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義会時代史臣の名文

    ---「西山」「彰考館」「彰考別館の記」等---

                  梶 山 孝 夫


 お早うございます。梶山でございます。早朝から大変御苦労様でございます。
今日は「義公時代史臣の名文」ということでありますので、安藤年山を取り上げてみたいと考えております。水戸にはきら星の如くと言いますか、有名な学者がおりますが、その中で特に和文関係ではあまり多くないように思います。今日は和文を皆さんと共に味わってみようと思いまして、安藤年山、為章と申しますが、この年山の文章を取り上げてみました。
 今日は三つの文章を拝読してみたいと思いますが、これは全部『年山紀聞』という書物の中に収められております。この『年山紀聞』の早い方から取り上げたいと思います。「西山」という文章、それから「彰考館」そして「彰考別館の記」という三つの文章を味わって行きたいと思います。早速文章の方に入っていきたいと思うのですが、その前に予備的な知識としまして『年山紀聞』という書物について、若干申し上げたいと思います。
 この『年山紀聞』という書物は木版本で刊行されておりますけれども、勿論年山が亡くなってずっと後になってからのことであります。この刊行本そのものを皆さんがすぐご覧になることは難しいと思いますが、『日本随筆大成』と申しますが、こういう書物の中に収められておりますので、容易にお求めできる事と思います。最近新版がでておりますが、今日の資料は旧版から取り上げてあります。中身は同じです。その資料に少し蛇足を付け加えさせてもらいますと、この刊行本は六冊ございます。巻一から巻六まで、それぞれの分量があるのですけれども、合計致しまして二三三項目収録されております。この『年山紀聞』の刊行の問題点は沢山ございますが、これを今日細かに申し上げることは致しません。それぞれの文章には長短がありますが、各巻には大体同程度の分量が収められております。各巻の構成について厳密に特徴を指摘することはできかねるのですけれども、巻之の一冒頭に西山公に関する条を、巻之六の末に長松軒(年山の祖先)や契沖の伝記を収めていることなどは特色とすることができるかもしれません。この長松軒という人は邦茂公と申し上げまして伏見宮家のご出身であります。この安藤年山の家柄、安藤家でありますが、伏見宮家にお仕えをした家柄で、京都の方であります。京都の亀岡市というところに住いを持っていた一族でございます。『年山紀聞』は後に水戸藩の小宮山楓軒(昌秀)が手元にあったものを京都に送って、そして京都の書肆、本屋さんから刊行したわけです。その時に水戸から送ったものをそのままの原稿の形で刊行したというのですけれども、そこには幾つかの疑問点がありますが今日は触れません。この刊行に尽力致しましたのが橘経亮、京都の郊外の神主でありますが、この方が尽力されました。この方が跋文を書いております。それによりますと、『年山紀聞』は当時『年山打聞』という抄本と言いますか、抜粋本になると思いますが、それが流布しておりまして、これはどうも誤りが多いから、訂正して正しい年山の文章を伝えたい。水戸の方から京都に送ってきたものを改めないで、少しおかしいところもあるのではないか、と思いながらも、それはそのまま改めないで刊行した、というようなことが記してあります。そのずっと後、千八百年代、文化年間になりましてから先程の六冊の刊行本となったのであります。
 その最初の文章が次の「西山」という文章でございます。これは先程申しました通り、冒頭の一文であります。従いまして年山の義公に対する思いの一端をここに見ることができるのではないかと思います。『年山紀聞』という書物自体は年山の文章のみを収めているわけではありません。実際に年山が書いた文章は少ないのでありますが、引用したとか他の人の文章を収めたものとかでありますから、必ずしも全部年山が書かれた文章ではありません。その冒頭に「西山」という文章を収めたのでありますから、そこには十分に考慮されたことがあるだろうと思います。
 ○西山
常陸の国久慈の郡太田の郷の西にあたりて、十町ばかりもあなた白坂といふ里の奥なり。
水戸府城より太田までは五里ほどなり。
梅里公(割註・また常山とも称したまふ。御いみな光圀、御あざなは子竜。)この山に隠居したまふは、元禄四年辛未五月九日になんありける。(割註・干時前権中納言大十四歳。)それより前に、山あひの木をきり、草をかり、土をたひらかにして、松の柱、かやが軒端、竹あめる扉、かりそめなる御がまへなり。此御かまへの時、くちたる櫓をほり出したるを見れば、いづれのむかしまでは、この山のふもとまでも、久慈の梅などや入きたり待りけむ。今はその梅までは一里にあまり待らまし。陵谷の変はかりがたき事なるべし。この山に入らせたまひて後の詩歌などには、西山樵夫ともかヽせたまふ。さぶらうともがらも、あるはとし老、あるは病つきて、府城の奉公に堪がたきを、わづかに五六十人ばかりえらびつかはせたまふ。その人々私の家居も、こヽかしこ谷のくまぐま松の木かげに、かりそめながら物きよくしつらひたれば、かの桃源の仙郷もかくやあらましとおぼえ待り。軒ばの山より流るヽ泉をたヽヘて、おまへの池とし、鴛鴨などあそばせ、谷あひの田の面には、丹頂の鶴ひとつがひやしなはれたり。おましの左右には、からやまとの書の他は剰物なし。
御友なひには彰考館(割註・江戸小石川の藩邸にあり。)の学者たち四五人づヽ、かはりがはりに参りて、詩歌の唱和、あるひは本朝史記、釈万葉集以下御編集の議論どもおもしろかりし、年月にぞ侍りし。あるひはまた神職出家のともがら、御領常陸のうちはいふにもおよばず。江戸よりも、ちかき国々よりも、年ごろ御めぐみを得たる輩したひ参りて、学問なにくれの物がたりども聞こえまゐらせて、御在藩の御時よりは、中々なれむつび奉られける。此山中にすみ玉ふ事、おほよそ十とせに及びて、元禄十三年十二月六日に薨じたまふ。御諡は義公と申す。西山より一里ばかりなる瑞竜山にはうぶり。その儀儒礼をもちひらる。(割註・希世の名将のかく一たびすませたまへば、後々は名所の数にてぞ侍らまし。)為章も水戸に待し時参り仕へ侍りたれば、今此御うへに及ては、懐旧のむねいたましく、なみだをすヾりの水にそへ待るぞかし。其あひだ見もし聞もしたる事どもを、ふところ紙に書付おき待しが、過しとし小石川の回禄にぬすまはれたる残りをだにとて、年月の次第にもよらず。その事の類をもわかたず。なほこのごろの事をも、只筆のまヽにうつして、老のものわすれに備へ待るなり。もしあまりのよはひも待らば、取捨して清書せまほくなむ。
