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水 戸 藩 の 悲 劇

                  久 野 勝 弥


 先日行われました筑波山挙兵の百三十年の式典にもご参加頂いた方が大勢いらっしゃるということを承りました。高い席からではございますがお礼を申し上げます。有り難うございました。
 さて、本日は、前回の吉沢先生の弘化元年の甲辰の国難に続きまして水戸藩が非常に苦しい状況に追い込まれたという所をお話し申し上げたいと思います。そしてそれが実は天狗党といわれる、筑波山挙兵に繋がっていくのでありますが、話は逆になりまして、前回からすれば、その前の段階のお話しをするということになろうかと思います。
 それでは本題に入りたいと思います。前回の吉沢先生がお話しされましたのが「弘化甲辰の国難」であります。天保十五年、即ち弘化元年。水戸藩は大変な悲劇に見舞われます。実は、その前の天保三年、義公は従二位権大納言を追贈されました。烈公は大変喜ばれまして、天保六年寒水石で石灯籠と水盤をつくりまして、仙洞御所、上皇様がお住まいになっている御所の庭に寄進されます。また烈公は「八洲文藻」を献上したり、或いは会沢正志斎の「廸彜篇」を献上したり、又、地球儀を献上したりします。その地球儀の献上の文章は大変立派なもので、その地球儀が先日土浦市立博物館で公開されましたが、明治天皇が御即位の時に飾られたものです。そういうような中で、烈公が幕府から処罰されるものですから、時の天皇、仁孝天皇は大変悩まれまして、水戸の斉昭はどのような理由で処罰されたのかというようなご下問があったくらいであります。したがいまして烈公の周囲では大変な雪寃運動が展開されます。弘化元年に静の斎藤監物が建白した建白書でも百通を下りません。石塚の袴塚周蔵らが庄屋を動員しまして色々な人と共に雪寃運動を展開するのであります。その中には当時、幕府にも力のあった紀州の家老、山中筑後守に建白した建白書が二十通位あります。その後には紀州派と水戸派、南紀派と一橋派に別れて継子問題で大きく対立してしまいますが、紀州藩の力までを頼って烈公の雪寃運動をしようとしていました。それは山中筑後守の手元に留められまして一つの記録にもなっており、そのもとで働いていた長沢伴雄が一つの記録を残しております。これが『つくばねおろし』という本になっており、また同じ著者が『筑波山』という書物で水戸藩の内情をきちんと記録しております。
 弘化元年の十一月二十六日、一応烈公の謹慎が解かれます。そして外国問題が騒がしくなって参りますので、嘉永六年七月三日、烈公は海岸防御筋心得、海岸防御のための役職として勤務しなさいということで幕政に復帰をします。それで一日置きの登城ということになります。この背後には阿部正弘という老中がおりまして、こが将軍家慶に計って実現をしたことであます。その頃江戸では諸葛孔明の版画が数多く売れた。諸葛孔明を迎えに行った三顧の礼の図ですが、その刷り物が飛ぶように売れたということであります。それは諸葛孔明を斉昭公になぞらえ、阿部正弘を玄徳になぞらえ、関羽を川路左衛門尉になぞらえ、それから張飛を筒井になぞらえて、その刷り物が大変な人気であったということであります。
 そのころ二つ大きな問題が展開されました。その一つは将軍の継子問題でありました。あと一つは条約の調印の問題であります。十三代将軍家定は非常に病弱であったものですから、十四代の将軍を誰にするかということで議論がありました。その頃二人の候補が出て来ます。一人は烈公のご子息で、一橋家に養子に出た慶喜公、もう一人は南紀派といわれる紀州の慶福という人です。継嗣のことは越前の橋本左内、九州鹿児島の西郷隆盛、こういう人の入説によって、大体一橋慶喜に固まっていたのです。
 また朝廷でも勅書を下されまして、これが安政五年の三月二十二日、時の老中堀田正睦に次のような勅書が下されるのです。現在大変な時代であるから、
    急務多端之時節、養君御治定、西丸御守護(付札)[年長之人を以]政務御扶助ニ相成候ハ、御にぎやかにて御宜被思食候、今日幸之儀可申入関白殿太閤殿被命候事
