一月には、有名な「文天祥正気の歌に和す」、即ち「正気の歌」を作られたのでありました。時に東湖先生四十歳でありました。
 この「正気の歌」には、はじめに漢文の序があります。お手元に別刷りで差し上げてあります資料が、その序文ですが、時間の関係で、詳しい解説は省略させて頂きまして要点のみを申し上げたいと思ひます。
 まづ、八、九歳の頃にお父さんの幽谷先生から「文天祥正気の歌」を教はったこと。昨年の弘化甲辰の変の事情。幽閉中の苛酷な状況と、文天祥の幽閉土室との比較。そして東湖先生自身が「正気の歌」を作るに至った心の内などが書き記されてゐます。
 ここで、ごく簡単に文天祥の正気の歌について説明しておきたいと思ひます。
 文天祥は、一二三六年に生まれ、一二八二年に亡くなってをりますが、南宋の忠臣で、南宋が元、即ち蒙古の攻撃を受け、滅亡の危機にさらされた時、身を挺して抗戦しました。しかし捕らへられて土牢に閉じこめられ、元の王朝に仕へよ、と変節を求められましたが、頑としてそれを拒否し、遂に斬られた人物です。
 その土牢に捕らへられてゐる時に作られた詩が、有名な「正気の歌」でありました。
五言六十句からなってをりまして、
「天地、正気あり。雑然として流形を賦る。
下は則ち河嶽となり、上は則ち日星となる。
人に於ては浩然といふ、沛乎として蒼瞑に塞る。
 ---中略---
風簷書を展べて読めば、古道顔色を照らす」
といふ、詩であります。
 この文天祥の「正気の歌」に和して、東湖先生は、五言七十四句の「正気の歌」を作られたのでありました。
 ここでは、特に、詩の中に詠み込まれた歴史的事象の例示と正気との関係を中心に、簡単に解説してみませう。
まづ、初句の「天地正大の気」から、十六句「明徳大陽にひとし」までを第一段と考へてよいでせう。

「天地正大の気」
天を仰げば、太陽・月・星が悠久の昔から正しく姿を現し、地を見ると人類・禽獣・魚介・草木が無数に、しかも長い長い年月にわたって育成されてきてゐます。
それが天地自然の気であり、その働きは真実であつてそこには裏表も計略もありません。
これが「天地正大の気」です。
正は純正、大は浩洋、気は霊妙な力を言ひます。
その天地自然の正大なる気が、人に具現されたものが即ち「正気」といふことになります。
東湖先生は、先程ご紹介しました「序」の中で、
「正気は道義の積む所、思孝の発する所なり。」
と言はれてをりますが、其の根本は「誠」です。誠によって、人としての道義道徳が正しく践み行なはれる、といふことです。そこで、

「天地正大の気、粋然として神州に鍾る。」
天の恵みである山川風土の美しさから見て、天地正大の気は、わが日本に、純粋に混じり気なく鍾まって来てをります。

「秀でては、不二の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ」
日本に錘まった正大の気が、抜きんでては玲瓏富士山となって、大空高く悠久の昔から聳えてゐるのであります。
富土山を仰ぎみた人は、その麗しい、気高い姿に打たれ、このお山と日本の国とを結びつけて、第一の誇りとして来てゐるのであります。内藤鳴雪の俳句に、
「元日や一系の天子冨士の山」
といふ一句がありますが、日本人としての素直な情感を言ひ表はした俳句であると思ひます。

「注いでは、大瀛の水となり、洋々として八洲を環る」
また、下に注いでは、洋々たる大海の水、大平洋そして日本海などの水となって、日本列島の沿岸をめぐり流れてをります。
これまた、荒磯の岩に砕ける波しぶきとなり、断崖に打ち寄せる怒涛となり、そして白砂青松の渚となって、列鳥沿岸の美しい景観を形づくってゐます。

「發いては、萬朶の櫻となり、衆芳與に儔ひし難し」
そしてまた、正大の気が、花となつて發いては、枝満開の櫻の花となり、雲か霞かと思はれるほどの、華やかな色香の見事さは、他の多くの花も到底比べものにはなりません。殊に山桜の自然の美しさは、見事であります。
 この櫻の花は、我々日本人の品性の象徴として、古来から讃へられて来てをります。
 本居宣長の和歌に、
「敷烏の大和心を人とはば
    朝日ににほふ山桜花」
といふ歌がありますが、まさにそれであります。

