HOME >水戸学講座 >改 革 の 理 想

改 革 の 理 想

          ---天保改革の施策と意識---

                  斎 藤 眞 人



 お早うございます。宜しくお願い致します。
 私に与えられたテーマですが、「改革の理想」ということでありまして、副題の方ですけれども、「天保改革の施策と意識」という副題を付けさせて頂きました。理想と申しますと、どちらかというと空想に近い物という感じを持たれる方もいらっしゃるかと思いますが、水戸藩の改革の場合は具体的な施策として実行して行くということになります。その意識とは、どういうものかということを探っていければと考えて、副題をつけております。
 それで前回に続けて参りますので、前回の仲田先生のお話を要約させて頂きますと、「改革の発端とその発想」ということでございまして、その背景を内憂と外患、憂うべき国内事情、それと外圧にともなう対外危機に求められています。
 その内憂ですが、農村の荒廃ということが挙げられておりました。これが天保の改革でも大きな課題となっております。とりもなおさず天災もあります。天保の飢饉。それ以前の飢饉もかなりありまして、享保以来、飢饉というのは重大な社会問題となっております。江戸時代初期以降開発が進み、一段落してしまいます。水戸藩でも、威公の時代にほぼ開発が進んでおります。あとは若干僅かになります。そういうこともあり、天災を受けやすい状態になっております。それにともないまして人口が減少してまいります。食料生産が追いつかないということもありまして、生まれてくる子を間引してしまう。若しくは中条流と申しますと評判が悪いと申しますが、もともとは産婆術の方です。途中で堕胎してしまうということもありまして、人口が減少してまいります。それで、三十万あった人口が二十五万位まで落ちてくると言われております。かなりの人口減少です。
 それから、商品経済への対応が、上手くいってないようであります。そういった事もありまして、農村が荒廃しますと、水戸藩としてはどういうことが起きてくるかと申しますと、財政が逼迫してまいります。もともと水戸藩の場合は、定府制をとっておりますので、江戸での消費が大きいのです。五割を越えて七割位までは江戸の方で消費するといわれるぐらいでありまして、水戸の方はどちらかというと清貧に甘んじた暮らしをする、というのが伝統であったようです。なぜなら御三家でございますので、その体面と致しましては、五十万石をこえる大藩と同じようなお付き合いをする。江戸の方はそうなりますので、それだけの出費は覚悟する訳であります。その分水戸の方は貧しくても頑張って支えるという状態であります。大体五千両位ずつ幕府から拝借するということが行われております。
 次に出てきますのが、そういった財政逼迫を解消するための方策として、江戸仕掛けという方法で、積極的な動きを見せます。芝居小屋をかけたり等、江戸のやり方をこちらに導入致しまして、どちらかというと商売気のあるやり方ですが、水戸の方では失敗してしまいます。これによって財政の方は、尚復興しないわけです。そこへ持ってきて学問上の対立というのもあります。大きく見ますと立原門下の中から二つに派が分かれまして、学派的な対立、それが政策的な対立まで発展してまいります。 そういう中で藩内の士気の低下といいますか、衰退というのがあります。初代の威公が、どちらかというと武ということにかなりはりこんだ気風を持っておりまして、水戸藩というと武ばっているとか、律儀というような気風できたのですけれども、段々それが緩くなって参ったようです。そういった藩内の事情もあります。それから献金郷士が増加しつつあるということです。お金が乏しくなりますと売位買官というのは世の常であったわけですが、献金して郷士に取り立てられるという状態が出てまいります。そういったことを憂いておったわけです。
 それから外患としまして異国船の接近ということがあげられますが、文化元年のロシア使節以降、かなりの回数でみられます。ご存じの通り、日本の場合、鎖国という政策を家光公の時からずっととっておりますので、外交という事に慣れていないというわけです。外交に関しましては、江戸の幕府が長崎で行っている一点だけでありますので、各藩では外国人が来た時どう対応したらいいのかということに慣れていなかったろうと思います。どちらかといいますと、隣の藩との対応とか、江戸に出て外の藩との対応、若しくは幕府との対応とかが中心であります。それがいきなり外国からやって来て対外的、国際的な対応をせまられる。現在の日本でも対外的な対応を迫られてあたふたとするわけですが、やはりこう言った対応が難しいということがあげられます。特に心配されますのが、侵略されるのではないかという事であります。そういう事もありまして、対ロシアについては、蝦夷地の調査ということを水戸藩でも実行して参ります。木村謙次などが、蝦夷地の方に探検に行ってまいりまして、水戸藩に情報をもたらしております。そういった外患というのがあります。
 そのような背景をもちまして、烈公が登場されるという事ですが、烈公の場合は、三十歳になられるまで部屋住の日々を送っておられました。部屋住の日々というのは南鐐という銀貨一枚を一日に貰う位ということで、侘しい生活を送って、袴の裾も擦り切れておるような生活を、清貧に甘んじてしております。どちらかというと藩主の補欠です。そういった日々を送っておられたという感じであります。ただこれも、父の武公が烈公を次の藩主にしたいという希望を持っていたかもしれませんが、祖父の文公がやはり長子の斉脩公を優先させるべきだという形で、烈公の場合は世嗣の控えという形でおられたという話も、伝えられております。そういうわけですから、部屋住で、次は自分の番が来るかも知れないという目で、藩政の行方をおっております。どちらかというと、直接タッチしないで脇から見ていますから、囲碁などで言う傍目八目といいますか、余計見えるということだろうと思います。そういうわけで家中の士風が変わってきている、文公の時代まできちっとしていたのが、段々武公の時代になって、やや緩やかになった、哀公の時代になって、若干よりも一寸ひどくなってきた、というのが目についたということを述べられております。この辺のところは伝えられているもので知るわけですが、そうした中で、質素な生活を送って、文武の鍛練に励んでおられた、ということであります。
 この時代までですけれども、文公以降ですが、世嗣も江戸で育てられますし、庶子----世嗣ぎ以外のお子様方----も江戸で育てられるようになっていたようです。ですから、烈公は江戸育ちということになります。水戸家では元々は義公以来、庶子の方は、水戸の方で育てられているということです。世嗣はお世継ぎとして育てる。それに対して庶子ですが、他のお子さんがおりますと、やはり対抗心というのが芽生えて、家臣の中にも恐らく対抗心というのが芽生えるのだと思います。そういったこともありまして、お世嗣ぎはお世継ぎとして育てる。庶子は、外へ養子に出すような気持ちで、水戸で鍛えるというような区別が、あったようであります。しかし、烈公は、江戸の方で、江戸の藩邸の様子を見ながら暮らして行かれるわけであります。その時青山拙斎、会沢正志斎、若しくは吉田令世といった方々が、先生役として教育に当たられております。質素な生活、文武の鍛練というのが後々まで烈公のバックボーンとなってくるようです。
 それで改革の発想ということなのですが、発想が理想に繋がる。どこで発想してくるか。改革の眼目ということで挙げられておりましたのが、検地ということです。
 天保検地と言いますと日本の国の中で、この時期検地を行ったのは水戸藩だけで、土地台帳を確認する作業であります。土地を誰が持っていて、税金は誰が納めるのかという、その元となる面積と高です。どの位取れるか。ということの基礎台帳になります。基本的には年貢がどれだけ取れて誰が納めるのかということをおさえるのが大切なのです。この時代の土地の売り買いというのが、本来は売れないのですけれども、借金をした形で譲り渡されたりします。その時石高が十あるとしますと、売る方の面積に掛かる石高を三、売手側に残る面積を七というように設定して表示して書いて出すのだそうです。そうすると買った側は年貢を三の割合で納める。売った側は七の年貢を納めなければならない。同じ面積を売っても、三と七の年貢の比率では格段の差が出てきますから、買った方は得する、しかし生活に困って売った側は重い年貢を負担していくというような売り方があるそうです。ですからこの時期、そういった不均衡な土地の在り方というのが顕著になってくるわけです。それを是正する為もありまして、検地というものを行います。この点は威公が寛永十八年に行いました検地とは若干ちがいます。
 寛永十八年の検地は、隠し田といいますか----知られていない田を作って、新たに開墾しておくわけです----そのぶん余剰となります、そういった新田隠し田等を発見するのが寛永十八年の検地であります。ただ寛永十八年の検地の場合はもう一つありまして、縄目を狭めて計算しております。豊臣秀吉の場合は、六尺三寸四方を一坪という計算ですけれども、三寸縮めてしまうのです。水戸藩の場合はその三寸縮めた長さが、約十パーセント位の嵩上げになるだろうと思います。それに対して、天保検地の場合は約十五パーセントを越えて十七~十八パーセント位の緩みを持たせるとういかたちで、農民の負担を軽減させる方向に働きます。数字の上で約十万石程の目減りが生じます。大名になれる程のかなりの額です。それだけ天保検地の場合は緩めて計ったというわけです。六尺五寸四方というのが天保検地の時の一坪です。
