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義公の立志------英傑への関門

                  宮 田 正 彦

 水戸黄門として知られる義公(光圀公)の修史の動機について話をせよ、という御命令であります。
 いったい、ひと口に歴史を編纂する、と申しましても、言うほど容易いことではありません。一つの事実を確定するだけでも、数々の史料を調査発掘し、それぞれを批判し、その使い方を考えなければなりません。しかも、そのような手順を数重ねていって史料が揃えば歴史は書けるか、といいますと、そうではありませんで、それらの史実を選択し配列して、歴史の流れの中に正しく位置付ける、いいかえれば、それら史実の意味や価値を判断して書くべき事を決定しなければなりません。そして、そのためには、何に価値を置くか、なに故にその事実に注目しなに故にこれを書くのか、という歴史観がなければなりません。歴史観といいますのは、歴史に対する姿勢であるとともに、歴史をして歴史たらしめる、つまり、過去のもろもろの事象の中から「歴史」を発掘し叙述する基準でもあります。したがって、歴史を編纂するためには、どのような基準にしたがって史実を選択し叙述するか、すなわち歴史観がなければならず、その歴史観を確立しあるいは深めて行くためには、真剣な学問の歳月が必要であります。義公が、史記伯夷伝を読んで歴史の編纂を志した、とひと口に申しますが、ことは左様に簡単ではありません。
 義公の歴史観の形成と発展については、名越会長先生が、すでにはやく、『大日本史の研究』に「大日本史と義公--特にその史観の発展過程について---」という論文を書いておられ、その後も、冷泉為景との関係、林読耕斎との関係、というように、さらに個別の研究を深めておられますので、興味の在る方は、それらをご覧下さい。
 ところで、修史の動機ということですが、いま申しましたように。史記の伯夷伝との出会いに始まる、と伝えられております。それは「大日本史序」に、
    「先人十八歳、伯夷傳を読み、蹶然其の高義を慕ふ有り。巻を撫し、歎じて曰く、載籍有らずんば虞夏の文得て見るべからず、史筆に由らずんば何を以てか後の人をして観感するところ有らしめんやと。是においてか、慨焉として修史の志を立つ。」
と記されて、天下に有名になりました。
 この文章は、大井松隣が綱条公に代って書いたもので、簡潔にして格調高い名文として広く知られたのですが、実は、松隣の最初の草稿には、この部分は無かったのです。というよりも、初稿は江戸史館のさまざまな批判を受けたので、全く発想を替えて出来たのが、現在の序文であります。そのことについては昨年、『常総の歴史』(11号)に書かせていただきましたので、詳しくはそちらを御覧いただきたいのですが、無かった、と申しますのは、松隣が知らなかったのではありません。話には聞いているが、事実かどうか確信が持てないので敢えて触れなかったが、史館の先輩の皆さんが事実としてよいと言うならば是非書き加えたい、と松隣は述べております。 松隣がそのように考えたのは、義公逝去後間もなく作られた幾つかの伝記には、伯夷伝と修史の関係を伝えたものが無いからではないか、と思います。
 たとえば、『義公遺事』には、
     一 義公御若年ノ時ニ、 源威公ヨリ卜幽・了的ヲ被遣、種々御学文御スヽメ被成候得トモ、一圓御好ミナク、十八歳ノ御時ヨリ、学文御好被成、史記ヲ御覧被成、伯夷傳ヲ御ヨミナサレ、御自身ノ御事御考被成候得者、 源英公ハ御兄ニテマシマス上ハ、御身総領ニ御立被成候而ハ、大義チカヒ申ト被思召、ソレヨリ御意付御譲ナサレ度思召トイヘトモ、時勢ナリカタク、遂ニ 源英公ノ御子御養子ノ事ヲ思召ヨリ、御志ノ通相叶フ也。十八歳ノ御年思召ツキナサレ候御志、只今六十三ノ御歳御隠居成、スキト御願成就ノ由、御喜不大方也。
     右三条、元禄三年庚午十一月四日ノ夜侍ルニ、御直ノ御物語也。
とあり、また、『玄桐筆記』には、
    御幼年の御時、素讀を被遊けるを、中比皆廃却被遊。然に十七八の御比自思召立て御学問被遊。史記泰伯傳を御覧、御家督御事御了簡被遊。御行実にのセらる。自是御一生常に書冊を携給ひて、起臥に付て御覧被遊、青樓にあそひ給ふにも右に御盃、左に書籍を御覧しけるとそ。御直談。
などとあります。
 これらの伝えは、「御直ノ御物語」「御直談」とありますから、直接義公がお側の者に繰り返し話されたものなのでしょう。義公が亡くなられて直後に編纂された伝記、またその後の伝えにも、史記伯夷伝との関係はイコール水戸家の跡継ぎの問題として専ら伝えられていたのであります。これはおそらく朱舜水が「泯然として跡なし」と賛嘆したことも預っているかと思いますが、大日本史編纂に志を立てたのも同じくこの伯夷伝との出会いに始まるということは、実は、この大日本史の序に初めて明記されたことなのであります。この序文は正徳五年であります。義公が亡くなられてから十五年程経っております。そこで、これははたして信用できるのか、事実として良いのであるか、という疑問が出るかも知れませんが、幸いなことに、義公が 遣迎院 (ケンコウイン) 應空という人に宛てた手紙が残っております。この人は、『禮儀類典』の編纂に関係して、大嘗祭などの儀式などに用いる服装や道具類、あるいはその庭上の儀式の様子等の絵を、京都の公家に書いてもらうのですが、その執筆の世話係と申しましょうか、水戸とそのような有職の公家達との間をとりもつ仕事をした人物であります。遣迎院は今は鷹の峰に在りますが、この当時は京都の町中に在ったそうです。その應空宛ての手紙の一節ですが、
