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「烈公の名文」

   ---「弘道館記」「弘道館学生警鐘の銘」等---

安 見 隆 雄     



 今日は水戸学講座四講目ということで「烈公の名文」と題しまして、特に「弘道館記」を中心として皆さんとご一緒に拝読し、勉強してまいりたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 烈公の名文ということでありますが、烈公の天保の改革につきましては、前年度の講座等で触れております。今日は、烈公の教育の問題、教育改革の一環として、最も大事な、弘道館の教育について触れてみたいと思います。弘道館につきましては、ご承知の方が沢山おられるわけでありまして、今更申し上げることもないのでありますが、初めに、弘道館の創立、「弘道館記」の起草の由来等について、一通り申し上げまして、その後、「弘道館記」そのものを拝読したいと思います。

  一、弘道館の由来

 まず、一番目に、弘道館の開設と弘道館記の成立ということでお話し致したいと思います。先程お話しました通り、弘道館は常磐神社の御祭神でもございます水戸第九代藩主徳川斉昭公、烈公の創始、経営になるものであります。烈公は藩主になった当初から、藩内の教育、学校の設立を考えておられたようであります。烈公は、政治の改革の根本は人材の育成であるという考えを、強く持っておられました。そういう点、我々非常に学ぶべき所が多いのではないかと思います。その考えを天保五年(一八三四)に、重臣達に学校創立の話をしましたところ、この重職の中においては、水戸藩には、それ程の財の余裕がございませんとか、或いは今しばらくおまちください、今すぐ建てることもないでしょう、等の色々な理由から反対論や消極論が多くありました。しかしそれに対して、わずかに、藤田東湖先生とか、会沢正志斎先生という、所謂学問に志した人達は、烈公の意向に賛意を表しまして、この学校建設は、財政以前の問題であり、最も大事な問題である、ぜひともこれはお進め願いたい、ということを申し上げたわけであります。
 やがて、天保六年(一八四五)、幕府から毎年補助金五千両の額が内定しました。烈公も、水戸藩の財政事情を良く承知しておりますから、学校を創るには沢山のお金がかかる、ついては幕府からなんとか調達しよう、ということで、御手元金として毎年五千両を積立て、これを資金として建設をしましたので、藩の財政からの支出はほとんど無かったと言われております。
 天保七年に、設立が内定し、会沢正志斎先生に弘道館記の起草を命じたわけでありますが、なぜか正志斎先生はその起草を辞退いたしました。次いで、八年六月十日、こんどは藤田東湖先生に弘道館記の起草を命ぜられます。その起草を命ずるに当たって、烈公は、かねてからご自分が考えておりました学校の構想、精神等を、和文で書きまして、それを家臣に漢文に訳させて、東湖先生に、これを元として起草せよと命じました。やがて、七月三日に草案が成ります。その後の水戸藩の処置でありますが、当時、幕府の儒官として佐藤一斎という人がおりました。幕府には林家という代々の御用学者がおるのですが、当時は、林家の当主は病気でありまして、佐藤一斎が幕府の儒宮の中心でありました。今で言うと、東京大学の総長、学長というような位になるかと思います。その起草した原文をどういう風に取り計らうかということになりました。烈公は最初は水戸で色々検討をして、最後に佐藤一斎に見せておこうと、こういう考えであったのですが、藤田東湖先生達は、それは順序が逆ではないですか、最後に佐藤一斎に見せて、完成したということであれば、その最後の判断が、幕府側にあることになり、これではどうも、水戸としては面白くはないし、名分が立たないと申し上げました。そこで最初に佐藤一斎に見せて、胸中をもらさせ、その後、水戸の学者が見、最後は烈公が裁定する、このような段取りでいったわけであります。この辺にも、当時の水戸の気概といいますか、プライドといいますか、そういうものが伺われるのではないかと思います。
 天保九年(一八三八)三月烈公の名前で「弘道館記」を発表致します。「弘道館記」は天保九年三月という署名で公表されておりますので、良く間違えて、弘道館は天保九年三月に出来たという風に解説される方も時々いるのでありますが、これは実際には違うのであります。まず、学校の精神である「弘道館記」ができて、その後、天保一二年(一八四二)になって弘道館が開設されるのであります。やがて天保一○年正月に敷地が決定します。三の丸、現在の県庁がある一角でありますが、あの辺は、水戸の本丸に近いところで、重要な位置にありまして、当時、家老職、重臣が住んでおりました。それを移転させまして、そこに学校を創ったわけであります。三月になりまして、学校の主要なる人事を任命し、弘道館掛として、執政にあった渡辺半介寅、参政戸田銀次郎、側用人藤田東湖等を、人選して学校の経営に当たらせるということになり、十二年八月一日に仮開館式を挙行致します。なぜ仮開館式かといいますと、これは、鹿島神社の遷座式が終っていなかったので、仮開館式ということになっております。安政四年(一八五七)五月九日に本開館式挙行となります。しかしそのようにしてできた弘道館も明治維新と共にその使命を終り、明治五年、学制の発布の後、閉鎖ということになったのであります。
 次に、弘道館の規模と特色でありますが、敷地は約五万四干七十余坪、(一七八、四○○平米)これは当時各藩ほとんどの藩に学校はあったのですが、その中で、弘道館はずば抜けて規模の大きい、面積の広い学校でありました。それから建物でありますが、現存している所は、正庁(学校御殿)、至善堂、鹿鳥神社、孔子廟、八卦堂、学生警鐘等であります。いずれも戦災で痛んだのが修理復元されております。文館、武館、医学館(賛天堂)、天文台等は残っておりません。この規模から考えられますように、今日で言えば総合大学的な規模を持っているということです。文学部があり、体育学部があり、医学部がありというように、大きな規模を待っていたのであります。
 入学年令は十五歳で、四○歳以上は任意で通学し、卒業は無いということでありまして、今流行の生涯学習といえるものであります。十五歳以前はそれぞれ城下にある私塾、先生の所に通って、そこで勉強をし、史書等の素読が出来るまでの学力を付けて、試験を受けて十五歳で入ってまいります。四○歳以上につきましては、当時、職業は世襲でありましたから、親の跡を継いで、その世代の代わりが四○歳位なのです。その頃になれば役職に付きますので、公務多忙に付き、登校は任意で宜しい、ただし月に一、三度は弘道館に来て学問をし、体を鍛えておきなさい、ということであります。いざという時に油断なきようにという訳です。それから教育目標でありますが、これは後で出てまいりますが、神儒一致(神道と儒学の調和)、忠孝一本(朝廷・幕府・親への忠誠)、文武不岐(学問と武道の両立)、学問と事業の一致(学問と実践)、こういう所がその眼目となっております。また、烈公の要石の歌というのがありますが、これもご承知の通り、
行く末も 踏みなたがへそ 秋津島 大和の道ぞ 要なりける
このような歌を詠んでおられます。
 弘道館の創立につきましては、今の所で大体お分かりになるかとは思うのですが、例えば、藤田東湖先生が会沢正志斎先生に宛てられた手紙の中に、こういう言葉があります。
なにとぞ右御成就の上、東藩学術の眼目に仕り、推して天下に及び、神州左衽の憂ひこれ無き様仕り度く日夜の志願に御座候
要するに、弘道館ができれば、水戸藩の学問の眼目となり、そして全国に推し及ぼし、日本の国が外国から侵略されることが無いような、そういう日本にしたいものである、こういう考えがありましたし、また藤田東潮先生は、烈公の諮問に答えて、
此度の学校は天下一に遊ばされ候らはずては御建立の甲斐も御座無候
と延べております。
 当時、天保時代になりますと、ほとんどの藩では学校を創っておりました。水戸の弘道館はそれ程早い時期の学校とは言えません。言わぱ、江戸時代で言えば、後期の建立、設立ということになります。そういう中で、水戸藩が創るとなれば、これは他の藩に無い学校を創るべきである。こういう気概を持っておりました。天下一に創らなければ学校を創っても意味が無い。こういう気概を示されております。又、学校記文、弘道館記の起草を命ぜられては、東湖先生は「神州の一大文字にも相ひなるべく候」日本を代表するような、そういう文章にしたいものである、こういう気持ちを正志斎に表明されております。