 「常陸の国久慈の郡太田の郷の西にあたりて、十町ばかりもあなた白坂といふ里の奥なり。水戸府城より太田までは五里ほどなり。」あなたというのは彼方ということです。太田の里西山という場所に隠居されたわけであります。続いて改行されてあります。これは梅里公、則ち義公を尊敬申し上げた書き方であります。「梅里公(割註)また常山とも称したまふ。御いみな光圀、御あざなは子竜。」そこは(割註)とございますが、版本では小さく二行に渡って書かれている所で、二行になっているので割註と申します。「この山に隠居したまふは、元禄四年辛未五月九日になんありける。(割註:干時前権中納言大十四歳。)六十四才の時に丁度これから十年間西山にお住いになられるわけです。「それより前に、山あひの木をきり、草をかり、上をたひらかにして、松の柱、かやが軒端、竹あめる扉、かりそめなる御かまへなり。」
 隠居するということを前々からお考えになっておられましたので、準備をされていたわけですが、その西山の建物が作られていく様子を叙述した箇所であります。かりそめなるとありますので、本格的なものではなくて、間に合わせの屋敷であるという意味です。「此御かまへの時、くちたる櫓をほり出したるを見れば、いづれのむかしまでは、この山のふもとまでも、久慈の海などや入きたり侍りけむ。」その建物を造られる時に、腐った櫓を掘り出し、この櫓というのは船で使うものですから、船で入ってくることが出来た。則ち海であった。里川の流域になると思いますが、その山の麓まで久慈の海になっていたのではなかろうか、ということです。「今はその海までは一里にあまり侍らまし。」一里程の距離があるということであります。したがって、「陵谷の変はかりがたき事なるべし。」自然の地形というのはそう大幅に変化するものではないのだなあ、そういうことを述べております。「この山に入らせたまひて後の詩歌などにはご隠居された後、歌会などを催しておられます。「西山樵夫ともかヽせたまふ。」そういうふうに名乗られたわけであります。実はこの文章ではそのまま、「後の詩歌などには、西山樵夫」と続けて書かれておりますが、木版本では、ここが改行されておりまして、別の行になっております。これも先程と同様義公を尊散して書いているという形になります。そしてこの「西山樵夫」、樵夫というのは樵(きこり)のことでございますから、西山の山の奥に籠もっている樵ということで名乗られたわけですが、この後の義公の詩歌等を見てまいりますと、確かに西山樵夫と書かれた箇所が何箇所もあります。参考までに申し上げておきますと、安藤年山には『年山紀聞』の他に『千年山集(ちとせやましゅう)』というやはり編集した書物がございます。そういう文集の中にも、年山の父、朴翁という人ですが、この方をお送りする時に、義公が文章を書かれております。その時にはもう西山に籠もっておられましたので、西山樵夫と書かれております。そのような例がございます。「さぶらうともがらも、あるはとし老、あるは病つきて、府城の奉公に堪がたきを、わづかに五六十人ばかりえらびつかはせたまふ。」お側にお仕えする人々も、ということであります。「その人々私の家居も、こヽかしこ谷のくまぐま松の木かげに、かりそめながら物きよくしつらひたれば、かの桃源の仙郷もかくやあらましとおぼえ侍り。」そのさぶらう人々の家も、ここかしこ、あちらこちらの谷に住いを建てている。そういう建物も実はかりそめのものであるということであります。そして桃源郷、陶淵明の故事に因んだ言い方でありますが、あの桃源郷もこのような場所であったのだろうか、と思われることであります。「軒ばの山より流るヽ泉をたヽヘて、おまへの池とし。」おまへの池というのは、今日の心字の池、白蓮の池のことであります。「鴛鴨などあそばせ。」鴛と鴨のことですが、そのような鳥獣を飼われた。「谷あひの田の面には、丹頂の鶴ひとつがひやしなはれたり。」丹頂の鶴を一つがい放して養っておられました。「おましの左右には。」おましというのは義公のおられるところ、御座所です。「からやまとの書の他は剰物なし。」支那と日本の主な書物です。それ以外余分なもの、余計なものは有りません。書物だけがお側近くに有るということです。これも、三畳の書斎をご覧になれば、そう大きなものを置かれる余裕もなかったと思いますが、ここで『大日本史』を初め、諸書の編纂の指示を出しておられたわけであります。「御友なひには彰考館江戸小石川の藩邸にあり。」御友なひ、というのは、お連れの者という意味で良いと思います。「学者たち四五人づヽ、かはりがはりに参りて、詩歌の唱和、」お連れの者には、彰考館の者たちが四、五人ずつかわるがわる来て歌会を催しておられます。「あるひは本朝史記、」いうまでもなく『大日本史』のことであります。「釈万棄集以下御編集の議論どもおもしろかりし、」『釈万葉集』は『万葉集』の注釈書であります。これとはまた別個に、契沖、大坂のお坊さんでありますが、その契沖に『万葉集』の注釈を依頼されております。これが『万葉代匠記』でありますが、そういうものと併せて、水戸家の方でも独自に「釈万葉集」という書物を編集しておりました。その「釈万葉集」にも実は年山が編集に関わっていたのであります。「年月にぞ侍りし。あるひはまた神職出家のともがら、御領常陸のうちはいふにもおよばず。」常陸は言うまでもない、ということですが、「江戸よりも、ちかき国々よりも、年ごろ御めぐみを得たる輩したひ参りて、学問なにくれの物がたりども聞こえまいらせて、御在藩の御時よりは、中々なれむつび奉られける。」ご隠居さんになられましたから、在藩というのは、藩主の時と比較をされたのだろうと思います。その時よりは、もっと親しくお側近くに来て親しく交わられたということであります。