    「下官(義公自身のことであります)十八歳の時分より少々書物を読聞申候、其時分より存寄候は、本朝に六部の國史有之候へ共、皆々編集の體にて史記の體に書申候書無之候故、・・・・・第一上古より近来迄の事を記録仕候て後世の重宝にも可罷成哉と存、云々」
とありまして、やはり、伯夷伝との出会いが「本朝の史記」、すなわち、後の『大日本史』編纂事業の発端を成したということを疑うことは出来ません。
    (この手紙は、應空が三条西家と近しい関係であることを伝え聞いた義公が、三条西家の所蔵する記録類の拝見・書写について便宜を計って戴けないか、ということを依頼したものであります。ちなみに、駒込に史局を開設して修史の事業を開始するのは、明暦三年義公三十歳の時、明暦の大火の後であります。)
 ところで、この『大日本史』編纂事業というものは、ひとり近世史学史上の大事業というばかりでなく、我が国のその後の歴史に非常に重大深刻な影響を及ぼしたことは皆さん御承知の通りであります。水戸藩の風格は義公の指導によって形造られたことは言うまでもありませんが、この編纂事業がその土台を為しております。そればかりではない。いわゆる水戸学も天保の改革も、ひいては明治維新も、みなこの大日本史編纂事業の継続がもたらしたもの、と言ってよいのであります。史記の伯夷伝は、一人の十八歳の少年を目覚めさせたばかりではなく、実に、我が国の歴史を動かした、といわなければならないのです。

 しからば、史記の伯夷伝とは如何なるものであるか、何が書いてあるのか、義公はその中から何を見出したのであるか、この問題をもう一度考えてみなければなりません。史記という書物は古来多くの読者が在り、その版本も多く、解釈もいろいろあるようです。義公の学習の跡を偲ぶには、『史記評林』あたりが良いのかも知れません。
 史記の伯夷伝は、列伝の最初に在り、全文およそ八百字、その内伯夷叔齊の伝を述べた部分、つまり、事実としての兄弟推譲や革命否定の事跡を述べた部分は二百十八字、つまり全体の四分の一にすぎません。実は、伯夷伝は史記列伝の総序とでもいう性格のものなのであります。単に伯夷叔齊の事跡を述べるにとどまらず、むしろこれを借りて列伝執筆の目的と意義とを宣言したものと言ってよいと思います。いまからその全文を読んでみたいと思います。(読みは、新釈漢文大系によります。)
 全文は四つの段落に分けることが出来ます。第一は「夫れ学ぶには載籍極めて博きも」、に始まり、「軼詩を睹るに異なりとすべし」まで。
 この部分を要約すれば、歴史を伝える多くの資料があるが、最も信を置くべは「六藝」である。この六藝が存在することによって、後世の人間は古聖王の優れた事跡やその深い意味を知り、これを手本とすることが出来る。しかし、世の中にはそれ以外の様々な伝えが在り、それらも一概に虚説として捨てさることが出来ないものも在る。卞隨、務光、許由などという人物は、古くから民間に伝えて道義正しい優れた人物とされてきたが、「六藝」には全く記録されていない。また、孔子が、伯夷について「仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん」と、その徳を至高のもの、その精神を澄明鏡のごとしとして讃えているが、民間に伝えられた伯夷の詩(軼詩)というものを見ると、必ずしも心安らかならざるものがあったように思われる、ということになろうかと思います。(六藝というのは、易経、詩経、書経、春秋、礼経、楽経の六つの書物をいいます。礼、楽、射、御、書、数のワザを差す場合もありますが、この場合は、書物の事です。後に、礼経と楽経が失われ、改めて礼記が編纂されましたので、普通には五経と呼ばれております。つまり、孔子以前の古記録の意味です。) この第一段は、伯夷叔齊の伝を導きだすための序文となるところでありますが、列伝全体の序文(実は、伯夷伝全体が列伝の序文でもあるので、その序文のまくら、という方がよいかもしれません)ともいうべきものであって、司馬遷の列伝執筆の基本的な態度を暗に宣言しているといえましょう。すなわち、先人の残した典籍あるいは優れた判断は十分尊重するが、同時に、自らの責任に於て史料を博捜し批判して、埋もれたものを掘り起こし、独自の見解を出すことを宣言していると思われます。
 なお、付け加えますと、孔子の「怨」と司馬遷の「怨」とは、その意味する所が異なると、私は思います。孔子が「怨みなし」と言ったのは、個人としての後悔や世間への不平不満は微塵も無い、と言う意味で、孔子自身の自内証と通底しており、司馬遷が主張する「怨」は、詩の読みから受け取れる限りで言えば、広いこの世に道を践み道を行う者の廖々たることへの嘆き、孔子の言葉を借りれば「逝くものは斯くのごときか、昼夜を舎(お)かず」の類、言い換えれば、人間存在そのものに対する詠嘆とでもいうべきものでありましょう。司馬遷もそのことは承知していると思いますが、しかし、司馬遷自身には「怨」がある。親友の李陵を弁護して正論を述べた結果が恥ずべき腐刑であったことは御承知の通りです。司馬遷自身の消し難い「怨」が、『史記』著述の原動力でもあり、その論纂に複雑な色合いを加えていることは、多くの研究者の指摘するところでありますが、それはともかく、ここの論の持って行きかたが、実は第三段の「天道」論の伏線になっているわけです。
 第二段は、伯夷叔齊の伝記になります。御承知の、兄弟が家督を譲り合って共に家出をしてしまった事、西伯昌(後に諡して文王)が、「善く老を養ふ」という噂を聞いて、共に赴いた事、しかし、西伯は死んで、その子の武王が殷朝に叛いて紂王討伐を名とした革命を起こそうとしているところに出会い、命を賭けてこれを阻止しようとした事、革命成っては、その朝に仕えることを潔しとせず、首陽山(西山)に隠れて蕨をもって露命を繋ぎ遂に餓死した事を記し、ついで「登彼西山兮 云々」の詩(これが前に言った軼詩)を出して、「此れに由りて之を観れば、怨みたるか、非ざるか」とこの段を結びます。