   二、弘道館学生警鐘の銘

 次に、「弘道館学生警鐘の銘」ということについて少し触れておきます。原文は万葉仮名でありまして、これは読みやすくしております。初めに警鐘の歌というのがありまして、
  物学ぶ人のためにとさやかにも暁告ぐる鐘のこゑかな
これは烈公の歌でありますが、これに由来を書かれております。
  「弘道館学生警鐘の銘」(原文、万葉仮名)
   物学ぶ人のためにとさやかにも暁告ぐる鐘のこゑかな
 日ごろ陣鐘といふものに、音のよからむを、得まく欲りして、夜昼となく、心を尽し来ぬるに、今茲天保十年餘り一年といふ年の春、我が常陸の國水戸に下りて、大洗磯前の神の社をなも拝みける。此の大神は八千予の神にましませば、さる方にもよせありて、覚ゆるままに、いかでよからむを、得させ給へと、請祈みけるもしるく、程もあらせず、この社の前なる磯濱といふ濱邊に、貝あされる海人の浪に打寄たるを、自ら得たりとて、鐘のつぶらなるをなも、郡の司よりもて出でぬる。いと奇しく、珍らしみ思ひて、やがて半鐘といふもの、一つ二つ手づから作りけるに、音も世の常ならず、さやかにこそ聞ゆれば、又此鐘をも作りて、物学ぶ人の朝寝ゆるさぬためにも、或は事あらむ時は、軍整へむためにもと、おもひ給ふてなも。
(斉昭花押) 

 「日ごろ陣鐘といふものに、音のよからむを、得まく欲りして、夜書となく、心を壺し来ぬるに」これは、日頃から、陣鐘、戦の時に鐘でもって、進め、追け、というような合図をするわけです。鐘とか大鼓を用いますが、その叩き方によって合図が決まっておるわけです。その為の良い鐘を探しておられた。音の良いものを何とかして得たいと考えておった、こういうことです。そこで、「今茲天保十年餘り一年といふ年の春」天保十一年の春に、「我が常陸の国水戸に下りて」我が常陸というのは、水戸藩の藩主ですから、我が常陸の国水戸に、お国帰りをしたおりに、「大洗磯前の神の社をなも拝みける」水戸に就藩した時に、大洗磯前神社を参拝した。「此の大神は八千矛の神にましませば」八千矛というのは、武神ということから、大国主命を指す事でありまして、磯前神社は大国主命を祀る神社であります。武神でありますので「さる方にもよせありて、覚ゆるまにまに、いかでよからむを、得させ給へと、請祈みけるもしるく」ということですが、そのような、霊験あらたかな武の神である大国主命に、祈願をして、然るべき人にことよせて、心に思い出すままに、何とかして、良い陣鐘を得させ給へと祈願をしたところ、その霊験もあって、「程もあらせず」しばらくして「この社の前なる磯浜というふ浜辺に、貝あされる海女の浪に打寄りたるを、自ら得たりとて、鐘のつぶらなるをなも、郡の司よりもて出でぬる」ということですが、それから程無くして、この大洗磯前神社の前の浜辺に、貝を採る梅女が波に打ち寄りたる鐘を捨ってきた。自ずから得たり、偶然に、たまたま、そういう鐘を浜辺で拾いました、見つけました。つぶらというのは丸い、丸い鐘を拾いましたと言って、郡の役人が烈公に差し上げた。「いと奇しく、珍らしみ思ひて」非常に珍しい、不思議だと思って、「やがて半鐘といふもの、一つ二つ手づから作りけるに」先ず半鐘を作ってみた。小さい鐘なのでしょう。一つニつ自分で作ってみたが、「音も世の常ならず、さやかにこそ聞ゆれば」非常に音も素晴らしい。「さやか」、爽やかに聞こえる。「又此鐘をも作りて、物学ぶ人の朝寝ゆるさぬためにも」そこで、弘道館の警鐘の鐘も作ったということです。そこで物学ぶ人が朝寝をしないように、許さぬ為にも、起床の合図として鐘を鳴らすわけです。それから、この後が大事だと恩うのですが、「或は事あらむ時は」或いは、いざという時には、「戦整へむためにもと、おもひ給ふてなも」またある時には、この鐘を以て、軍勢を指揮して、敵を追い払うということも有ろうかと思って作ったのである。こういうことであります。この学生警鎧の鐘、鐘楼は、現在、弘道館にあります。烈公の名文の一つとして、これを紹介致しました。

