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改革の発端とその発想

                  仲 田 昭 一


 皆さんお早うございます。本日は第一日目と致しまして、改革の発端とその発想というテーマでお話をさせて頂きます。
 烈公に就きましては先程、名越会長の方から、天下の魁になるという決意のもとに改革を進めていかれたと、そういうお話がございました。義烈館の宝物の中に、大きな陣太鼓がございますが、そこにも「震天動地」、すなわち「天を震わし地を動かし、雲を起こし風を発す、三軍踊躍し進んで忠を尽くすことを思う」、こう示されております。これは天保十二年の十一月に作られたものでして、千波原で行なわれました追鳥狩りの先陣の合図に使われたとそういう由緒ある太鼓でございますが、そこに示されているのが烈公の精神であり、正に烈公の生涯はそのものであったかと思われます。
 烈公の藩主になられるまでの資料は、余り多く知られていません。実際私も数多くは見ておりませんので、中々判りかねる所が多いわけですが、それらを前提としながら、お話を進めさせて頂きたいと思います。
 改革の背景というものをお話致しまして、どのような決意を以て、烈公が藩主になられた後、改革に臨まれたかということを主に申し上げたいと思います。そして、部屋住時代にどの様な発想が培われたのかということ、それが具体的にはどのように改革に現れていったのかということは、次回の齋藤先生の方にお願いしたいと思います。更に烈公につきまして、尊皇攘夷といいまして、その攘夷のほうはかなり言われているわけですが、烈公もだんだん考えが変わりつつあり、またそのきっかけとなることはどのようなことであったろうかということ、そして、先程名越会長から、烈公に対して一番水戸の領民達が感謝をしておったというお話がございましたが、他藩の人々はどのように烈公を見ておったのかということの一部をお話させて頂きまして、全体を通させて頂きたいと思います。
 烈公が誕生されますのは寛政の十二年三月十一日になります。それ以前から水戸藩は勿論、全国におきまして様々な問題が生じておりました。この寛政十二年から藩主になるまでの間、三十年間です。その間も益々山積する問題、内憂外患と言われる問題が深刻化していっております。先ずその背景と致しまして、当時の内憂、国内の問題、それから異国船がせまってまいります外患と言われる問題ですが、その二つに大きく分けまして、お話いたします。
 この水戸領の近辺に隣の栃木県の、今は黒羽町となっていますが、黒羽藩に鈴木武助という郷方改め役の、家老的存在の人物がおります。明和五年、一七六八年に黒羽藩の改革に着手するわけです。この方をなぜ出しましたかといいますと、水戸藩への影響が、かなり見られるからであります。年表から鈴木武助について見ていきますと、その後寛政元年に黒羽藩の鈴木武助が間引の禁止令をだすという事項があります。それから更に下りまして、文化二年、鈴木武助の『農喩』が出版されております。この鈴木武助がどのようなことから農村問題を解決しようとしていったかと言いますと、その発端はあの勤皇の運動家で有名でありました高山彦九郎が、天明の飢饉、これが大きな問題でありましたが、この天明三年から全国的に大飢饉になりましたその後を訪ねております。寛政二年に水戸を訪問し、幽谷先生等とその大義について論じた後東北へまいり、実際には蝦夷地へ向かおうとしたわけですが、それが叶わずしてまた戻ってまいります。その東北旅行の時に悲惨な天明の飢饉の様子を目の当たりにし、その帰宅途中にこの黒羽藩の鈴木武助の家を訪ねるのです。当時鈴木武助は改革を実行しているということで、良く名が通っていたようであります。それを以て高山彦九郎も、鈴木武助を訪ねて行くわけですが、その天明の飢饉の悲惨さを聞いて、鈴木武助は尚一層この農村改革に尽くさなければならないと思い、そのようなことから『農喩』という農村への教戒を書き記して示すわけです。その内容は、飢饉の憂いの事、それから飢饉が度々起こっている年数の事、餓死人の事、天災地変の事、このような事等を、十か条に認めて領内の農民達に示して、飢饉への対策、心構えを説いて行くわけです。これが、水戸の領内の郡奉行達に伝わりまして<水戸の領内でも、この『農喩』を広めていくことになるのですが、その郡奉行より前に、現在の玉造町かと思いますが、羽生村の冨田惣助という人物が、いち早く『農喩』に気付いて筆写しているのです。その筆写本を、丁度その冨田村を担当していた南郡の郡奉行小宮山楓軒に、これを広めたいということを申し出て許可を受け、それから水戸の領内に広まっていったようであります。
 それでは水戸の領内では当時はどのような対策がなされておったかといいますと、文公治紀が水戸の藩政の改革に着手されておるのが天明八年、天明の飢饉の最中であります。また、只今出てまいりました鈴木武助が間引を禁止するということ、これは水戸の領内でも教え諭されております。資料を見てまいりますと、寛政三年(一七九一年)五月、文公の時に出されているもので、それぞれ改革の為に藩主から郡奉行、或いは農村へ出された教戒の一つですが、
    出生の子を取り挙げざる義は常陸下野等の風俗にて、人倫に相背き候ことに付き毎度公辺より御觸れこれあり、先年より此の方に於いてもかれこれ御先代御世もこれ有せられ候
このように度々、子返しといいますか、間引のことは注意をされておりました。それから
    我ら家督以後も申し達し候事共もこれ有候、子を挙げざる儀は、前段に申す如く人倫を忘却致し國の恥辱に成り候事にて、禽獣も子を愛し候儀、況や人に於て子を挙げざるは禽獣にも劣り候、是程恥ず可き事はこれ無く處、昔よりの汗俗染居り候儀、気の毒至極に候。