というような勅書が下されるのです。実はその「御にぎやかにて」というところに次のような文字が入っていたのです。一つは年長であること。それから一つは英傑であること、もう一つは人望のあること、この三条件が入っていたのです。年長で英傑で人望のあるもの、ということが、この勅書の内容でありました。ところが、この勅書が下げ渡された頃、関白の九条尚忠、この関白がこれを全部書き換えてしまうのです。それで「にぎやかにて」という言葉に変えてしまうのです。にぎやかな人間で宜しいということになってしまった。これは紀州派の策謀でありました。紀州派が関白九条尚忠に結んでおりまして、年長、英傑、人望というその三文字を取ってしまったのです。
 この勅書は非常に重要な意味を持っておりまして、将軍の継嗣ということは、幕府の決めることであります。ですから幕府の内部ではっきり決めれば宜しいことなのです。それを朝廷の勅書によって決める、朝廷の勅書が発せられるということ自体、幕府の権威、或いは幕府の人事、そういうものに大きくつまづきが出来たというような意味を持っております。結局朝廷側が幕府に関与出来る口実を作って居た、そういうような事でこの勅書は意味が大きいのであります。
 堀田老中はどちらかと言えば紀州派でありました。しかし幕府の今の現状を考えて、この外交問題が重大な時期には、やはり人望がある人、そして年長の人で決断力のある人でないと上手く行かないだろうとということで、段々一橋慶喜公に心を寄せていった人なのです。その堀田がこの勅書を貰う時に、本当はこの賑やかというのはどのようなことなのですか、ということを質問致します。それで賑やかということは本当は年長ということなのだという返事でしたので、堀田はそれではそこの所に付け札を付けて下さいと言うことを願い出ます。この付け札を付けたのはどうやら関白鷹司政通のようです。この「年長之人を以」という付け札というのは実は勅書の下の所に切り紙で貼ってあるのですが、その貼ってあるのはこれは口頭で伝えられたことなのです。それを『水戸藩史料』では忠実に再現しておりますが、これは恐らく一行目の下についていたのだと思います。ですから、「政務御扶助ニ」の所に入ってしまったのでしょうが、本来は「御にぎやかにて」の所に入らなければいけないのです。そしてその「御にぎやか」は年長、英傑、人望ということで、それは一橋慶喜を指す言葉だったのです。それを書き換えたことによって、先ず紀州派は第一段階は切り崩しに成功したということになります。
 そしてさらにそのころ紀州派に肩入れをしていたのは誰かというと、彦根の井伊直弼であります。井伊直弼は安政五年の四月二十二日夜、松平忠固老中の訪問を受けます。この二十二日というのは、次の日は井伊家の結婚式だったのです。その結婚式というのはどのようなものだったかというと、直弼の娘に千代姫というお姫様がいました。その千代姫が、水戸の分家で義公の兄頼重から始まる高松の松平家に、頼胤という人がいます。その息子の頼聰と二十三日に結婚することになっていたのです。松平忠固が訪問したのは二十二日なのですが、大老に御就任を願わしく存じます。何とかこの際は井伊様が大老になって貰わなければ困ります。というので、二十三日の婚姻の儀式から全部キャンセルしまして江戸城に登城します。井伊は安政五年の四月二十三日に大老に就任いたします。そして水戸をチクリチクリと苛めにかかるのが、この松平頼胤と親戚関係になっておりました井伊直弼なのです。
 大老になりますと、間髪を入れず五月一日には、紀州の慶福を将軍の継嗣と決めてしまいます。そして表面は内々にしておけよと言いながらはっきり決めてしまいます。さらに六月になりますと、これも、日米修好通商条約に調印してしまうのです。これは六月十九日でありました。この時の調印は烈公はご存じありませんでした。知らずに二十一日の日付けで、井伊大老に忠告をしておられます。これらの史料は『水戸藩史料』に入っております。六月二十一日に井伊直弼に烈公が出された手紙はどのようなものだったかといいますと、