「此山中にすみ玉ふ事、おほよそ十とせに及びて、元禄十三年十二月六日に薨じたまふ。」丁度十年程この西山にお住いになられて、元禄十三年十二月六日にお亡くなりになったのです。「御諡は義公と申す。西山より一里ばかりなる瑞竜山にはうぶり。」瑞竜山に葬られた。水戸家累代の墓地が在る所であります。「その儀儒礼をもちひらる。」そのお葬式の形態は儒式で葬られたのであります。水戸家は代々儒式で葬られていることは皆さんご承知の通りであります。その後は割註になりますが、(割註:希世の名将のかく一たびすませたまへば、後々は名所の数にてぞ待らまし。)当時年山は、もうすでに、義公のような希世の名将が住まわれた所ですから、後々は当然名所として数えられるでありましょう、ということを言っておられます。正に今日その通りであろうと思います。実は今日に限らず、幕末にはもうそういう名勝になっていたわけですから、この文章の通りであると思います。「為章も水戸に侍りし時参り仕経侍りたれば、」年山というのは号てありますので、諱にあたる名前がこの為章であります。「今此御うへに及て、懐旧のむねいたましく、なみだをすずりの水にそへ侍るぞかし。」義公がお亡くなりになって、このようなことになってしまいましたので、非常に懐かしく、「懐旧のむね痛ましく、」懐かしく思い起こしますと。涙が流れてきて、その涙を硯の水に代用するということでありますが、涙を硯の水に使って、墨をすって、思い出の文章を綴ろう、ということになるかと思います。涙を硯の水に添えるというのは、年山には割合に良く使われている言葉なのです。幾つかあるようですが、目についたところでは、例えば、これは勿論『年出紀聞』に出ておりますけれども、父朴翁の文章に、「山家の記」というのがあります。これは先程申しました『千年山集』に収められております。その文章があって、これは『年山紀聞』の方にもあるのですけれども、その後に按文というのを付けまして、お父さんの文章でありますから、それに年山がちょっと文章を書き加えたわけですけれども、その中にもこれと同じような書き方が出ております。父を思いながら、『年山紀聞』を編集したのでありましょう。「追慕の涙を硯の水に添えはべりぬ」という文章がございます。これと同じ表現になるかと思います。「其あひだ見もし聞もしたる事どもを、ふところ紙に書付おき侍しが、」そのお仕えした間に、聞いたり見たりしたことを書き留めて置いたのですけれども、「過しとし小石川の回禄にぬすまはれたる残りをだにとて、」「小石川の回禄」というのは火事のことを指しております。「ぬすまはれる」というのは、火事に遇って家の物が無くなるということの形容であります。その火事で失ってしまいましたので、「年月の次第にもよらず。」良くわかりませんが、ということです。「小石川の回禄」というのは一体いつのことかと申しますと、この文章は義公がお亡くなりになられてからの文章であることは明らかなのですが、他の文章もそうですが、いつ書かれたか、ということを明らかにするのは難しいのです。その一つの参考として申し上げます。『水戸紀年』という書物がありますけれども、これを見ますと、元緑十六年(一七○三)の十一月二十九日、義公がお亡くなりになって三年程たちます。小石川から火事が起こった、という記事がございます。ただ『水戸紀年』という書物は後から石川慎斎という人が編集したものでありますから、そう簡単に信用出来ないということで、あちこち探してみたわけですが、恐らく他にも沢山あるのだろうと思います。実は他の文章をずっと読んで参りますと、こういう箇所にぶつかりました。それを紹介しておこうと思います。年山のお兄さんに為実という人がおります。安藤抱琴、安藤為実という人がおります。もっともお兄さんが招聘されて、それに年山もついてきたということになるのですけれども。この為実の文章に、先程申しました『千年山集』という文集の中に収められておりますが、「古今集伝授の奥書」という文章がありまして、その中に次のような箇所がございます。「元禄癸未の冬、武蔵野の大火にあへなく、うしないし名残はただこの一巻き」元禄十六年になりますが、十一月二十九日ですから、勿論冬です。「ただこの一巻き」というのは古今集のことであります。まさしく武蔵野の大火、江戸の大火のことですが、元禄の十六年の冬に大火に遇って、多くの書物を失ってしまった。残ったのは『古今集』ただ一つである。そういう箇所がございますので、この「小石川の回禄」というのは元禄十六年の十一月二十九日に起こった火災であることに間違いはないだろうと思います。ともかくも、その火災によって、書きつけたものを失ってしまったので、「その事の類をもわかたず。」良く判らなくなってしまった。「なほこのごろの事をも、只筆のまヽにうつして、老のものわすれに備へ侍るなり。」その後、段々年を取って参りました。年山は五十八才で亡くなられているのですが、五十代位の文章だろうと思います。記録として残しておこう。「もしあまりのよはひも侍らば、取捨して清書せまほしくなむ。」年月が経ってしまえば、沢山記録も出てくるわけですから、その中から取捨選択をしまして、清書して、残しておきたいものだなあ、というようなことを綴った文章でございます。
 特に難しい筒所はございませんので、この「西山」という文章を、皆さんお読みいただいて、味わっていただければ宣しいかと思います。今度西山荘に行かれる機会がありましたならば、是非この文章をお持ちになって、読んでいただいて、当時の様子をこれで味わいながら西山荘を見学していただけたらなと、思っております。
 続いて、少し短いのですが、「彰考館」という文章です。先程の「西山」という文章は冒頭のところにありますが、この「彰考館」という文章は巻の五に収められております。
 彰考館
明暦年中武州小石川の邸中、高き地に建給ひて、彰考館三字の額は、則ち西山公の御筆なり。この文字は左伝序に、彰往考来といふよりとり給ふとぞ。額の傍らに、