    (ここで一寸余計なことを申上げます。この文の中で、「聞西伯昌善養老」の「善養老」という部分について、この大系本の著者水沢利忠氏は、「老人を養うと解しても筋が通らない。致仕したものを老といい、浪人を集めて面倒を見るといった意味である」と注釈しておられますが、これは、政治が善く行われており民衆が安心して生活していることを意味するものであると思います。養老ということについて、朱舜水が義公に宛てた書翰には、繰り返し述べられておりまして、政治の根本は「教」と「養」であるとか、養老を第一とするとかいう旨の文章が見られます。義公の詩にも、「老を老とし、長を長とし」とあります。今日の社会福祉的な考えは古くからあるもので、現代の専売特許、ましてや社会主義の特色などではありません。
     もうひとつ、「盍往帰焉」という帰の字について。これは、本来ゆくべきところにゆく、落ち着くべきところに落ち着く、という意味の文字であります。家に帰ると言いましょう。自分が本来居るべきところにゆくのですから帰ると言う文字を使います。女性にとっては三界に家無しで、結婚してはじめて自分の在るべきところを得るわけですから、嫁に行くという意味にも用いられます。もっとも、今日ではこんな事を言うと叱られます。昔の話です。昔といえば、『三国史記』を読んでおりますときに、盛んに女性が「歸」ってくるのです。なんでこんなに離婚されるのだろう、大変なことだ、と思っておりましたが、よく調べてみましたら全く逆で、お嫁にいったということだったのです。これは、とんだ御笑いぐさですが、漢字というものは、難かしいが面白い。「帰化」の帰も同じ意味と思います。もっともこの言葉は最近使われなくなりました。「帰化人」と言わずに「渡来人」と申します。伯夷の詩の終わりの方にあります、「我安適歸矣」も同じであります。本当に安心して、満足してこころ愉しく住める場所が無い、という意味です。)
次いで、第三段に入ります。「或いは曰く、天道親無く、常に善人に與す」(この親という字は、オヤ、ではなく、「えこひいき」の意味)から、「天道是か非か」までであります。議論は一転しながら本論に入っていきます。
 よく世間では、「天道というものは公平無私であって、いつも善人(正しく生きている人)の味方である」(これは、老子の言葉だそうです)という。それならば、伯夷叔齊は善人であるのか否か。両人の事歴はいま述べた通りである。彼等は、世間的な名誉や利益などは全く無視している。父親の心こそ大切だ、いや、家は当然長兄が継ぐべきだ、と譲り合って、財産も身分も捨ててしまう。革命の軍が目の前に起こったとき、たまたまそこに居合せれば、自分の命も顧みず、それで良いのですか、それが君臣の道ですかと言って諫める。天下挙って武王の革命に拍手を送った。紂王は滅ぼされて当然の悪王であったが、それでも革命を肯んぜず、敢えて餓死の道を選んだ。まことに人の道に明らかに、清らかで正しい生きザマを貫いた人達である。善人といってよい。にもかかわらず、生きている間はなんの報われることも無く、その最後は悲惨にも餓死という結果である。更に言おう。孔子がその弟子七十人の中で、真に道に明らかで行いの正しい人としてただ一人挙げたのは顔回である。しかるに、その顔回たるや、最も貧困で、糟や米ヌカさえも満足に食べられずに若死にしてしまった。一体天道は善人に味方しているのであろうか。全く逆の例も在る。盗蹠という有名な盗賊がいた。これは『荘子』に出てくるそうです。この男は、数千人の与党を集めて天下に横行した強盗団の大親分。毎日旨いものを喰い、好き勝手をして、しかも畳の上で大往生した。これは、善人と言うことができるか。歴史を見ても、身近にも、このような例は枚挙に暇がない。いったい、天道というものは正しいのか間違っているのか。
 以上が第三段の要約ですが、司馬遷が、天道是か非か、と言って、天道在りや無しや、とは言っていないことは面白いと思いますが、いまは、司馬遷の思想や歴史観を論ずる場ではありませんので、それは措きます。
 次が第四段、最後の部分であります。第一段に於ては、先人の業績に甘んずること無く、自らの心身を労して史料を博捜し、史実と直接対決しつつ真実を明らかにしようとする決意を表明し、第二段に於て真実追及の一例として伯夷叔齊の伝を述べ、軼詩を紹介してその志を悲しむとともに、その悲劇が決して稀なものではなく、何時の時代にも存在することを第三段で明らかにし、刻苦して学を修め道を践み、常に正しく生きようとする人の報われることの薄きを嘆き、遂には、天道をも疑うことになったわけでありますが、「しかし」、というのがこの第四段であります。