    三、弘道館記

 それでは次に、「弘道館記」ですが、「弘道館記」そのものは御承知の通りでありますが、原文は漢文で書いてありますので読みやすく読み下し文に致しました。この出典は、水戸史学会で発行しております「水戸の道しるべ」という本がありますが、その中から引用したものであります。
   弘道館記
 弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり。弘道の館は何の為に設くるや。恭しく惟みるに上古、神聖極を立て統を垂れたまひ、天地位し、万物育す。其の六合に照臨し、寓内を統御したまふ所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり、宝祚之を以て無窮、国体之を以て尊厳、蒼生之を以て安寧、蛮夷戎狄之を以て率服す。而るに聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を為すを楽しみたまふ。乃ち西土唐虞三代の治教の若き、資りて以て皇猷を贊けたまふ。是に於て斯の道兪大に兪明かにして、復尚ふるなし。中世以降、異端邪説民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学、此を舎てて彼に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。我が東照宮、乱を撥め正に反し、王を尊び夷を攘ひ、允武允文、以て大平の基を開く。吾が祖威公、実に封を東土に受け、夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊ぴ、武備を繕む。義公継述し、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、倫を明かにし名を正し、以て国家に藩屏たり。爾来百数十年。世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至る。則ぢ苟も臣子たるもの、豈斯の道を推弘し、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館の為に設けらるる所以なり。抑々夫の建御雷神を祀るは何ぞ。其の天功を草昧に亮け、威霊を茲の土に留めたまへるを以て、其の始を原ね、其の本に報い、民をして斯の道のよりて来る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子の廟を営むは何ぞ。唐虞三代の道此に折哀するを以て、其の徳を欽ひ、其の教を資り、人をして斯の道の益々大いに且つ明かなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。嗚呼我が国中の士民、夙夜解らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へを資り、忠孝二なく、文武岐れず、学問事業其の効を殊にせず、神を敬ひ儒を崇び、偏党あるなく、衆思を集め、群力を宣ベ、以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや、神皇在天の霊も亦将に降鑒したまはんとす。斯の館を設けて、以て其の治教を統ぶるものは誰ぞ、権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
  天保九年歳戊戊に次る春三月、斉昭撰文、並びに書及篆額(原漢文)
 この文章を読んでお判りかと思いますが、一通り意味をとっていきたいと思います。元東京大学教授の平泉澄博士が、弘道館記の講義をされた打聞がありまして、その中にこの文章を解釈したものがありますので、それをご紹介しながら意味をとっていきたいと思います。
 「弘道とは何ぞ」弘道というのはどういうことであろうか。「人能く道を弘むるなり」道は目的であり、弘むるは動詞でありましょう。道を弘むるというのは、人が道を弘めるのであります。ここでこの主格がでてきます。能くというのは、人に道をひろめる能力のあることを言われるのであります。人は道を弘める能力をもっている。道が自然に弘まるのではありません。
道を弘める能力を持ち、道を弘める責任のありますのは、人に外ならないのであります。これは非常に偉い言葉です。世の中には呑気に構えておって、道というものは自然に弘まるとか、或いは自然に存続するかのように思うが、そうではない。我々の努力を通じて道は弘まる。努力によって道は維持される。人が道を担う責任を持つのであります。それがこの「人能く道を弘むるなり」という意味で、これは大変な偉い言葉です。 「道」とは何であるか。道というのは「天地の大経」であって、則ちこの自然界の秩序を立てているものが道である。自然界の大きな秩序が即ち道であります。生きている人間が、しばらくもそれを離れてはならぬものであります。これは御承知の如くに、『中庸』の中にある言葉で、「道也者、不可須臾離者也」(ミチナルモノ、シバラクモハナルベカラザルナリ)という言葉がありますが、これです。しばらくも道を離れては人は立てないのであります。道を離れては人は獣に堕落するのであります。道あって初めて人である。しばらくもこれから離れることができないものが道であります。それが天地自然の秩序を立てるのであります。
 「弘道の館」さて今この学校弘道館は、如何なる目的の為に創られたのであるか。どういうわけでこの学校を創ったのであるか。一々問題を出してはそれに解答を与えていかれるのであります。恭しく考えてみますと、古代におきまして、古くは、天照大神様、やがて神武天皇、神々のお力によりまして、この秩序の根本が立ったのであります。極を立ては、最高の位をお決めになった。天皇の位にお即きになり、天皇を以て秩序の根本、本源とされて、そしてその後、その御血統がこれをお嗣ぎになったのであります。それによりまして、「天地位し、万物育す」自然の秩序は立ち、そして全ての物がその中に成育して、繁栄するに至ったのであります。これまた非常に偉いことだと言わなければなりません。歴史はここに始まるのであります。
今、学問が崩れまして石器峙代等の研究が段々盛んになりまして、歴史というものの意味を非常に混濁せしめた。これは頗る重大な問題であります。石器時代、あったであろう。しかし、そういう生活というものの中に、真の歴史は無い。歴史の立つのは、国家の創立せられた時に、初めて日本の歴史は立つのであります。民族の生活は、非常に古いでありましょう。しかしこれはまだ、歴史を成しておらぬ。歴史は、「神聖極を立て統を垂れたまひ」日本の秩序が出来上がった時に、日本の歴史は始まるのであります。これは学問の上において、非常に大きな問題であります。
 「其の六合に照臨し、寓内を統御したまふ所以のもの」とありますが、六合は天地と四方、東西甫北の四方に天地を加えて六つ、寓内と国は同じであります。天皇が世の中を照らし、世の中を統御されました所以は、その拠り所というのは、この道に拠られたのではないことはないのであります。必ずこの道によって、日本の政治は行われて来たのであります。
 「宝祚之を以て無窮」極まり無くと訓んでも良いのですが、後が尊厳、安寧と来ますので、これをムキュウと読む方が落ちつくと思います。天皇の位は之を以て無窮に続き、日本の国体は、国柄は之を以て尊厳である。人民は之を以て安寧な生活を送ることが出来、蛮夷戎狄これを以て率服す。蛮夷は御承知の如くにシナのものの言い方ですが、南の方を蛮、東にある異民族を東夷、夷といい、西にある異民族を戎、西戎、北にある異民族を狄、北狄という。四方の片隅に住んでいる異民族は、この道があるので、日本に従うのであります。率服の率は服従の意味です。