 明暦年中と申しますのは、彰考館を開設した明暦三年のことであります。彰考館という文字を掲げられたわけですが、それを西山公自ら書かれた。左伝序、春秋左伝でありますが、その序文の中にある文章で、「彰往考来」というこの文字から取ったということであります。「往くを彰かにし、来るを考える」という左伝序にある文章からとったのであります。その額の傍らに、「史館警」という五つの、彰考館に於ける規則のようなものですが、それを定められたわけです。この「史館警」という文章は、諸書にも出ておりますが、もっとも良く知られた有名なものがこの文章に収められているものであります。五つ程あります。
 史館警
一 会館者可辰半入未刻退(館に会する者は辰の半に入り未の刻に追くべし)
 館で仕事をする場合には、辰の半ばに入って、未の刻に退く、という一種の勤務時間を定めたものです。時間については、普通に使われていることで申しますと、辰の刻、辰の半ばともうしますと八時位になるのでしょうか。ただ、解釈する人によって若干ずれがあるようなのですけれども、一般的に辰という時間は八時を中心にして三時間位ですので、辰の半ばというのほその真ん中位ということで八時頃になるかと思います。そして未の刻に退く。丁度正午が午の刻ですから、十一時から午後一時まで、その後になります。午後一時から三時までが未の刻ということになります。その頃までを勤務時間としたわけでありますから、大体五時間か六時間か、厳密に抑えることは難しいかもわかりませんが、その位だと思います。従いまして、今日の私達からみまして、勤務時間的にはかなり少ない。その分優遇されている、言葉が適当かどうかはわかりませんが、そういうことになるだろうと思います。
一 書策謹不可汚壊紛失之(書策は謹んで汚壊紛失す可からず)
 書物のことですが、書物で仕事をするわけでありますから、この書物を汚くしたり、或いはなくしてしまったり、そういうことはしてはいけません。大切に扱うということを心掛けなさい、そういう規則であります。
一 囂談争論宜最戒之(囂談争論宜しく最も戒むべし)
 喧々諤々という言葉がございますが、声高にして議論をするということです。そういうことは戒めなさい、ということです。
一 論文考事各当竭力若有他所駁則虚心議之勿執独見(文を論じ事を考ふるには各当に力を竭し、若し他の駁する所あらば則ち虚心之を議し、独見を執る勿れ)
 彰考館は、歴史を編纂する所でありますから、文章を書かれます。文を書いて、物事を、軌跡を、歴史を考えるに当たっては、全力を尽くすべきであります。全力を尽くしなさい。若し、そうではあるが、他の人が、あなたの意見はそうではなくて、私の意見はこうだから、あなたの意見は違うのではないか、そういうふうに反駁をするところがありましたならば、それを参考にして、さらに議論を尽くしなさい。「独見を執る勿れ」ですから、自分の意見です。独善的な意見。それにこだわらないで、突出しないで、他人の意見にも良く耳を傾けて、そして議論をしなさい。そして文章を練るということになると思います。
一 在席勿怠惰放肆(席に在りて怠惰放肆する勿れ)
 俗な言葉で申しあげれば、さぼるな、一所懸命やれ、さぼってはいけない。そういうことです。その職務についている間は、全力を尽くして仕事をしなさい、ということです。
この館にして、神武天皇より後小松帝までの本紀、ならびに公武諸臣の列伝を、史漢の体に撰ばせたまふ。其中に神功皇后を后妃伝に、大友皇子を帝紀に載せ、三種神器の吉野よりかへりたるまでを南朝を正統として玉ふなん、西山公の御決断なりけらし。館の諸儒たちさまざま議論ありて、御顔ばせを犯したる輩も有しかども、これ計は某に許してよ、当時後世われを罪する事をしるといへども、大義のかヽるところいかんともしがたしとて、他の議論を用ひたまはず。此館の蔵書には、瓢の形の中に彰考館といふ字をえりたる印を押たり。
 ご承知の如く、『大日本史』では神武天皇から丁度百代目の後小松天皇までの本紀を編纂されたわけであります。それと列伝、志表、そういう分野を司馬遷の『史記』に倣いまして編纂をされたわけであります。そして、大変著名なことですが、『大日本史』の三大特筆を述べております。先ず、神功皇后を天皇に準ずるものとして考えておられる。それを后妃伝に皇后として定められた。大友皇子、後に明治になってから弘文天皇と諡をされました。その大友皇子の即位を認めて、そして天智天皇の後に、天皇大友として、本紀に掲げたわけであります。それが、実は明治になりましてから、弘文天皇と諡されたわけです。それが二つ目。そして三つ目が吉野正統論です。その根拠になりましたのが、三種の神器を吉野側が、吉野朝廷側の方で、お待ちなので、そこを正統とする、という見解をだされたわけであります。これが三大特筆でございますが、このことは、西山公の御決断、義公自らの御決断であるようだ、「けらし」というのは・けるらし・のことだと思うのですけれども、推測したことの表記の仕方であります。単なる椎測ではなくて、ある何かの根拠があって、推測する場合にこの・けるらし・という言葉を使うわけですが、それが詰まった言い方であります。館の諸儒達は「御顔ばせ」、義公の顔色を窺うということであります。「犯す」でありますから、どうも義公はそのように仰るけれども、私はそうではないのではないかな、というように、館員の中には義公とは違う意見があったという証拠でもあるわけです。色々と義公の顔色を窺って、疑問に思う、そういう者もいたけれども、これは大義のかかる所だから、『大日本史』の中で最も重要な筒所だから、色々議論はあろうけれども、これは、義公が、私が裁断するからそれを許して欲しい、そういうことであります。後世、「われ」というのは義公のことです。私を罪するということがあっても、こればかりは、大義から見てそうだと私が判断するのだから、他の意見は採用しない。これで行くのだ、ということを義公が、述べられて判断をされた、ということを書かれているわけです。そして、有名な瓢箪の形の彰考館という印でありますが、彰考館の蔵書印として、良く知られているものであります。それを押された。
 そのようなことで、短い文章ですけれども、「史館警」という五つの規則を掲げていることで、良く知られている文章であります。以上でこの文章は終りです。