 司馬遷は、ここで孔子の言葉を引用しつつ、人はめいめい己れの志のままに生きるのであって、歳寒くして、然るのちに松柏の凋に後るるを知る、といわれるように、世の中が悪くなればなるほど、清節の士ははっきりするのである。清節の士であるかどうかは、富貴を重んずるか軽んずるかというような比較や軽重の問題ではない。(と解釈しておきますが、ここのところの解釈は、古来議論のあるところです。この大系本では、単に高志善行のみによっては現われない、時の運。という解釈です。)君子は死んで後その名の称せられざるを疾むとは、そのような意味であって、いわゆる名声を残すことを目的とするのではない。問題は、天道の是非に在るのではなく、各々が何に志したか、に在る。賈子の言うように、類は友を呼ぶというが、財を求める人、権力を求める人、名を求める人、世間は様々である。しかしながら、物事や人物の志業を判断してこれを「序列」する(第一段に、孔子が古人を詳らかに序列した、とあります)ことが出来るのは、聖人である。「聖人作(おこ)りて万物覩(あら)はる」、すなわち、学問によって正道を明らかにした人によって歴史は審判される。万物の秩序本質、あるいは真価、が明瞭になるのである。伯夷叔齊や顔回は、誰が何も言わなくても賢人であり篤学であるが、(孔子が褒めても褒めなくても、その本質に変りがないが、)しかし、孔子が絶賛したことによって広く世に知られ、益々名が顕われることになった。従って、「閭巷の人、行ひを砥ぎ名を立てんと欲する者は、青雲の士に附くに非ずは、悪(いづ)くんぞ能く後世に施かんや。」と全文を結ぶのであります。
 この最後の「青雲之士」は高徳の聖賢を言う、と注釈されておりますが、同時に、社会的に名が知られ、人々がその判断を正しいものと認める人、あるいは、後世に残る書物を著わすような人、という限定されたニュアンスを含むように思います。
 ここに見られる議論は難解で、すっきりしないところがありますが、要するに司馬遷は、人の生きザマというものはまことに多様であって、その志(価値観)もまた多様である。そのような人間社会は一見すると無秩序のようではあるが「聖人」の手にかかればその価値の優劣は明らかとなる(歴史の審判)。しかし、それも「載籍」などによって後世に伝えられなければその名も「堙滅」してしまう。そこに、記録することの重大な意義が在る。という主張であって(第一段の論を享けている)更に、自分(司馬遷)は、歴史に見え隠れする人々の事跡を、埋もれている人々をも出来るだけ発掘し、詳細に記述することによって各々の「好むところ」すなはち「志」を明らかにしたい。その「序列」は優れた徳の高い人に任せるとしても、少なくとも自分の筆によって、多くの人々の「志」を明らかにすることが出来る(ということは、自分を暗に青雲之士に比している)。ここに、列伝著述の価値が在る。ということを宣言しているものと考えます。見事な起承転結の議論であり、第一段で提起した問題を自らの責任に於て解決しようとする決意を表明したものと思います。私なりの解釈は以上の通りであります。
 義公が、どのように読まれたかは解りません。しかし、改めて『大日本史』序に戻ってその理解を考えてみると、「蹶然トシテ其ノ高義を慕フアリ」は、伯夷叔齊の事績に対する感動であり、「載籍アラズンバ虞夏ノ文、得テ見ルヘカラズ」は第一段をふまえ、「史筆ニ由ラズンバ何ヲモッテカ後ノ人ヲシテ観感スルトコロアラシメンヤ」は第四段の結論を踏まえていると思われます。言い換えれば、『大日本史』の序の「載籍アラズンバ」から「アラシメンヤ」迄のところは、実は伯夷伝の主張を要約したものと見ることが出来るのではないでしょうか。そしてそれは、義公が感得したところと大きな違いは無いものと思います。と申しますのも、御承知の通り、義公の修史の基本的態度は、「事ニ拠リテ直書スル」ということにあり、事実を究明する上においては、「煩なるも簡にすぐることなかれ」といい、出典を明記して判断の客観性を保持しつつ後世の判断を待つ、という態度でありました。これらの姿勢は、司馬遷の、「史」は「志」を述べるもの、および、聖人の判断を待つという姿勢と同じであり、更に徹底したものであったと言えましょう。
 以上が史記伯夷伝の全文であります。非常に難しい文章です。一度読んだくらいでは、解りません。一寸やそっとで読み解けるものではありません。しかし、十八歳の義公はこれを読んで激しい感動を受けたことは紛れも無い事実であります。そしてそれがただ単に伯夷叔齊の事績に感動したばかりではない、この伯夷伝全体が投げかけてくる疑問や迫力にうたれた。そして、歴史の記述というものの持つ厳しくも崇高な価値に目覚めたのであります。驚くべき学力、驚くべき洞察力というほかはありません。おそらく義公はこの伯夷伝に出会ったことによって生涯の目的を見出した喜びに震えたのではないでしょうか。

 ところで、それならば、それまでの義公はどのような生活ぶりであったのか。一体どんな勉強を積み上げてきたのか。それが知りたくなるわけですが、まことに残念なことには、その学問の様子は全くわかりません。前にみた通り、『義公遺事』は
    「御若年ノ時ニ、源威公ヨリ(人見)卜幽・(辻)了的ヲ被遣、種々御学問御ススメ被成候得トモ、一圓御好ミナク、十八歳ノ御時ヨリ、学問御好被成、云々」
とあり、『玄桐筆記』には、
     「御幼年の御時、素讀を被遊けるを、中比皆廃却被遊。然に十七八の御比自思召立て御学問被遊。」
と伝え、しかもこれを、「御直談」と断ってあります。ということは、義公自身が自覚的な学問の開始は伯夷伝との出会いに始ることを認めていることになります。
 じつは、これ以前の義公は、「一圓御好ミナク」どころではない、大変な問題児でありました。いわば、グレていたのであります。そのことは、『小野言員諫書(草)』として伝えられる史料に明らかなのであります。
 この『諫書』は、義公の傅(もりやく)であった小野言員が、そのあまりの無軌道ぶりにたいして、上に立つ者の心得、人としての忠孝の道を、十数箇条にわたって繰り返し懇々と説諭苦言を呈したもので、原本は残っていないのですが、幸い立原翠軒(史館総裁)が筆写したものがあります。翠軒が写した時にはもう既に一枚目に損傷がありました。ところどころ抜けているのはそのためですが、意味はなんとか取ることが出来ます。その一条から三条のところに、当時の義公の様子が具体的に指摘されているのです。