 それから土着です。藩士を、ここでは主に助川、多賀郡(今の十王町)の友部、それから大沼の方と土着させるわけでありまして、これを海防に当てるということを行っております。
 それから学校を作る。これは弘道館です。それから江戸の常駐していた者と水戸との総交代を行うということが中心となってまいります。
 その時ですが、どこからそのような発想が出てくるのかと申しますと、烈公の場合愛民専一ということ、お百姓さんを大切になさるということを日頃から心掛けておられたということであります。それは農人形、お米を作る人、自分は作らないのだけれども、お米を作る人から恵まれていると言って、農人形に、先ずその日のご飯をお供えされてから、御自分も頂かれるということを、常にされていたと言われます。それから病気に苦しむ人をお救いすることで医療のほうにもかなり手を染めておられます。
 それからもう一つ挙げられたのが家訓の遵守ということです。尊皇思想を振興する、これは自分の所もそうですけれども、幕府に対してそのような働き掛けをしていく。その一つとして神武天皇陵の山陵の修復ということを提起してまいります。
 それからもう一つ海防の方ですが、先程申しましたように土着と関係致します。こちらの対外関係の方にウェートを置くという事です。
 発想としましては農民を大切にする。それから水戸徳川家の家訓を良く守る。それから新たな問題として発生した海防に心を砕いて施策を行うという事であります。この場合家訓の遵守ということですが、これはやはり水戸家の当主としての心構えといいますか、一子相伝なのか、何人かの方に伝えたのか判りませんけれども、幕府は敬うということであります。そして先ず優先されるのは、元首様だということで、尊皇、それから敬幕、というように尊皇の方が前に出ているのが特徴です。それに次いで敬幕ということを水戸家の家訓としているわけであります。
 愛民思想、お百姓さんを大切にする。それから尊皇敬幕の家訓を良く守る。それから海防という対外関係を重視していく。この三つの所から、天保の改革が、大きく進められていくようであります。此処までが、前回のまとめでありますけれども、これらを踏まえまして次の方へ入って行きたいと思います。
 今回、改革の理想ということでありまして、「威義二公の継承と復活」というのを先ず最初に取り上げてまいります。
 水戸家の初代であります威公ですが、『水戸藩史料』を見てみますと、「水戸家の由来と公の性行」ということがありますけれども、これは、烈公が、威公、義公を特に強く意識されているようでありまして、どのように見ておられたかということの一端であります。
    史に稱す大猷公の時、頗る尾紀二藩を忌み、公獨り倚頼せらる。公とは誰ぞ藩祖威公是なり。蓋し、此の時天下纔かに定ると雖も、内外の人心未だ測られざるものあり。将軍大猷公の聡明なる、早く已にここに著眼し、一族の中を回顧して、獨り威公の英姿倚頼すべきを知り、大に信任する所あり。
 家光公の時ですが、家光公が尾紀二藩を遠ざけるような形です。家光公が頼んでいたのは藩祖威公であるという意識であります。また家光公は威公を信頼していたということであります。家光公と威公でありますが、歳は僅かに一歳違うだけです。兄弟のように育てられたと言われる程であります。その次に手書がありまして、大猷公の手紙です。
    きのふ申候通に萬事之儀是先へ之談合申可候間其節何事もゑんりょなしに申され候はゝ満足たる可候其方之御事は別而心安思候まゝ心中をのこさす萬談合申事に候兄弟之有候而もやくにたゝす候間其方を兄弟同然に思候まゝ弥萬事其心得有可候
何事も遠慮無く言って欲しい。時の将軍です。「余は生まれながらにして将軍である」と言ったと言われます。本当に言ったかどうかは分からないのですが、将軍家ができてから生まれたということです。そういう絶対的な頂点に立っております将軍様に何事も遠慮なしに言って欲しいという親しみを持って信頼されていたわけであります。それから兄弟色々、駿河大納言等おりますが、兄弟同様信頼していかれるということが唱われておりまして、これも御手紙が残っているということを、威公を追慕しております烈公としましては、我等もかくあるべきではないかと、将軍様よりこの様に信頼されて然るべきではないか、と思われたのではないかということであります。
 その威公のことですが、家康公がどのように御考えになっていたのかということが、次のように出てまいります。
    東照公仰せ置れける御意の中に源威公の事を仰せられて曰腰刀と思ひ秘蔵すへし鞘はしらざる様に可仕となり
とあります。腰刀として秘蔵しておいて抜き放たない様に大切にしておけ、不満があればいつ鞘走るとも知れない、というわけです。ですから待遇が、他の家康公のお子様方とは異なって、将軍家の中で育てられるようなことであろうと思います。また、
 大猷公の御代迄別して御念頃になされ尾州紀州よりも御心安く御親昵になされけるとなりということですが、江戸の将軍家の側に仕えて、御相談に預かっていたということでありまして、それが威公----義公の時代になりますと若干時代が代わってまいりますので、相談にも預かるのでしょうが----家康公の一番末のお子様の威公に、特別の配慮を、兄の秀忠公に言い残されているようであります。エピソードとしましては、威公という方は、天守閣に登ったとき、将軍にさせてくれるならここから飛び下りてみようと言ったという話も伝わっておりまして、それほど将軍になりたかったのだろうと思います。ですから特に大切にして、何かあった時には、いつでも使えるということでありますので、将軍の側に置いて、副将軍ではないですが、将軍が外に出れば留守居をさせるように、大切に育てられているわけであります。それを念頭に置いて、恐らく烈公は育ってこられたのではないか、それから将軍家との特別な関係が水戸家はある、と言うことだろうと思います。
 それが後に義公になりますと、何か事あって、将軍様が出た場合、江戸城に在って旗本を指揮するという意識にまでなってくるのだと思います。江戸の町の中を義公が徘徊していたのは、何か事があった時に江戸の地理が分からないと江戸城を守れないということで徘徊していたという理由付けがあり、又そのような考え方も心の中にあったのではないかと思います。
 若干ここで義公と烈公との対比をしてみたいと思いますけれども、似た所もございます。例えば義公は初代の威公の三男です。それから烈公は武公の三男、敬三郎(けいざぶろう)です。それぞれ三十歳になられてから、烈公は三十歳襲封、義公は三十三歳襲封ということで、三十を過ぎてから藩主になられたということがあります。時の藩主の常と致しまして、子供の時から文武に励まれますので、こちらの方にも秀でておられたようです。特に漢詩、和歌、これは優れたものがお二人ともあります。それから義公は、威公の時に隅田川を小さい時に泳いで渡らせられたということもありまして、殿様というのは無理なこともおっしゃるものだというくらいで、水術も水戸にいた頃より鍛練されていたようであります。その点、烈公は剣、弓、馬辺りはやられたのでしょうけれども、この水術は江戸でどうされていたのかこの辺はわかりませんが、やはり漢詩と和歌は学ばれております。それから剣のほうも数段励まれていたようであります。それから政策的なことも色々あるのですけれども、その中で対外関係では義公が北地計略といいますか、蝦夷の方に関心を持たれまして、「快風丸」という大きな船を造られます。それに対しまして烈公も大船を造ろうということで、「旭丸」という船を造られるという考えをもって、幕府に建議されたのですけれど、なかなか許可が下りなかったようです。義公の方は船を造られております。このように似たような所もあります。
 もう一つ申し上げたいと思いますが、財政の点で関係してまいりますのは、正室をどこから貰うかということが結構大きな関心事であります。将軍家から貰いますとお化粧料と言いましょうか、毎年その費用を下されたりするわけであります。その場合出ていくものも莫大になるわけであります。それに対して京都の公家から貰うには身分の高さということもさりながら、どちらかというと体面は維持するのですけれども、かなり質素な生活を送ることを余儀無くされていた時代でありますので、そのような生活にも耐えられていたのではないかというように考えられております。義公の場合は近衛家から御迎えになりました尋(ちか)子様という方で泰(たい)姫とお呼びされる方です。後に哀文夫人と諡されております。二十一歳の若さでお亡くなりになった方です。それから烈公ですが、やはり京都から登美宮(とみのみや)様を御迎えしておられまして、後に文明夫人と諡されております。そのように京都の方から正室を御迎えになっております。それと対しますが、斉脩様は将軍家の峯姫様を御迎えしていたということで、経済的にはその時潤っていたといわれておりますが、色々と水戸藩では大変であったようであります。
 義公は正室一名で、お子様は正室にはおりません。頼常公をもうけられた女の方が一人おります。お子様は高松を継がれた頼常公一人です。それに対しまして烈公はお生まれになった方が二十二男十五女です。三十七名ということでかなり多いのですが、それはと申しますと、ご自身が部屋住みの時期が長かったからなのです。兄にお世嗣ぎが有りませんでしたから藩内がもめており、やはりお世嗣ぎの確保というのが第一番にあったのではないかと思います。それから自分の所のお世嗣ぎがいても当時はいつ亡くなるかわかりませんので、多くの子孫を残しておきたい、というようなこともあったのだろうと思います。この辺は義公と烈公の大きな考え方の違いでありますけれども、義公の場合は兄の子供に後を継がせたいという意識が働いていたわけであります。それぞれ威公の血筋を残すということであります。