 次の文章ですが、これには難解な筒所が沢山ございます。「彰考別館の記」と申します。これも巻五に収められています。先程の「彰考館」という文章と同じ巻五に収められておりますが、彰考館と申しますと、ご存じの通り『大日本史』を編纂する編纂所でありますが、それとは別に別館というのを設けていたわけであります。この別館が、『礼儀類典』という書物を編纂するために設けられた編纂所であります。その記録といいますか、それに関する文章で、これは非常に価値の高い文章であります。藤原為章とあります。ここは署名があるのですけれども、それは全く別に書かれた文章だからだと思います。その文章をこの『年山紀聞』に載録する時に、一つの文章の形が出来ておりましたから、そのまま署名もここに書かれているのだろうと思います。藤原と申しますのは、元々安藤家は藤原氏の出でありますから、藤原という氏がここに書かれているわけです。藤原魚名から出ていると伝えられています。それでここは藤原為章であります。
    彰考別館の記                藤原為章
あが君封域のまつりごとに御心をもちひ給ひて、仁刑あやまちたまはねば、士にむらいなるふるまひなく、民によこしまなるうたへを聞ずして、おのずから筑波山の風も枝をならさず、那珂の湊浪しづかなるまヽの御いとまに、武備文事ふるきあとをしたひおこさせ玉ふなかに、本朝の史伝くはしからずして、古人の履歴かくれうづもれぬるをうれはしみたまひて、武州小石川の藩邸に彰考館といふをたて、、四方の儒生をめしあつめ、神武よりはじめ後小松院にいたるまで、本紀列伝をえらびたまふが、なほもヽしきやふるき大宮の公事ども、年々にすたりもてゆくをほいなうおぼして、かのキョウ(食へんに氣の文字)羊にもたぐひねかしとて、旧記のうち、四方拝より追儺にいたるまでの恒例と、御践祚より国忌薨奏の臨時を類聚せさせたまふ。そのところを彰考別館となづけて水戸城内にかまへられたり。総裁には前右兵衛尉、藤原為実をまねかせ玉ひて、貞享丙寅の秋より編集をはじめらる。(割註:書目あれども略してのせず。)参館のともがら総裁一人、考勘十五人、書写二十八人、校合十人、出納四人、検察三人、隔日に辰の半漏にまゐりて未の半刻にしりぞく。たヾし書体を仙洞へ奏覧し、かつは群卿批評をうけたまはんために、四方拝、御薬、朝賀、三節会、朝キン(菫へんに見の文字)行幸、二宮大饗などを類聚して、今出川の内府(公規公)にたのみきこえさせたまふ。
君侯もとより武林に生れさせ給へば、有識の道にはうとうとしく、なでふ事あらんと、晋紳のともがらおもひけち玉ふめるに、凡例にかヽせたまふごとく、いさヽかも御私の才学をまじへられず。たヾ旧記のまヽにまかせて、公事一会を首尾とヽのひて採摘し、部類たがふことなく編集せられたれば、みな感賞してのたまはく、あはれ朝廷さかりなる世なりせば、勅撰の書ならましを、いつしか公武地をかへて、かうやうのくはだてを、あづまの奥にておもひたちたまふことよなど、そヾろに涙もよふすかたがたもおはしけるとぞ。仙洞叡感浅からずして、礼儀類典と題号をたまはり、かつ書目にもれたる撰集秘記、新儀式、後伏見院御記、深心院関白記、後深心院関白記など借し下され、また官庫に見えざる記録を召し借らせ給ふ。おほよそかくのごとき秘書珍記を、この一館にあつめさせ玉ふは、かの史伝のおぼしたちより事おこりて、京師田舎にたよりをもとめ、名山霊区のおくまであまねくさぐり尋ねて、こヽらの年をへてこそ、むなぎにみち、牛もあせするばかりになんなり侍りぬ。為章むかし都のうちにそだち侍りたれど、かうやうにあまたの旧記を見聞ことは侍らざりしを、今は日ごとにふるき代々の事どもを、まのあたりのやうに熟覧し侍る。幸のいたりも身におはずぞおぼえ侍る。いにしへの人はよろこぶことあれば、かならずしるすとかいふ事をおもひいでヽ、いさヽかこれをかきつく。
 「あが君」これは義公のことであります。「封域のまつりごとに御心をもちひ給ひて、」水戸藩の領域の政に色々とお心をくだきになりまして、「仁刑あやまちたまはねばご刑罰をする、政治の中で、過ちをされない。「士にむらいなるふるまひなく、」むらい、というのは、無礼なるもの、そういう意味です。「民によこしまなるうたへを聞ずして、」政治が上手く行われて、良く心をくだかれて、政治をしておられましたので、武士の間にも無礼なる振る舞いも無く、そしてまた民の間にも、邪悪なる訴え、私利私欲に走った訴えなども聞くことがございません、ということです。「おのずから筑波山の風も枝をならさず、那珂の湊浪しづかなるまヽの御いとまに、」これは、筑波山と那珂の湊の波を用いて、政治が上手く行くということの形容であります。枝を鳴らさないというのですから、非常に穏やかに、ということであります。浪しづかなる、というのも同じことであります。そういう政治の中に、「武備文事ふるきあとをしたひおこさせ玉ふなかに、」義公はお若い時から、政治は勿論のことながら、文事、文化的なことも大事にされております。そういう中で、「本朝の史伝くはしからずして、古人の履歴かくれうづもれぬるをうれはしみたまひて、」日本の国の歴史というのは、どうもあまり詳しくはないのではないか、そして、古人の履歴が埋もれてしまって、そういうことは非常に悲しいことだ、とお思いになられて、「武州小石川の藩邸に彰考館といふをたて」、ご藩邸に彰考館を建てられた。これが先程申しました明暦三年のことであります。「四方の儒生をめしあつめ、」多くの儒学者、儒学が基本ですから、儒学を勉強した人々を多く集められた。「神武よりはじめ後小松院にいたるまで、本紀列伝をえらびたまふが、なほもヽしきやふるき大宮の公事ども、」王朝時代の公事ですが、年々、古代より行われておった、そういうしきたり等も含めて、「年々にすたりもてゆくをほいなうおぼして、」年毎に廃れていくということを、「ほいなう」と言いますのは、残念に思う、という意味でございます。「本意無し」という言葉から想像して頂ければ宜しいと思います。「かのキョウ(食へんに氣の文字)羊にもたぐひねかしとてごこれはかなり難解な文章なのですが、この「キョウ(食へんに氣の文字)羊」という言葉は論語の中に出ております。