 「而して、聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず」で、日本は、その日本の国ができました時に、既に道は立ったのでありますが、而るに御歴代の天皇は、もう日本の道さえあれば、神武天皇の道で十分であるとは考えられないで、「人に取りて以て善を為すを楽しみたまふ」外国から善いものがあれば、それを取ってくる。外国の文化、外国の道徳の中に善いものがあれば、それを採用して、益々善を為すことを楽しまれたのであります。そこで「西土唐虞三代」、西土はシナ、シナの唐虞三代、唐は奏舜の尭、尭は初め、唐の殿様でありましたので、尭のことを唐と言い、虞は舜、それから三代は夏、殷、周、則ちこれは、尭、舜、夏、殷、周の古い時代の国を、シナの古代の最も盛んな時代の国をあげられたのであります。その奏、舜、夏、殷、周の教えの如きは、これを「資りて」資りては、これを元手として、それを採用して、資料、資材として、日本の文化を発展させ、道義を開明されて、「以て皇猷を賛けたまふ」猷ははかりごと、謀略の謀と同し、天皇の大いなる謀を賛けられたのであります。「是に於て斯の道兪大に」兪という字は愈という字と同じであります。愈々益々、大に、愈々明らかになりまして、もうこれ以上加えることは出来ません、という程度に、素晴らしいものに発展したのであります。
 「中世以降、異端邪説民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学、此を舎てて彼に従ひ」ところが、わが国、中世よりこのかた、異端邪説というのは、邪道、間違った説ですが、それが、民を誣ひ世を惑わす。人々を惑わしまして、下らない、間違った学者共が、俗儒曲学、日本の道を捨てて、そういう異端邪説に従いまして、「皇化陵夷し」天皇のお教えが衰えてきます。陵は丘、夷は平地になること、丘が平地になりますこと、つまり、衰えることです。「禍乱相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し」大道が世に明らかにならなくなりましたのは、蓋し亦、蓋しというのはよくよく考えてみると、ということで、よくよく考えてみると、これもまた随分、年久しい事といわねばなりません。 而るに「書が東照宮」徳川家康公は、「乱を撥め正に反し」撥乱反正といいますのは公羊伝の中に出ております。「春秋」公羊伝の中に、哀公十四年の所にあります。その「撥乱反正」という言葉をここに持ってこられた。撥というのは明治の治と同じです。乱を治め、正に反して、皇室を尊ぴ、外国の間違った考えを打ち攘って、「允武允文」まことに武、まことに文、文武二つの徳を発揮されて、「以て太平の基」を開かれました。「吾が祖威公」頼房公が、徳川家康公のお子様として、常陸に封ぜられて、早くより、日本武尊命の人となりを慕って、神道を尊び、武備を繕められました。義公はそれを受け継がれまして、嘗て、夷斉に感を発せられ、夷斉は伯夷叔斉、御承知の通り、殷が周によって滅ぼされます時に、いかに悪逆な人であっても、主人は主人、この方に背くことは出来ないというので、周の武王を諌めた人、その夷斉のあの態度に感激を発せられまして、さらに儒教を崇んで、人倫を明らかにし、名を正す。名を正すというのは、親は親としての名、子は子としての名に恥じない徳を治めなければならない。君は君でなければならない。臣はあくまで臣でなければならない。そういう名を正して「以て国家に藩屏たり」藩屏というのは垣、塀、屋敷に於いて、垣や塀があるが如く、国家の垣根、塀となって護ってこられたのであります。
 「爾来百数十年。世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、」沐浴の沐は、主として上を表す。体の上半身。首から上を洗うのが沐。体を洗うのが浴。両方とも洗うという意味であります。恩沢に浸りまして、湯浴みするが如くに、その御恩に浸り、お蔭を蒙りまして、以て今日に至りました。「則ち苟も臣子たるもの、豈斯の道を推弘し、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや」こうして見れば、我が水戸藩に於いては、その恩沢を受けました者は、益々この道を推し広め、先祖の徳を発揚することを思わなければならないのであります。「此れ則ち館の為に設けらるる所以なり」これが即ち、弘道館の設けられた目標であります。この目標の為に、この館は設けられたのであります。
 ところが、この弘道館という学校の一隅に、健御雷神を祀ってあるのは何であるか。鹿島の祠がありまして、鹿島の神を祀ってある。これはどういう意味であるか。これは日本の、この国を肇められました時に、「天功を草昧に亮け」神様の功績をまだ国が未開の時に、これをお亮けになり、「威霊を茲の土に留めたまへるを以て」その御霊を、この土、常陸にお留めになったので、その始めを原ね、その由緒をたずねまして、「其の本に報い、民をして斯の道のよりて来る所を知らしめんと欲するなり」日本の道があきらかになったのは、天皇の御威光の前に、我々は謹まなければならぬということを教えられたのは、健御雷神であるぞ。もし、御上の御命令に従わない者があれば、この神はそれを討伐されたのであるぞ、ということを知らしめようとするのであります。
 「其の孔子の廟を営むは何ぞ」弘道館の中に孔子の廟があります。聖廟がありますが、これはどういう意味であるか。これは「唐虞三代の道」先程ありました尭、舜、夏、殷、周の道が、シナ古代の道がここに折衷する。折衷の衷は中という字と同じ意味です。極端なところは、これを捨て、その中正な所を採用する。それが折衷であります。孔子が、シナ古代の道の中で、極端な所を捨てて、その中性な所を集め、それに統一されましたので、その孔子の徳を敬い、その教えを採用して、「人をして斯の道の益々大いに且つ明らかなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり」孔子によってシナの教えが集大成せられ、その中正なところに落ちついたのだ。これは偶然では無い。孔子のお蔭だ、ということを知らしめようというのであります。
 「嗚呼我が国中の士民、夙夜解らず、斯の館に出入し」今水戸藩に於いては、この弘道館という学校を立てたのであるが、水戸の士民が夙夜-夙は朝早く、夜は夜遅く‐朝早くより夜遅くまで解らず(おこたらず)、これは解に立心偏を付けて頂ければ良く判ると思います。(懈)心を怠らず、解は分解の解、心が分解しておるのが握る。心を分解せず、精神を集中して、朝から晩まで精神を集中して、この学校に出入して、「神州の道を奉じ、西土の教へを資り」神国日本の道を根本に奉じて、そしてシナの学問もこれを採り入れて、「忠孝二なく、文武岐れず」偉い言葉です。何でも無いような言葉ですが、「忠孝二なし」というのは、日本に於いて初めて可能な所、「文武岐れず」これまた、この水戸の最も力を入れられた所であります。文と武が二つに岐れてはいけない。「学問事業共の効を殊にせず」これもまた偉い言葉で、学者は学者、事業は事業、とはならないで、学問と事業とが、一つの精神で貫かれておる。その働きを異にしないで、「神を敬ひ儒を崇ぴ、偏党あるなく」偏った党派心を懐かないで、皆の考えを集め、全ての人の力を伸ばして、「以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや」そうなれば、水戸藩の先祖である威公や、義公の志が墜ちないばかりではない。そもそも又、「神皇在天の霊も亦将に降鑒したまはんとす」神武天皇を始め奉って、御歴代天皇、天にまします御霊も、又これを良しとして見給うでありましょう。この学校を設立して、そしてその学長となり、「その治教を統ぶるものは誰ぞ、権中納言従三位源朝臣斉昭なり」これを統率しておるものは誰であるか。全責任をもつものは「権中納言従三位源朝臣斉昭なり」これは堂々なる宣言です。「天保九年歳戊戊に次る春三月、斉昭撰文、並びに書及篆額」斉昭公、文を作り、並びに書し、これを自分でお書きになり、さらに又上に篆額を書かれた、ということです。一応意味はこれでお判り頂けたかと思います。
 次に、弘道館記の碑の拓本を見てまいります。