    弥条約御取極之儀にも有之候ハバ是非大老老中之内速ニ上京叡慮御伺ニ相成り候様にと存じ奉り候
条約に調印するということならば、誰か老中か大老か速やかに京都に赴いて、天皇の思召を聞かれるようになされた方が宜しいかと思います。
    扨て又条約中、五畿内近く入れざる様ミニストル(外交官)指置、直に交易致さざる様開き候湊之外限り無く遊歩致さざる様、切支丹寺建立致さざる様、此の儀は後患眼前に候ヘバ、御断ニ相成り、其の他御據無きは御済され御座候様致したく、これにて承知致さず候ハバ、十五年とか二十年とか、人心居合い候迄、御延ばし之義、夷狄へも御諭し、京師へも御申し上げニ相成り、御聞き済候上御取り極めニ相成り候様仕たく奉存じ候
ということは、開いた港が五港ありますが、その他には制限無く外国人が歩き回らないように、それから教会を作るというようなことが無いように、これは後に問題になってきますから御断りになるように、彼らが承知しない時には、十五年とか二十年とかの時間をかけて、日本の人々の意見が合致するまでは延ばされるように、それは彼ら外国へも話をして了解をして貰い、また京都へも申し上げて、御聞き済みの上取決められたほうが良いと思います。このようなことをわざわざ井伊大老に手紙で送っておられるのであります。ところがその前々日十九日にはもう取決めてしまいます。 したがいまして、烈公としては黙っておられません。二十三日になって判りましたものですから、六月二十四日に例の不時登城を実行します。突然江戸城に入りまして大老井伊に面会したいと言われました。そう言われましたのは尾張の慶勝、水戸の烈公、藩主慶篤、一橋慶喜、越前の松平慶永という人々が不時登城しまして、「井伊に面会したい、条約調印とは一体どういうことなのだ、理由を聞くまでは帰れない。」ということで談判をいたします。ところが、十一時頃江戸城へ入るのですが、昼食も出さないで待たされまして、一時頃になりまして漸く井伊が出てまいります。「松平慶永が来ているからここに一緒に参るように」「いや、江戸の城の中にあってはそれぞれの殿様の控え場所が決まっておりますから一緒にする訳には参りません。御三家というのは聞いたことがあるけれども、御四家というのは聞いたことがありません。」と烈公も井伊にあしらわれてしまわれます。これが不時登城と言いまして、大きな問題になります。
 一方朝廷の方でも七月四日になりまして勅命を下されました。三家か大老か上京して、条約を調印したその内容を説明するようにという内容なのです。そのことを井伊は無視しまして、自分は病気だから行けない、間部詮勝を代理に出します。七月四日に勅命が下って、これは容易ならざることだというので、翌日の七月五日、水戸烈公以下を処罰してしまうのです。ところが朝廷の方の思召しは非常に水戸に信頼が厚いのです。ですが、藤田東湖、戸田忠敞が亡くなった後には、直接働ける人材はあったのですが、この二人のような方はおられない。ところが井伊の後ろには長野主膳という切れ者がおりまして、この長野主膳が京都に入説しまして、公卿らに働きかけをしております。徳富蘇峰の『近世日本国民史』には井伊は長野の傀儡だと、操られているとまで言っております。どちらかと言えば、井伊よりも長野主膳の方が上である。それに上手いこと操られているのが井伊だとまで言っています。そしてご承知のように、井伊は家柄も譜代の中で溜の間詰め、これは大変な権力なのです。溜の間の次は大廊下ですが、この溜の間詰めには、会津の松平、忍の松平、小浜の松平、姫路の酒井、それから井伊、関ヶ原以前から、あるいは家康以前からの家来筋、これが溜の間詰めです。