「凝っては百錬の鐵となり、鋭利(兜)を断つべし」
正大の気が、凝り固まっては鐵となり、その鐵は刀鍛治によって、煉へに煉へられて日本刀となる。
しかも、その鋭利な日本刀は、これ亦、鍛へに鍛へられて造られたの兜さへも、断ち切るほどであります。

「(盡)臣皆熊羆、武夫盡く好仇」
天地の正気が人に宿り現はれたものが、「浩然の気」であると、孟子や文天祥は言ってをりますが、東湖先生は、「人の正気」と云ふ言棄で表現されてをりまして「偽りなく、表裏もなく、光明正大なる気分を言ひ、その根本は、「誠である」と解釈されてゐます。
要するに、天地の正気も人の正気も「誠」である、といふことに帰着するわけであります。
さて、「(盡)臣」と言ひますのは、「詩経」に出てくる言葉で、忠愛の情が厚く、進んで已まざる臣下といふ意味で、忠誠の臣を言ひます。
「熊羆」は熊のやうに、羆のやうに、勇猛なることの譬へで、『書経』に出てまゐります。
「好仇」は、「詩経」に出て来る言葉ですが、ごく簡単に言へば「好き相手」といふ意味に考へて良いと思ひます。
忠誠の心厚い(盡)臣と、武勇に優れた武夫とが、好き相手として朝廷に仕ヘ、熊や羆の如く強く、事ある時は身を挺して進み、艱難に臨んでは、死を賭して誠を捧げたのでありました。

「神州誰か君臨す、萬古天皇を仰ぐ」
ところで、このやうに風土が秀れて麗しい国、誠あり勇気あり、義のある人々が住むこの国、日本には、どういふ御方が君臨されてをられるのか。
それは申すまでもなく、大昔から天皇を大君と仰ぎ、国民は忠誠を捧げて、変はることはなかったのであります。

「皇風六合に洽く、明徳太陽にひとし」
御歴代天皇の、仁愛の徳風は、上下と四方あはせて六合にあまねく行き亘り、広大無辺であります。
光明正大なる御徳は、太陽のやうに、別け隔てなく国民に降り注ぎ、人々はその恩沢に浴してゐるのであります。

 以上「大地正大の気」から「明徳大陽にひとし」までが第一段で、正気がどのやうに、わが国の国土・国風・国体(国柄)に顕現されてゐるか、といふことを明快に解かれたのでありますが、しかし東湖先生は、さらに、日本の歴史の現実を直視され、以下の第二段で、歴史上の重大な事象を例示して、「正気」がどのやうに発揮されたか、といふことを明らかにされたのでありました。

「世、汚隆無くんばあらず、正気時に光を放つ」
長い歴史の中では、「汚」= 停滞した衰運の時も、「隆」= 盛運の時もあります。
殊に、その衰運、道義道徳の危機に際して、見事な光を放ったものが、「正気」でありました。
以下、東湖先生が例示された歴史的事象について、簡単に解説して参りませう。

例示 (1)
「乃ち参す大連の議、侃侃瞿曇を排す。
 乃ち助く明主の断、(焔焔)伽藍を焚く。」

○ これは、仏教伝来とその対応について、特に民族固有の信仰の保持を取り上げたものです。
 仏教の公式伝来の年代については、第二十八代宣化天皇二年(西暦五三八)と、第二十九代欽明天皇十三年(五五三)の二つの説がありますが、詳しいことは省略致します。
いづれにしましても、六世紀頃に、百済の聖明王が仏像や経論をもたらし、わが国に仏教を伝へたと言はれてをりますが、その信仰をめぐって、物部大連尾輿と中臣連鎌子が、仏教信仰を主張する蘇我大臣稲目と論争して剛直に仏教排斥を主張しました。
「侃侃」は、「強く剛直な」といふ意味で、「瞿曇」は仏教をさします。
 さて、欽明天皇は、尾輿らの直言を納れられて、仏像礼拝をやめられ、仏像などを蘇我稲目に賜りました。
 そこで、稲目は、天皇より賜った仏像を家に安置して礼拝するやうになりました。ところが間もなく疫病が流行しましたので、物部尾輿らは、「この疫病は、稲目が外国の神を崇拝した為に生じたことですから、早く仏像を投げ捨てるべきです。」と奏上しました。
 欽明天皇は、その奏上をお納れになり、役人を遣はして、蘇我氏の寺を焼き、仏像を難波の掘江(大阪湾の海でせう)に投ぜしめられたといふことです。
 次の敏達天皇の御代に、蘇我の稲目の子、馬子が仏殿や塔を建てましたが、また疫病が流行しましたので、物部尾輿の子、大連守屋らが、父尾輿の時と同様に天皇に奏上し、その許可を得て守屋が仏殿や塔を焼きました。寺の伽監は、焔焔激しく燃え上がり焼失したのでありました。
○ 東湖先生は、これらのことは、日本固有の神々の信仰を護ろうとした物部氏らの議に、「正気」が参与、与ったものであり、欽明・敏達両天皇の明断も、「正気」が助けたものである、と考へられたのでありました。
○ 以上の議論は、天保年間頃から、烈公をはじめ水戸の学者達の間に、仏教排斥・神仏分離の思想が強くなってきてゐたことから、東湖先生に於いても「正気」の力によるものである、と言はれたものと思ひます。