~弘道館記拓本~

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 この拓本の写真を見ればお判りのように、一字上がっている行があります。それから二行目ですが、上古、とあって、その下がずっと抜けております。抜けていて、次の神聖という字が、上に一字上がっている。こういう書き方になっている。それからもう一つは、丁度中程になりますが、東照宮という字が見えますが、この東照宮という字は、これが普通の並びなのですが、行を改めている。そこから三行目後の上の方に国家という字がありますが、その上が二字空いております。これは書き忘れたのではなくて、わざと空けてあるわけです。それから最後の方にいきますと、終りから三行目の国家という字の上も二字空き、その下を見ていきますと、祖宗という字がありますが、その上は三字空いております。このような書き方、ここにも深い意味がありまして、敬意を表す書式、即ち、闕字、擡頭、平出、このような書き方があるわけです。闕字というのは、今申しましたように、一つの行の中で、例えば国家という字を書く場合に、わざと二つ文字を空けて書きます。或いはその文字によっては三字、又一字空ける。このような書き方を言います。それから擡頭というのは、これは台頭するという言棄がありますが、群を抜いて素晴らしい人間、そういうのを台頭といいますが、これもやはり、神聖とか寶祖、王、というような字は、行を変えるだけではなくて一字上に上げて書く。これは一番敬意を表す形式であります。それから平出、平出というのは行を変えて普通の並ぴに書く。これは、東照宮であるとか、日本武尊命とか、こういう字は行を改めて普通の行に並べて書く。こういう三つの書式があるわけです。そうしますと、この弘道館記を書いた烈公の精神、水戸における立場というものが、この文字の書き方の中から伺うことが出来るのであります。例えば、先程申しました三行目の神聖、寶祖、聖子、皇猷、皇化、王、このような字は、神であり、天皇の先祖であり、その教えであり、というようなものは一番尊んで書いてある。それに対して、東照宮、徳川幕府をつくった東照宮の徳川家康公はどういう位置におかれておったかといいますと、これは平出であります。そして東照宮とある次の行に、「吾祖 威公」とあります。水戸藩の初代の藩主頼房公はどういう位置かというと、闕字、一字空けです。その次の行の義公も一字空け、闕字であります。さらに次の行の国家になりますと二字空けです。こういうことです。神州という字も二字空け、国家と神州は同じ意味ですからどちらも二字空けです。祖宗というと三字空けです。こういうようなことが、ここに、所謂名分、上下の分、君臣の分、これがこの書式の中に表れているということを伺うことが出来ると思います。これが、当時、江戸時代において、こういう書式を書くのには、非常な覚悟が必要であったと思われます。それはいうまでも無く、当時は徳川の天下でありまして、将軍が、言わば天皇の位を越える程の権力を持っていた時代であります。そういう中において、東照宮を平出とし、神聖、寶祖、天皇を、更にその上の位に書くということはやはり、水戸の学問、義会公以来の水戸の学問が、ここの書式一つにも表れているということが言えるわけであります。そういうところにも、烈公の深い考えもあるし、又東湖先生や正志斎先生の気持ちもここにあったわけであります。
 ついでに申しますと、義公以来、水戸で編纂されておりました、『大日本史』があります。この時、幕府においては、『本朝通鑑』といって、編年体の歴史がありました。これは時代順にずっと書いてあるわけですが、『日本書紀』等もそうであります。それに対し水戸義公は『大日本史』を書くにあたって、紀伝体という書式を取られたわけであります。これもご承知の通り、これはシナの歴史、司馬遷の書いた『史記』を、義公が十八歳の時に、この『史記』の「伯夷伝」を読んで修史の志を立てた、ということは良く知られているところでありますが、この『史記』が紀伝体であります。日本においては『日本書紀』以前には、歴史を書くのに、紀伝体という歴史の形態で書いたものはなかったのです。日本では紀伝体の初めての歴史が『大日本史』であります。この『大日本史』がなぜ紀伝体になったのか。私は以前、『水戸史学』(二十二号)という雑誌に論文を書いたのですが、紀伝体とは、本紀、列伝、志、表、という四部からなり、本紀というのは天皇のことだけを書く歴史なのです。列伝というと、天皇以外の、皇后、皇大子、皇子を初め、将軍、その他諸臣も入るわけですけれども、如何に、例えば源頼朝、又は足利高氏(尊氏)、これが権限を持ったとして、これを本紀に書くことはできません。これは列伝ならざるを得ない。水戸の編纂の過程におきまして、色々書き方について変遷もあります。頼朝や高氏をどのように扱うか。これは水戸の歴史家の中においても非常に大きな問題でありました。将軍を全く列伝として、臣下として降ろして書くことには、時の徳川幕府、将軍家に対して、何とも顔向けが立たない、色々悩んだ訳です。そういう中で、将軍列伝、将軍伝、という伝を新たに立てまして、他の家臣とは違う伝を作った訳です。結果的にはそういうことになっております。しかし本紀には出来なかったのです。これはなぜか。日本の歴史というものは、天皇が治める国である。日本はそういう国なのだ、ということを、この歴史の形態の中に、それを明らかにしておいた。そういうことが、義公の深い心の中にあったのではないかと思います。これは何としても変えることはできないわけですから、これはやはり大義名分の歴史体であるということが言えると思います。それと同じような考え方をすれば、この弘道館記の書体もやはりそういう意味がこの中に伺うことができるのではないかというふうに思います。