これは、獣にもおとる行為であるということですが、ところが、
    近年、町方郷村ともに宜しき心得のものもこれ有り、育子の義にて心を用い候趣、相聞こえ一段の義に候。
このように、段々その意味を良く理解して育子にも心掛けてきているようであるが、今後尚一層この「子返し」をやめて、育子に心掛けるように、という達しが出ております。これによって、逆に言いますと、子返しがかなり行なわれていたということが判るかと思います。
 県内の子返しを戒めた資料と致しましては、絵馬がございます。利根川べりの利根町の徳満寺と言うところに収められております絵馬でございますが、産婦人が生まれた赤子の首を締めようとしておるところです。それが後ろの障子に影となって映っておるわけですが、その影には妊婦の頭から角が出ておりまして、もう人間ではないよ、ということです。右上には、悲しげにその様子を眺めている地蔵菩薩が描かれていたわけなのです。これを以て子返しを戒めようと、また、子返しをしなくても済むようにという願いが込められておるわけです。この絵馬に注目致しましたのが民俗学者の柳田国男でありまして、丁度現在の利根町に疎開しておった時にこれに出会うのです。短い文章ですがちょっと読んでみます。
    約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄が、産婦の女が鉢巻きを締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。
ここから柳田国男が民俗学に入っていくというきっかけとなった、いわれのある絵馬でもあります。
 こうして、常陸下野等の風俗として注意を促されていた子返しの事でありますが、実はこれは全国的なことでありまして、関東近辺に限ったことではありません。仙台の市立博物館へ行きますと、これよりももっとリアルな、掛け軸でありますが、まさにその子返しで、血が飛び散っているような悲惨な絵が出ております。それから、先般行ってまいったのですが、久世という町が岡山県の真庭郡という所にあります。丁度鳥取県と岡山県の境辺たりにあるのですが、この町に早川正紀という代官が顕彰されております。この久世町というのは幕府の天領であり、早川代官が派遣されまして、丁度烈公が誕生されます一年前、寛政の十一年に、領民に対して、教えをまとめます。その教えが、「久世条教」と呼ばれるものです。この中で、久世の荒廃した農村を改革するのには、どのようにしたら良いのかということで、養蚕業を興そうということを提案します。それから、これは一般的、儒教的な教えですが、孝貞を厚くする。それから孝行心、それから節倹を尊ぶ。これは一般的な改革の一つであると思うのです。それから洗子を禁ずるということ、これが間引であり、このことも含まれているとすれば、やはり山陽山陰の方においても間引が行なわれていたと言えましょう。
 それから、この教化策としましては、「典学館」という小さな学校を建てまして、農民の道徳心を高めるということに務めておったようであります。この久世代官の功績が上がりまして、久世村は非常に平穏な、また住みよいといいますか、領民達の意識の改革が実現されていくわけです。これを以て、早川代官を顕彰しようという動きがずっと今日まで残っており、早川祭というものが行なわれております。また、早川代官の石像が立てられております。
 さらに、その地域の人々は、今は稲荷神社としてお祀りしており、そういう姿に接しまして、この早川代官の農民に対する思いというのが、今日までずっと生きているという感じを味わって参りました。 水戸領以外でもこのような問題が山積しておったということを捉えて頂ければと思います。
 それから水戸におきましては、寛政の十一年、丁度この「久世条教」が書かれた時ですが、藤田幽谷先生が『勧農或問』を書かれております。この『勧農或問』は当時の問題と致しまして、「奢侈之弊」質素倹約をしていかなければという根本問題、それから「兼併之弊」といいまして、これは貧富の差の拡大、不正な土地所有ということが行なわれているということ、また、「力役之弊」無理な労役が農民に課せられているということ、それから「横歛之弊」といいまして、過重な税負担、これが農民を苦しめているということ、それから「煩擾の弊」ですが、法令の改められることなく、以前の古い法令のままであるということから法令を整備するということ、更には人材を登用するということ、賢い人材、立派な人物を採用するということ、これが現在の改革に是非必要な事であるということを示しておるわけです。
 この四番目の「横歛之弊」というのは、特にひどいものは「三雑石切返」という言葉で表現されております。このことについては後で述べますが、三雑石とは大豆と稗と荏を言います。二割の延べを掛けて、結局藩の収入にするということなのですが、実際には頼房公の時代から行なわれていたことでして、この大豆や稗や荏が秋収穫されます。これを安い値段で形式的に藩が買い上げる訳です。翌年春に、高くなった時に逆に高い相場で、農民に強制的に売りつけるということでありますから、なんのことはない、藩がこの大豆や稗や荏を持っておりまして、高くなってから売るという、いわば土地転がしのような表現を致しますれば、三雑穀転がし、というようなこともいえるかと思うのです。
 そういう、領民からすれば不正の方法を取っておるということ、これが領民を痛めている、という指摘を幽谷がされるわけです。こういう農村の問題があるわけでして、それに対して藩主、及びその任に当たる郡奉行達から農民への教戒というものもしばしば出されているわけです。