 第一条は、脇差しをツッコミ差しにする、殿中で挨拶するにも手をフリアハセて礼をするなど横柄な様子である。「水戸様ノ御カトクトハミエズ、ゴンゴドウダンノカブキ人」であって、「御ユクスヘ御セウシ千万」という世上での専らの評判である、とあります。第二条には、三味線を好んで弾く。「シャミセンヲスキコノミヒキ申候ハ、カブキモノラクグルヒ仕候モノノシワザ」である。このような趣味はその心根が知られる。総体、「御スキコノミナサレ候事バカリニ御心ヲ御ヨセ御身を御ワスレ」人のそしりや嘲りを受けていることは何とも情けないことである。第三条には、木綿の小袖にビロードの襟を差し、打帯を腰に捲きつけた姿で厩へ御出かけになり、言葉遣いも草履取りや下働きの者のような口のききかたをする。「カロガロシク御ザ候テ、御カブキナサレ候トショニンコゾリテヒロクサタ仕候事」、完全に評判になっている、と述べております。
 当時の江戸は、新興の大都会、諸国からさまざまな人や文物が次々に流れ込んでくる、良くいえば活気に満ちている、悪く言えば雑然たる状態。団十郎はまだ後ですが、歌舞伎等の芸能は盛んにおこなわれておりました。中には、あやしげなものも多かったことでしょう。そういった江戸の世俗の好む華やかな流行のスタイルを義公はその着こなしに真似たばかりでなく、立ち居振舞も、言員などから見れば、なんとも礼儀知らずで軽々しい、いやしくも格式ある水戸家の跡取りとして言語道断、ということです。
 この『諫書』が何時書かれたのか、その年代を確定することが出来ません。文中、「頼房公が鎌倉でご湯治の折の御説諭などは、傍らで伺っているだけの自分でさえ本当に身に染みたものであったが、そのような父上の教訓も御解りにならないのですか」、というようなことが述べてありますので、調べてみたのでありますが、実は義公十五歳、十六歳、十七歳の毎年熱海へ行っているのです。これでは年代を確定することは出来ません。
 年齢は不明ですが、おそらくは十六・七のころ、その人格は支柱を失い、魂は彷徨していたのであります。このような義公の行動はいったい何に原因するのでありましょうか。
 もともと不羈奔放といってよい少年時代でありました。十歳の頃は、あまりに乱暴が過ぎるということで、脇差しを取り上げられたこともありました。屋敷の塀の上を走ることでは誰にも負けませんでした。お兄さん(頼重公)との間の数々の逸話も、その負けず嫌いの性格をよく伝えております。同時に利発で聡明な頭脳の持ち主であったことも確かであります。今日で言えば、成績は抜群、性格も明朗で、文句の付けようが無いが、行動力主体性も抜群で、小学校の先生では手にあまる子供、といったイメージでしょうか。したがって、ようやく多感な年齢に達するや、窮屈な御殿の作法などくそくらえ、俺は俺だ、と周囲の諫めもなんのその、となった。ということも考えられます。確かに当時の江戸市中は、刺激とスリルに富んでいたことでしょう。
 しかし、一般的には、青年期における所謂青春の煩悶は、その内面の葛藤を主とします。知的に未成熟な少年の場合にはいわゆる粗暴行為などとなって表面化しますが、義公の場合は考えられないことでしょう。青年期の捕らえ所のない内面の葛藤が、ときに、常識をワザと否定したり、頽廃的なスタイルを装わせたりすることも多いのですが、それとも少し違うように思えます。また、良家のボンボンの甘えた反抗と見るのは、その知的能力を低く見すぎることになると思います。言員も理解に苦しみ、物の怪でも付いたのか、と疑い、更には、何か深く意図する所があるのではないか、「御チエ御リハツ(利溌)スグレ申候間、サダメテ御オクヰ(奥意)ナクテハ、タダ今ノ御フルマヒアソバサルマジク候、ヲソレオホキ申上事ニテ候ヘドモ御ヨウセウ(幼少)ヨリ御ホウコウツカマツリ候シルベニ、御シラセ下サレ候ハヾ、御オン(恩)ノウヘノ御オント存タテマツルベク候」と記しています。
 義公の自己破滅的な(というのは一寸大げさですが、しかし、ことが大きくなれば水戸家の家内不取り締まりの口実にもなりかねないことは、言員の心配するとおりでしょう)行動は、単なる情緒的逸脱、若者によくあること、なのか、それとも何等かの「奥意」があったのか。これを確かめることは殆ど不可能でしょう。
 しかし、さらに考えてみれば、伯夷伝を読んで、「御家督のこと御了簡」ということは、少なくとも伯夷伝を読む前から、兄を超えて家督を継いだことに対する疑問ないしは不安が在ったことを意味します。それが問題として明確に自覚されていたか否かはさして問題ではないと思います。その問題に対する一種の″こだわり″があればこそ、伯夷伝に衝撃を受けることが出来た、と見なければなりますまい。義公のカブいた行為が青年期の煩悶の為せる一般的な姿であったとしても、その煩悶の中身の一つにこの問題が在ったと考えることは、論理的な必然性があると私は考えます。
 それでは、いったい何時ごろからこの厄介な問題に義公はとり憑かれることになったのか、と言う問題を考えてみたいと思います。 義公が水戸家の世子(跡取り)に決まったのは六歳の時であり、兄の頼重公は未だ正式には頼房公の子とは認められておりませんでした。頼重公が頼房公の子供として認知されて小石川の屋敷に迎え入れられたのは、義公十歳の折であります。高松十二萬石の藩主として讃岐に赴くのは、義公十五歳の時であります。従って、この、母を同じくしながら永く相知ることのなかった兄弟は、その生涯のわずかに足掛け五年間ではありますが、共に過ごすことになったのであります。しかも、この兄と弟は年齢にして六歳の開きがあります。義公にとっては、降って湧いたような兄の出現ではあっても、血のつながりもあり、願ってもない出来事であったでしょう。大柄で活発な義公にとって、体力的にも精神的にも、目標として挑戦し、先輩として指導を受けるに不足の無い兄の出現でした。頼重公は、柔術、馬術も得意であり、学問も出来、性格も行儀作法も優れた少年に育っていたようです。両者にまつわる逸話は幾つか伝えられておりますが、兄弟仲良く、特に義公はこの年長の兄に、全力で甘えていたように思えます。
