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後期水戸学と烈公の改革

                  安 見 隆 雄

   一 はじめに

 本日は水戸学講座の第三回目、ここに掲げました演題でお話しさせていただきます。
 ご案内のとおり今年は、明治天皇御誕生百四十年、崩御されまして八十年という意義ある年に因みまして、水戸学、即ち水戸藩の学問業績が明治維新といかなる関係にあったのか、ということについて学ぶことが本講座の趣旨であるかと思います。
 今朝ほど常磐神社へ参拝いたしました折りに、神社の右手に明治維新百年を記念して建立されました大きな石碑を改めて拝見して参りました。安岡正篤氏の撰文で、その中で、義公、烈公の業績について説かれて、それが明治維新につながっているということなどが書いてありました。
 もうひとつご紹介いたしますと、九月九日付けの産経新聞の「正論」に、東大教授、小堀桂一郎氏の「靖国神社御親拝の復活を----乃木将軍の殉死八十年に思う」という一文が掲載されておりました。その要旨は、「九月十三日が近づくと決まって思い出される一事がある。それは大正元年のこの日のこと、明治天皇の御大葬が青山斎場で執り行われ、その葬列発進の時刻に、乃木希典大将夫妻が天皇の御跡を慕って自刃し、殉死を遂げたという事件である。本年はそれから丁度八十年を経た一つの節目の年である。」として、夏目漱石が小説『こころ』を書いて、主人公をして「明治の精神」に殉死せしめ、森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を書いて、乃木将軍の殉死に理解と弁護を試み、「功利の尺度が支配することによって礼の感覚がすたれてゆく明治末期の世相に深い憂慮を表明した。」ことを述べ「礼」は「形」に表れることによって初めて礼となるのであり、乃木将軍の殉死も明治天皇の御跡を慕うという一つの礼になったと理解される。過ぐる大戦に散華した二百十三万余柱の英霊に対しても、後世を守護してくれたことに感謝する心を有しているならば、是非その心を形に表して靖国神社に参拝したいものであり、今上陛下にも先帝陛下の御遺志の実現であると思召して皇室の御親拝を復活していただきたい、という主旨のことを述べております。
 明治維新との関わりについて、今年はこのような形で新聞にも表れてきております。

   二 水戸学について

 いわゆる「水戸学」について、今までいろいろな解釈や説明がなされて参りました。一例を挙げますと、『水戸藩史料』には、
     藩祖威公夙に神道を崇び勇武を以て国に臨み廉耻を励まし節義を重んず。義公其の志を継ぎて大日本史を修め大義名分を明らかにしたるを以て、其の教義は冥々の間に人心を感化し、爾来学者空理を談ずる者少なく、専ら実学を研究して早く已に水戸学の称あり。
と説明してあります。
 ところで、「水戸学」の名称については、他にも「水府の学」「常陸の学」「天保学」などと特に水戸藩以外の人々から呼ばれていたようであります。
 一般的に、義公時代を「前期水戸学」といい、そして烈公が藩主となられた文政十二年以降を「後期水戸学」と呼んでおります。「前期水戸学」は義公が提唱された「興廃継絶」即ち「廃たれたるを興し、絶えたるを継ぐ」という念願から起った学問事業であり、それは『大日本史』や『礼儀類典』などの編纂などに表われ、その編纂過程の中で形成されてきた学問思想を指しております。一方「後期水戸学」は藤田幽谷に始まるとされております。基本的には義公の学問の復活・継承でありますが、それに差し迫りくる内外の時勢の変化に対応するための新たな提言が加わって参ります。それは国内の諸改革への提唱とイギリス・ロシア、さらにはアメリカなどの西洋列強の接近・進出に対して、いかにしてわが国の尊厳と独立を護るかという現実の問題に対処するための実学を中心に展開されてきたのであります。その学問の展開と発展が、いわゆる「尊王攘夷論」となり後期水戸学の特徴となってくるのであります。
 この「後期水戸学」について、他藩士はどのように見ていたかということについてはこの度、久野勝弥氏が出版された『他藩士の見た水戸』という書物の中で、何人かの遺文、見聞録、日記などが紹介されております。例えば、吉田松陰の「赤川淡水の常陸に遊学するを送るの序」には、
     古昔盛時の学たる、上は治教経芸の大より、下は歌章音楽の小に至るまで、師承する所あらざるはなし。是を以て能く其の旧を存し、其の故を守りて失はざるなり。夫れ常陸の学は天下の推す所にして、而して其の老輩碩師皆承する所あり。今淡水遠く往きてこれに従はんとするは、固より以て其の学の蘊を尽さんと欲すればなり。嗚呼、淡水師道を慢ること勿れ。私見を立つること勿れ。取捨去就先生にこれきかば、則き古道及び難からざるなり。
と述べております。
 吉田松陰は、ご承知のとおり、嘉永四年十二月から翌年にかけて、東北遊学の途上、水戸を訪れ、特に会沢正志斎から多大な感化を受けたのでありましたが、その時の様子を日記に次のように記しています。
     水府の風、他邦の人に接する款待甚だ渥く、歓然として欣びを交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。
 この時、水戸遊学で学んだところを、後輩の赤川淡水の常陸に遊学するに際して餞の言葉としておくったのが、この「師道を慢ること勿れ。私見を立つること勿れ。」というものでありました。このことは後でも申し上げますが、この言葉に水戸の学問の特徴が表れていると思います。