 思いますに、やはり幕府の組織というものは、官僚機構なのです。封建制度ではありましたけれども、官僚組織なのです。ですから官僚指導型なのです。どうしても、溜の間等の役人にはかなわないのです。これは明治維新でも体制は大きく変わりましたが政治の仕組みは変わっていないと思います。稟議をするとか、合議をするということとか、月番制で廻すとか、そういうようなシステム、あるいは相互監視体制、AがBを監視し、BがAを監視するというようなシステムは官僚組織です。これは明治政府にも受け継がれています。そして現在にまできていると思います。先程の付け札のようなものも、例えば起案をしますと、起案者の所で、今はハンコですが、昔は付け札と言いまして、ここはこのように直せ、ということで廻しまして稟議をします。そして、誰が最終の責任者であるか判らないような形にしてしまうというようなことは、現在も江戸時代も同じであります。そのような官僚組織の頂点に溜の間詰めの井伊が乗っていたと言うことです。井伊という人は幕府政治にとっては大変な功労者でありまして幕府第一主義です。そういう点では井伊直弼という人の心情というものは、幕府を中心に考えるのであれば理解できないことはない。したがいまして、幕府に対して禍の及ぶものは、徹底的に排除するという基本的な考え方は終始一貫変わらなかったのです。
 それが水戸藩には大きな悲劇をもたらすことになるわけです。朝廷は水戸に対して大変な同情を寄せるのであります。義公以来、朝廷に対して忠誠を誓いましたから、そういう点で、藤田東湖亡き後の水戸も、朝廷に対して忠誠を尽くしてくれるのだ、頑張ってくれるのだ、と思し召されたに相違ありません。それで安政五年の八月八日「戊午の密勅」が下ることになります。その「戊午の密勅」というのはどのような内容であったかといいますと
    先般墨夷仮条約余儀無き次第にて、神奈川に於いて調印、使節へ渡され候儀、猶又委細間部下総守上京言上に及ばせらるるの趣に候へ共、先達て勅答諸大名衆議聞しめされ度仰せ出され候詮もこれ無く、誠に皇国重大の儀、調印の後言上、大樹公叡慮御伺の御趣意も相立たず、尤も勅答の御次第に相背き軽卒の取計、大樹公賢明の處、有司の心得如何と御不審思召され候。右様の次第にては、蛮夷狄の儀、暫く差置方、今御国内の治乱如何と更に深く叡慮を悩まされ候。何卒公武御実情を盡され、御合体永久安全の様にと、偏に思召され候。三家或は大老上京仰せ出れ候處、水戸尾張両家慎み中の趣聞食され、且又其の余宗室の向にも同様御沙汰の由も聞しめされ及ばされ候。右は何等の罪状に候哉。計られ難き候へ共、柳営羽翼の面々、当今外夷追々入津容易ならざるの時節、既に人心の帰向にも相拘るべく傍ら宸衷を悩まされ候。兼て三家以下諸大名の衆議聞しめされ度仰せ出され候はば、全く永世安全公武御合体にて、叡慮安ぜられ候様思召され候儀、外虜計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟を悩まされ候。彼是国家の大事に候間、大老閣老其の他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定これ有り、誠忠の心を以て、得と相正し、国内治平、公武御合体、弥御長久の様、徳川御家を扶助これ有り、内を整、外夷の侮を受けざる様にと思召れ候。早々商議致すべく勅諚之事。
 これは何故仮条約をしたのか、間部が上京して言上したが、はっきりした内容ではないので、もう少しはっきり説明するようにということです。そして七月四日に三家か大老が上京して説明するようにと申したのに、水戸と尾張は謹慎中であって来られないということであるが、それは一体どのようなことで罰せられたのか、計り難いところもある。何とか攘夷の実を上げるように幕府全体で三家三卿と、あるいは諸大名と力を合わせて努力するようにと述べ、それで井伊のやっていることは若干問題があるのではないのか、というような意味の事が書いてあります。さらにこの密勅には副書がありまして、「この書を諸藩に廻達せよ」という内容のものが付いているのです。これは省略をしましたけれども、「戊午の密勅」というのは「攘夷を実行しなさい」ということと、それを「諸藩に廻達しなさい」ということです。攘夷の実行は幕府が責任を持って行うことでありましょう。それからそれを諸藩に廻達するということで大きな問題になってくるわけです。幕府はそういうことをされては困る、それでこれを阻止しようとします。