 特にこの育子策によりまして、文公の時代から後の水戸領の出生人数をちょっと見て参りますと、寛政の三年、丁度育子策の教えが出された時です。この時は、今まで減少しておった出生人数が、五千人になりまして、このお触れもある程度の効果はあったかと思われます。寛政三年以降を見ますと、四千人から五千人代で増加していたことが判ります。さらにまた一旦緩みまして、寛政の末から享和にかけてですが、享和三年から文化三年までの間を見ますと、これも文公の直書が下賜された時以降です。七千人代に復興しております。農村の復興を第一にと心がけている当時の人々の苦心が、少しは実りつつあったかというような感じも受けます。
 ちなみに全体の藩の人口を見ますと、享保の十七年といいますから吉宗の時代になります。この時の水戸の人口は三〇九,七一一人。文化元年はずっと落ちまして、二二三,六三五人。恐らくこの頃が最低の人口かと思います。それから文政十一年に二二七,四〇三人。天保五年には二四二,九三九人と段々増えてきているということ、そういう人口の変化が見られます。但しこれは農民人口に限ったことであります。こうして農村の復興ということは最も深刻な問題でありました。
 このような背景を持って烈公が誕生される訳です。
 それともう少し内政の問題に触れてみますが、『勧農或問』が書かれました寛政十一年には〃江戸仕掛盛ん〃ということがあります。この江戸仕掛けというものは文公の実弟で家老であります中山信敬が水戸にやって参ります。この中山信敬が提案をし、実行していったといわれるものですが、江戸風を採り入れようと、そして水戸を盛んな賑わいのある町にしようという考えがあったようです。春秋に馬市を設けること、江戸から角力取りを呼んできて江戸角力を行なおうということ、それから千波沼に夜船を浮かべてどんちゃん騒ぎをやろう、それから江戸の芝居を呼んできて江戸芝居。こういうものを盛んに行なっていくのです。表面は華やかになったようであります。「水戸は元来素朴を風となす。ところが、にわかに変じて大都会の如し。酒楼(酒屋)、それから茶店、飲食店、衣服も華美になり、奢侈、華麗な姿を見ると殆ど江戸のようである。」という言葉で表現されてますから、この江戸仕掛けというのは、水戸の町を盛んにはしましたが、それは一時的な徒花のようであったろうと思います。間もなくその翌年には幕府から中止をさせられております。
 それからもう一つは、献金郷士が盛んに取り立てられるということです。寛政の七年あたりを見ますと領内から沢山献金をして郷士に取り立てられる者が出まして、その中では、この近くでは那珂町の菅谷に、小宅さんという家がありますが、その小宅さん等は寛政七年の頃献金をして郷士になっております。文政年間になるとさらにそれが広まっていくという状況になります。丁度武公が藩主になられまして一時この献金郷士はやむわけなのですが、それが更に復活していくという状況がございます。
 それから、続いて対外的な問題を見ますと、文政四年から天保にかけまして、平磯から湊、磯浜などに異国船がどのように出没していたのかということであります。初め文政四年の七月十二日に、久慈浜村辺りより十里程沖にて、平磯村の漁舟が異国船一艘を見受け訴え出る。この漁民がどんどん異国船が来たということを藩に伝えていく訳です。これが四年五年六年七年とずっと続いておる訳です。これは水戸領にとりましては非常に深刻な問題になります。この報せが水戸を通じまして更に江戸の藩邸に届いていることは充分考えられるわけであります。このように深刻になる前に、それでは対外的にはどのような対策が執られておったのか、といいますと、寛政の元年にロシアの使節ラックスマンが、根室に来航して通商を要求するという大きな問題が起きております。これをもちまして幕府も北方を重視するようになりまして、寛政の十年、天下野村の木村謙次が、幕府の近藤重蔵らと共に択捉を探検しまして「大日本恵登呂府」の標柱を建てます。こういう大きな仕事がなされるわけです。木村謙次はそれぞれ報告書をまとめていくわけですが、その一つに『蝦夷日記』があります。その『蝦夷日記』、木村謙次については、『水戸紀年』によりますと、寛政十一年の頃です。『蝦夷日記』を見てみますと、
    此頃北狄ノコト怪シムヘキモノアリ、既ニ幕府ヨリ蝦夷地服従ノ政ヲ布キ玉フ、公密ニ木村謙次郎ナルモノニ命シテ蝦夷ノ風土ヲ見セ玉フ、謙次郎エトロフ及ウルップ島マテ往キテ翌年帰リテ地勢人物等委シク筆記シテ上ル、此以前此二島ニ至ルモノ曾テナシ、謙次郎カ労ヲ賞シテ拝謁ヲ許シ五人扶持ヲ賜フ、謙次郎ハ天下野村ノ民ニシテ学問ハ立原甚五郎門人、醫ハ吉益周助ニ學フ、一日曾テ盗賊追捕使松原禰一衛門其容兒尋常ナラサルヲ見テ已ニ擒ントス、謙次郎従容トシテ謂テ曰我ハ儒生ナリ立原甚五郎門人ナリ、盗賊ニ非ト云テ轟橋ノ芝ツキニ坐シテ懐ヨリ經書ヲ出シテ講シテキカシム、其言行此類多シ豪侠ノ風アリテ一奇人ナリ
このように書かれております。この『蝦夷日記』を筆写した者に、筑波山麓の小田から出ました名主で、やがて農政学に邁進していく長島尉信という人物がおります。元はこれは彰考館総裁の藤田幽谷が持ってりましたが、その後亡くなられてから会沢正志斎の元に伝えられたということでありまして、天保四年に長島が筆写するのです。その時の感想があります。その一部ですが、
    予境ヲ隔、未ダ其人ニ見マエズ、且今此人世ニ在ヤ知ラズトイエトモ、其ノ人トナリ、此日録ニ於テ見ルニ足ル、況ヤ此詩ヲミルニ於テヲヤ、
とあります。文化八年に既に木村謙次は没しておりますが、こういう感想なのです。続いて、
    嗚呼水戸の国タル、世々明君明臣上ミニアレハ、下モ又此ノ如キ人ヲ出ス、木村氏何人ソヤ、水戸城西金砂山ノ麓天下野ノ人、自ラ草莽ノ田人タリ、其位相同クシテハサルハ志ナリ、予深ク慙愧シ、西山氏カ示ス所ノ詩ヲ録シテ其志ヲミルノハシトス、