告朔のキョウ(食へんに氣の文字)羊、を意味するものだろうと、一般的には解釈されておりますが、朔というのは、一日ということで、毎月、月の初めに、御先祖様のご廟に、羊を生賛として捧げる、そしてその月の暦を受ける儀式を言うのでありますが、この天子様が暦を管轄されますので、そのような告朔の儀式を、段々すたれても、羊を供する、羊を捧げるということさえ存すれば、全体の儀礼は少し変わっても、朝廷の儀式が滅びることはないのではなかろうか、そういう意味をこめているのであります。暦そのものを考える場合に、そのような行事があって、羊を生贄として棒げる。そして天子から暦が頒布される。そういう事の形容であります。『論語』の八伶篇というところに出ておりますので、ご関心の有る方はご覧いただきたいと思います。「旧記のうち、四方拝より追儺にいたるまでの恒例と、御践祚より国忌薨奏の臨時を類聚せさせたまふ。」四方拝と申しますのは、正月の行事、一日の行事でございますが元日に陛下が四方の天神地祇に、その平安をお祈りする儀式であります。そして追儺は十二月三十一日の行事、大晦日の行事でありますが、日常の行事があって、それは恒例の行事である。そういうことをこの「礼儀類典」という書物は、編集しているわけであります。その恒例の行事が、実は一四三項目あると言われています。それが恒例の行事であります。それから今度は臨時の行事があるわけですが、これが全部で九一項目でありまして、これは『礼儀類典』の中にそういう項目があるわけです。陛下がお亡くなりになられ御践祚されると「国忌薨奏の臨時」。臨時の行事ということになります。その臨時の行事が合計で九一項目あるわけです。合計致しまして、二三四項目の膨大な項目を、この『礼儀類典』という書物は収めているわけです。その『礼儀類典』という書物を編集する場所、それを彰考別館と言ったのであります。「そのところを彰考別館となづけて氷戸城内にかまへられたり。」水戸の城内にそういう編集所を設けられたのであります。その最高責任者には、「総裁には前右兵衛尉、藤原為実をまねかせ玉ひて、」為実は為章のお兄さんです。京都から招きまして、「貞享丙寅」これは貞享三年のことであります。この安藤為実、為章兄弟が招かれたのは、この『礼儀類典』を編纂する、或いは『釈万葉集』、そういうものの編纂の為に、招かれたのでありますけれども、それは貞享三年の秋から編纂を始められたのであります。従ってその前の年、大体貞享二年から三年にかけて、この安藤兄弟が水戸に招かれるのであります。その招かれることになった経緯については、色々と言われておるのですが、佐々宗淳、助さんでありますが、その助さんが仲介して、水戸家に仕えることになったのであります。その安藤兄弟が、水戸に仕える前から、『礼儀類典』というのは、その書物の名前は後から付けられるのでありますが、その前から編纂は始められていたのであります。この年山、抱琴、兄弟が水戸に招かれてから彰考別館が設けられて、本格的に編纂が進められるわけであります。その後に(割註)がございまして、この間に、その編墓の為に使われた書物の名前がずらっと書かれているのであります。この文章には、そこが省略されておりますが、「(割註)書目あれども略してのせず。」それで、元々の『彰考別館の記』には、ここにずっと書物の名前があるのであります。ただこの割註は、木版本にそうあるだけで、書名は載っていないのであります。これは書物の名前ですから、出版するに当たって、少し煩わしいということもあったのだろうと思います。『礼儀類典』を考える為にはどういう書物が引用されたか、ということは、史学的には重要であります。書目は、先程申しましたが、『千年山集』の第四巻に『彰考別館の記』が収められています。その文章には書目が全部載せられておりまして、これを全部数えますと二三一部の書物が書かれております。それは大体日記類でありますけれども、行事を編集、編纂するのですから、日記を参考にされたわけであります。『小右記』とか、『台記』とか、そういう日記でありますけれども、主として平安朝の日記であります。それが二三一部ございます。ここには載せてありません。人員の構成が次に出てまいります。これも重要なことでありまして、この構成も他の史料ではなかなか判らないのでありますが、唯一この『彰考別館の記』によってそれが判ります。「参館のともがら総裁一人、考勘十五人、書写二十八人、校合十人、出納四人、検察三人、」それぞれの仕事の中身は厳密には分かりませんけれども、大体その文字から類推していただければ宜しいかと思います。総裁一人というのは藤原為実、年山の兄でございます。これらの人員を全部併せると、六十一名になるかと思います。おそらく、これに為実も含まれているかと思います。弟の年山も含まれております。年山がどれにあたるのかは分かりませんが、含まれていると思います。いつもこんなに沢山の人員が配置されていたかどうかは分かりませんが、最も盛んな時期の人員かと思います。編集の始まった貞享三年の秋、その時の人員が大体この位であったということだろうと思います。段々完了してくれば当然人員が減ってくるというのは、彰考館の場合も同じであります。余分なことなのですけれども、ご参考までに彰考館と比較をしてみます。彰考館は一体どの位の人員がいたのかと申しますと、これは本会の名越会長の調査・研究にございまして、私もそれを参考にさせていただくのでありますけれども、それによりますと、一番多かったのが、五十九名で、元禄十四年のことであります。あと前後段々少なくなったりしております。編纂にも盛んな時と、盛んでない時とあったわけですけれども、五十九名が一番多いときの人員だと言われておりますので、若干多いですけれども、それと匹敵する。そのような人員を、彰考別館という編纂所が持ったということは、少なくとも、『大日本史』を中心に考えるべきでありますけれども、それと引けを取らない。若しくはそれを一時的ではあれ、上回る人員を持っていたということは、この『礼儀類典』が、いかに義公が重要視されていたかということの現れでもあるのです。更に、もう一つ付け加えますと、今編纂所の人員を申し上げたのですけれども、巻数、全体の分量ですが、これも一巻二巻と数えて、その一巻の分量は書によって異なるのでありますが、その巻数を、参考までにということになりますが、『大日本史』は目録を入れて四百二巻といわれております。