 それから義公の場合は六歳で世嗣になられて水戸城から江戸城に上がられて教育をされるわけであります。その後成長しまして、威公が亡くなられた後、前藩主の三年の喪の期間は、制度に手を付けないでそっとしておく、ということを守られます。この三年間に臣下の善悪とか、その他のことも分かるだろうということもありまして、そのようなところが深謀遠慮といいますか、考えておられるわけです。それに対して、烈公の場合は父の武公が亡くなった後、表立って喪に服すということはそうそう出来ませんので、心喪、心の中で三年間喪に服すという態度を示してまいります。武公の後を継がれた哀公の後、これは実の父というわけではなくて、兄でありますので、喪の期間が、当時の実例で一年位だと思うのですが、父の喪の期間よりはずっと短くなるのです。改革は翌年の天保元年から取り掛かられております。
 その点からいきますと、義公の政治といいますのは、ゆっくりと回転する感じで出だしてまいります。それに対して烈公の場合は父の喪というわけではなくて兄の喪ということで、割と早くから藩政に取り掛かることができたということもありまして、やや急激な発進という感じになってまいります。発進する前は先程申しましたが部屋住ということで自分の部屋を「亀の間」と称しておられたらしいのですが、そこで生活されていました。
 もう一つの大きな違いは、義公は『大日本史』の完成、『神道集成』、『礼儀類典』、『扶桑捨葉集』大部な書物が四種ございますが、とくに修史事業、『大日本史』編纂には自ら取り組まれております。また臣下に、動植物その他の研究もさせております。
 それに対して烈公の場合ですが、改革に自ら取り組まれるということでありまして、こちらに忙しいようです。自分が修史事業に取り組まれて、原稿に手を入れられるということがどのくらいまであったのか私掴んでおりませんけれども、とにかく改革に手を入れるということでありまして、動植物、その他理化学の研究も自分でされて、著述を多く作るということであります。
 そういった所から言えば、義公は修史に心をして、自己主張というのは控えめにしておられたのではないかと思います。その点に対して、烈公は割と強く自己主張をなされていた方ではないかというような比較もできようかと思います。威公と義公に対する、烈公の考え方を若干述べてまいりましたが、そういうことであります。
 次に、どのような改革を行うかということなのですけれども、水戸家の家風ということについて述べてまいりたいと思います。
 この家風ですが、福田耕二郎先生がまとめられた神道大系『水戸學』という本を参考にしますと、武公の教諭という事がありまして、水戸家の尊皇思想がどこから出てくるかというと義公からなのですが、端的に出ておりますのは「武公遺事」でありまして、そこから良く引かれます。「公ハ御平生朝廷ヲコトノ外、御崇敬被遊ケリ。」というふうに出てまいります。その他色々出てまいりますが、「又御意ニ、我等カク存候テモ、天子ニ向ヒ奉リテハ、弓ヲバヒカヌ心得ナレバ、子供ニモ其心得ニテ譜代大名ノ養子トハナルマジキコトナリト、御意遊サレケルトナリ。」というふうに出ております。義公からこれは出てくるのだと思うのですが、その元は尾張でも朝廷を崇敬するという考え方があるようでありまして、江戸の初期に徳川家の尾張と水戸というのは同じような考え方、尊皇の考え方というのを持たれたようであります。
 それで尊皇ですが、その由来と申しますのは、自分の身分が高いというのは何に求められるか、ということは、それは天子様の定められた位によっているということであります。ですから日本国の元は天子様にある、よって私の従三位という位もそちらからきております。尊ばれるのは天子様に由来するという形をとっておられます。そういう考えから尊皇ということになってまいります。ただこれは恐らく水戸の殿様は朝廷から直接位をもらうわけですが、幕府が申請して手続きを取って貰うことは確かなのですが、朝廷から貰う。将軍も朝廷から位を貰う形であります。その点が権威の寄ってくる所は朝廷ということで、尊皇です。天子様を尊ぶということになると思います。
 これが代々水戸家の中で一子相伝、次の殿様に伝えられただけなのか。それとも水戸家から他家へ養子に行く人にまで伝えられたのかどうか判りませんが、恐らくは次期藩主になる方に伝えられていったのではないかと思います。
 先程「子供ニモ其心得ニテ譜代大名ノ養子トハナルマジキコトナリト」とありましたが、それは譜代大名というのは将軍様の部下という形になるのです。そうなると将軍の命令いっか動かなければならないという形になります。ですから水戸家の子供であっても将軍の家来ということになれば、将軍の命令で動くということになります。水戸家の場合は、朝廷から位を直接貰っているということで、そちらで動ける。尊皇ということです。恐らく、水戸の殿様の御奉仕するのは、天子様であるというのを、第一に考えていたのだろうと思います。これが、水戸の家風の中で、大きな、尊皇思想の流れの源流であります。
 それから、水戸家の家風の中でですが、藩風ということにもつながるかと思いますが、小川義倫、通称小川伊織と呼ばれているようですが、「御國傳來神道」というなかで次のように書いております。
    御国にて傳來候神道と申は、威公様、卜部家の流、御信用被遊、義公様にも御同様御學被遊候處、
威公が卜部家の流を研究されたということです。これは家康公からお分けになった駿河の御分物ですが、その中に『日本書紀』神代巻というような本がございますので、そちらの研究をされておったようです。原典に基づいて研究されるわけです。そのようなこともありまして、義公も同様に研究されております。そして後に『神道集成』という大部な本を作られるわけであります。続きですが、
    卜部家学風は佛道を混雑いたし造作仕候ものゆへ、義公様、御疑被遊、寛文七年、今井新平を伊勢に被遣、外宮権禰宜出口信濃の門人に被成候て
とあります。中世の神道といいますのは神仏習合の影響を受けまして、仏教の理論で組み立てて行くということであります。それで義公は伊勢神道を導入されるわけです。実際のところは伊勢神道も仏教の影響を受けて『神道五部書』というものが成立してまいりますので、全く仏教の影響がないというわけではありませんが、伊勢の方が神道の古儀に近いというふうにお考えになられたのだろうと思います。そして、
    先年京都へも罷登り国学相学、尚多年史館へ罷出、古書・伝記等拝見仕、よくよく相考候得ば愚者の一得も不少、
このようにでてまいりまして、やはり江戸の後期になりまして、この小川伊織というかたを京都に送りまして、神道の改革に取り組むような指図をされております。尊皇、それから神道を注視していくというような事が、水戸家の家風として強く考えられてくると思います。
 それから次に『大日本史』ですが、義公以来水戸家の思想的なバックボーンを表しているといわれております。義公が三十歳の藩主以前で、世嗣時代の明暦三年、江戸の前期ですからやや落着きを見せた頃になるかと思いますが、この頃に編集を始められております。代々の藩主がそれを継ぎまして、波はありますけれども、完成したのが明治三十九年で、二百五十年を掛けておるというわけであります。紀伝体、つまり本紀、列伝、志・表が揃うのは、日本ではこの『大日本史』をおいて他にないというわけであります。他の歴史書は、それぞれ本紀だけといいますか、『六国史』等でも最初の方は書紀という形で本紀中心ですけれども、後になりますと『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』というように、実録体に変わってまいります。ですから年月日に掛けた記述を中心とするようになります。幕府の方でも『後鑑』というのを幕末に編纂しております。これは室町時代等を中心とした歴史書なのですが、やはり実録風のものを作っております。水戸藩でも歴史書を編纂しておりますけれども、幕府の方でも波はありますが歴史書をずっと編纂しておるわけであります。歴史書を書き残すというのは時の政権の一つの役目なのです。ですから水戸でも『大日本史』を作るし、江戸の幕府の方でも歴史書をそれぞれ編纂しているというのがこの時代であります。
 その『大日本史』ですが、「進大日本史」という文章ですが朝廷に奉る時の文章というわけですけれども、藩主徳川治紀公、武公ですが、上表文を藤田幽谷が起草し、高橋広備と川口長孺らが検討してできた文章であります。徳川治紀公の名前で出ておりまして、
    忠を本朝に竭さんと欲せば。なんぞ孝を前人に追せざる。臣五代の祖光圀少くして學を好み、義をなすを勇す。身は外に在ると雖も、乃心は王室にあり、毎に舊史之闕文を慨き、歴世の実録を修せんと欲す。
ということです。ここのところに尊皇の精神を述べておるわけであります。又このような志を持って始めた事業であるということです。その特色はと言いますと、
    大友を帝紀に陞せ、老翁の日を捧ぐるを徴す。神功を后妃に列し、眞主を遺腹に掲ぐ。西東の争、南北の乱、皇統を正閏するに、唯神器の存否を視るのみ。
このように出てまいります。ここに三大特色と言われております。大友の皇子を弘文天皇という諡をして帝紀につけたという形をとっております。それから神功皇后が皇位にあったということなんですが、后妃伝として、皇位にはつかれていないという形にするわけです。それから南北朝もありますが、南朝を正当とする、その理由付けは神器の存在如何にあるという理論付けをしてまいります。このような特色がありまして、次の所ですが、
    高祖綱條より、以て先父治保に至る、校訂補修、四世の間怠ること無し、潤色討論、百年の後稍定めよ。