 そこで水戸藩では「戊午の密勅」の扱いについて意見の対立が出てくるわけであります。すなわち、「幕府から返還を命ぜられたのだから、幕府に返したほうがいいだろう」「いや、これは諸藩に廻達すべきである。これを実行すべきである。」「いや、そうではない。これは朝廷から下されたのであるから、朝廷にお返しすべきだ。」というように、意見が色々わかれるのです。実は、この「戊午の密勅」の写しは諸藩に渡されているのです。幕府もそれは見ているのです。見ているのですが、水戸藩に与えられたのは、その勅諚をそのまま持って、諸藩を廻りなさい、そしてそこの所で、攘夷の実行を醸成するようなことにしなさい、ということなのです。ですからこれは大変なことです。幕府にとっては幕府の存在が無くなるくらい重大な問題です。この「戊午の密勅」が水戸藩には大きな重荷になったといいますか、或いは藩内を混乱せしめた原因になっていくのです。これは水戸藩にとっては大変名誉なことであつたのです。実はその頃京都では「勅旨幕府」と言わずに「勅旨水戸」という言葉がはやります。天皇の思し召しは直接水戸にあつた。「勅旨水戸」という言葉が公卿の間ではやったのです。そのくらい水戸は信頼されていたのです。そして密勅の廻達を主張するのが、所謂激派と呼ばれます。朝廷にお返しする、或いは場合によっては幕府に戻してもいい、という意見の者を鎮派と呼ぶようになります。会沢正志斎は朝廷から下されたのだから朝廷にお返しすべきだという意見であったようです。会沢正志斎もこの時代になると鎮派の方に入らざるを得なかったということです。それで、この八月八日に「戊午の密勅」が下される時に一番心配したのは誰かというと西郷隆盛なのです。西郷隆盛は当時水戸に関係を持っていた日下部伊三次と連絡をとって高橋多一郎らに意見を聞きまして、水戸は攘夷の勅書が下されたと言うときに対応ができるかということを調べるのです。その時に高橋、日下部らは、「五分五分だ」という返事をするのです。それで「五分五分ではまずい、密勅を出すのを止そう」と考え急ぎ京都に入るのです。ところが、西郷が京都に入ってそれを阻止しようとした時には、もう密勅が下されていたのです。ですからこれも中々難しい問題を含んでいます。密勅の降下に際しましては、これを鵜飼幸吉が水戸にもたらしたということは、有名なことであります。その時に不動明王の掛け軸の中に巻き込んで持って来たのだというように聞いております。普通連絡には京都の大黒屋という飛脚屋に依頼するのだそうです。これは水戸の常飛脚だったのだそうです。ところがその大黒屋は長野主膳に完全に抱き込まれていて、大黒屋を使っていたら、この「戊午の密勅」はすぐに井伊の方に行ったのではないかと言われています。それで鵜飼幸吉がその蔵屋敷の小瀬伝右衛門という小役人に化けて、密勅を持って来たと言われております。それが水戸の屋敷に届けられまして、そしてこの密勅を開封致します。高橋多一郎らが読みまして、水戸藩ではこれは大変なことになったと考えるようになります。この間に、安政五年の末の頃から一方では井伊の大弾圧、すなわち安政の大獄が始まるのであります。
 それは後にしまして、その頃、安政五年の九月、烈公がまた謹慎を命ぜられていましたから安政五年の九月頃から盛んに雪寃を願って南上する人が出てまいります。これが第一次の小金井屯集であります。大体千人位が小金井に集まったようです。九月の五日から十七日頃迄、これが第一次の屯集であります。それらの人々が幕府に圧力をかけた為に放っておけず、九月十七日になりまして、三連枝、松平三家による水戸藩の藩政干渉だけは中止されることになりました。そこで九月の第一次屯集が解けます。翌安政六年になりますと、今度は勅書を幕府に返すということが弘まり、それを阻止するために、第二次屯集が始まります。第一次の屯集は安政五年の九月ですが、第二次屯集はその翌年の五月頃です。五月二日頃から始まりまして、これも千名位の者が小金井に屯集しております。その状況は大変なことで、例えば五月八日には、綿引宇八郎という人が、「攘夷の実行も出来ないで、このまま勅書を幕府に納めるということがあったら、水戸藩の存続は無いのだ。」といって切腹します。そのようなことで、その後にも自刃して、勅書の幕府返納を阻止しようとする人が出てまいります。