こうありますが、木村謙次のような志を、自分も真似ていかなければならない、そういう感想を持たせた『蝦夷日記』であり、又木村謙次そのものでありますが、このような気迫の人物が北方探検を実行していくわけです。
 さらに、文政七年五月にイギリス捕鯨船員が大津浜に上陸したことは、父幽谷の命を受けた東湖先生が死を覚悟して臨み、会沢正志斎が「新論」を執筆するなど、水戸藩では特に危機感をつのらせました。この大津浜事件は、茂木藩の名主浜野市右衛門の日記でも見られますから、他藩の人々にも相当強い関心を持たせた事がわかります。
 こうして、内憂は勿論、外患に関しても水戸の藩士以下領民が、警戒をしてその対策を煉りつつあった時代であります。
 その頃、烈公は藩主になられる前ですが、どのような生活、又学問をされておったのかということに移りたいと思います。
 史料を見てみますと、部屋住時代の書というものがあり、徳川博物館に収められておるものがありますが、「桃栗三年柿八年面壁九年一夜夢」とあります。面は表面の面です。それから壁。これがどのようなことを意味するのかということは、はっきりは判らないのですが、下に達磨の絵も出ておりますので、我慢が第一といいますか、すぐ弱気になっていくのではないかという意味もあるでしょうし、七転び八起きというように、後に藩主になるかどうかということは別にしまして、部屋住時代と言われる間の烈公の精神がこの中に現れているのではないでしょうか。具体的にどのように取るかというのをはっきり言うことは難しいことかもしれませんが、この書を見て、それぞれ想像をめぐらすことができると言われているものです。
 それと併せまして、烈公がどのような教育を受けておられたのかということですが、
    我等抔は、三ツ四ツの節より文公御供にて毎朝々々面白くもこれ無き寒さに御庭の御供いたし、武公の御世にも同様毎寒中御鷹に相成候へは、御灯燈にて入らせられ夜も又御灯燈にて御歸りに相成、手も足も皆ひヾにて血流れ申候を、足あらひ候節にあかすりにてむしり取候へき、耳抔は霜やけにて絶えず血のみ出候へき、鶴千代抔も寒く相成候はヾ、朝は七ツ頃より起き候て、水にて顔あらひ、入側の障子抔あけ、顔へ風のつんつんと当たり候所にて大声にて四書にてもよみ、少々空しらみかゝり候はゞ、直に鷹に出従ひ、鷹合申さざる日たりとも、一廻り庭を廻り歸候て食事にても致し、書物成剣術なり致し候のよろしく候、こたつ抔へくヾり込居り候様にては迚も用に立候人には相成がたく候云々
という書簡があるわけなのですが、これは長男鶴千代公の教育係に宛てたものであります。こういうような事からも非常に厳しい教育を受けており、それだけに鍛練が行き届いて、さらにはその北地(蝦夷地)経営でも何とも思わないと言うような精神もここから起こったのではないかといわれております。
 それから武術の方も、『神発流創建記』に出ているものですが、
    御鉄砲を御始メ遊ばされ候は文化五戊辰之年にて、御年御九歳之御時武公様へ御願遊ばされ候て始めて
とありますから、九歳の頃にはもう鉄砲撃ちも始められた。それより段々修行を重ねられて、やがては数十万の玉を撃つようになった。一日に百発位は、練習として撃つことになりまして、非常に砲術も上達されたということであります。まさに文武共に励まれておったという様子が伺われると思うのです。このことなどは海外の情勢を知るにつれて、段々それが強くなっていったのだと思います。
 謹慎を受けました弘化元年の後、阿部正弘に報告しております『新伊勢物語』という物語、烈公の書簡を集めた物があります。その中では尾張と紀伊は上方の抑えである、自分水戸家は奥羽の抑え、北方の抑えと心得ております。やがて藩主になりましてから、幕府に領地加増を願うわけですが、その土地というのは常陸の近くか又は松前や蝦夷と思います。そしてここにおいて常々海防を心掛けて、「内地非常の節は、奥羽の抑えに相成候所を好み申し候」この奥羽の抑えと、それから北方からの外患に備えるという考え方が烈公には非常に強くあるわけですが、それはいつ頃からその考え方が起こっておったかと言いますと、更にこのような文章があります。「日本がこの後乱れ申す可くは、必ず外患より始め候ことと部屋住のうちより懸念致し候」こうありますから部屋住の時代から、これから必ず日本の大きな問題となるのは、対外の問題から起こるであろう、このようにいっておられます。ですからこの藩主になられる前でも、外患に対しての心掛けというのが非常に強かったということがわかると思います。そして自分は三十年前よりこのようなことを考えておったが、しかしながら部屋住の身であるので、申し上げる手段もないまま打ち過ぎてきたのだ、このように述懐をしておられます。更に日本は神国であるから異国に侵略されるということは無いというような気持ちでおるものが多いが、日本は昔より武勇を励ましてきた国なのだ、例え、神々にて守られているとしても、神を頼まずに自分の力で守っていかなければならない、こういうことも『伊勢物語』に示されております。これらの事から、外患に対する決意が早くから固められていたということが判るかと思います。
 もう一つ藩主になられる前の事としまして、次のようなことがあります。
    二十歳代後半のころ、水戸藩が三百両もの大金をかけて、上野吉祥院の僧等を招き、小石川後楽園の池で放生会(捕らえられた生類を買い集めて放してやる儀式、古代から社寺で行われていた)を行ったとき、斉昭公は部屋住みの身ではあったが、「心ない鳥などを三百両もかけて放つよりは、身分の低い貧しい庶民の家に、この大金を分け与えてやったならば、何よりも神仏の恵となるであろう」と言われたという。これも今度は領民に対しまして、優しい心持ちというのが、この部屋住の時に既に育っておられたということが考えられます。