校訂補修をずっと続けてきているわけでありまして、やはり議論のある所は後の人に定めてもらおうということで、ずっと修史を継続しておりまして、百年の後に調べてもらえるように出典を書いておるというのが歴史学上の特色であります。このような大事業を続けておるわけであります。ですから尊皇の精神に基づいているということと、因ってくるところの神道を重視するということです。それから歴史を大切にして尊皇の精神をここに明らかにしているわけであります。そういった家風の中で烈公も育ってこられるというわけであります。
 それを受け継いでいくわけですが、次に「天下の大義・水戸家の大義」にまいります。大きな題名を付けてしまったのですが、一七九一年、藤田幽谷先生が一八歳の時の著作と言われる有名な「正名論」ですが、
    甚だしきかな、名分の天下国家に於ける正且つ厳ならざるべからず。
この出だしの文句が有名な所でありまして、名分論を展開していくわけであります。また、
    今夫れ幕府天下国家を治むる者は。上に天子を戴き、下に諸侯を撫す、霸主の業也。其れ天下国家を治むるは、天子の政を攝する也。天子の垂拱、政を聴かざること久し。久しければ則ち變じ難きなり。幕府天子の政を攝する、亦其の勢のみ。
このようにあります。幕府の治世を霸主の業というようにとらえてくるわけであります。ですから逆に言えば王道ではないという言い方になるかと思います。
 そして、幕府が天下国家を治めているのは、天子の政を執っているということ、天子に代わって治めているというわけであります。天子が自ら政治に参加されるということをなさる。そのようなことを親政と申します。このような天子の親政というものを久しく聞かなくなっている。又、長くやっているとそれが当然のように思えて、変えることが難しくなってしまう。その勢いの流れのままにやってきているのだということであります。先程の続きですが、
    異邦の人言有り、「天皇国事に與らず、唯国王の供奉するを受く。」蓋し其の實を指す也。然りと雖も天に二日無く、土に二王無し。皇朝自ずから真天子あり、則ち幕府宜しく王と称すべからざる也。
天皇があって国王、この国王というのは将軍のことを指すようですが、将軍が政治をなさっているのを受けるということであります。天にお日様が二つ無いように、地上には王様は二人いない。一人でいいのだ。天子が唯一の王様であり、幕府が王と称するのは宜しくない。王と称する例と言いますのは、足利時代の義満が日本国王という呼び方を使っておりまして、天子がいてその下に王がいる、これは中国流の行き方です。天子がいて王、これは封土をもらっているわけです。ですから天子よりは一段王の方がさがるわけなのですが、ここでの「天に二日無く、土に二王無し」という場合は唯一の王様という考え方なのだろうと思いますが、そのような名文論を展開しております。これが幕府の気に触れるかどうかということが問題になってきます。このへんが、臣下でありながら天下の大義を論じたということになってまいります。
 また、水戸家の場合は尊皇ということを殿様がいうのですが、臣下も尊皇を言ってしまう。こうなると幕府はどうなるか。今までは敬幕といっていたのですが、これは良くないのではないか、ということに繋がりかねないというのが、藤田幽谷先生の十八歳の時の思想であります。この藤田幽谷先生の門下から逸材を出しまして、天保の改革へと繋がってくるわけです。この考え方が恐らくお弟子さん方にも伝えられているのではないかと思います。
 それに対して、天下の大義を論じた藤田幽谷先生の考え方ですが、烈公はどういうふうかといいますと、「水戸家家中への教諭」ということになります。これは天保の四年ですが、烈公最初の水戸帰国、改革の眼目表明とあります。早期の就藩ということです。そこで改革の眼目を表明される、それが「告志篇」ということであります。この冒頭になりますが、
    人は貴き賤きによらず、本を思ひ恩に報い候様心懸候儀、専一と存候。抑日本は神聖の國にして、天祖・天孫を垂、極を建給ひしこのかた、明徳の遠き太陽とゝもに照臨ましまし、寶祚の隆なる天壌とゝもに窮りなく、君臣・父子の常道より衣食住の日用に至るまで、皆これ天祖の恩賚にして、萬民永く飢寒の患を免れ、
このようにあります。身分の高い低いによらず、根元の所を以て自分の受けた恩に報いるよう心懸けていくということが大切なのである、ということですが、やはり尊皇ということです。 それから儒教、日本でもそうですが、「君臣・父子の常道」ということが出てまいります。儒教の論理でいきますと、中国の場合は父子が先にくるのですが、この場合は殿様が臣下に向かって思うところを告げるのでありますから、君臣が先に出てまいります。それから、
    扨又、人々天祖・東照宮の御恩を報んとて悪しく心得違ひ、眼前の君父をもさし置、ただちに天朝・公辺へ忠を盡さむと思はば、却て僭亂の罪のがるまじく候。されば忠も其身分により次第有之事に候へば、前にもいへる如く、兎に角に面々の身分を考へ、真実に心を用い候はば、自ら過不及も有之間敷候。
このようにありますが、ある意味では、天皇から見ると水戸の御家来衆は陪臣という形になります。家来のそのまた家来であり、直接の家来というわけではありません。まず自分の殿様、それから自分の父母にお仕えするという形があって、初めてそれから先の忠ということが成り立つのだということを言われているのだと思います。また、江戸時代、身分制度の時代でありますから、その身分身分時処位に応じた対応が望まれるわけであります。ですから自分の家来は、家来としての本分を尽くして殿様に仕えて、初めて忠ということが言えるというわけであります。それと父母には孝を尽くせということになります。
 このようなことが下敷きになってまいりますのは四歳の時より、『孝經』というのですが、親に孝を尽くせという基本がありますが、儒教の中の教典の一つの『孝經』を良くお読みになっておられます。十九歳の折りにはこの『孝經』を写されておるようです。
 それからそのような基本的な考えを述べられた後、
    乍不肖我等は威公の血脈を伝へ、各は先祖々々の家系を継来候事に候へば、此所能々相辨へ、天祖・東照宮の御恩を報んとならば、先君・先祖の恩を報んと心懸候外、有之間敷候。先君・先祖の恩を報んとならば、眼前の君父に忠孝を盡し候外、有之間敷候。
と述べておりますが、自分は威公の血脈を伝えている、お前達は先祖代々の家系を継いでいるのだと。そのところをよく考えて、天皇、それから東照宮の御恩に報いようとするならば、まず自分の殿様、自分の先祖の恩に報いるところから始める心懸けが肝要であるというわけであります。そして烈公は直接尊皇ということでお仕えを申し上げるよりも、まず自分が存在しているところの理由の一つである殿様の家来という身分で殿様にお仕えする、それから自分の父親に孝を尽くせ、ということを基本的なベースに考えているわけであります。天下の大義と水戸家の大義とでは、若干の考え方が違うようなニュアンスがあると思います。
 藤田幽谷先生の考えですが、尊皇ということは出てきますが、未だ敬幕とまでは言えないような考えがあります。その点に就きまして烈公の方はやはり尊皇敬幕ということを、天祖と東照宮の二つを以て述べられております。その辺の所で若干の違いを見せております。
 次に、「日本国家の独立と防衛」ということにはいりますが、先ず取り上げておきたいのが會澤安の「新論」という尊皇攘夷論の教本のように考えられていたものであります。とりあげてみますと、
    謹んで按ずるに、神州は太陽の出る所、元気の始まる所、天日之嗣、世宸極に御し、終古易らず。
ということであります。日本の国は神国であり、太陽の出てくる元気の始まる所、一日の始まる所だという言い方になっております。そこに君臨されております、元首というかたは、終古易わらず、ずっと世の中の初めと共に伝わってきているということを述べております。日本国は神国であるという考え方は『神皇正統記』の考え方と相通ずるものがあります。恐らくそのような所からこのような考えも出てくるのではないかと思います。その次ぎですが、
    論者皆謂ふ、「彼れ蠻夷なり、商舶なり、漁船なり。深患大禍を爲す者に非ざる」
このように言っております。蠻夷というのは南蛮東夷ということで、南の方の野蛮人、東の方の野蛮人といった意味なのですが、この場合はイギリス人を指していたようなのですが、彼は外国人である。商舶である。又商売に来た船である。軍船ではない。又漁船である。鯨などを追いかけていた船なのでしょうか。業務用の船であるということです。日本に禍をもたらすものではない。と言って放してしまうわけであります。これが文政七年の五月、イギリス捕鯨船大津浜に上陸とでております。この時イギリス人は釈放されてしまうわけであります。その時、幽谷先生が東湖先生を呼びまして、侵略の志があるだろうから切り捨ててこいということを言うわけなのですが、幕府の使者が許してしまった後なので、私は命を捨てないで済んだということで、後に天保の改革に邁進することが出来たわけです。このようなことがありまして、外圧ということをひしひしと感じておるわけであります。
 そこでこの會澤安が国体を述べております。
    一に曰はく、國體、以て神聖にして忠孝を以て国を建つるを論ず。遂にその武を尚び民命を重んずるの説に及ぶ。二に曰はく形勢、以て四海萬国の大勢を論ず。三に曰はく虜情、以て戎狄覬覦の情実を論ず。四に曰はく守禦、以て国を富まし兵を強くするの要務を論ず。五に曰はく長計、以て民を化し俗を成すの遠圖を論ず。
ということでありまして、日本の国が神聖で、忠孝を尽くす国であり、武を尊んで民の命を重んずるということです。そういう国であるということを、日本の国がどのようなものであるか、どのような国体を持った国であるのか、神国である、忠孝を大切にする国であるということを先ず述べます。