この綿引宇八郎の事を烈公に申し上げますと、「宇八郎の気持ちは良くわかる、早く行って介護してやれ」というような言葉があったといわれています。そのような事で返納について烈公も少し考え方が変わってくるのです。ところが、十二月、安政六年の十二月十五日になりまして、幕府から直接勅書を返還せよという命令が来ます。そうしますと「これは大変だ」というので始まったのが長岡屯集であります。屯集が始まったのは十二月の十七日位からです。「至大至忠忠魂義膽楠忠臣招魂表」という大きな木柱を立てまして、楠公の招魂碑を立てまして、今は小さな公園で、楠公の祠がある高台ですが、そこに屯集をするのです。ここでかがり火を焚きまして、南上する人を阻止しようというような状況になります。長岡に屯集した者は十二月の二十六日で大体五十~六十人位になります。その間に、例えば久木直次郎が水戸城の堀の所で切り付けられたり、あるいは魂外橋で、長岡に帰ろうとした林の軍勢と長岡を鎮圧に行く鳥井の軍勢とが切り合うということがありまして、非常な混乱でありました。そこで水戸藩も困りまして、何とか上手いこと幕府に返納したほうが良いというような状況になるわけであります。越えて、万延元年(安政七年)二月になりまして、二月の二十三日に、それでは正式に返納しようと決まり、二十四日には返納しようとしたのです。そうしました時に斎藤留次郎という者が、これは吟味役斎藤利貞の弟に当たる人でありますが、一旦城から戻りまして、衣服を着替え、建白書を持ちまして、水戸城の大広間でそのまま腹かっ切って諌死するわけです。その時の建白書に次のような事が書いてあります。
    萬萬一御逆鱗モ在セラレ天朝宸襟ヲ悩シ奉リ候様ニテハ、恐ナガラ御父子様ノ御中ニテハ、御済遊バサレ間敷候様存ジ奉リ候。縦ヒ中納言様ヘ御下ゲニ罷成候御勅諚ニ御座候トモ、御父子様ハ御一体ノ御儀ニ御座候得バ、順逆御名代ニ御成遊サレ天朝宸襟ヲ安ジ奉リ候御儀少モ御憚リ御座有間敷御儀ト奉存候。
 中納言様というのはこの時は慶篤であります。それで烈公は隠居でありますから、中納言様の所にその勅諚が下されたとしても、その慶篤様が返してしまうということであっては、親子の間で問題が起きてしまうだろう。そこの所までよくよく考えて、親子は一体なのだから、なんとしても烈公のお気持ちを尊重して、勅諚を返還することには反対である、ということで、水戸城の大廊下で腹をかっ切って死んでしまうのです。これは水戸藩では大変なショックでした。それも水戸城中の大廊下というところはその勅書が通る所なのです。勅書はそこの所を通らなければ城の外に持ち出せない。その城の中の御廟の中に納めてあった勅書を持って江戸に出向こうとしていたのです。この時には本当に勅書を幕府に返そうという所まで来ていたのです。ところがこの斎藤留次郎の切腹があって、その日は駄目だということで留め置かれて、勅書返納の問題はその頃から延期されるようになって行くのです。
 そのような状況の中で、大きな問題が出てまいります。長岡屯集の者は二月の二十二日には全員いなくなってしまいました。金子も関もさっさと姿を消してしまいました。地下に潜行してしまいます。これが二月二十二日です。この日にいなくなった者が三月三日に関係してまいります。二十三日に水戸藩の追っ手が長岡に行きますと裳抜けの空なのです。水戸藩の方から派遣された者は鎮圧をしてきましたということで奉告をしまして、記録には二十三日鎮圧ということになっておりますが、二十二日の段階ではもう誰もいません。その間、安政五年に井伊の大弾圧があったということはご承知の通りであります。その犠牲が一番多かったのは水戸藩でありました。有栖川宮家、青蓮院宮家から始まりまして、近衛、鷹司、三条、九条、久我の公卿に及び、一次から四次の四回にわたって大弾圧が行われます。吉田松陰、橋本左内を始として、優秀な面々が殆ど捕縛され切られてしまいました。遠島くらいで済むと考えられていた者が、井伊が赤い筆でもって死罪と書換えたことは有名な話であります。そして大弾圧が行われるわけです。水戸藩では鮎沢が一番最初に捕らえられて、鵜飼親子、それから茅根寒禄、その他数えられません。多くの人々が大弾圧を受けました。