   三 後期水戸学について

  (1) 藤田幽谷の「正名論」について

 後期水戸学は、藤田幽谷に始まると先程申しましたが、幽谷は云うまでもなく東湖の父であり、その家は水戸城下の奈良屋町で藤田屋という古着を商っておりました。幼い時より非常に優れた才能を発揮し、水戸藩内のみならず江戸にまで知られるほどでありました。また、高山彦九郎や蒲生君平らの天下の英傑に会い非常な激励と感化を受けたりしました。
 幽谷の真価を発揮したのは、寛政三年十月、十八歳の時に書きました「正名論」という一文であります。これは幽谷の名声を聞いた老中松平定信が何か文章を見たいということを、幽谷の先生でありました立原翠軒に話があり、翠軒は幽谷に何か一文があったら提出するように命じました。そこで幽谷は、自宅に帰らず友人の書斎を借りて一気に書き上げ、提出したのが「正名論」でありました。翠軒はこれを見て幕府批判と疑われる恐れがあるとして松平定信には提出しなかったと言われております。
 この「正名論」は元は漢文で書かれておりますが、次の文は読み下し文にしてあります。
     甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それなほ天地の易ふべからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。苟しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊  卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん。
 この中で幽谷は、わが国の歴史から見て、天下国家において最も大切なことは、君臣の名分を厳正にすべきであるとして、朝廷と幕府、天皇と将軍の関係を明確に区分することが大切であり、将軍は朝廷から征夷大将軍に任命されているのであるから、幕府は朝廷を尊び、朝廷の権限を奪うようなことがあってはならないと言うことを建言しようとした訳であります。
 十八歳の幽谷がこのような文章を一気に書き上げるということは、如何に秀才であるといっても容易にできるものではありません。当然早くからこのような学問をしてきたからであります。このような学問は一体どこから出てきたのであるか。次に見て参りたいと思います。