 それから対外情勢を論じていくわけであります。この時はまだアヘン戦争は起きてないのですが、ひしひしと外圧が中国に迫り、東アジアに迫っていたということが伝えられておりますが、そのような外国の情勢を述べます。その外国が来ているのは何かというと、虜情に繋がります。恐らく侵略の志があるのだろうというわけであります。それに対して四、それを防ぐにはどうしたら良いか。国を守る為には、国を富まし、兵を強くする。富国強兵と明治以降も言いますが、国策を言い出します。その為には長計により人民を教化していく、また風俗を変えていく必要があるのだということです。これは理論で変えていくのではなくて、実際の生活を変えていくことになりますので長くかかるわけです。そういうことで国体を大切にしながら対外に当たろうというわけであります。これが攘夷論となります。
 その「國體」ということから述べられておりますが、
    帝王の恃て以て四海を保んじ而して久しく安んじ長く治む、天下動揺せざる所は、萬民畏服し一世を把持するの謂に非ざるや
このように出てきまして、帝王を保んじていく、天子様を保んじて国を守っていくのが一番でありまして、このような帝王あっての日本国ということを強く打ち出します。尊皇です。
 それから外国の侵略に対抗しようということで攘夷ということが出てまいります。それで會澤安は、この時尊皇攘夷を唱えますが、後になりますと八十歳位の時に『時務策』というのを書かれます。やはり情勢を的確に掴んでいくと開国にならざるを得ないというふうに、この會澤安は考え方を時勢にあわせてそれぞれに判断していくのです。烈公も時勢に応じて、攘夷と言われた、ただしこれから子供の時代になったら開国と言わなければならないだろう、そのような考えは慶篤公の時代になると伝えられていたようです。そして慶篤公は開国という方向で進んでいくわけです。烈公はご自分が攘夷と言われているので、水戸藩の中でもやはり開国の論というのは表だって大きくはなりませんが、ひたひたと足元から上がってくるわけであります。
 ただ會澤安は、ここでは尊皇と攘夷ということを主張していきます。これが水戸藩でもかなり浸透して行きまして、これが全国にまで浸透してまいります。これは、すぐ出版されたわけではなくて後になってからなのですが、筆写で広まるわけです。江戸時代の出版といいますのは、版木に刷って公に出版しますと、幕府の網に引っ掛かる可能性が出てくるわけです。ところが自分で筆写していくものというのは殆ど引っ掛からないのです。なぜそうなっているのかというのは判りませんが、自分が筆写したものについては殆どお咎めはなかったようであります。ですからここで取り上げたようなものも危ないと思ったら版木に刷らないわけであります。それから「新論」につきましても、これは止めておいた方が良いということで、恐らくすぐには刷られていないと思います。書いたものが広まっていくわけです。
 それからもう一つ、後になりまして、四年程たってから烈公からの諮問によりまして「對問三策」というものを書き上げて出されます。天保の八年です。改革の真っ最中ですが、「對問三策」を奉呈しております。最初からいきますと、
    先日渡辺半介より口達御座候て、ご親書寫謹んで拝見奉り
このように出てまいりまして、烈公からお訊ねがあったのだろうと思いますが、それに対してお答えしております。
    第一に上下の窮を救、仁政・武備の基本と遊ばされ候儀、次に強兵の儀、
この時代、上下、これは武士もですが、民衆もかなり困窮しております。それはと申しますと、天保七年全国的に飢饉がございまして、常総地方にも餓死者が多数出ております。このようなことを指しておられるのだろうと思います。それから、強兵の儀というのは国防に関係してまいります。やはり追鳥狩等に繋がってまいります。甲冑で閲兵式を行います。天保十一年を見てまいりますと、二度目の水戸帰国、三月追鳥狩実施とありますので、追鳥狩が始められたのはこの頃からではないかと思います。第一回、酒戸千束原にて。続いて、堀原の追鳥狩、千波原の追鳥狩等を実施してまいります。それから、
    御家中風義取直候儀
 このように出てまいりますが、これは天保の初年の頃からですが、風義取締り、三味線、琴等も禁止ということでかなり厳しくやってまいりますし、服は木綿に限るというような制限を次々に発布しております。それによって心を引き締めるということです。外から引き締めてまいります。その根本の原理というのは何かというと、「食を足らし、兵を足らし、民之を信ぜしむ」ということです。人々に対しては、国を治める場合、衣食住の「食」があることです。お腹が減るとやはり、食い物恨みは恐ろしいというわけではないのですが、人心が動揺します。国を守る兵隊が強くなければやはり国内が動揺します。民が信じなくなれば、その国は瓦解します。そういうことで、それを充足させるように、民を信じられるような国造りという事を行えば宜しいでしょうということを、會澤安という方が申し上げられるわけです。それから、
    実は官職・爵位・土・田穀・禄等の制よりして、士・農・工・商の治、それぞれ御修学、一国の紀綱画一均齊に御議定に相成候上にて、三ヶ條之儀も御行届に、可相成御次第と奉存候所
ということであります。「食を足らし、兵を足らし、民之を信ぜしむ」そのようなことを行う場合ですが、世の中の社会制度よりとりあつかって、士農工商の大分の人民の政治、このような仁政を行って下々の端に至るまで、画一均齊にはかっていこうということを提案されるわけであります。
 実際に国防に入りますが、追鳥狩が一つありますし、もう一つは土着ということです。助川の、今は海防城といいますが、元は館ということです。お城を造ると幕府のお咎めがありますので、本来のお城とは呼べないので館、館主ですから山辺義観(よしみ)は館主と呼ぶのが本来なのだろうと思いまが、今では城主という呼び方をします。山辺義観も烈公が擁立される時、一万石か一万五千石か(当時近習見習で一万石)、家老としては上席の方の家老でして、やはり南上された方の一人です。その功績に報いて、助川に一つの城を築いて移らせてます。その跡地が弘道館の敷地になるわけです。そのようにして海防に心を砕かれますけれど、その他、大砲を造られます。鉄で造るのと青銅で造るのとそれぞれございます。この時期、棚倉藩で大砲を売りに出したところ、烈公はそれを聞かれまして、家来を派遣して、内容を検分させてそれを購入されております。ですから武備を揃える、人を調練する、そのようなことを熱心にされております。
 時期は江戸の後期にはなっておりますが、まだ騒然とはしておりませんので、そこまでする必要があるかというのですが、水戸は天下の魁を自認しておりますので、先んじて憂えるということを考えております。ですから天下の憂いに先んじて憂える。対外的な侵略に備える為には大砲がいる、兵を強くしなければいけないということです。
 それで大砲を造るときに青銅を買わなければならないのですが、水戸藩というのはそれ程お金が無いので、取敢えずお寺から梵鐘を徴収させ、それを潰して大砲に使うという事をするわけです。これが後々、海防で梵鐘を鋳潰すというのはどうしてなのか、というのですが、大砲を造る為にお寺の鐘を借り集めてしまったということです。これが後々、災いを呼び起こしまして、謹慎される一つの原因になってくるのだろうと思われます。そのようなことで、海防に熱心なあまり、行き過ぎも出てくるのですが、この時期としては、やはり水戸藩としては、天下に率先して、模範を示すということで、海防に意をかなり砕かれております。
 それについては武公の時代からですが、文化年間あたりに、かなりロシアの船が南下してまいります。それに対して水戸藩も対応を迫られておりますので、海防には武公の時代から、それぞれ大沼と友部や、磯浜、その辺りに見張り所を設置するということをしていたようであります。ですから海防はこの時期水戸藩の継続事業の一つであったようです。
 それを更に一歩進めて、大砲を設置するというような情況まで持っていこうとされたのが烈公であります。ですから、水戸城の中に大砲が何門か、日本全国でも有数の大砲の数が、恐らく揃ってきたのではないかと思います。中でも有名なのが、「一発鏖虜」です。一発で敵を皆殺しにするというような大砲の名前を付けたりしますが、そのような大きな物を造っていくわけであります。
 それから、洋学、外国情報の摂取という事になりますが、国家を防衛する場合、孫子ではないのですけれども、「敵を知り、己を知れば百戦百勝危うからず」ということで、先ず自分を知り、そして敵も知らなければならないということです。敵を知るにはどうしたら良いか。漢学だけではその情報が掴めないわけですので、やはり窓口はオランダからの情報です。つまり長崎からの情報が元になります。そのようなことで恐らく『オランダ風説書』等は幕府の方から水戸藩にも回ってきて、知ることが出来たのだろうと思いますが、それよりも吉宗公が洋書の禁を緩めてから洋学が起こりますが、そういうなかで勃興してきた蘭学中心の洋学ですけれども、その系譜の中から外国情報を摂取するように努めることになります。天保四年を見てみますと、烈公の御帰国の後、青地林宗という有名な蘭学者が死去、それから亡くなった代わりの先生として幡崎鼎という方を招いて、蘭学修業をさせております。ただ水戸藩の蘭学というのは誰でもというわけでは無く、人数を限定して数名の者に修学させたようであります。この頃、豊田天功という名前で知られる松岡(しょうこう)先生、里美村の出身ですが、この方等も積極的に、今はもう洋学を学ぶ時代だということで、子供の小太郎に洋学を学ばせております。このようなことで僅かな数名の方を対象として蘭学修業をさせているようであります。