烈公は前に処罰をされておられましたが再処罰です。これに対して、水戸藩の有志が怒らないはずはないです。一橋慶喜公の将軍継嗣は潰され、戊午の密勅については返納せよということで苛められ、水戸藩は幕府から完全に狙われました。水戸藩は潰してしまった方がよい。烈公は遠島か、或いは死罪にしてしまった方がよい、というような議論すら出るような状況であります。幕府は、特に大老井伊は水戸藩が大嫌いです。それらが敏感に水戸に影響しないはずは無いのでありまして、それが桜田事変につながっていくことであります。それではその桜田事変というのは、井伊家ではどのくらいの情報を持っていたかということで、次に読みますのが井伊家の探索書の内容であります。万延元年の二月五日に藤代の旅籠屋で盗みを働いた水戸の侍を捕らえ調べたら、どうも何か怪しい状況になっているようだ、ということなのです。次のように書いてあります。
    右五人のもの共は前中納言殿極々御腹心の家来にて、昨年御国許御隠居後密に申合、銘々一命抛、主君へ心底尽候迚、妻子夫々取片付、親類先へ割振向、其身は姿を替、追追と彦根御屋敷中に下男奉公に住込、名前不分、跡より二人加わり、当時六人に相成密に入込罷在候て時節を量り、右御屋敷へ附火いたし焼立候、騒に紛れ、奥向きへ打入、君公御大事に抱り候儀取計候手筈の由内々申立候やにて、片時も其の儘難捨置、左候得ば迚狂人又は魯鈍の人物にもこれ無様相見候上は、村役人共一同打驚、相談の上直に承留候手のもの二人昼夜を掛出府仕候旨を以て
というように書いてあります。少し取り調べてみたら、付け火をするというような計画を持っていることを二月の五日の段階で知っております。これは井伊家の記録です。それから万延元年の二月の頃に、出羽の国の僧侶が、三月二日、水戸浪人が井伊家に乱暴の計画ありとの情報を得ております。庄内藩の竜門寺の妙恵という坊さんが届けたのでありますが、
    右罷越、同人儀四国遍歴を志し所々相越候処、昨年十二月十三日夜、奥州白河駅本町旅籠屋柳屋と申す処に止宿致、同宿に水府浪人三人泊り合、隣座敷にて咄居候は、水府浪人九十五人徒党、当正月五日大田原宿愛宕山に於て再会示談、三月二日夜御当家へ乱暴致す可き旨申居候間、如何の儀と存候処、当月五日大田原宿にて集会これ有候故、御一大事と存御訴え申上候旨申聞候
話の内容が所々なものですから、半分くらい真実な所があります。愛宕山は大田原の愛宕山でなく、江戸の愛宕山でしょう。そこで三月二日に再会しようとしたことは確かでしょう。これは本当に聞かれていた内容と思われます。隣の座敷で話していることが、半分くらいこの坊さんの耳に達していたことがわかります。情報に混乱があり、これはちょっと確かでないということで井伊家の方も信用しなかったのではないかと思います。
 三月三日の情報は井伊家の方としては持っていなかったのではないかと思います。桜田事変については吉村昭氏が小説を書いており、皆様もお読み頂いた方もいらっしゃるでしようからここで詳しく申し上げません。薩摩と水戸との合同の計画でありました。高橋多一郎らは大坂で事上げようと思って待っていたのでありますが、島津斉彬がその直前に亡くなり参加致しません。参加したのは有村治左衛門親子だけであったわけです。ピストルを誰が撃ったか、井伊の殿様の体に当たったか当たらなかったか、井伊の殿様の首はどうなつたか、という話が色々ありますが、今日はそのことについては触れません。
 高橋多一郎の所には佐久良東雄という善応寺の坊さんだった人ですが、坐摩神社という神社で神主をやっておりましてそこで連絡をとつていました。その坐摩神社には島男也という笠間の藩士もいまして剣道を教えて、桜田事変に呼応しようとしまして準備を整えていたのですが、全部捕縛されます。東雄等は胴丸駕籠に入れられまして、東海道をずっと江戸まで送られまして、江戸に着いて獄中で亡くなります。この東雄、それから島男也が送られた資料を見ますと大変なものです。藩役人が出迎えに行って、引き受け、確かに引き取ったという証拠の引継ぎの書類を作って渡し、江戸まで運んでいます。このように桜田の関係者というのは幕府に睨まれたのです。本当の極悪人という扱いです。胴丸駕籠も旅館に入りますと、天井から吊るして逃げられないようにした。そのように厳しかったのです。