 こうして、部屋住のなかで、烈公の、水戸藩、又は国家全体を考える考え方が育っていったものと思われます。
 それでは、藩主になられるときに、どのような問題が起こったかと言いますと、烈公の兄は八代藩主斉脩公です。その奥様が、将軍でありました家斉の娘峰姫であります。家斉の十三子になります。その弟に清水恆之丞がおりました。四九子です。兄斉脩公が文化一二年に峰姫と結婚されております。その後幕府からは、毎年一万両の化粧料が下される。それから結婚されて五年後には、幕府からの借金九万二千料余りが帳消しになるというような恩典を受けております。将軍家と他の大名との婚姻というものを見ますと、多くは御三家が中心になります。尾張や紀州、さらには御三卿といわれる田安、清水、一橋の方に、縁ずけ、又は縁組をなされます。その一例と致しまして、家斉の長女と結婚を致しますのが尾張藩です。淑姫というのがおりますが、この時には尾張藩へ五万両が与えられまして、五年間に渡って七千両が下されます。こういう恩典があります。そのように幕府との縁組というのは非常に、藩にとっては潤う面があるわけです。その逆に婚姻関係を結ぶ為に藩でも出費をするというような、東大の赤門に見られるように、金沢藩の出費等も見られますが、有利な面があるわけです。
 この面から言いまして斉脩公にお子さんが生まれないということから跡継ぎ問題が出てくるわけです。そこで門閥派と言われます、榊原、太田、その他関、さらには執政でありました朝比奈、家臣の藤田北郭、家老であります鈴木、赤林、こういう面々は当時の老中水野忠成、これらと結託いたしまして峰姫の弟であります清水恆之丞を養子に迎えようとこういう計画を立てるわけです。それに対しまして部屋住であります烈公がおられるということから改革派がこの烈公を藩主にという運動を起こすわけでありまして、この両者の対立が非常な問題となったわけであります。山野辺兵庫、川瀬七郎衛門、会沢恆蔵、杉山千太郎、藤田東湖先生等々の改革派の面々は何とかしてこの烈公を藩主にと、そういう二つの対立が起きたわけでありまして、やがて、哀公のご意向によりまして烈公が藩主にということになるわけです。このことで判りますように、金権主義の気風がかなり強まっており、更に苦しい水戸藩の台所を考えた上で、幕府との縁組これを望んだ門閥派。これらの問題をどのように解決していくかということは、烈公が藩主になられました後大変な問題でありました。それは当時の水戸藩内の気風というのがどのようであったかというのは、安政元年の六月一六日付けで武田耕雲斎に宛てた烈公の手紙ですが、これは当時の気風を見ますと「文公御世」とあります。「我ら土屋・讃岐・中務」とあり、年が接近しておりました叔父の土屋とか、弟讃岐・中務、この面々が、
    三四才ばかりの節、一同庭へ行き、薹へ行き候節(未だ幼年にて奥付きの人と一同にて行候頃なり)にわかに雨降り候故、薹の畑に之れ有る芋の葉を一枚ツツ取り、頭へかけて帰り候處、御休息の前通り候節文公にて御覧遊ばされ、直ちに御縁下まで召し候故、何れも罷り出候へば、其の芋の葉は何れより取り来たり候哉、畑の主へ断り候哉とのお尋ね故、にわかに雨降り傘之無き故云々何れも申し上げ候へば、断り無く取り候ては盗み候訳にてたとい下々の者の品たりとも、盗み候ては相成らずとて何れも三日御叱りにて部屋へ引き又奥付きの者・乳の者なども三日御咎めにて部屋へ引き申し候へき。
謹慎です。この指導を受けたという事です。「文公御世にはお庭の木葉一枚取り候人も之無く、又草履下駄など用い候人も之無き候處、」この様に非常に緊張した時代であったということが言えます。「武公にては、御寛かにあらせられ候へども、先御世の風にて押し来たり候故猥りの者も之無き候處」段々時代が下りますが、しかし文公時代の気風が残っておった。「哀公御世に相成り候ては次坊主にて庭の池の釣りをいたし、投網いたし候も常に之有、」池で釣りをしたり、投網をしはじまったという。「加藤□大夫・岡崎采女等御小姓の節は、哀公にて、小梅より数多鯉を御取り寄せ御庭前に之有八畳敷ばかりの吹き出し之有る池へ御放し遊ばされ候處、その夜何れも打ち寄せ右鯉を取り、坊主部屋にて料理いたし酒の肴に用い候義、」こういう事になってしまった。「眼前我等見及び明朝御尋ね之有候へば、獺取り候と申し上げ候て、それきりに相成る」我々は知りませんよ。獺が取ってしまったのではないかというようなことになって、そのままになってしまった。これは、細かい詮索では有りませんが、文公時代から、哀公時代へと段々気風が緩んできてしまった。これは上級の藩士の利益本位の政治姿勢こういうことも大きく影響していたことではないかと思います。そういう背景でもあったということです。
 それから、烈公の改革の一つとして、仏教界の粛清が挙げられます。寺院関係の方々からは非常な不評をかっておりますが、当時仏教界がどのようであったかということも一つ注目しておく必要があります。この『水戸紀年』等により、寛延三年(一七五〇年)頃の様子を見ますと、
    僧侶神人修験近来其学業ニ懈リ、其家々ノ法式ヲ失ウニ至ル、今ヨリ面々学問ヲツトメ励シ、各職事ニ怠ルヘカラサル旨一宗一寺吉田大宮司等ニフレ示ス、スヘテ九条尤厳重ノ命令ナリ
とありますから、僧侶を初め、修験者に至るまで、本来は学問を勤めなければならないのに、それを怠っていたという状況、それからその年ですが、
    今月近年僧侶神人常ニ酒宴遊興ニ耽リ、音曲乱舞ヲ玩ヒ、其ノ行戒ヲ乱シ、神祠仏閣ノ修造ニ怠リ屡権化ヲ請モノアリ、本寺大社タルモノ、ヨク其職ニ臨ミ末寺末社ヲ教化スヘキ旨令アリ