 そのようなことの成果の一つなのでしょうが、後の天保十三年には弘道館の医学館の研究等もあったのでしょうが、初めて種痘を実施すると言うところの業績まで積み上げてまいります。ですから水戸藩の洋学修業というのもかなりの成果を上げていたのだろうと思われます。その他烈公が用水器、今年のように干ばつになった場合は水が不足しますので、そのような時に水を汲み上げる装置です。このような物を考えられる事もありまして、器械関係の物も取り入れてまいります。
 それから大砲を鋳る為に反射炉を造る。このようなことは日本の技術ではなくて、外国から取り入れてくる技術であります。その反射炉を築く時には、耐火煉瓦ですが、千七百度を越えるような熱を以てしても耐えられるように造るということで、その粘土を探し求めまして、今の馬頭町の近くの小砂焼きというのがありますが、そこの粘土を使って耐火煉瓦を造るということが行われていました。その名残といいますか、それが小砂焼きとして遺っているのだと言われております。
 そのようなことで洋学の知識を導入して、国防に、又医療に役立てる。それから産業等を起こそうということで硝子の製造等も行っております。ただ工業関係の技術を持ってきましても、やはりそれを支える為の物がなかなか揃わなかった面もあるだろうし、後々の技術者がそれ程いなかったのだろうと思います。研究によってもなかなか苦心を重ねてやっと出来るということでありまして、容易ではなかったようであります。小砂焼きのように後に遺った物もありますが、この硝子製造は船を造った時の窓等に使ったのだろうと思いますが、この近くの神崎でやったようですが、なかなか上手くいかなかったようであります。ですから洋学の摂取も成就した面と失敗した面とそれぞれあったようであります。
 そのような中で、外国の情報をどの位入れていたかと言いますと、例のペリーの来航ですが、アメリカから軍艦が来るというような情報は、オランダを通じて早くから入手していたようであります。その情報を鷹司家辺りに報せていたといったことがあります。ですから外国事情も、当時としては日本で知られる限り、収集に当たっていたようであります。最初は、斉脩公によりますと、漢学者は恐れ過ぎ、それに対して武人の方は侮り過ぎると言われた時代もありまして、攘夷というのは、恐れおののいて攘夷するということですから、恐らく漢学者の考え方の中心に出てくるのは攘夷だろうと思います。それに対する開国という考え方、洋学の摂取と共に、これは外国に遅れをとってはいけない、という所から出てくる開国論です。
 水戸では、この当時攘夷が横行しておりますので、開国論を表立って唱えては身の安全は保証し得ないのではないかということで、開国論というのはひっそりと進められてまいります。烈公も表立っては言われていないのではないかと思います。内々に洩らされるということだと思います。ちなみに会沢正志斎が、後に「時務策」を書いた時は、お年を召されて痴呆になっていたのではないかということを言われて酷評されております。実際は時勢がそちらへ移っている、諸外国に遅れをとってはいけない、その為には外国の情報知識というものを摂取して国際交流をしておいたほうが後々の為、国の安全の為にも良いということを考えるようになるわけです。
 その時代の流れの変化を読んでいけるということ、烈公もそうだったと思うのですが、それ以上だったのが慶喜公です。この方は時局の転換の読みが早かったと言われております。次にこのようになると言う確信を掴むのが早かったらしいです。それで御家来衆がなかなかそれに着いていけないと言われる程の早さで変わり、君主は豹変すということで、次にこれが良いと思ったらそちらにすぐ移られたのだそうです。そのようなことで基本性は揺るがさずに、時勢を見る目が優れていたようであります。 このように、日本国家の独立と防衛ということですが、最初は侵略を防ぐということで攘夷ということだったのです。実際の所は、天保の改革の内は攘夷論でずっと通しておりますが、水戸藩の中では、洋学の摂取も進んで、開国の意識というのが芽生えつつあったのも、この時代です。ただ開国は表立っては出ていないということであります。烈公としましては、大砲をどんどん造りまして海防にあてるというのが、この時代の主な路線であります。
 そのような時代を踏まえまして、水戸藩天保の改革の施策ということでは、四大目標ほか、ということで、一に、旧弊除去と新規事業、ということが挙げられます。新規事業と申しますと、一つは経界の儀と言われております。先程申しました天保の検地ですが、それが挙げられます。それから助川海防城を造って土着せしめるということで、その時は家老について二百名程の家臣が移ったと言われております。家族が移ったとすればそれに四~五倍の人が移られたのではないかと思います。その他に十王町の友部あたりにも土着させているようです。
 それから学校の儀というのがありまして、藩校を造る必要があるということであります。これにつきましては、当時すでに地方に郷校という民衆教育の学校ですが、それを造っております。早くは文化元年です。小川村に郷校で稽医館というのを造っておりますし、それから三年後文化四年に潮来の延方に延方郷校を造っております。これは小宮山楓軒が関係しているのではないかと言われております。ただ、この辺の学校ですが、村人に講義に来てくれと言いましてもなかなか勉学に励むという習慣がないと学校に行かないわけでありまして、代納を出したりするような事情もあったということが伺えます。
 それに対しまして天保の改革になりますと、かなり強く押し進めまして、天保の六年に湊の「敬業館」が開設されます。その中で学校建設の考え方が熟してまいりまして、天保の九年に水戸藩の「弘道館記」というものを作りまして、計画を進めて参ります。そして天保十年になりまして藩校の「弘道館」が仮開館するということになります。
 ここで、弘道館の学則というのを見てまいります。弘道館に学ぶものが則る規則でありますが、
    一、凡そ学館に出入する者、まさに親製記文を熟読し、審に深意の在る所を知る。神道・聖学の其の致を一にする、忠孝の基本を二にせざる、文武の岐つべからざる、学問・事業の其の效を殊にすべからざる
とあります。これは「弘道館記」のことを指すのだろうと思いますが、そこにある殿様の志の深い所を良く知るべきであるということです。聖学というのは儒学でございます。神儒一致ということが水戸藩で言われますので、弘道館の基本は神儒一致の思想で、神道の思想と儒学の思想を一致させていくというわけであります。それから忠孝、文武ということを学んでおります。忠孝といいますのはやはり人間の基本的な生き方ということであります。文武というのはこれは文学の修業と武芸、どちらを取るかというのではなくて、両方やるということであります。そして学問と政治として行っていく上に於いて、それを別にするわけではない、学問をやってそれを事業に生かすべきだというような考え方であります。
 次ですが、大化の詔と出てきまして、やはり大化改新ということを意識しております。それから「唐・虞三代の治教」これが聖天子の時代の法則ということになります。また、「学者神を敬し儒を崇び」とあり、敬神崇儒ということが学者の基本的な考え方になってくるわけであります。神道と儒教ということを中心に述べてまいります。神道の方では鹿島神宮を御迎えしまして、お社を造っております。そこには烈公が鍛えられた刀を奉納するということで、刀の鍛練ということもやっておられまして、それを神様に捧げるということをやっております。 それから学問の内容ですが、基本的なことを述べた後、どういうことをやるかというと、『六国史』。『古事記』、『書記』等に見られる、「天祖載する所神器を伝る、詔勅詳明にして萬世の寶訓たり。国史の外、戴積尚存する者有り。亦以て稽古に資く可し。律令は則ち經世の大典」ということで、『古事記』や『日本書紀』等の日本の古典にある天祖のことを学べということが一つ、それから、律令というのは古代の法典で、原則的には明治の四年位迄ですが、官職など法制上は明治二年七月まで存続しているわけです。応仁の乱で一部無くなったと言われますが、大納言にしても、大臣にしても、律令の法典に則った制度であります。ですから律令の規則、そういったこと、又格式も考えに入れるべきだということであります。この他東照宮、威公(水戸藩の初代頼房公)義公、そのような方の言行や、定められた掟等、そのようなものも学ぶ必要があるということであります。
 次に、「文武の芸を習う」とありますが、文武はかなり広い範囲でありますので、文武を学ぶということで行きたいと思いますが、そこでは忠孝仁義を考えて学べということを言っております。それから「君子実行を務め。己を修め人を治むるは仁也。」やはりこのような所も儒教の徳目でもありますが、この時代、大学と中庸というのを先ず最初素読していきます。四書の中で大学、それから中庸。「大学の道は明徳を明らかにするにあり。それから、民に親しむにあり。至善に留まるにあり。」、朱子学でいくと民を新しくするという考えで、民を教化していくという考えになるようですが、そのような大学の道を先ず学んで、それから中庸等を学んでいきますので、君子の道、君子というのはその身を修めて天子に近づくということなのですが、身を修めていくということが中心になってまいります。