  (2) 会沢正志斎の『乃門遺範』について
 幽谷の学問・教育について最もよく伝えておりますのが、門人でありました会沢正志斎が記述しました「乃門遺範」であります。この書は正志斎が幽谷の塾「青藍舎」で教えを受けたことを後年になってまとめられたものであります。その中から幾つかご紹介してみます。
     先生尤も君臣の義を重んず。恆に人に語りて曰く、天祖統を垂れ、天孫継承し、三器を奉じ以て宇内に照臨したまふ。皇統綿々、天壌と窮りなし。実に天祖の命じたまふ所の如し。是れ神州の四海万国に冠たる所以なり。(略)先生の国体を論ずること、其の大旨此の如し。蓋し義公の遺志を奉ずると云ふ。
 ここに説かれております国体論は義公の遺意を奉じたものとありますから、先程申し上げました幽谷の学問の由来する所がはっきりとして参ります。また、これにより水戸における学問が先師の教えを師承するという精神が脈々として伝わっていることが分かる訳であります。
     先生春秋の尊王攘夷の義に原づき、尤も名分を謹む。君臣上下の際、華夷内外の弁、これを論ずること極めて詳明なり。行文措辞、其の名分に渉るものは、片言雙字と雖も、未だ嘗て容易に筆を下さず。而して最も思ひを神聖経論の業に致し、典章制度、立論精確なり。
 この『春秋』という書は孔子が編纂した歴史書でありますが、その記述において皇帝と諸侯(王)、漢民族と他民族(夷狄)とを厳正に区別しており、そこに尊王攘夷の道義による判断が表明されております。幽谷はその精神を継承して特に「君臣上下」の関係と「華夷内外の弁」について厳密に説かれるのであります。
    先生もともと戎狄の辺を窺ふを憂ふ。寛政甲寅俄羅斯東蝦に来りて通市を乞ふ。先生その情偽を察し、古今戎狄の形勢を推求し瞭然掌を指すが如し。且つ其の虚誕誇張の妄説を弁破す。
 これは外国勢力がわが国近海へしきりに接近してきたため、その侵略の意図を喝破し、わが国の将来を憂慮した所であります。「戎狄」とは、もともとシナにおきまして自分の国は「中華」・「中国」と称して最も優れた国であり、周囲の国は野蛮国であるとして、東夷・西戎・南蛮・北狄と呼んでおりました。いわゆる「中華思想」に基づく考えであります。これをわが国を中心に見ますと、西洋諸国は「戎狄」ということになります。
 寛政甲寅は寛政六年(一七九四)、ロシア (俄羅斯)が北海道に来航して貿易を要求してきましたが、幽谷はその外国の野望を洞察して論破し、それを防ぐ方法を考えていくのであります。この幽谷の考えが後に正志斎の『新論』に受け継がれていくのであります。
 また、次の一文は幽谷の学問に対する考え方をよく表しております。
    学者は君子たることを学ぶ。儒者たることを学ぶにあらず。
 ここで「儒者」という意味は、四書五経などの訓話・解釈などをする者、単なる机上の学問、物知り、博識になるための学者などを指しています。しかし、本当の学者というものは、「君子」となるための学問、即ち徳行を修め、品位を高めると共に、世の中に役立つために学ぶのが真の学者であると述べられているのです。
 以上、幽谷の学問についての正志斎の『及門遺範』によって見て参りました。