例示 (2)
 「中郎嘗て之を用ひ、宗社磐石安し。」

○ これは中臣鎌足と大化改新について述べられたものです。
聖徳大子が亡くなられた後、蘇我馬子の子蝦夷と、その子入鹿が専権を振るひ、蘇我氏自らが、天皇にならうとする野望が現はれて来ました。
 この時にあたり、「中郎」=中臣鎌足は、中大兄皇子と謀り、第三十五代皇極天皇の四年(六四五)六月に、大極殿に於て入鹿を誅滅し、父の蝦夷も自穀して、蘇我氏の主流は滅亡しました。
 そして、改革政治への着手となりました。これが有名な大化改新です。
 鎌足は、「之れ」=正気を用ひて、「宗社」は宗廟社稷、即ち皇室と国家を、ゆるぎない、安泰なものとしたのでありました。
 なほ、中大兄皇子はのちに即位されて、第三十八代天智元草となられましたが、鎌足は亡くなる直前に、その天智天皇から「藤原」の姓を与へられました。これが藤原氏の始まりです。

例示 (3)
 「清丸嘗て之を用ひ、妖僧肝膽寒し。」

◯ これは和気清麻呂と宇佐八幡宮神託事件について述べられたものです。
 奈良時代の後期、第四十八代称徳天皇、この方は女帝でありますが、その称徳天皇の寵愛を受けて、太政大臣禅師・法王に昇進した僧侶、弓削の道鏡は、更に七六九年に、「道鏡が天皇の位につけば、天下太平になる」といふ宇佐八幡宮の神託なるものを利用して、皇位を狙ふ野心を抱きましたが、真偽を確かめる為に、九州の宇佐宮に派遣された和気清麻呂は、神前に参籠しました。やがて、
「わが国は、開闢以来君臣の分が定まってゐる。しかるに臣下の者が天位を望むとは、何たる無道であるか。天位は必ず皇族をもって継承しなければならない。」
との神託をうけました。
 都へ戻った清麻呂は、正しい神託を奏上しましたので怒った道鏡は、清麻呂を九州大隅国へ流してしまひました。しかし、結局は、道鏡の皇位をねらった野望は、挫折し、七七○年に下野(現在の栃木県)薬師寺の別当に左遷されてしまひました。
 妖僧道鏡の肝を冷やし、その野望を粉砕して皇統を護持したものは、和気清麻呂の「正気」でありました。
 清麻呂は、道鏡失脚後、都へ呼び戻され、のちに恒武天皇の平安京遷都に尽力したのでありました。