膨大なものであります。『年山紀聞』に、『礼儀類典』の序文が収められております。それによりますと、全部入れますと、付図というので図もあるのですが、それも入れまして、五百十九巻、これも後で修正などもありますので、苦干変わるのかも分かりませんが、序文によれば五百十五巻とありますので、こちらの面でも数字的には上回っておるわけでありますから、こういう所からも、義公が『礼儀類典』をいかに重んぜられたかということが判ると思います。ただ『礼儀類典』という書物自体は、編纂をしたものでありますが、いわば諸書からの書き抜きが主体でありますから『大日本史』と根本的に編纂態度が違いますので、一概に数だけをもって比較しても意味が無いと言えば無いのですけれども、あくまでも参考に過ぎません。それで今合計六十一名の館員達が、「隔日に辰の半漏にまゐりて未の半刻にしりぞく。」一日おきにですが、これも、時間的には先程の「史館警」の第一条目に出てきたことと同じになります。八時か九時頃に来て、二時か三時頃には退くということでありますから、実勤務時間は五~六時間位にしかならないと思います。「たヾし書体を仙洞へ奏覧し、かつは群卿批評をうけたまはんために、」編纂をして、それを京都の方にお届けして、或いは極力公家の方に見て頂くということですが、批評をお受けになる。「四方拝、御薬、朝賀、二節会、朝覲行幸、二宮大饗」これらは全部その『礼儀類典』の中に収められたその項目であります。先程の項目の所でみますと、恒例の項目、その百四十三項目の中の一つ一つです。御薬というのは、薬を奉ること、天子様に奉る時の儀式であります。朝賀の儀式は、諸臣が朝廷に参集して天子に拝謁する、という行事です。それから三節会と申しますのは、一日・七日・十六日に南殿にお出でになって行われる儀式のことであります。朝覲、これも拝謁のことであります。二宮大饗は、もてなしをすることです。そういう行事が沢山あったわけであります。そういうことに関する書物を抜き書きして集めて書物を作られて、朝廷の御参考に供するということであったわけであります。そして一部編集をしまして、「今出川の内府(公規公)にたのみきこえさせたまふ。」この今出川公規というお公家さんにご依頼をして天覧に供する、ということであります。「君侯もとより武林に生れさせ給へばご君侯というのは義公のことであります。武家にお生まれになったということです。「有職の道にはうとうとしく」というのは、義公は武士としてお生まれになったのでありますから、有職の道、則ち朝廷の儀式等を極める学問、これが有職の学問です。有職の道にはあまりお詳しくない。「うとうとしく」詳しくないということですが、「なでふ事かあらん」というのは、なにはどの事があろうか、そういうような意味でしょうか。そのように誰が思ったかと申しますと、「(てへんに晉の文字)紳のともがらおもひけち玉ふめるに」なのです。義公が『礼儀類典』という書物を編纂をされるということで、そしてお公家さん達にも、ご相談をして、見て頂いたりするわけですが、徳川光圀という人は武士に生まれたのだから、それほど有職の道にも詳しいはずはない。だから、何程の事があろうか。あまり素晴らしいものが出来るはずがないではないか、というような感じです。(てへんに晉の文字)紳、というのはこのお公家さん、身分の高いお公家さんの一般的な言い方でありますが、そのお公家さん達は、お思いになっている、ということです。ある意味では、この言葉は、当時の幕府と朝廷との関係、水戸藩もそうですが、幕府、要するに武門と、お公家さんの朝廷との関係を暗示している文章だと思います。朝廷のお公家さんから見れば、武士を少し軽んじた言い方、それをここから伺うことができるのではなかろうかと思います。「凡例にかヽせたまふごとく、いさヽかも御私の才学をまじへられず。」『礼儀類典』の凡例でありますが、それに書かれております如く、少しも私の学問、つまり私の見解でもって、取り人れて編集したのではありません。「たヾ旧記のまヽにまかせて」古い日記や、有職に関する書物の中から書き抜いて、編集しただけであります。「公事一会を首尾とヽのひて採摘し、」儀式に関する記録を書き抜いてそれを首尾整えて一つのまとまった書物としたのであります。「部類たがふことなく編集せられたれば、」先程申しましたように、恒例のものと、臨時のものと、それぞれを部類毎に、項目ごとに編集をされたわけです。「みな感賞してのたまはく、」ところが、実際に出来たものを、ご覧になりますと、非常にびっくりされたわけです。「あはれ朝廷さかりなる世なりせば、勅撰の書ならましを、いつしか公武地をかへて、かうやうのくはだてを、あづまの奥にておもひたちたまふことよなど、」最初は、「なでふ事あらんと」と思っていたのが、実際に出来たものを見てみると、非常に素晴らしいものができた。朝廷が非常にお盛んなる時代であれば、この書物は勅撰の書物になるであろう。ところが、いつしか公武所を変えて、武は盛んになり、朝廷の方は衰える。このような企てを、朝廷の方ではできない。お公家さん達は出来なくて、東の奥、特に常陸の国の北の方におります水戸の義公が、そういうことを企画せられたことに非常に感心せられたわけであります。「そヾろに涙もよふすかたがたもおはしけるとぞ。」自然に、あまりにも感激して、非常に有り難い、涙が出てきてしまう。そういう方々もお公家さんの中にはいらっしやったことだ、というふうに聞き及んでいたというわけであります。「仙洞叡感浅からずして、」仙洞というのは霊元上皇であります。霊元上皇の思し召しも非常に深く「礼儀類典と題号をたまはり、」『礼儀類典』という題号をお付け頂いた。そのようなわけで、『礼儀類典』というのは霊元上皇から頂いた名称である。それまでは『礼儀類典』という名称はなかったわけであります。それから、このことははっきりとは判らないのですが、先程全部で五百十五巻と申しましたが、この五百十五巻というのは、序文にありまして、宝永七年に献上されたわけであります。西暦で申しますと一七一○年になりますので、七代将軍の頃でありましょうか。その後、有名な八代将軍吉宗が出てきますのが、一七一六年、享保元年ですので、この年に年山は亡くなるのですが、その少し前です。