 この兄が、来た時と同じように、突如としてその姿を消し、遠く高松に旅立ってしまった。義公が、掌中の玉を突然奪われた悲しさ悔しさとともに、自分が水戸家の世子であるという現実を明瞭に自覚的に意識したのは、この時ではなかったでしょうか。あんな立派な兄が居るのに、という思いは、青春の別離の悲哀となって、義公の心を激しく打ったのではないでしょうか。義公はこの時、輝かしい少年の日に別れを告げ、悩み多き青春の関門に立ったのでありましょう。さきに、義公のカブいた時期を十六か七と言ったのは、実はこの観点からなのであります。
 そこで、さらに想像を逞しくして、義公のカブキ振りは、このような不条理(と義公には考えられた)に対する怒りや悲しみの表現であったと考えれば、それなりに理解できるようにも思えます。しかし、それだけであったのでしょうか。
 『諫書』に出てくるカブキ振りを検討してみると、それは、服装であったり、作法であったり、言葉遣いや芸事であったりで、親や傅の注意には取り立てて反抗はしていない、むしろその時は静かに聞いているようであります。しかし、一向改めない。不服従と言えばこれほど面憎いものはないのですが、どうも、人の評判に立つようなことを好んでしているように見えます。そのように見るからだ、と言われるかもしれませんし、言員がその面だけを取り上げたのかもしれません。しかし、言員が「奥意」を疑ったのは、長年養育の任に当たった人間の直感かもしれません(逆の贔屓目ということもありますが)。
 そこで、どうせ想像ですから思い切って申上げますが、義公は、わざとこのように振る舞ったのではないか、と私は思いたくなるのです。勿論、始めから計画的であったとは申しません。が、少なくとも心の中で、この様な行為を続けることによって評判を落とし、ついには自分の廃嫡、兄頼重公の水戸家相続というシナリオの可能性を、僅かであっても、思い描かなかったかどうか。
 義公という方は、これ、と思い込むと、とことん実現を目指すタイプであります。そしてまた、その実現の為には自分の利害は度外に置くことが出来る人であります。それは、後年のさまざまな事跡に指摘することが出来ます。勿論それらは、深く広い学問の裏付けによる判断に基づいて為されていくのであって、このカブキ行為とは同列に論じることは出来ませんが、すくなくとも、その性行において、未熟ながらも同根のものをここに見ることはあながち見当はずれではないと思うのです。
 しかし、このような推理に聊かでも妥当性を見出すためには、前提として、義公が、兄を超えて水戸家を継いだことに、なんらかの拘りを持っていたことが証明されなければなりませんが、その事実があったかどうかは、これまた確たる史料がありません。この問題についての義公自身の発言は、『梅里先生碑』の碑蔭の文、「其の伯は疾み其仲は夭す。先生夙夜膝下に陪して戦戦恐恐たり」という一句のみではないかと思います。が、十八歳以前からであったかどうかは不明です。家督の問題は義公が隠居するまでの永い生涯の課題であったことは、「宿志」と言う言葉にも、また、晩年の談話にもよく表れております。『義公遺事』は、伯夷伝を読み、「大義チガヒ」と思し召され、「ソレヨリ御意付御譲ナサレタク思召」、とあり、いかにも伯夷伝によって始めて問題に気付いたかのように伝えておりますが、『義公行実』には、「居常心に安からず。年十八、たまたま伯夷伝を読んで感あり、と記しております。いずれも他人の作文であって、文脈に絶対性を求めることは出来ないのですが、先に読んだ『諫書』の三条に、
    「ショニン(諸人)コゾリテホメ申、御ソシ(庶子)ナレドモ御ダウリ(道理)カナ御カトク(家督)ニナサレ候、水戸様ノ御メガネサスガニテト人々申ヤウニ御身モチ候テコソ、御カウカウ(孝行)ノ第一ニテ御ザ候ヘ・・・・・御ソシヲ御カトクニ御タテナサレ候、此御オンノ所イカナレバ御ワスレ御身ヲアシク御モチナシ・・・・」
とありまして、公の場合は、とりわけ親の恩義を感じて謹んで孝行すべきことを諭しております。この「ソシ」は庶子で、辞書によりますと「曽我物語」にあるということですから、かなり古い言葉であります。
当時も用いられていたのか、それとも言員の教養が古い言葉を使わせたのか、定かではありませんが、嫡子ではないという意味で、正妻の子ではないという意味ではありません。頼房公には正妻はありませんでした。この場合、言員は、兄を措いて家督相続者になったことを敢えて指摘してその自覚を促す手段にしているのですが、そのことは、おそらく常日頃にも話題にされていたことを文章にしたものと考えれば、義公は、この事実ははっきりと意識していた、と見て良いと思います。
 そうすると、「大義チガヒ」という判断が、『伯夷伝』より前か後か、ということが問題になりますが、この事に関連して、菊池健二郎先生に説があります。