例示 (4)
 「忽ち揮ふ龍の口の剣、膚使頭足分る。
  忽ち起す西海の颶、怒涛妖氛を殲す。」

○ これは、北條時宗と元寇(蒙古襲来)について述べられたものです。
 わが国では、鎌倉幕府が始まった頃、東南アジアからョーロッパにまたがる大帝国を形成した蒙古(モンゴル)は、チンギス= ハンの孫である、世祖フビライ= ハンの時に、文永五年(一二六八)、わが国に対し服属要求の使者を送り、牒状(文書のこと)が鎌倉幕府に到着しました。
 しかし、その直後に第八代の執権に就任した、十八歳の北案時宗は、断固として要求を拒否する決意を固め、丸州方面の御家人に国土防衛を命じ、また亀山天皇の朝廷でも、拒否の方針を明確にされたのでありました。
 その間フビライは、シナの北半分を支配下におくと共に、国号を「元」と改め、目本侵略の命令を下します。
 やがて、文永十一年(一二七四)十月に、元と朝鮮の高麗の連合軍約三万、兵船九〇〇隻が、博多湾へ襲来しました。
 戦法の違いなどで、日本軍は苦戦しながらも善戦し、上陸を許しませんでした。問もなく、元軍は退却しました。埋由は、いはゆる神風によるものではなく、作戦の変更にあつたやうです。
 その後もフビライは、日本再侵略の野望を捨てず、翌年、元使を派遣して来ました。そこで時宗は、元使を鎌倉に移送させまして、鎌倉龍ノ口で、その元使の首を斬り、断固たる決意を示すと共に、元軍に備へる異国警固番役を制度化し、博多海岸に石塁を築いて防備に万全を期しました。
 一方、一二七九年に南宋を滅ぼしたフビライは、弘安四年(一三八一)七月末に、約十四万の兵、兵船四千四百隻の大軍を編成して、再び博多湾に襲来しました。
 しかし、竹崎季長や河野通有など日本軍の奮戦で、元軍は上陸出来ないでゐるうちに、「颶」即ち大暴風雨に襲はれ、激しい風雨と打ち寄せる怒涛によって、「妖気」邪気、蒙古の暴威は壊滅してしまひました。
 人々はこれを神風と呼びました。
 このやうにして、若き執権時宗の「正気」の決断により、わが国は外国の侵略から救はれました。

例示 (5)
 「志賀月明の夜、陽はに鳳輦の巡を為す。」

○ この一句は、花山院師賢と元弘の変について述べられたものです。
 北条氏の鎌倉幕府を討滅し、天皇親政による公武一統の政治の実現を理想とされた、後醍醐天皇でありましたが、正中・元弘の二度の討幕計画に失敗されました。
 ことに元弘元年(一三三一)の元弘の変では、六波羅探題の兵が御所を包囲する動きを見せ、後醍醐天皇の御身も危ふくなりました。
 そこで、同年八月、天皇はかねての手筈どほり、比叡山に行幸され、指揮を執らうとされ御所を出られ、途中まで行かれたところで、鎌倉方の兵をたぶらかす為に、天皇にしたがっておりました花山院大納言藤原師賢が、天皇の御衣に着替へまして天皇になりすまし、御輿に乗って比叡山延暦寺に登りました。
 「陽はに」は、表向きの意味で、「鳳輦」は、天皇の御乗り物、「巡」は巡行、行幸のことですから、花山院師賢が天皇の身代はりとなって、比叡山に登ったことを言ひます。
 その時、師賢は比叡山頂から志賀の湖=琵琶湖上の有明けの月を眺め、
「思ふことなくてぞ見ましほのぼのと
        有明けの月の志賀の浦浪」
と、有明けの月がほの白く映じた琵琶湖の美しい景観をやがて来る平和の日に、心の中に何の憂ひもなく、のどかなゆっくりした気持ちで、眺めたいものだ、と詠ひました。
 「志賀月明の夜」といふのは、この歌に拠ったものでありました。
 さて、延暦寺では、座主である天皇の皇子尊雲法親王のちの大塔宮護良親王が中心となって、鎌倉方の兵と戦ひました。
 その間に、後醍醐天皇は奈良を経て笠置山へ行幸されました。
 一方、はじめは天皇が比叡山に行幸になってをられると信じて、鎌倉方の兵と戦ってをりました延暦寺の僧徒等も、やがて真の天皇は在はさないと知って、それぞれ逃れ去ってしまひました。

例示 (6)
 「芳野の戦ひ酣なるの日、又代る帝子の屯。」

○ 村上彦四郎と身代わり自刃、忠義殉節について述べたものです。
 比叡山を脱出された尊雲法親王は、奈良般若寺での幕府方の厳しい探索の危難を逃れられて、十津川に至り、そこで、還俗して「護良親王」と改名されました。
 そして、さらに吉野山の金峰山寺蔵王堂を本陣として元弘二年十一月に挙兵されました。
 しかし、翌三年正月、北条鎌倉方の二階堂貞藤が大兵を率ゐて攻撃してきた為、吉野の官軍は、前後両面からの挟撃を受けて陥り、親王は討死を覚悟して、決別の盃を酌み交はしてをりました所ヘ、村上彦四郎義光といふ武将が駆け付け、
「私が殿下の鎧を着て、身代はりになりますので、その間に殿下は、この場を御退去下さい。」
と申し上げ、親王の鎧を解いて、自分の身に着装するや直ちに、物見の高櫓に上り、大音声に、
「我こそは、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王である。今自害するからよく見ておけ、腹を切る時の手本にせよ。」
と叫び、鎧をはねあげて腹に刀を突き立て、左から右へ一文字にかき切り、腸をつかんで櫓の板に投げ付け、さらに太刀を口にくはへて俯せに倒れ、息絶えました。
 この間に、護良親王は吉野山を脱出して、高野山へ落ちのびられたのでありました。
 「又代わる」の「又」は、前の句の花山院師賢が、天皇の身代はりとなったことに対して、言はれた言葉です。
 「帝子」は護良親王のことで、「屯」は苦難の意味です。