とありますから、学問を怠っているばかりではなくて、酒宴遊興に耽っていたということも、その後しばしば『水戸紀年』には出てまいります。こういうことを見ますと、余程当時の寺院を初めその関係者が頽廃しつつあったということが言えるのではないかと思います。烈公は後に仏教界を保護するということは、対キリシタン政策で、幕府が保護したということがありますから私は余り手が出せないということは言われているのです。しかし、天保十三年ですが、領内の僧侶の主だった者に講義をさせたところ、非常にまずい講義しか出来なかった。これほど僧侶達は学問を怠けていたのかという嘆きを訴えておられますが、これらも考えてみますと、仏教界を批判するばかりではなくて、何故仏教界が粛清されなければならなかったのかということからも、考えてみる必要があります。
 これらを改革しなければならないという任を負うことになった烈公からすれば、大変な決意を持って臨まれなければならなかったかと思います。水戸の藩政改革が、簡単に着手できたかどうかというと、この背景を見ますと、その苦難の程が判ろうかと思います。それでは藩主になりました烈公が、どのような方針をもちまて藩政に臨まれたのかということに参ります。
 やはり発想の第一は先程二十歳の頃の、三百両もかけて鳥を買って放生会を行ったことを批判した例を挙げましたが、まさに民を愛する、封建領主から民を愛するという言葉が出るということは非常に驚きのものであろうと思います。これは文政十二年の十月十八日のことです。襲封の翌日になります。郡奉行達に示したものでありますが、その一部です。
    我等心付と申て外にも之無候へ共、民は国の本也と申せば御遺領相続仕候ては愛民専一と存ぜられ候、扠又愛民と申ては色々仕方も之有る可く候へども、先ず横斂の政を罷候事専一と存ぜられ候
先程触れました無謀な年貢と言われております三雑穀切返しですが、これは藩の為には良く、財政が豊になる方策の一つかも知れないが、民にとっては、莫大の損である。こういうことを考えますと、これを早く止めて良民の負担を少しでも軽くするということ、これは幽谷先生等が唱えられていたこと、このことを止めることを第一に挙げられて実践しようとされたわけです。しかしこれは非常に難しくて実現したのは天保十三年であります。その間はこの法令は改められることなく続けられたわけで、税制改革の一つといいますか、それが非常に深刻であったということがわかると思います。
 もう一つ、この農民に対する気持ちが現れているのが、義烈館の中にも展示されておりますが、農人形であろうかと思います。先日、朝日新聞社の記者が電話をかけて参りまして、「尊皇攘夷、又は攘夷の先鋒として烈公というのは非常に激しい人であり、怖い人と聞いておりました。ところが、農人形を作って農民に感謝したということを聞いたのですが、あの烈公さんが本当にそのようなことをされたのでしょうか。」という質問がありました。
 これは若い方であったのですが、私共は農人形を非常に大事に思っておりますが、なかなか知られてない物であるのかも知れません。愛民の思想としては、水戸藩が、三十年間も立派な政治もやってこれなかったのに、その間何の貢献もしてない自分が農民に恵まれて来ておるという気持ちを「ちゝに思ふ一つ報いもあらぬかな三十年民に恵まれし身の」という歌で示されております。また農人形については農民への感謝として「朝な夕な飯くふ毎にわすれしな恵まぬ民に恵らるる身は」の歌がよく知られております。こうして食前にお供えして、感謝をし、召し上がられたということでありますが、これはやがてお子様方にも分け与えられたようであります。
 それから十一代の昭武公も陶製で作られております。同じような大きさであります。それから皆様は弘道館の中で大きなものを見られると思いますが、これは昭和になってからの制作であります。
 また、昭和五年に農事試験場が酒門にありまして、それが現在の若宮町に移される時に、記念としてその農事試験場の桜の木で作られた農人形があります。これは富岡圭山という方が彫られたもので、現在上国井にあります農業試験場の所におかれております。それと同時に県の農会の三十周年記念が、現在の水戸二中の所にありました武徳殿で催され、その記念にやはり富岡圭山が彫られたのが弘道館の農人形であります。水戸では農人形は有名でありますが、全国的にはどうなのだろうか、といいますと、烈公の御嬢様、彰子様(松姫)が岩手県南部藩の南部利剛と婚姻された時に持っていっているのです。そこで南部藩にも烈公の作られた農人形が残っているわけです。それを見たのが新渡戸稲造なのです。新渡戸稲造の父親で勘定奉行になっておりました常訓がおりましたが、その常訓から南部藩の農人形の話を聞いて、新渡戸稲造は非常に感銘を受けて自らブロンズで鋳造するのです。その裏には、「この像は毎食時膳の上に供え、飯粒を笠の中に置き、子女をして粒々辛苦を知らしめける為水戸烈公が創成せられし物今模造して同好に領かつ」と記されて、明治四十一年の六月に作られております。新渡戸稲造も英文の解釈文を添えて、やがて外国にまで持っていったといわれております。国連事務次長になりますのが大正九年ですが、おそらくその時にも外国へ持っていたのではないかと思われます。
 こういうことからしますと、烈公の精神というのは言わば世界に迄及んでいるという考え方を取っても間違いではないだろうと思われます。こうして愛情のこもった政治を領民へなしていこうとされました。ところがそれが実際にスムーズに行くかどうかというと、先程の門閥派の問題でもちょっと触れましたが、中々容易な事ではありません。