 菊池先生は、大日本史の序を見る限り、藩主としての地位を兄の子に伝えようという志を起こしたことについてはすこしも触れていない。したがって、義公は伯夷伝を読んでそのことを考えたには違いないが、兄弟推譲の高義、お互いが譲り合った高い澄んだ心に感動した、という解釈をするのは、「標的を過った解釈」である。特に、公の学問修業の経歴からみても、十八歳になるまで伯夷兄弟の事跡を知らぬ筈はない。昔は七八歳の頃には論語を読んでいる。たとえ少年の時に読書を毛嫌いしたとしても、大名の家庭教育上、大学・論語は強制的に読まされた筈である。論語を読めば伯夷兄弟の事跡は当然知られている。あわせて泰伯の三譲も、孔子が泰伯を至徳と称賛されたことも、とっくのむかしに承知されていたであろう。それにもかかわらず、十八歳になって史記を読んで始めて伯夷兄弟の高義を慕って、譲家の志を起こされたということは実際に副わぬ説明と言わなければならない。といい、さらに、この高義とは尊皇の志操をもって武王を強諫したことを指す、と言われます。
 ただし、私が思いますのに、大日本史の序文に譲家のことが書かれていないのは、むしろ当然で、大井松隣は「有慕其高義」の五文字にそのことを寓するに止めたのでありましょう。この高義は、必ずしも尊皇に限定する必要はないと思います。しかし、菊池先生が言われるように、伯夷叔齊のことは、知識として既に承知していたであろうということには、同感です。

 既に伯夷叔齊の推譲のことを知っており、しかも、自分が庶子であることも承知していたならば、史記伯夷伝を読んでの感動は、推譲の事実に対する驚きとは別種のものであるはずです。私は、義公の感動は、推譲、強諫、餓死、と一貫する伯夷兄弟の生きザマそのものに在った、と思うのです。伯夷兄弟の生きザマは、まさに「仁を求めて仁を得」た、すなわち、一切の利害を捨ててただ道義のままに生き抜いた生涯であり、韓退之がいみじくも「伯夷のごときは、特立独行、天地を窮め、萬世に亙って、顧みざる者なり」と喝破したとおり、道義心肝を貫く者というべきであって、司馬遷がいうところの怨を残しつつ猶もそのように生き抜いた兄弟の生きザマ、それが司馬遷の議論の中に溶け込んで、義公に厳しい反省を強いたのであろうと思います。義公の感動はここにおいて発したと思います。
 一般的に言われていることは、義公のそれまでの生き方は、青年の無自覚に由来し、人を人とも思わぬ振舞いをさせてきたものであったが、伯夷叔齊の生き方は、それと相反するものであり、人間として生きることの厳しさを教えるものであった、という理解のようです。義公の心の中に、人生如何に生くべきか、の問いが、迷いが、出口を求めて膨らんでいたのかもしれません。いわゆる機が熟した瞬間、あるいは禅の修業者が悟りを開く機微に似た瞬間であったのかもしれません。大いなる開眼、大いなる自覚の瞬間、そのように多くの先学は捉らえておられるようです。 原則的にはそのとおりでありましょうが、さらにもう少し具体的に考えてみれば、もしも、義公のカブイた振舞い(これが史記を読む迄続いていたかどうかも実は不確かですが)が、先に想像したように、兄を超えて跡を取ることへの不安から発していたとしたならば、一般的な生きザマへの反省という以上に、厳しい反省を促されたことでしょう。「父命」に応えることなく、これを無視し、また、兄の心を全く顧みない自己中心、不遜の行為であることに気付いたことでしょう。それが、「御家督のこと御了簡」ということではないでしょうか。兄の子を養子にするという解決策がひらめいたということではなく、自分が家督に座っている現実というものを直視することによって、その意味と責任とを自ら担って行かなければならないことに気付いたのではないでしょうか。そして、その過ちを正すためには如何なる手段方法があるか、それは学問によらなければ正すことが出来ないことに気付いた。それが、「学問御好み」「青樓に上っても片手に書物を放さない」という姿をとることとなったのでありましょう。
 伯夷叔齊の生きザマが教えるものは、人の道を貫くということは、己れの責任において為される、ということではないでしょうか。「人、よく道を広むるなり。道、人を広むるにあらざるなり」です。義公の書かれた書格銘に「人の人たるは腹に詩書有ればなり。学の学たるは身道徳を行へばなり」というのがあります。また、隠居して水戸に帰り、水戸城で人々を集めて行った別れの挨拶も、学問をせよ、ということでした。義公は、伯夷伝との出会いによって、学問の大切さを身をもって感じ取ったと思われます。そして、生涯、人の道を探求し続けたのです。まさに、生涯学習を実践した方と言ってよい。
 ちなみに、義公の譲国の手段方法は、伯夷伝そのままではなく、独創的に見えます。それは、正道を行ってしかも一切周囲に波瀾を生じないというまさに水際立った処置でありました。義公の立場に居て、これ以上の解決策はありえないでしょう。しかしこれが義公の独創か、というと必ずしもそうではなさそうです。
 『礼記』の檀弓上第三に、次の様な話があります。
 公儀仲子という人が居った。自分は隠居して、長男が跡をとったのだが、やがて早死にしてしまった。そこで、公儀仲子は、その長男に子供があるにもかかわらず、死んだ長男の弟を跡取りとした。このことの是非をめぐって識者の間に議論があり、子游がことの是非を孔子に質した。これに対する孔子の答えは、「否。孫を立つ。」でありました。
 早逝した長子は頼重公に、跡をとった弟は義公に相当する、とすれば、兄の子を養って時期を見て跡を譲る、という結論は、『礼記』の教える道にそっくりです。義公は若い時から『礼記』を熱心に研究しております。そういえば、梅里先生碑蔭に「その伯は病み」と記した義公の胸中にこの礼記の文が浮んでいなかったかどうか。偶然にしては出来すぎていると思います。もっとも、義公がこの文によって兄の子に継がせるという方法を発見したのか、それとも、兄の子を跡継ぎにしてはどうかというアイデアが自然に生まれていたところに、この文によってそれが先賢の判断と一致することを知って実行に移すことになったのか、そのところは分りません。