例示 (7)
 「或は投ぜらる鎌含の窟、憂憤正にうんうん。」

○ 大塔宮護良親王の最期、建武中興の悲劇について述べられたものです。
 元弘三年(一三三三)五月に、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇は京都に還幸され、天皇親政による公武一統をめざす建武中興の政治が開始されました。
 しかし、北条氏から寝返って天皇に味方し、六波羅探題を攻略した足利高氏は、後醍醐天皇から御諱尊治の一字「尊」を賜って尊氏と称し、参議・武蔵守の地位も与へられましたが、満足せず、征夷大将軍に任ぜられて、武家政権を掌握する野望を持ってをりました。
 この高氏の野望を、早くから見抜いてゐた護良親王は高氏を除くことを天皇に進言し、親王と高氏の対立は、次第に深まってゆきました。
 そして親王が、諸国に兵を集めるための令旨(皇太子や親王などの命今文書)を発せられますと、高氏は、その令旨を謀反の証拠として、後醍醐天皇に讒言奏上しましたので、天皇もお怒りになり、親王は逮捕され、次いで鎌倉へ移され、足利直義の監視のもとに、二階堂谷の東光寺の土牢に幽閉されました。
 ただし、幽閉の場所については、異説もありまして、現在、東光寺の跡地に祭られている鎌倉宮の、社殿の裏手にある土牢即ち窟ではなく、東光寺の一室に、厳重な塗籠の部屋(四方を壁で塗りこめた部屋)が造られて、そこに幽閉されたのであらうとも言はれてゐます。
 さてその後、建武二年(一三三五)の七月、北条高時の遺児である北条時行が、信濃で挙兵し鎌倉へ攻め込んでくるといふ事件が起こりました。これが「中先代の乱」です。
 時行の兵が、鎌倉市中に乱入して来ますと、足利直義は、これと戦って敗れ、鎌倉を捨てて逃れ去りました。
 その際、淵辺義博といふ者を東光寺に差し向けて、幽開中の護良親王を殺害してしまひました。親王の年齢は定かでありませんが二十八歳位の若さであったやうです。まさに「憂憤・悲劇」の最期でした。
 「うんうん」といふのは、深く憂ふる様子を意味します。