   四、他藩への影響

 そして、水戸の弘道館記は、他藩にどのような影響を及ぼしたのだろうかと言いますと、かつて「水戸史学」(二十四号)という雑誌に「水戸弘道館の諸藩に及ぼした影響--学館記を中心として--」ということで書いたものがあるのですが、その中で、他の藩の学校の中の学館記、学校の方針を明示した文章でありますが、それを色々と比較検討してみました結果、いくつか弘道館の影響が見られるものが出てまいりました。ここには、その中の三つをあげました。一つは鳥取藩尚徳館の尚徳館記、二つは福井藩明道館の明道館記、三つは笠間藩時習館の時習館記であります。比較して頂ければお判りになると思いますが、先ず鳥取藩尚徳館のことについて、簡単に触れておきたいと思います。

  (1) 鳥取藩尚徳館記

    尚徳館記
人君治ヲ為スノ道ハニ、曰ク文、曰ク武。文ハ以テ己ヲ修メ人ヲ治ム、武ハ以テ姦ヲ防ギ邪ヲ過ム、人臣ノ道モ亦文武ノミ、故ニ其ノ身ヲ立テ其ノ道ヲ行ヒ以テ将ヲ竭キ匡救ノ誠ニ順ヒ其ノ志気ヲ養ヒ其ノ精カヲ致シ、以テ国家不虞ノ用ニ供ス。是ヲ以テ古昔、聖王必ズ学校ノ政ヲ正シ文武ノ道ヲ明ラカニシ、酒掃応対ノ節ヨリ禮楽射御書数ノ事ニ至り、皆其ノ師ヲ建テ以テ之ヲ教ヘ、人ヲシテ君タリ臣タルノ道ヲ知ラシムル所以ナリ。香岱岳公ノ尚徳館ヲ剏建スルヤ、宇部、加露二社ノ神ヲ祭リ以テ之ヲ落ス、藩ノ学アル蓋シ此ニ始マレリ。然レドモ艸創ノ際、教政未ダ備ハラズ、規模未ダ盛ナラズ、時ニ公役ニ會シ、頓ニ百事寝廃ニ至り、故ヲ以テ公ノ志終ニ果サザルナリ。寡人不徳シテ水戸ヨリ来リ、先君ノ緒ヲ継ギ、以テ其志ヲ紹述セント欲ス。是ニ於テ講説ノ堂、練習ノ謝、之ヲ經シ、之ヲ営ジ以テ国ノ子弟ヲ聚メ、日夕孜々トシテ業ヲ其ノ中ニ肆フ。聖廟巳ニ成り、又新タニ一社ヲ築キニ神を祭り、春秋、蘋繁以テ崇敬ノ意ヲ表ス。因テ其ノヲ記シ、諸ヲ石ニ刻シ、一藩ノ士ヲシテ文事武備偏見ス所無ク、且ツ君タリ臣タルノ道、是ノ二途ニ出デザルコヲ知ラシメント欲スルハ、豈ニ寡人ノ私意ナランヤ、即先公ノ遺志ナルノミ。
  萬延紀元甲申正月
従四位上行左近衛権少将源朝臣慶徳撰並書篆   

                     
 尚徳館記の最後の所をご覧頂きますと、先ず年号が書いてございます。「万延紀元甲申正月従四位上行左近衛権少将源朝臣慶徳撰並書豪」このようにありますが、この源朝臣慶徳、この方は水戸と非常に深い関係のある方であります。この方はいうまでもなく烈公の五男、五郎丸といっておりますが、昭徳(あきのり)という方が、池田藩に養子として迎えられまして、嘉永三年、十二代藩主慶徳(よしのり)となりました。時に十八歳。この烈公の第五子、五郎丸が鳥取藩の養子として藩主になったということから考えて、これは当然、水戸の弘道館と関係があることが想像できるわけであります。この慶徳公は小さい時から水戸に居りまして、弘道館で勉強しております。お父さんの烈公は、大変な子だくさんで有名でありますが、いずれ他藩に養子に行くであろう、いずれの藩に行くにしても、恥ずかしくないようにということで、小さい時から、色々と教育された。こういうことでありますので、十八歳の若き藩主でありましても、十分に指導を受け、十分に学んでいた。そして烈公という父親の後楯もありまして、この鳥取藩の藩政改革にあたるわけであります。その中で、藩校を設立し、その藩の教育方針を明示したのが尚徳館記であったわけです。
 この年号に「万延元年」と書いてありますが、この万延元年の、正月にこの文はなっているのですが、非常に残念なことに、この年の八月十五日に烈公が六十一歳で亡くなっておられます。そのような、言わば烈公としては、最後の、わが子の養子先である鳥取藩の藩校の設立に大変な力を尽くしたということが言えるかと思います。初めの一、二行だけ読んでみますと、「人君治ヲ為スノ道ハニ、曰ク文、曰ク武。文ハ以テ己ヲ修メ人ヲ治ム、武ハ以テ姦ヲ防ギ邪ヲ過ム、人臣ノ道モ亦文武ノミ」これは水戸で主張しておる文武両道、これを述べておるわけです。それから、神を祀るというようなこともそこに出ておりますので、その精神、またその記文の構成においては水戸の弘道館と非常に類似しているということが言えるわけです。