 それから「道を論ずる聖經に本づく宜き」ということがありまして、これは四書五経を指します。「後儒の説の如きは則ち以て参考に備う」というのですが、当時は朱子学が本流とみなされておりますが、陽明学等も取り入れられております。先程の藤田幽谷先生も朱子学でいかれたようですが、意外と、水戸というのは、朱子学も入っておりますが、立原翆軒が古学の系統、徂来学派の系統の学問を受けてこられているので、水戸藩ではその門下生が、良く学問を進められておるので、徂来学派の影響下にもあるものだろうとも考えております。その他陽明学の考え方も入ってくるようであります。これは林大学頭、林家中興の祖とされております林述斎ですが、この方は名古屋近くにあります岩村藩の殿様の家の出なのですが、林家の跡を継がれた方なのですが、そこの御家来の佐藤一斎も、一緒に林家の方にお仕えするという形で入っております。水戸藩からも佐藤一斎の所に出入りする方がおられまして、『弘道館記』を作る時も佐藤一斎----朱子学とその他の学問も合わせまして陽明学も若干含まれて、実践の学問ですが、どちらかと言うと朱子学が哲学的だと言われるのに対して、陽明学は実践を重んずるような学問であります----に意見を求めております。ですから水戸学でもそのような影響も入っているのではないかと思います。後儒の説ということになりますが、それも参考になるということです。
 それから、「經を講ずる者は、或いは博く諸經に通じ、或いは専ら一經を治む。」とあり、「孝經」・「論語」と出てきます。このような基本、漢学の素養といわれる位置にあるようで、子供のうちから耳にたこができる程読んでいるということです。ですから言葉を言われただけでその文句がどこにあるかというのが分かるのだそうです。それだけの学問をされていたようであります。「『孝經』・『論語』、則ち尤も精思翫味、曲暢旁通、務めて之を実事に施す。」このことです。良く噛みしめて考えを巡らしてこれを実際に施すようになれ、そこまで進めよ、ということです。読んで解釈だけしていたのではいけない、実際の場で役に立たなければだめだということです。「史を読む者は宜しく躬其の時に處し、親しく其の事に遇うが如くなる可し。」歴史は一回しか起きませんので、一回生起性といいますが、一回しか起こらない歴史を学ぶのですから、それが起きた事情を良く掴んで、それが起きたことを体験したように学べ、そうすれば同じような事象が起きた時にそれに対処出来る、というところまで読み込めということです。知識として知っているだけではいけないということです。実践に役立つようにというのが弘道館の学習の基本であります。
 それから「詩歌・文辞・天文・地理・醫卜・譜牒等」ということですから、これは古代の、大学に匹敵するような学問の内容になってまいります。儒学だけを講ずるというわけではなく、詩歌というのは漢詩をつくり和歌を読むということです。又文辞ということですから国語について調べるということだと思います。漢字も含まれると思います。それから天文もあります。これは気象にも通じます。それから地理的なものもやる。蝦夷地の地理も調べるし、外国の地理も調べる。それから醫卜、医学ですが、そのようなことも取り入れております。弘道館の場合は医学館を造っております。かなり烈公は医学にもお詳しいようで、戸田忠敬や藤田東湖先生辺りにも、酒を慎めとか、風邪をひいた時にはこのようにしろ、色々詳細な注意書を送られているようです。このようなことで、総合大学というわけです。当時かなりの坪数をもちまして日本で一番大きな藩校であります。造られたのは後の方なのですが、総合大学として整備されたなかでは群を抜いていたということが言えるだろうと思います。
 それから「兵を論ずる所は之を実践に用いる所以」ということで、やはり実際に使えるということが中心になっております。又「武技を肄うは、則ち以て戦陣の用に供す。」とあります。武技は武士の芸としてですから、現在も東武館がありますけれども北辰一刀流が入りますし、その他神道無念流もあったようです。その他鹿島の方の武芸もあります。そのようなことで、実践には剣があり、弓があり、馬があります。殿様が習うのにはやはり馬と弓です。これは指揮をしたり、何かあった時の為に必須の武芸だったようです。幕末にアメリカへ使節が行きますけれどもその時の殿様が、向こうで実際に馬に乗れといわれてその場で乗せられて、馬を操るわけです。その馬術が見事だったというので----アメリカで馬を乗りこなしてちゃんと調練出来るというのは----やはりそれ相応の身分として認められるのです。それは、幕末ですので南北戦争の前後の頃です。あの時代は、やはり馬に乗って馬を操ることが出来るというのは立派な人だ、貴族に準じる位の、大地主や、余裕のある人しか出来ないわけですから、その馬術ができるというのは外国に行った場合には優れて評価されるわけです。日本でもやはり馬をちゃんと操るというのは実際に戦場に向かった場合必要になってきますので、後々慶喜公の教育に当たられる時は、千波の辺りに山坂がありますのでそこを乗れ。それから湊辺りまで実際にお供を付けて行くようにとか、そのような実践的な指示をも与えられております。やはり実践を重んじられております。
 それから、「文武の諸生、謹んで弟子の職を奉じ、礼譲を以て相交じり」ということです。学問して集まってきますと、仲間をかたらってということもありますので、そういことではなくて仲良く身分の上下等もあるのでしょうが、礼儀を以て譲りあったりして交わりなさい、というような事まで心配りがされております。このようなことが弘道館の学則となっておりまして、基本は敬神崇儒ということであります。そして文武共に実践的であれ、ということを謳っております。それから、これは旧弊ではなくて新規事業の方ですが、弘道館は新しく造られた学校でして、新規事業となっております。
 水戸藩の改革ですが、良くまとめておられますのが、先程の『水戸藩史料』の方にもかなりの史料が出ておりますし、項目として挙げるとすれば『水戸藩史料』を挙げるか『常陸帯』を挙げるかなのですが、『常陸帯』をとりあげました。藤田彪(東湖先生)のものですが、『常陸帯』序に「東路のみちのはてなる常陸帯かごとばかりも逢むとぞ思ふ」ということでありまして、帯の端ですが、烈公と東湖先生が弘化の国難にあい、離ればなれになったという事を、後にまた一緒に協力して仕事がしたい、ということを考えてこの本を作られておるわけです。そちらでみてまいりますと『常陸帯』の目録というのがございまして、烈公が「中納言の君世を嗣せ給ふ事」ということで擁立の事情です。
 それから擁立した後、南上の人々がありまして、やはり人事異動というのがでてまいります。それでこの時代は奥右筆という方が秘書役ですので、言葉を取り次いだりします。実権を持っているのです。これは幕府でも同じようでありまして、右筆というのが秘書で、例えば、現代で言えば、社長室の室長のような形になりますので、直接殿様の廻りにいるわけです。言葉が通るかどうかは奥右筆に掛かってくるということです。殿様の御相談にも与かるという立場だったろうと思います。そのような人の所を、意見を通り易くするためにということで人事の異動が行われます。
 その言路を通じるということ、下々の言葉が殿様に達するということを意外に重視してまいりますのが「文武を勵し言路を開き給ふ事」の「言路を開く」ということであります。これによって意見を割と身分の低い武士層でも述べることが出来るようになったということが大きなものであります。この「言路を開き給ふ事」の封事ということですが、意見に封をして、殿様に出す、ですから他の人は読まないで、殿様が直接読むわけです。そのようにして、意見を殿様が聴くというわけであります。これがずっと天保の改革以前からありまして、天保の改革になっても良くこれが採られております。
 それから財政が窮乏している折りですから「倹素を守り給ふ事」質素倹約、ですから烈公の場合麻の着物や、木綿の着物で通す。絹等の着物を着る場合でも、出来れば羽二重も国産にして水戸の物が着たいということを述べられたということです。やはり公の席に出る場合には、羽二重等を着る必要があったわけですから、そのようなものでも国産にしたいということです。それから「婚姻養子の義を正しくし給ふ事」これは分家等の事も含まれております。人口の減少がありますのでそのような事を防ぐといった意味もあるのだろうと思います。
 それから「定府の士を減じ給ふ事」水戸は定府制をとっておりまして、殿様は江戸にずっとお住いになって、時折帰ってこられるということなのですが、江戸での費用が掛かるということで、百戸、約五百人を江戸から水戸の方に移住させております。それから「飢饉を救ひ給ふ事」、これはやはり常平倉といいますか、御手元の貯穀ということです。飢饉に備えて米、稗、これは稗蔵というのが各地にありましたが、そのような物を造らせております。このような貯穀制というのは義公の時代からあったのですが、稗は百年位、米は籾のまま貯穀すると七~十年位ということで、近年まで稗蔵が残っているところもあるようです。
 それから「弘道館を建て給ふ事」というのが弘道館として出てまいります。それから「朝廷を尊び幕府を敬ひ給ふ事」ということがありますが、これも先程述べました。それから「夷狄の禍を慮り給ふ事」とあります。これも対外関係として海防に当たられたということです。それで大砲を造られるということです。
 それから「神社を尊崇し給ふ事」、これは神社の制度等を、お祓い等も改革しようということで、勉強もされております。それからその次に附として「破戒の僧徒を沙汰し仏寺を減じ給ふ事」、このように出てまいりますが、義公も、無住の寺等を取り潰し、その領地は元の寺の方に預けるという形だったのですが、やはり烈公も仏閣の整理等に当たられております。それから新しく造ったものについては「御床几廻百人を設け給ふ事」、親衛隊のようなもので、家臣の中から、御床几廻といいますが、百人の親衛隊のようなものを設けられております。それから「諸書を著述して後に伝へ給ふ事」、これは『水戸藩史料』等を見てまいりますと、かなりの著述を残されております。漢詩とか和歌に限らず、色々な研究書まで作られております。また、手紙は何千通も書かれたのではないかと思われる程の筆まめであります。次に「田畠の経界を正しくし祿穀を平にし給ふ事」、ということですが、これが検地になってまいります。最後ですが、「幕府の褒賞をかうぶり給ふ事」、ということですが、これは天保十四年を見てまいりますと、七月幕府、烈公の治績を賞す、ということが出てまいります。この時天保の改革の実績が上がっていて、お国の事情が極めて宜しいということで、将軍から御褒美を賜っております。