例示 (8)
 「或は伴ふ桜井の駅、遺訓何ぞ慇懃なる。」

○ 桶公父子の別れ、道義一貫子々孫々について述べられたものです。
 足利直義が北条時行に敗れ、三河国まで退却したことを知った兄の高氏は、後醍醐天皇の勅許なしに東下し、時行を破って鎌倉に入りました。
 しかも高氏は、そのまま鎌倉に留まり、新田義貞を討つことを名目として挙兵し、反旗を翻しました。
 そこで朝廷では、義貞に高氏討伐を命ぜられ、鎌倉へ向かはせましたが、箱根竹ノ下の戦ひで義貞は敗れ、京都に還りました。
 その後を追って足利軍が京都に迫りましたので、後醍醐天皇は、延元元年(一三三六)正月、一時比叡山に難を避けられ、官軍は楠木正成(楠公)の奇計による包囲作戦をとって、高氏の軍を破り、二月に九州へ敗走させました。
 しかし高氏は九州方面の武士を味方に引き入れ、大軍を率ゐて、海と陸から京都に攻めのぼって来ましたので、楠木正成は、天皇にもう一度比叡山へ御動座を願ひ足利軍を京都に入れて、周囲から挟撃するといふ作戦を奏上しました。
 ところが、参議の坊門清忠が、その作戦に猛反対した為、天皇はやむをえず、正成に京都を出て戦ふべき旨の勅命を下されました。
 そこで、正成は勅命を畏み、討死の覚悟で五百余騎を率ゐ、戦場となるべき神戸の湊川へ向け出陣しました。
 その途中、京都と大坂の中間にある、桜井の駅に兵を駐めた時に、同行してきた長男の正行に対し、郷里の河内に帰るやうに命じました。
 正行は、当然、父上と共に戦ひたいと主張しましたが正成は、
「この度の合戦は、天下の安危にかかはるものであるから、生還は期し難い。今生にてそなたの顔を見るのも、これが限りと思はれる。
 そなたも、最早十一歳なれば、父の遣訓をよく心に留めて忘れてはならぬ。この正成が討死したと間いたならば、天下の人々の多くは、足利に就き、世の中は高氏らの恩ふままになってしまふであらう。
 しかしながら、そなた達は、一時の身命を助からむ為に、これまでの忠烈を失ひ、降人(降伏した人)となるやうなことがあってはならぬ。
 この楠木の一族郎党が一人でも生き残ってゐるうちは、金剛山のほとりに立て篭もり、義勇の心を励まして、寄せくる敵と戦ヘ。これこそが天子様への忠節であり、父への第一の孝行である。」
と、その遣訓はまことに「慇懃なる」、懇切丁寧なるものでありました。そして、嘗て天皇から正成に腸った刀を、形見として正行に与ヘ、父と子は訣別したのでありました。
 やがて、楠木正成は、同年五月二十五目の湊川の合戦で討死し、子の正行は成長後、吉野朝廷に忠節を尽くし正平三年(一三四八)、四條畷の戦ひで戦死しました。
 しかも楠木一族は、その後も代々一貫して、吉野朝廷への忠節を守り続けたと伝へられてゐます。
 楠木正成=楠公とその一族の忠義の誠こそ、見事な「正気」の現れであったと言へませう。

例示 (9)
 「或は(狗)ふ天目山、幽囚君を忘れず。」

○ 小宮山内膳正友信徒天目山での殉死について述べられたものです。
 武田信玄の次男勝頼は、信玄の死後、天正元年(一五七三)に家督を相続し遠江・三河・美濃への進出を試みましたが、天正三年の三河長篠の合戦に、織田・徳川の連合軍に大敗してから衰運に向かひました。
 その後も、信玄以来の老将や譜代の武将達の言ふことを用ゐずに長坂釣閑や跡部勝資らの、真に忠義の心を持たない、いはゆる侫臣に動かされ、出陣しては失敗を重ねました。
 天正十年二月、兵二万で諏訪に出陣しましたが、信長の子信忠が率ゐる十万の兵と戦って敗れ、勝頼は兵三千を収めて韮崎に還り、再び織田軍と戦ひましたが敗れてしまひました。
 そこで勝頼は、五百の兵と共に、脱出して岩殿城に向かったところ、城主から入城を拒絶され、やむなく天目山の山中に入りましたが、行を共にした者は僅かに四十三人。勝頼達は進退窮まって、遂に自刃したのでありました。
 この天目山自刃の場に馳せ参じたのが、小宮山内膳正友信といふ武将でした。
 友信は、かつて長坂や跡部を退けるやう、主君勝頼に進言し諌めましたが、勝頼は聞き入れず、そのうち友信が小山田彦四郎将監と争ひ事を起して、訴訟に及んだ時に、長坂や跡部が小山田を助けた為、友信は敗訴になると共に、勝頼の勘気を蒙り、禄を召しあげられて、蟄居幽閉を命ぜられてしまひました。
 ところが今、友信は主君勝頼の難を耳にしますと、その後を追って天目山に馳せ参じ、過去の勝頼の仕打ちを恨むどころか、頭をさげて、請ひて勘気を許してもらひ、従容として自刃し、勝頼に殉じたのでありました。
 小宮山友信の忠誠もまた「正気」の発露であったわけです。