 郡奉行達とその藩政や郡政について諮問をし、改革を進めて行く中にあって、水戸藩の歴史の『東藩文献史』を編集するのが天保二年なのです。その問題から発しまして、改革派で登用されておりました郡奉行の会沢正志斎が、彰考館の館員として左遷されたと言いますか、改革派が職を辞めさせられるのです。その時に、郡奉行の一人でありました川瀬七郎衞門教徳が激しく烈公に抗議をするのです。さらには東湖先生等も出勤をやめて烈公に抗議の意思を表明するのです。自分の味方をしてきたと思われる改革派でさえ自分の方針に厳しく反対するということ、これは烈公にとっては非常に辛い一時であったかと思われますが、その心境は、天保二年の十一月十四日に、川瀬七郎衛門宛てにしたためられております。
    潜龍(烈公)不幸にして田を出しより此方日夜乾々として改革すれども、本より九五(藩主)にあるべき徳なきが故に又九三(家臣)得ざるの君子(中略)、君子・不肖の言粉々として常に耳に離れず、君子は我が愛するところ、不肖もまた我が養うところなり。君子も国のために言う。不肖もまた国のために言う。其の志は各々同じくして、その意に大小有る者甚だ異なり。本より小人の言を用いなば、何ぞ今日に至って日夜乾々として旧弊を改めんか。されど君子と小人と皆我が養うところなるが故に、その過り有りて職を転ずれば則ち其の法を曲げず、会澤と法と何が重き、(中略)川瀬其の職を辞すれば我もまた辞すべし。しかれば則ち我が進退川瀬の意に有ると謂つべし。
藩主についてから日夜努力して改革に邁進してきたけれども、自分に徳がないために、この様な人事の問題で争いも起きてくるのだということです。君子(改革派)と不肖(門閥派)の両方の意見が次から次へと自分の耳に入ってきて離れない。しかし、改革派は自分が愛するところ、門閥派も自分の家臣である。どちらも思いは同じであるけれども、自分が小人の意見を、ためにならない者の意見を用いていたならば、どうして今日もこうして日々改革に苦労しようか。しかしながら改革派も門閥派も自分の皆同じ可愛い家臣である。もし誤りがあったならば、改革派といえども法を曲げることは出来ない。そして川瀬が烈公に信頼されているということ、また、家臣をこのように信頼をして改革を進めていかれたということも、この短い書簡のなかにあらわれていると思います。
 もう一つ、烈公は、幕府に働きかけて、改革の事業を進めていかれたということが言えます。それは霞ヶ浦の下流の方が非常に水害が多い。それで幕府領でもあり水戸領でもあるこの辺の領民が苦労しており、しばしば幕府や、水戸へ訴えたりして来たわけです。そこで早速烈公はこの問題を取り上げられております。これは川瀬と力を併せてのことです。先程見ましたように、君臣一体になっていたからこそ実現できたのではないかと思うのですが、幕府も早速これを許可して援助をしていきました。そのため潮来周辺の水害がだいぶ緩んだということが言われております。その川は水神川と言います。このことを土浦藩の大久保要が非常に感謝して川瀬に次のような書簡を送っております。
    扠水行之義は弥以此邊まで相助り候事に御座候、少々雨にも潦水腐候場など  御座候所一切其憂ヲ去リ今分にても出水之憂多分相除候事と誠御勳労蔭乍ら奉拝候、吐口宜成候而は小貝川上迄も利有之事と谷原邊者共も申聞候
水はけが大変良くなり、溜水が腐る所もなくなりました。吐け口が良くなって小貝川上流までも良くなったと、谷原辺りでもそのように言っております、ということです。この功績を以て、烈公は川瀬に対して、中国の夏の時代に治水に功績のあった禹王というものがおりますが、まるで水戸の禹王だというような表現で川瀬を称えております。こういうことをもって、水戸領ばかりではなくて幕府へも働き掛けて改革を実現していった。これが烈公の御苦心であったといえるかと思います。
 それから外患について、海防問題ですが、これに非常な決意を以て当たられていたということ、先程『新伊勢物語』を示しましたが、その中で海防の為に天保七年に常陸の助川に山野辺兵庫を土着させますが、これも部屋住の時代から考えておったといわれております。これらの部屋住のことを考えますと、資料は、細かく述べられたものは有りませんが、一つ一つの項目に現れたものから推察しますと、非常に早くから水戸藩はもちろん、日本国全体の問題として対処を考えておられた。これは、会澤先生が侍読となりまして、烈公の教育係を勤めたということから考えまして、充分想像はつくわけですが、非常な決意を持ちながら、自分は藩主ではないけれども、いかにしてこの難局に対処すれば良いか、ということに思いを巡らしておられたということがわかると思います。その思いがやがて形になって現れてくると思います。丁度水戸家の家訓として義公以来朝廷と幕府このどちらも大切な存在ではあるけれども、朝廷と幕府の対立があった場合には朝廷に付くということを、父武公より教えられており、自分もそれを守りやがてお子様方にも伝えられていくわけです。
 その外交問題につきまして、烈公が朝廷に献上されました地球儀を考えてみたいと思います。嘉永五年に鈴木半兵衞に烈公が作らせられた物で、嘉永五年の六月に朝廷に献上されております。恐らく、烈公が地球儀を作れという命令を出されたのは、天保の十四~五年頃であったのではないかと言われております。ですから、完成がいつであったのかはっきりわかりませんが、それまでにはもう準備がなされておったかと思います。
 この時制作に当たったものは、医者であり、蘭学者でありました鈴木重時、それから吉村蔵吉という先手物頭、それから算学者であります檜山善兵衞、もう一人、持頭役の坂井市之丞、この四人だと言われております。最後の坂井市之条は、横山大観の父であります。この時三個作られております。現在宮内庁に残されておりますのが、直径一〇九・九センチメートルです。黒漆塗りの雲脚台の中に収められております。それからこれと同じ物を模型としまして直径が三六センチメートルのものが作られましたが、これは彰考館に残っております。もう一つは直径が五尺と言われておりますがこれは幕府へ収められたようです。幕府へ収められた物は焼けてしまったようです。