 三月三日の朝に、井伊の首級が上げられます。そこで、三月三日以降は水戸藩は又大変な状況になります。幕府も水戸がもう一回井伊家を襲撃するのではないかと考え、水戸藩の方では井伊家が水戸藩邸に襲撃するのではないかと用心する、ということで大混乱になります。桜田門の事件というのは話としては面白い。しかし藩の政治を預かる者としては大変な問題であったということが分かります。結局桜田事件というのは、本来は戊午の密勅の主旨を実現する為の前哨戦に過ぎないのです。それは、計画全体としては失敗をしてしまったということです。薩摩が脱落をしましたから、「奉勅回天の大事業を実行する」という目標から言えばこの事件は失敗に終わったということになります。井伊大老の首を上げることは出来ましたが、その目的は達成出来なかったということができると思います。その後、奉勅回天の事業が出来ないのであれば、我々だけでやろう、実行しようということで、大津彦五郎が、玉造辺りに兵を集めます。こうして玉造勢が出来てまいります。それすら文久年間になりますと、東禅寺事件が起きまして、この事件のために水戸藩は「山狩り」といいまして、激派の人々は全部捕縛されるというような悲劇を醸し出します。文久二年になりますと、安藤信正を要撃します。坂下門事件です。それでまた幕府から睨まれます。ここに水戸藩の悲劇がありました。どうにもならないことになってしまいます。その山狩りという言葉はあまりお聞きにならないと思いますけれども、水戸藩は大変な混乱と捕縛が続きました。
 しかし文久二年になりまして、大原重徳の江戸下向があって、文久二年の改革という幕政の改革が始まります。その時に水戸烈公は名誉を回復されます。話を少し戻しますが、井伊大老は万延元年の三月三日に、その年の八月十五日に烈公はお亡くなりになります。したがって水戸では月見の宴をやりません。それと同じように井伊家では桃の節句をやらないそうです。その翌々年、文久二年の八月十五日を期して名誉が回復されます。その達しは八月二日に水戸に届けられます。それが次の文です。
    烈公御儀天下之御為多年御忠誠を盡され、時事御建白も有之、王室御尊崇之御高義、宗家御輔翼の御忠実、別段之御義候處、先年不慮之御厄災にて御慎相成候得共、此儀ハ一昨年御宥免被仰出候処、無程御下世ニ相成、御哀惜思召候。此節柄御在世にも候ハバ、時々御登城御対顔にて御相談も成さされるべき義と一入御残念思召され候。仍之御年回旁英霊慰めらるるべき為瑞龍山へ御代拝を以、御香奠供されるべくとの御沙汰候事
これは、朝廷の方からも烈公のお許しが出ましたので、幕府の方からも三回忌に当たって新見正興という人を遣わしまして瑞龍山を参拝されます。この新見正興は万延元年にポーハタンに乗ってアメリカに行って日米修好通商条約の調印をしてきた人です。
 それに対して、十一月に直弼は安政の大獄の失政、色々な失政が重なりまして、十万石を減封されて、二十五万石にするという処罰を幕府から与えられます。これが文久二年の事でありました。そこで水戸藩は少し息をつくことが出来るのでありますが、安政から慶応まで水戸藩は息をつく暇も無いほど幕府に睨まれました。日本全体のことについては大きな理想を持っていたのですが、幕府としては、水戸藩のやることは余計なことであって、一つ一つ気に入らないという状態でありました。そこに水戸藩の悲劇があったと言えましょう。
 本日は、水戸藩と幕府の関係、特に烈公が幕末に苦労されたことをお話し致しました。しかし、次回の薗部先生の所で水戸が明治維新に大きな働きをして、徳川慶喜公、或いは大政奉還、明治天皇からお褒めの言葉を戴くと言うような場面があるだろうと思いますので、今日の所はどうも話しずらい所で、中々難しい場面が多くありましたけれども、苦労の連続する藩運営であったということを申し上げまして終わらせて戴きたいと思います。

                (平成六年十一月六日講座)
                (茨城県立大宮高等学校校長)