  (3) 会沢正志斎の『新論』について
 次に幽谷の高弟、会沢正志斎の『新論』について触れてみたいと思います。『新論』は正志斎の代表的な著書でありまして、正志斎の名はこの一書をもって天下に知れ渡ったのでありました。この書は幽谷の遺志を継承して、国内の人心を統一し外国勢力の侵略に対抗するために如何にしたら良いかと言う趣旨で書かれたものでありました。幽谷の列強に対する考えをあらわす一例をあげますと、文政九年(一八二六)には常陸の大津浜にイギリスの捕鯨船の一団が接近し、その一部の者が上陸し薪水食料を強奪しようとしたため、一騒動になったことがありました。幕府の対応が手ぬるく、このままでは今後の憂いになると見た幽谷は、わが子東湖を呼んで、今から大津へ行って異人を斬ってくるように命令されたのであります。幕府は前年の文政八年に「異国船打払令」を出して外国船の武力排除を命じておきながら、結局、幕府はこれに薪水食料を与えて釈放してしまったのであります。このため東湖の決死の攘夷行動も実行されず終わったのでありましたが、幽谷の覚悟はこのようなものでありました。
 西洋列強の接近と国内の対応の不味さが露顕してきた情勢の中で書かれたのが『新論』であります。この書が出来まして幽谷に届けられますと、幽谷は東湖に代読させます。一つの編がおわる毎に幽谷はいちいち非常な感嘆、驚きの声を発しながら聞いておられた。終わってから話されるに、自分はだんだん年をとってきた、こういう本が書かれた以上、もう自分の志は十分述べられているのでこれ以上のことはないと称賛されたのであります。
 この書が藩主哀公に呈上されますと、この書をご覧になり、内容的には誠にもっともである、彰考館に置くのはよいが、差し障りがあるからあまり人の目にふれないようにと命じられたのであります。正志斎が語る所によると、この書には自分の一生の学問、精力の半ばを尽くしたと言われる程の力作でありましただけに残念に思われたことでありましょうが、次第にこれが人々の間に広まりまして、各地から反響も起こって参りました。やがて出版されることになりますが、初めは「無名氏」ということで出版せざるを得なかったのでありました。しかし、知る人ぞ知る、水戸の会沢正志斎の著書であるということは天下に広まって参ります。それならば今度は、会沢先生に会って直接教えを聴きたいという気運が起り、次第に水戸を訪れる人が増えて来たわけであります。前に申し上げました長州の吉田松陰や久留米の真木和泉守など後世に名を残した先哲も水戸を訪れております。「無名氏」という、いわば匿名出版が解除され会沢正志斎の名をもって出版できましたのは、それから三十年後の安政四年になってからでありました。こういう曰くのある書物であります。
 その中にどういう事が書いてあるかということを次に見て参りたいと思います。まず、序文であります。
     謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇大に照臨し、皇化の曁ぶ所、遠邇あることなし。しかるに今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躪し、眇視跛履、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや。
 このように初めにわが国の神代草創の事、祖先の由来するところを説き始めるのでありますが、述べるに当たって「謹んで按ずるに」と書き出してありますのは、ここに先人の謙虚で敬虔な心が表れていることが分かります。
 さて、「神州」は「神国」と同じ、神様が宿り治める尊い国ということで、わが国を先哲はそのように呼んでおりました。その「神州」に西洋の国々がアジア諸国を蹂躪しながら、次第にわが国を侵略しようと近づいて来ているが、何と無礼千万なことであろうかと、憤激しているのであります。
     臣ここを以て慷慨悲憤し、自から已む能はず。敢へて国家のよろしく恃むべきところのものを陳ぶ。一に曰く国体、以て神聖、忠孝を以て国を建てたまへるを論じて、遂にその武を尚び民命を重んずるの説に及ぶ。二に曰く形勢、以て四海万国の大勢を論ず。三に曰く虜情、以て戎狄覬覦するの情実を論ず。四に曰く守禦、以て国を富まし兵を強くするの要務を論ず。五に曰く長計、以て民を化し俗を成すの遠図を論ず。この五論は、皆天の定つてまた人に勝つを祈る所以なり。
 これは『新論』の構成について述べたものであります。第一章国体、第二章形勢、第三章虜情、第四章守禦、第五章長計となっております。
 初めにわが国の成り立ち、特色を述べ、次に世界の情勢に及び、わが国を防御する具体的な方策を立てておりますが、ここに水戸学が実学を尊ぶ特色があります。
 「長計編」に次のような一節があります。
     狭きものは之を広からしめ、険しきものは之を平らかにし、神武不殺の威もて、殊方絶域に震はば、則ち正に海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめんと欲す、また何ぞ屑屑乎としてその辺を伺ひ民を誘ふをこれ患へんや。
 わが国を防御する方策も単に武力により撃退するというのではなく、神武天皇の御東征の際に示されたような仁徳を内に秘めた神武により、戦わずして相手を従わせる「不殺」の力をもってすれば、諸外国もいたずらにわが国を窺うことはしないであろうと述べております。「善陣は戦わず」と云いますが、『孫子』に「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。」ということでありましょう。
 このような精神を拡大して参りますと、将来において、国を開き諸外国と交流し、わが国が積極的に海外に雄飛するという気持ちを伺うことが出来るのではないかと思われます。