 この地球儀を見ますと、非常に大きなもので実に見事なものです。日本の国土と、蝦夷や千島、樺太南部、朝鮮、中国の山東省の一部、シベリアの方ですが、それらが金色で塗られているのです。烈公は日本を中心として、その周辺も日本が治めるという気構えが必要ではないかという意味もあろうと思いますし、それから朝廷が世界全体の姿を洞察して、皇威を周辺に発揚して頂きたい、こういう願いが込められたものと思われます。
 その嘉永五年という年をみますと、この年の二月に水戸藩では『大日本史』を朝廷と幕府に献上しております。同時に六月に烈公が地球儀を献上されています。このことを思いますと義公が志をたてられまして、皇統を正閏し人心を是非するために、日本全体の歴史を考え、『大日本史』の編纂を始められました。それを朝廷に献上されている。今度は烈公が世界の大勢を良く洞察されて、しかも、その上に立って日本の有るべき姿、世界の有るべき姿というものをお考え頂こうという御意思で朝廷に献上されたということを考えますと、私は、義公も水戸藩の藩主ばかりではなくして日本全体を考えられた御方であるが、烈公も既に見てまいりましたように、単なる水戸の一藩主ではなくして日本国全体の行く末を考えられてそれの基本の上に立って水戸藩はもちろん、日本全体の改革に邁進されていった。そういうことを思いますと、この地球儀の献上ということも、大きな意味として捉えることができるのではないかと思われます。そしてこの烈公が攘夷一点張りというように考えられておりましたが、、ペリーがやって来ました後に、世界の情勢について土佐の中浜万次郎から事情を聴取しているということ、それは非常に注目すべきことであったと思います。
 嘉永六年の六月にペリーがやってまいります。九月には中浜万次郎を招いて、アメリカという国はどのような国かということを訊ねられております。要約しながらまいりますが、
    〇大船建造の費用及び売買
      日本の銀にて二千貫、銅は少なく鉄が多い。鉄の鋳造は甚だ難しく、日本では困難、買い上げのほうが易しい。軍艦の売り船は無いが、一艘ぐらいはあるであろう。オランダへ申し込めば船大工が来るであろうから、古船買い上げよりも便利であろう。
 これは先程の地球儀でもわかりますように、早く天保二年には蘭学者青地林宗を招いて、それに鈴木重時を学ばせている。今後のことを考えると、蘭学を学び、しかも大船建造を解禁しなければならないということを幕府に建言されている。その大船につきまして中浜万次郎が言っているわけです。
    〇アメリカの医術はどのようであるか
      アメリカの医術というのではなく、イギリス、フランスの医術を通用させている
    〇共和政治の主は城郭の内におるのかどうか
      城郭はなく、住居は日本の豪富農商の居宅と同様町並みに住んでいる。共和政治の主は四ヵ年目に代わり、人望あれば八年も勤められる。
      これについて
      三六州の主四年毎に代わることは睦まじいようであるが、その元は利欲より出ていることである。今は開国初めのことであるから戦争等により英雄の王が出て強いが、戦争が出来なくなることは目に見えていることであり、そのときは、利益本位の王では問題となろう。
という感想を烈公は持たれているわけです。
    〇四年毎に代わる場合に、辞めた主はどうしているのか。
      一般と同じ庶民となる。
    〇庶民と同じになりては、今日の生活にも差し支えがあろう。
      王となったときに金銀財宝夥しく蓄えおくため何ら差し支えがない。
これらのような事情を聴取してアメリカの様子を探られたわけであります。さらにペリーがやってきたあと老中の阿部正弘は、軍艦をオランダから買おうとしたわけでありますが、その軍艦を購入するのならば、先ず先方へ行って良く調べてから購入した方が良いだろう、ということから、烈公は自分も視察に参ろうとし、その時は藤田東湖先生や、桜任蔵とか、郷士でありました田尻新介とか、石神の黒沢覚介とかそういう連中も連れていこうとされたわけです。日本国内は外国船は寄せられないけれども、離れて先方の土地で交易をむすぶ出交易も考えたらどうだろうか、こういうことを主張されておりましたが、この時もし烈公が海外に出て行かれたならば、また大きな転換がなされたかと思います。
 こういう烈公に対して、現在千代田町の志筑領の農民達は、天保四年の飢饉の時に非常に苦しんだわけですが、出来れば水戸様の農民になりたいということを言っております。烈公はそれを聞きまして、志筑藩に働き掛けて年貢の減免を認めさせた、そういうことがございます。それから真木和泉守は安政五年の六月頃、国事改革に当たって烈公を朝廷に招いてそして天下の人々の中心となって改革を進めて頂く方法が大事なことであろう、そういう建言もしているわけです。烈公に対しては非常に厳しい批判もありますが当時の人々には領内はもちろん全国に期待される面々が多かったことを考えますと、その烈公の意欲というのが、又改革そのものが多くの人々に理解され、浸透もしており、それがどのように評価されるかということで、評価が分かれたのかと思いますが、私どもは烈公の非常な腐心の末に始まったという改革の意義というものをもう一度考え直してみたいと思うわけです。今日はその発端と発想ということでお話しさせていただきました。以上で終わらせて頂きます。

                            (平成六年八月七日講座)
              (茨城県立歴史館学芸部室長--当時--)