 それでは、まとめの方に段々入って行きたいと思います。天保の改革の理想像とは何かというのが、最初のテーマだったのですが、実際はどうであったかということであります。水戸藩では一つは文教の上から、水戸家中の士風の復活振興ということがあげられて来ると思います。威公、義公の両公以来、文武に秀でた藩ということを謳われておりますので、それを取り戻すということであります。これは藩風の引締め、それと学校の義ということで、弘道館を建てて綱規の粛清と文武の奨励に励まれます。それによって質実剛健ということが取り戻されてくるのです。そのような中でも、楽しみとして偕楽園を造られるということもあります。
 それから財政ですが、水戸藩は慢性赤字経営であり、その建て直しということですが、一つは殖産興業政策をとりまして、これはなかなか充分な成功を上げられていないようです。それから物産方と会所によりまして、国内の特産物を販売するということも行われております。しかし一番大きいのは、消極的ですが、倹約令が強かったということです。ですから水戸藩は貧しいというのが、通り相場になっていたようであります。倹約令ですからどうしても停滞性を引き起こしますが、この辺に問題を残しているかと思います。その中で財政建て直しの為に、幕府からの借金の棒引きが斉脩公の時に行われております。これで随分助かっているようであります。
 烈公とされましては、積極策としては蝦夷地を領地として開発させて欲しい、それから鹿行の二郡で十二万石、天保の検地で十万石減ってしまうので、こちらの領地を欲しい。鹿行地区は旗本の家が殆どなのですが、そこも貧しい地域なのです。そこで十二万石欲しいというのはかなり虫の良い話なのですが、実際台所が火の車なのだろうと思います。
 それからもう一つ、民政の方では農村の建て直しと言うことを行ってまいります。年貢が財政の生産基盤でありますので、年貢負担を適正化すると言うことです。それと年貢を負担するのは農民でありますので、人が居ないと耕せないということで、人口の増加策を行います。この二つと、悪法と言われていた旧弊を除く三雑穀切返し法の廃止ということを実践してまいります。
 それから国防の方ですが、対外対策の充実ということで、攘夷ということです。蝦夷地の調査もありますし、洋学の摂取、それから大砲の鋳造などを行って改革を実践してまいります。
 ですから改革の骨子としましては経界の義、土着の義、学校の義、惣交代の義とありますが、文武の奨励と武備の充実ということです。内憂外患に対処する、これが一つの柱です。それから倹約の励行、風紀取締りの強化、生活改善、精神面の緊張を藩内に促すということです。 なんと言っても、財政の建て直しが、一番目に来ると思います。ところが武士の救済策になるはずなのですが、色々な問題が起きまして、半知の借り上げということを、藩主在任中に二回程やられまして、藩内に波風も立ってしまったということもありまして、実際、人事の点と経済政策の面ではなかなか困難な中を乗り切って、天保の改革をなし遂げていかれたというのが烈公の実態ではなかったかと思います。烈公は、天保の改革によって、日本に知れ渡る有数の藩にまで仕上げられたようですけれども、経済改革の面では、西南雄藩の藩内経済の立ち直りにはなかなか及ばなかった、という問題があります。この辺の所が、水戸藩が財政窮乏ということできゅうきゅうとした中で改革を進めるということで、人心を伸びやかにさせるには至らなかったようです。どちらかというとかなり締め付ける面もあったのではないかとも思いますし、その中で清貧に甘んじながらも改革をなし遂げるという情熱を持続させたというのは、幕末の水戸藩の家臣の中でも中間士層の人が頑張ったのではないかと思います。
 最後に、まとめというよりも繋がりなのですが、天保十三年に初めて種痘を実施したということがありますが、改革の仕上げとしましては、先程述べましたように天保十四年に幕府がその治績を賞したといいますので、天保の改革の終わりの時期を天保十四年までと見れば良いかと思います。かなりの成果を上げた段階におきまして、烈公が色々なことをされましたが、大砲鋳造の為に梵鐘を納入させたというのが、一つの引金になっておりまして、吉田の薬王院では、天台宗ですが、本山が上野の寛永寺、輪王寺宮様のいらっしゃる所ですが、そこに訴えます。梵鐘を潰して大砲にするというのは困るということで訴えましたので、今度は寛永寺の方で水戸藩の方にお使いを出してこれを拒絶するというようなことが起こります。それからもう一点、上野の寛永寺の子院というのが水戸の東照宮の管理をしている別当職なのですが、そちらを務めているのですが、止められてしまった。止めた例は以前にもあるのですが、これがやはり上野の寛永寺に訴えられるということで、この梵鐘潰しの件と、唯一神道に東照宮を改めてしまったという点が、寛永寺の怒りを受けたのです。これが一つの引金となって弘化の国難の時に寺社奉行が更迭されるようなことになっております。七つの罪状を挙げられたのですが、実際に引金になったのはこのお寺の対策であったようです。もう一つは、大奥との関係です。こちらが上手くいってなかったのではないかということです。生活を圧迫されるとどうしても不満が出てきますので、そちらの方からも問題があったのではないかということで甲辰の国難を引き起こしてしまったのではないかということが言われております。
 最後になりましたが、改革の理想を考える上で、一つ、好く読まれたであろう『十八史略』の言葉を以て最後にしたいと思います。『十八史略』の中に南宋の時代ですが、元朝の創業の功臣に耶律楚材という方がいまして、この方はオゴタイハン(太宗)にお仕えしていた方なのですが、この方が何か仕事をする場合、「身を以て天下に徇わんと欲す」、天下の仕事に殉じたいと思っていたということです。そして「常に国家の利病、生民の休戚」万民のよろしきとかなしみということなのでしょうが、そちらの事の考えを述べるということです。そして、太宗が「汝また百姓の為に哭せんと欲するかと」万民の為に嘆くか、ということを言われます。そうすると、楚材が常に言うのには、一利、一つの利益を興すのには、一害を除くに如かず、ということです。新しい事業を起こして利益をもたらそうとするよりは、一害旧弊を除くにしくはないと言われております。「一事を生ずるは一事を減ずるに如かず」ということです。新しい税金を取り立てようとするのだったら、古い税金を減らすより仕方ないということにも通じるかと思います。そのような事を述べておられます。
 実際からいきますと、烈公の治世と言いますのは、古いやり方----文公、武公、哀公と続きました時代の風潮等----を一掃しようというのが、一つであります。一害を除いていこうということに通じるかと思います。それから三雑穀切返のように長い時代続いてきたものも除こうと努力します。その中で、新規事業、弘道館を造り、海防事業に大砲を造ります。このようなことをやるのですが、新規事業の方には若干の危険も伴うということが考えられていたと思います。
 そのようなことで、水戸藩は天保の改革によって、新規の事業を起こし、旧弊も除くように進めまして、面目を一新して、時代の先端に位置するようになったということです。そこに先程申し上げましたような、落とし穴が待っていたということで、これが後の世に甲辰の、弘化の国難と呼ばれるものであります。そちらにつきましては次回の吉澤先生の方で充分述べられるかと思います。意を尽くしませんがどうも有難うございました。
                     平成六年九月四日講座)
                     (茨城県立歴史館主任研究員)
【補記】

 当日の資料の中で、説明を省略してしまった二点と、天保検地に関する参考文献を補っておきたい。
 一つは、斉昭公の子弟への教育観を知る上で貴重な書簡である。それは、鳥取県立博物館所蔵の鳥取の池田家に伝えられた、三通ある斉昭公書状のうちの一通である。水戸家は、文武の家であることを強調した上で、養子に出しても威義二公の名を恥かしめないように育てること。学問とともに、武芸をも鍛練させ、特に弓術・馬術・水術・に精進するように伝えているものである。(福井淳人氏「徳川斉昭の書状」『古文書研究』第一二号、一九七八年一〇月、に三通の書状の影印と、釈文がある。) もう一つは、斉昭公失脚前夜の幕府側の重大な動向を示唆するものと思われる、常陸国への御庭番派遣の事実である。(深井雅海氏『江戸城御庭番』中公新書による。)将軍が、耳目となって働く御庭番を常陸国へ派遣したことは、この時期に当たって、おそらく水戸藩家中の動勢探ったものかと思われる。かく考えて大過のないものならば、将軍及び幕閣の中枢が、水戸藩の天保改革の動向を如実に、客観視し得る情報の収集に努め、かつ、これを把握していたものと考えてさしつかえないのかも知れない。
 水戸藩の天保検地については、大石慎三郎氏「水戸藩天保の検地とその意義」『経済論集』第一一巻第二号、昭和四九年(学習院大学経済学会)が、まとまり良く参考になる。詳しくは、『水戸市史』中巻3、昭和五一年水戸市、の第一六章天保の改革2、第八節天保検地と税制・禄制の改革(七六三~九〇五ページ)がある。また、乾宏巳氏「水戸藩の天保改革」『茨城県史研究』二三、長野ひろ子氏『幕藩制国家の経済構造』昭和六二年(吉川弘文館)等がある。
                   (平成六年一二月二八日識す)