  (2) 福井藩明道館記

 それから福井藩明道館との関係を見てみたいと思います。

    明道館之記
明道トハ此ノ道ヲ明カニスルコトナリ、凡ソ天下ノ事物、各々當行ノ理有ラザルナシ、所謂道ナリ。夫ノ父子ノ親、君臣ノ義ノ若キハ則チ是レナリ。蓋シ、道ハ人生ノ固有ニシテ外ニ求ルヲ待タズト難ドモ、自ラ其ノ生知ノ資ニ非ズ、苟モ学ビテ之ヲ明ラカニセザレバ、気ノ禀ク所、物欲ニ拡ハレ、蔽ハレテ夫ノ當行ノ理ニ由ル能ハザルニヨルナリ。恭ク惟ルニ上古神聖極ヲ建テ統ヲ垂レ給ヒ、列聖明ヲ継ギ以テ四方ヲ照ス、道ノ明ナル亦以テ尚フル無シ、而シテ又文教ヲ漢土ニ資リテ以テ我ガ神武ヲ賛ス、是ニ於テ此ノ道愈々明ラカニシテ、皇化遍ク敷キ、黎庶時雍ギ、四夷賓服ス、宝祚ノ天地ト興ニ窮り無キ所以ノ者、豈偶然ナランヤ。中世以降、此道漸ク衰へ異端其ノ間ニ乗ジ、皇化振ハズ、禍乱相踵ゲリ。而ルニ我東照宮、天縦英武、又此ノ道ヲ明ラカシ以テ弘済屯難、内ハ皇室ヲ尊ビ、外ハ夷狄ヲ攘ヒ、遂ニ天下ヲ泰山ノ安キニ置ク、二百有餘年、此ニ亦烈ナラズヤ。吾祖浄光公、其ノ冑ニ親シミ而シテ雄武ノ資以テ其ノ業ヲ佐ク。封ヲ此土ニ受クルヤ、国家ニ藩屏タリ。然レドモ治平ノ久シキ、風安逸ニ移り、俗功利ニ趨ク、予嗣デ祖先ノ遣緒ヲ守リ、恒ニ其ノ任ニ堪ヘザルヲ懼ル、而ルニ況ヤ方今洋警ノ急ナル豈ニ當ニ慨然トシテ盡クサザルベケンヤ。故ニ今此館ヲ設ケ、士大ト興ニ此ノ道ヲ講明シ、推シテ以テ衆庶ニ及ボシ、文武相資ケ政教一致、倫埋整正、上下誠一、藩籬萬一ノ責ヲ塞グニ庶幾カラン、国家無窮ノ恩ニ報ヒ以テ祖宗ノ業ヲ墜サズトシカ云フ。
   安政三年乙卯月日 源中将慶永記
 福井藩松平氏三二万石、家柄でいうと家門にあたります。特に隣国には、加賀藩、百二万石の大藩、外様の加賀前田氏が居る。福井藩はその隣藩ということで、非常に重要な位置にあったわけであります。この明道館ができる前の学校に、正義堂というような藩校があったわけでありますが、天保九年に田安家、徳川吉宗の子の家ですが、その家に生まれたのが慶永、松平春嶽といいますが、福井の藩主となって、十五代の藩主となります。時に十歳でありました。この田安家の慶永が江戸に居った時に、いよいよ福井藩にお国入りするというに当たって、かねてから尊敬していた烈公を訪ねて、藩主としての心構えなどを、色々と指導を受けております。そういうことで、この福井藩と水戸との関係というのも、非常に精神的にも近いものがあるわけであります。やがて、この慶永藩主は中根雪江とか後には橋本景岳(左内)を登用しまして、学制の改革にあたります。ここに、「安政三年乙卯月日」となっておりますが、安政二年、前の年に、城内の三の丸に文武の学校を建てまして、明道館と名付けて、その翌年である、安政三年に明道館記を撰文しております。
明道トハ此ノ道ヲ明力ニスルコトナリ、几ソ天下ノ事物、各々當行ノ理有ラザルナシ、所謂道ナリ。夫ノ父子ノ親、君臣ノ義ノ若キハ則チ是レナリ。
蓋シ、道ハ人生の固有ニシテ外ニ求ルヲ待タズト雖ドモ、自ラ其ノ生知ノ資ニ非ズ、苟モ学ビテ之ヲ明ラカニセザレバ、気ノ禀ク所、物欲ニトラハレ、蔽ハレテ夫ノ當行ノ理ニ由ル能ハザルニヨルナリ。
恭ク惟ルニ上古神聖極ヲ建テ統ヲ垂レ給ヒ、
 この所などは、誠に弘道館記と全く同じ文章で作られて、中世以降のことであるとか、最も弘道館記に類似した文章であることがお判り頂けると思います。これを書いたのが橋本景岳であります。橋本左内でありますが、これは言う迄もなく藤田東潮先生を非常に尊敬し、傾倒し、その教えを受けた人でありますから、弘道館記の精神を受けて、福井藩に、水戸の分校ともいうべき学校をたてようと、こういうことを決意されたのは当然のことだと思います。こういうところがやはり弘道館の影響として強く表れているところであります。

  (3)笠間藩時習館記

 それから笠間藩時習館でありますが、笠問藩は江戸時代色々藩主の変遷がありまして、蒲生氏であるとか、松平、小笠原三戸田、永井、浅野、井上、本庄、こういうことで延享四年に牧野氏が、日向の延岡から笠間に移ってまいります。この藩校の時習館という学校自体は文化十四年に出来ておるのでありますが、その間に時習館記というものも、作られております。次に示しますのは、その最後に書かれた時習館記であります。
    時習館記
上古天神基ヲ開キ、忠孝ノ訓、諸ヲ三器ニ本ヅキ、宝祚ノ隆ナルコト天壌ト具ニ窮り無ク、而シテ君臣以テ定マル。天胤ノ尊、萬世易ラズ、而シテ父子以テ惇、黎民皐々、蠻夷率服ス。皇化ノ四表ニ被ル、盛ンナリト謂フベシ。夫レ道ノ斯ニ在ルハ、人其ノ天性ヲ率ルノミ。父子アレバ則チ親アリ、君ニ臣アレバ則チ義アリ、夫婦ノ別、長幼、朋友ノ序ト、民彝ノ固有ニ因ルニ非ザルハ莫シ、神州ハ正気ノ萃ル所、君臣父子ノ大倫、厳正惇厚、萬国ニ首出ス。大本既ニ立チテ、而シテ五品克ク遜フハ固ョリ論説ヲ待ッナキナリ。而シテ漢士モ亦神州ト風気相ヒ同ジ、尭舜ノ教へモ亦徴五典ニ在り、孔子之ヲ祖述シ、其ノ道以テ大イニ萬世ニ明ラカニシテ、崇奉敢ヘテ易フルコトアルナシ。
応神ノ朝、文明ニ属シ、而シテ西蕃偶々、経籍ヲ貢ズ。是ニ於テ尭舜孔子ノ言ヲ取リ以テ神皇ノ化ヲ賛シ、大道益々昭ニ、人倫愈明ラカナリ。
大化大宝ノ治教修備ニシテ、而シテ大学アリ国学アリ以テ教ヲ敷キ、四方駸々乎トシテ日ニ休明ニ赴ケリ。
然レドモ一治一乱ハ天下ノ常ニシテ、左道織盛、兵禍相踵グコト数百年シテ煤熄マズ。
慶元以降、喪乱既ニ平ラギ、奮武撥文、上ハ天朝ヲ尊ビ、下は四海ヲ撫シ、外ニ風草ノ警ナク、内ニ磐石ノ固メアリ、学校ヲ肇メテ教化ヲ弘メ、各国ノ風靡トシテ学ヲ設ケテ士ヲ養フ。
我レ恭ク君ヲ崇メ、新タニ時習ノ館ヲ建テ、以テ子弟ヲ教導ス、子弟ノ入学スル者、日ニ衆シ、自清君ニ至リ其ノ地狭隘ヲ以テ、之ヲ他處ニ移シ、更ニ講武館ヲ設ケ以テ武技ヲ肄フ。
貞明不肖ニシテ緒業ヲ紹纉シ、日夜憂思シ或ハ失遂アランコトヲ懼ル、廼チ国ノ中央ヲトシ、文武ノ館ヲ合シ、子弟ノ学習ニ便ニス、時習館ノ名舊ニ仍リ、而シァ宇倍神ト孔子ノ神トヲ合祀ス、宇倍ノ神ハ我が祖先ノ自ラ出ヅル所、神后ノ征韓ヲ佐ケ、天威ヲ海外ニ揚ゲ、百済ノ經籍ヲ貢スルモ亦夕絲アリテ之ヲ致セリ。孔子道ヲ明ラカシテ化ヲ賛ス、皆士民ノ瞻仰スル所、士民館ニ登り、能ク自ラ奮励シテ、其ノ功徳ニ報答シ、天神ヲ遵奉シ忠孝ノ訓、五典五惇、文武一途、神州ノ正気ヲ扶ケ、其ノ勇武ヲ振起シ、義ヲ見テ之ヲ為シ、以テ国家應懲ノ用ニ供ス、是レ予ノ先君ノ意ヲ継述スル所以ナリ。
  安政己未夏四月
従五位下朝散大夫牧野貞明撰  