その頃には題号を賜っていたわけです。「かつ書目にもれたる撰集秘記、新儀式、後伏見院御記、深心院関白記、後深心院関白記など借し下され、」先程二三一部の書目があるということを中し上げましたが、それに漏れているもの、ここにある六部の書物は全部、この二三一部の中には入っていないのです。ですから全く別のものを朝廷の方から御下賜されたということであります。「また官庫に見えざる記録を召し借らせ給ふ。おほよそかくのごとき秘書珍記を、この一館にあつめさせ玉ふは、」この一館というのは、彰考別館でありますが、「かの史伝のおぼしたちより事おこりて京師田舎にたよりをもとめ、名山霊区のおくまでをあまねくさぐり尋ねて、」かの史伝、則ち『大日本史』を編墓しようとお思いになって、計画をされで以来、京都や地方、それから神社仏閣、遍く種々探り訪ねて、「こヽらの年をへてこそ、むなぎにみち、牛もあせするばかりになんなり侍りぬ。」ずっと集めて来られましたので、汗牛充棟という言葉がございますが、その和風の言い方であります。非常に蔵書が多くなったことの例えであることは、申すまでもありません。非常に沢山の書物を集められたのであります。「為章むかし都のうちにそだち侍りたれど、」安藤年山は、都で育った。亀岡という所ですが、京都市の郊外になります。そのことを指しております。「かうやうにあまたの旧記を見聞ことは侍らざりしを、」京都の家に育ちましたけれども、そのように沢山の古い書物を見たり聞いたりすることはございませんでした。「今は日ごとにふるき代々の事どもを、まのあたりのやうに熟覧し侍る。」今は目の当たりにその古い書物を見ることが出来る。「幸のいたりも身におはずぞおぼえ侍る。」非常に幸せだということを忘れてしまうほどだ、ということです。「いにしへの人はよろこぶことあれば、かならずしるすとかいふ事をおもひいでヽ、いさヽかこれをかきつく。」昔の人は嬉しい事があれば、これを文書に書いて残す、そういうことがあるので、私もそれに倣って、若干ですけれども、これを書いて記しておくのであります。こういう文章であります。
 以上三つ簡単に申し上げましたが、特に最後の「彰考別館の記」は、史料的にも非常に価値の高い文章であることが分かると思います。年山の文章の中でも、「西山」と並んで、この「彰考別館の記」は白眉中の白眉といっても良い、そういう文章、名文であると思いますけれども、更に加えてこの「別館の記」の方は、「礼儀類典」を編纂しました別館の状況を知るのに、非常に重要な史料としての価値を持つ文章であると思います。ただ、先程も申しましたように、この三つの文章はいつ頃書かれたかということは、残念ながら難しいのですが、最後の「彰考別館の記」について申し上げれば、年山が亡くなる前であることは当然ですが、享保元年より前のことです。「西山」という文章は、義公がお亡くなりになられてからの事です。それも元禄十六年の火災の後ということになりますが、この「彰考別館の記」も、限定する材料が少しはあるのですが、なかなか難しいのです。その一つの例としては、考える参考は、 『礼儀類典』の題名を賜ったということがありますので、霊元上皇から、『礼儀類典』という題名を頂いた後の文章であることは間違いない、ということになります。この『礼儀類典』という題名を頂いたのはいつなのか、ということは残念ながら私には明らかにすることが出来ませんけれども、それよりも後です。少なくとも、宝永七年には献上されておりますから、それまでにはそういう名前を下賜されたことは明らかです。仮に宝永七年としますと、比較的晩年、年山が五十代以後の文章であろうと推定することは可能だと思います。
 そのようなわけで、本日はこの三つの文章を皆様と共に味わってきたのでありますけれども、『年山紀聞』の中にはこれ以外にも、年山が実際に書かれた文章が収められておりますし、また、お兄さんの抱琴、先程の為実という方でございますが、それから父の朴翁、そういう方々の文章も収められております。勿論それ以外の方も沢山あるのですが、この安藤父子、父と兄と年山と、三人の文章を、『年山紀聞』の中から、選びだしてお読み頂けば、水戸の名文として、特にこれは和文の方でありますが、味わって頂くことが出来るだろうと思います。
 最後に、若干、年山という人物にふれておこうと思います。年山は享保九年に亡くなっています。五十八才で亡くなって、残念ながら後継ぎが居りませんでした。正式な結婚はされなかったようであります。
 まずは仏門の修業に入り、お坊さんになったわけですが、それから還俗します。『水戸紀年』の貞享三年の条の中に、「為章和歌ヲ善クシ其才学兄ト伯仲ス万葉集注釈ニアツカリ京畿ニ使シ僧契沖ニ往来ス」という一文があります。これによって、兄弟は相当な学識があったことがわかります。契沖と非常に親しくて、これは義公の命によって京阪地方の史料を探索し、契沖と交流をしたからであります。非常に和歌、和文、そういう国学、国文学的な面に非常に造詣が深かった人物であります。お兄さんの為実という方も、非常にすばらしい和文を沢山残しております。そういうことでありますから、『大日本史』の編纂に始まります所の史学の隆盛、歴史学はいうまでもありませんが、一方で、このような国文学的な要素も、多分に流れている。水戸藩の初期の国文学に造詣の深い人物として、この兄弟を挙げることが出来るのではないだろうか、と思います。また、『年山紀聞』と同様に、『千年山集』という書物、これは七巻あるのですが、最後の七巻の所には、例えば、『源氏物語』の研究であるとか、それから『栄花物語』の研究であるとか、そういう日本の古典の研究にも深い造詣があり、今日でも、高く評価出来る学説を、年山は唱えております。そういう訳でありますから、水戸の学問の流れの中には、史学と併せて、一方では国文学を研究する、そういう学問の流れと申しますか、そういうものもあるのだな、ということを深く思うことが出来るのであります。そういう意味におきまして、この年山兄弟の文章を味わって項ければ宜しいかなと思う次第でございます。以上をもちまして、私の話を終了させていただきます。どうも有り難うございました。
(平成七年九月三日講座)

(清真学園高等学校教論)