 それはともかくとして、いろいろと申しましたのは、義公が史記の伯夷伝を読んで、直ちに兄の子を養子にしよう、あるいは、紀伝体の歴史書を編纂しようと決意した、義公はやはり違う、天才だ、あるが、それは、いささか贔屓の引き倒しの類ではないか、ということを申上げたかったからであります。
 よく引用される史料に、正保三年に書かれた冷泉為景の『報源光國詩歌序』(扶桑拾葉集所収)があります。
    さてもわか中将の君なん、いにしへをこのめる御心さしふかくて、なにをひたりにし何を右にするとかや、朝な夕なつとめてをこたらす、さるへきいとまあれは、やまと歌の道はた心をやりて、我にひとしき人あらん事をおもへり・・・・されはからやまと、あつめ給へる巻のかすかす、むな木にみち牛もあせすはかりなるに、なをあきたらすおもほすあまりに、かかる文なん、さくり出よと、の給ふを、いかがし侍らん、いたつらにもたる人やありと、せちにたつね物するも、・・・・・
とあります。正保三年は、義公十九歳にあたります。人見卜幽を京都に派遣して書物の筆写(購入も?)させたのでありますが、これをもって直ちに歴史書の編纂の為の史料収集にとりかかった、とする積極的な根拠とは為し得ない、と思います。
 『水戸義公全集』に「笑々和歌集序」という一文が収められております。
正保二年十月十日の日付があります。
そうすると、まさに義公十八歳、伯夷伝との出会いの年であります。この文章が、伯夷伝を読んだ後か前か、これは分りません。しかし、このような文章を書く人がカブキ人であるはずはありませんから、後と考えておきます。その一部分を読みますと、
    「大和歌はあさはかなる翫ことのやうにしもあれと、しかはあらす、周雅のふかきにことならす、もろこしの三のすへらき、五のみかとのすくなるみちををしへ、ひとしく五つのことはなる世しらしむるは歌なり」
とあります。三皇五帝の直なる道を教え、五倫の正しく行われている時代の心を知らしめるのは、日本に於ては和歌である、と言っているのであります。
 「笑々和歌集」という歌集は、残念ながら現存しておりませんが、この序文によりますと、古い時代のものは二十一代集のような立派な和歌集によって知ることが出来るが、近代の優れた歌を集めたものがない、それは残念であるのでこれを作るのである、と編集の主旨が説明されております。してみれば、伯夷伝に衝撃を受け、それまでの自分の浅はかさを痛烈に反省した義公が、まず勉強の第一歩として手を付けたのは、和歌集の編集であった、ということになります。しかも、その和歌集は、先に見たように、人倫を明らかにし、風教を維持する根本のものが和歌であるという認識の下に編纂された。つまり、義公は、和歌を集め冊子に纏めることによって自ら人の道を学ぼうとしていることになります。実は、義公の和歌和文の先生は、『諫書』の小野言員であったのです。先ず和歌集であった、ということには、厳しい自己反省の中で、それまで自分の成長の為に心から尽くしてくれた言員への感謝の気持ちを表したかったのかも知れませんが、いずれにしても、義公の学問的関心が、人としての道を具体的に研究し確かめるという方向性を明確にしたことが知られると思います。人見の京都派遣も、この和歌集にあきたらず、さらなる資料を求めてのことであったかもしれません。そして、この「笑々和歌集」編纂の意図は、やがて『扶桑拾葉集』へと発展継承されていくものと思われます。以上、例によって、話が多岐にわたり、とめどもなくなってしまいましたが、修史の動機ということをテーマに、その発端とされる史記の伯夷伝を読み、そこから義公が何を受け取ったのか、ということを考えてきたわけですが、実際に義公が歴史の編纂ということについて具体的に考え、或いは我が国の歴史についていろいろな判断を他人と交わすようになるのは、二十歳を過ぎてからのようです(名越会長前掲論文)。自分の力で「本朝の史記」を編纂しようという決意は、なお数年の後になると思われますが、その発端がこの十八歳の感動であったことは、義公自らが述べるとおりであったでありましょう。
 私が思いますのは、義公の受け取ったものは、伯夷伝の中の一部分ではなく、その全体であった、そしてそれは簡単に言い表すことは出来ないのですが、煎じ詰めれば、「人はおのおの其の志に従う」で、人として千歳の名を残すような生き方こそが大丈夫の生き方であり、そのように生きるためには、学問を窮めなければならない、という自覚、学問の目的への開眼であり、さらには、その学問というものも、単に聖人の教え(原則)を学ぶというに留らず、広く歴史を見、多くの先人の具体的な事歴に学び、取捨選択する、そういう生きた学問が必要である、ということに気が付いた、ということではないかと思います。これを要するに、伯夷伝との出会いは、義公の真実の学問への情熱に点火し、歴史、就中、夫々の志を明らかにする列伝への関心を掻き立てたのであろうとおもいます。
 英傑の士は、確かに、生まれながらにして非凡でありましょう。しかし、その非凡さを生かし育てるには学問による切磋を必須とします。義公の偉大さは、そのことに自ら気付き、自らの手で自らを切磋琢磨したことであります。そして、このような学問への情熱と弛みない努力が、やがて数々の事業・業績となって結実して行くことを思います時、義公を真に英傑たらしめたその出発点、いわば、英傑への「無門関」が、史記の伯夷伝であったのであります。伯夷伝は英傑義公の誕生を促したと共に、義公によって歴史の中に生き返ることが出来たのであります。

          (茨城県立大洗高等学校校長)(平成5年8月講座)