 最後の日付と署名をご覧頂きますと、「安政己未夏四月従五位下朝散大夫牧野貞明撰」とあります。このように牧野貞明の名前で発表されておりますが、この時習館記を書かれたのは、水戸の会沢正志斎先生でありました。これは先程も出てまいりましたが、藤田東湖先生と共に、烈公の教育事業を補佐し、協力し、烈公の意志を受けて、藩政の改革、教育の改革に当たった水戸の代表的な人でありますが、この正志斎先生が、この文を書いております。従って、天壊無窮の国体の事とか、君臣父子五倫の道であるとか、儒教の教えの導入、その他水戸藩の弘道館と、非常に類似するところがあるわけであります。資料を見ていきますと、水戸の弘道館、創立こそは、天保十二年、江戸時代で言えば後半になるわけでありますが、特に諸藩における学校教青というものは、天保時代以降非常に数が多くなります。それ以前の学校においては、大体、藩校、学校といいますと、朱子学が中心でありました。学校というのは漢文を学ぶところというイメージがあったわけです。そういう中において水戸藩が文武両道ということを言い出したのはやはり非常な見識であり、当時あまりいわれなかったことなのです。他藩においては、武道というのは、大体町の道場、師範の居る道場に通って武術を学んだ。学校は学問を学ぶところ。こういうふうに分かれていたのであります。水戸においては文武両道、これが人間としてもっとも大事なものであり、頭でっかちでもだめだと、それから腕だけ達者で、まるっきり頭が空っぼでもだめだ。これは両輪の如く、人間にとっては重要な教えである。こういう見地から、この水戸藩においては文武両道を大きく掲げたわけであります。その影響が色々諸藩におよびまして、今一例をあげて見ました福井であるとか、鳥取であるとか、笠間なのであります。

   五、おわりに

 ところでこの水戸藩の弘道館教育というものが起こった背景というものは、非常に重要であります。なぜその文武両道、あるいはその武備というものが説かれるようになったのかといいますと、その理由の一つは、外国が日本に接近すること、そういう影響がひしひしと伝わってきたからであります。北からロシア、南からはイギリス、フランス、そして隣の清国、シナにおいては阿片戦争、その他によってどんどんアジアが列強に侵略されていく。そういう情勢も、長崎を通じて日本に入っておりました。やがてそういうなかで、今の日本の状態においては、いずれ欧米列強の植民地にされる恐れが十分にある。こういう時代背景があったわけであります。それに拍車をかけたのが、ペリーの来航であります。そういう時に諸藩でも、さすがに慌てまして、江戸もそうでありますが、諸藩においても、外国の力づくの接近、上陸、こういうことによってやっと目が覚め、それでは学校を創る必要がある、ならば文武両道でいこう、こういうことで水戸の弘道館にその模範をとって、それぞれの藩で、雨後の筍の如くといいますか、安政年間で、この時代にもほとんどの藩で、一般に二七○の藩があるとか言われておりますが、そういう藩のほとんどに、何らかの形で学校が創られるようになるわけです。中には長屋門の一角を改造したような学校もあります。水戸の弘道館のような堂々たる学校はとてもできない、ただ、今までの家老の屋敷に看板を掲げてというようなところもあったわけでありますが、藩校として文武両道を掲げた。これはやはり、その切っ掛けをつくったのは、水戸の弘道館であったというわけであります。今申しましたように、ただ単に学校で人に文武両道を教えるというのではなくて、日本の国家の為になるもの、日本の国を護る、そういう精神を鍛えて、延いては日本の独立を守り、独立を達成させる為の教育をと、そういう理想が、この弘道館記の中に説かれているわけであります。
 今日、私ども学校教育に携わっておるわけでありますが、どうしも今の世の中、特に高等学校ですと進学第一でありまして、何と言っても、進学率を高めなければ一人前の学校とはみなされないというような、非常に厳しい状況におかれております。本来であれば、望ましい教育は、知育、徳育、体育と言われているわけですが、中々、徳育、人間性、道徳性という面においてはともすると忘れがちであります。土曜日も休みになるような時代となりまして、皆、授業重視、進学重視という中にあって、これでいいのだろうか、ということを考えながら日を過ごしております。そういう意味におきまして、本日、ご一緒に弘道館記を拝読致しまして、改めてこの人の教育とはどういうことなのか、人間にとって何が大事なのか、改めて勉強させていただきました。十分お伝えすることができませんでしたが一応これで終わらせて頂き、後は皆さんそれぞれ資料等をお読み頂いて深めていただければと思います。長い時間ご静聴ありがとうございました。
(平成七年十一月五日講座)

(県立下館第二高等学校長)