例示 (10)
 「或ば守る伏見城、一身萬軍に当る。」

○ 鳥居彦右衛門元忠と伏見城孤軍奮闘について述べられたものです。
 豊臣秀吉が、慶長三年(一五九八)に亡くなりますと、その後しだいに、五大老筆頭の徳川家康を中心とする武将派と、五奉行の一人石田三成を中心とする文吏派との対立が深まって行きました。
 そして、慶長五年(一六○○)五月に、家康は、会津の上杉景勝が挙兵の準備をしてゐることを理由に、諸大名に対し上杉征伐の指今を発し、自身も伏見城を出て江戸へ向かひました。
 その伏見城出発にあたって家康は、三河以来の老将鳥居彦右衛門元忠を呼びまして、
 「自分が伏見城を出て東へ向かへば、必ず石田三成が挙兵し、まづこの城を攻撃するであろう。
その時は、残して行く二千の兵を以て奮戦し、出来るだけ城を持ち堪へさせてほしい。結局は討死するであらうが、やってくれるか。」
と命じますと、元忠は喜んでその任を引受けたのでありました。
やがて、家康の予想したとほり、七月十九日から、石田・宇喜多・長束ら約三万五千の兵が、伏見城を攻撃してきました。
 城兵は僅かに二千。正に「一身萬軍に当る」決死の戦闘で、約二十日間も持ち堪へましたが、ついに八月一日に落城し、全員討死しました。
 鳥居元忠は六十二歳でした。
 徳川家康による関ケ原合戦の勝利と、政権獲得の礎となった、典型的な戦国武将の最後でありました。

例示 (11)
 「承平二百歳、
  斯の気常に伸ぶるを獲たり。
  然れどもその鬱屈するに当っては、
  四十七人を生ず。」

 赤穂四十七士の義挙、武士道について述べられたものです。
 群雄割拠・下剋上の風潮のもとで、混乱を続けてゐた戦国時代も、織田信長・豊臣秀吉を経て、徳川氏の勢力下に武力競争の時代が終息し元和偃武よりこのかた、天下太平となって、一応、鬱屈不平なく「正気」は伸びることが出来ました。
 しかしながら、その「正気」が鬱屈して、押さへられて伸びることが出来なくなると、赤穂四十七士のやうな人々を生み出すことになります。
 元禄十四年(一七〇二)三月十四日、江戸城松の廊下に於て、播州赤穂城主浅野内匠頭長矩が、高家吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件で、幕府は、浅野に即日切腹を命じましたが、吉良に対しては隠居のみの処置で、特別な咎めはありませんでした。
 しかも浅野家は、お家断絶となり、赤穂城は城明け渡しの処置を受けました。
 そこで、この片手落ちの処置に対し、「正気」を屈伏された大石内蔵助良雄をはじめとする、旧浅野家の家臣達四十七士が、翌十五年十二月十四日の夜から十五日の明け方にかけて、江戸本所松坂町の吉良邸に討入り、上野介の首級をあげて、亡君の鬱憤を晴らす仇討ちを遂げたのでありました。

 「正気」の歴史的例示の最後に、赤穂四十七士の義挙を示された東湖先生は、そのまとめとして、
「乃ち知る、人亡ぶと雖も、
  英霊未だ嘗て泯びず。
  長く天地の間に在り、
  凛然彝倫を敍ず。」

 皇室・朝廷に大事があり、国家に事変があり、また主君に厄難があった時に、忠臣義士が現はれて、「正気」を振るひ起した事跡を見ると、その人々は既に亡くなられて、復び見ることは出来ないけれども、其の人々のすぐれた魂魄は、永遠に泯びることなく、生けるが如く、天地の間に存在して、後世の人々を感奮興起させ、「彝倫」、人としての道義・道徳を失はないよう、正しく指導されてゐるのであります。

 そして、これより第三段に入ります。
「誰か能く之を扶持す。卓立す東海の濱。」
○ これまで、歴史上の事象について例示して来ましたやうに、忠臣義士の英霊が凛然として、「正気」を我々に伝へて来てをりますが、では、現世に於て、正気を助け維持し、発揮することにカを尽くされてゐるものは、誰であるかと言へば、それは、東の海辺にひときは高く存在する水戸藩であります。
「忠誠皇室を尊び、孝敬天神に事ふ。」
○ 我が水戸藩に於ては、藩祖威公頼房、二代義公光圀をはじめ斉昭公に至るまで、いずれも皇室を尊崇し、孝敬の誠をささげて天神に御つかえしてをります。
「修文と奮武とを兼ね、誓って胡塵を清めんと欲す。」
○ 又、学問を修めて大義を明らかにし、同時に武芸を練磨して、胡塵は、外国が攻めてくる騒ぎを意味しますので、外敵を打ち払ふ、即ち接夷を誓ったのであります。
水戸藩は、まさに尊王攘夷の魁となりました。
「一朝天歩艱み、邦君身先づ淪む。」
○ ところが、突然天運は激変して非運となり、藩主斉昭公は、弘化元年(一八四四)五月、幕府から嫌疑を受けて、隠居謹慎を命ぜられてしまひました。淪は、沈淪する、沈むことです。
「頑鈍機を知らず、罪戻孤臣に及ぶ。」
○ 自分は、斉昭公が藩主に就任されて以来、主君の改革の方針にそってお助けして来ました。
 しかし、さうした天下の魁ともいふべき改革も、水戸藩内の因循姑息な門閥重臣達からは理解されず、却って幕府への讒言となり、主君が処罰されるといふ事態に立ち至りました。
 このやうな状況を察知出来なかったのは、もともと頑固鈍才な自分の責任であり、結局、自分も亦処罰を受けることになったわけであります。
「孤臣渇ルイに困しむ、君冤誰に向かってか陳べん。」
○ 自分は今、小梅下屋敷の一室に幽閉されて、ちょうど蔓草にからまれてゐる草木のやうなもので、身動きも出来ず、自由を失ってをります。
 ですから、我が主君の冤罪を一々申し開きをしたいのですが、誰にも会ふことが出来ませんので、それも不可能です。
「孤子墳墓に遠ざかる、何ぞ以て先親に報ぜん。」(拓本では「謝せん」)
○ 私は今、江戸の小梅にをりますので、水戸の常磐墓地から三十里以上離れてをります。
 従って、去年五月の厄難やその後の様子を、ご報告することが出来ません。どうぞお許し下さい。 ◆「荏苒二周星、独り斯の気の隨ふ有り。」
○ 昨年の弘化元年五月に、小石川のお長屋の一室に幽閉され、今年二月には、この小梅村に移されましたが、合はせて既に二年を経過しようとしてゐます。
 この間、全く孤独の境遇にありましたが、ただ「正気」だけは、我が身にしっかりと附いてきてくれました。「正気」が附いてゐるので、何の懼れも憂ひもないといふ心境です。
「噫予萬死すと雖も、豈汝と離るるに忍びんや。」
○ ああ、私が、萬に一つも生きることが出来ない運命に遭遇しても、どうして「正気」よ、お前と離れることが出来ようか。お前と離れては、我が精神が滅亡するのである。絶対に「正気」は我が身に持ち続けなければならないのだ、といふことであります。
「屈伸天地に付す、生死又何ぞ疑はん。」
○ そして屈するにせよ、伸びるにせよ、自分の運勢は、天地自然に委ねませう。
 また、生きるか死ぬかといふことも、やはり天地自然に任せて、何ら疑ふところなく、平然として居たいと思ひます。
「生きては、まさに君冤を雪ぐべし、復見ん四維を張るを。」
○ もし生きてゐて、再び世の中に出ることが出来たならば、我が主君斉昭会の、無実の罪をすすぐことに努力しませう。
 斉昭公の冤罪が晴れれば、公の理想が実現されて、世の中の「四維」、禮・義・廉・恥の四つの徳が、再び盛んになり、道義、道徳が確立されるでありませう。
「死してば忠義の鬼となり、極天皇基を護らん。」
○ もし又、このまま死を迎へることになったならば、私の魂魄、霊魂は忠義そのものとなって、「極天」、天地のあらん限り、この世に留まって、皇室の御基、御礎をお護り申し上げたいと恩ひます。

 以上、時間の関係で、あまり詳しく解説することは出来ませんでしたが、藤田東湖先生の「正気の歌」を、御一緒に拝読させて頂きました。
 東湖先生自身は、墨田川河畔の小梅邸内の陋屋に幽閉され、言語に絶する苦難に身を置きながら、我が日本といふ国の天地自然の美しさを詠ひ上げ、歴史上に現はれた正気を、深い感動をもって述べられたこの「正気の歌」は、幕末において、全国の志士違の愛唱するところとなり、彼らは、この歌を通して、祖国日本の歴史を、命懸けで支へた人物を知り、「大義を明らかにして、人心を正す。」といふ、日本人としての最高の理想を学んだのでありました。
 言い換へれば、この「正気の歌」こそ、明治維新を導く思想的原動力となったものである、と申し上げても過言ではないと思はれるのであります。
 以上をもちまして、藤田東湖先生の「文天祥正気の歌に和す」の解説を終はらせて頂きたいと思ひます。
                         (平成八年十二月一日講座)
                         (県立茨城東高等学校教論)