  (4) 北畠親房の『神皇正統記』について
 さて、後期水戸学は幽谷に始まり、その思想・教育について正志斎の著述によりたどってきたわけでありますが、それでは幽谷や正志斎の考え方が、一体どこに由来するのでありましょうか。この点について北畠親房の『神皇正統記』によって見て参りたいと思います。
 昨年(平成三年)NHKのテレビで「太平記」が放映されました。後醍醐天皇の倒幕計画が大楠公らの奮戦により建武中興が達成されますが、足利高氏(尊氏)の再度の謀叛によって天皇が吉野山に身を移され、南北朝の時代を迎えることになりました。その南朝方の重鎮の一人が北畠親房公であります。やがて親房公は足利軍を討つため諸国に兵を募るのでありますが、自らも関東・東北に赴こうとして常陸に参り、小田城・関城などで南朝方の武士を頼って奮戦される訳であります。その小田城において、後醍醐天皇崩御の後に即位されました後村上天皇のために、御訓導の参考として書かれたのが『神皇正統記』でありました。それが次第に城中の武士の間に広まり士気を鼓舞する働きをするようになりました。そこで親房公は関城において加筆・修正して、今のような『神皇正統記』が完成したとされております。
 この中で親房公は日本の歴史を神代より説き明かし、御歴代天皇の御聖徳と御事績について触れ、天皇としての有るべき姿、さらには国民としてあるべき道義・道徳について、時には厳しい批判を下しております。従って単なる日本の歴史ではなく、一国の為政者や国民のための教訓の書であり、道義・道徳の基準を示した重要な意味を持つ書物であります。これまでこれを読んで大きな感激と影響を受けた人々が数多くありました。義公もその一人であります。義公の学問の出発点と背景の一つにはこれがあると思われます。例えば『神皇正統記』の中に、「三種の神器があるところ正統なり」という主張が明確に説かれておりますが、義公が『大日本史』の中で南朝正統論、すなわち吉野の後醍醐天皇方が正統であるとする確信を得られたのは、この『神皇正統記』であると言われております。
 義公と『神皇正統記』との関係については、いろいろ書かれてありますが、一例として水戸市の郊外、常澄村(現水戸市)の六地蔵寺の蔵書について申し上げてみたいと思います。室町時代に恵範上人という方があり、戦乱を避けて土竜(モグラ)と号して地下に穴蔵を作って書を集め学問しておりました。その蔵書が代々伝えられておりましたが、義公の時代になり大日本史編纂の史料収集のために蔵書の調査を行い、いちいち副本(写本)を作り、傷んだ所は修理して書庫を作って収めておきました。この蔵書の中に『神皇正統記』がありました。この書は江戸時代に塙保己一の編纂した『群書類従』に収められておりますが、現在は所在不明になっております。当時は必ず義公の目に触れて、読まれた筈です。 この書庫については後日談がありまして、明治になってこの書庫を修理するため解体したときに、書庫の床から慶長小判など三十数枚出て参りました。これについては何の記録も伝承もありませんが、恐らく義公のほかはないであろうということになりました。何時かは書庫も壊れ修復が必要になる時が来る、その時に役立つようにと何十年、何百年先を考えた深い処置を見る訳であります。
 さて、『神皇正統記』の冒頭の一文が次に掲げたものであります。
     大日本ハ神国ナリ。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝ヘタマフ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其ノタグヒナシ。此ノ故ニ神国ト云ナリ。
 「大日本」は「おおやまと」と読みます。わが国の本質は「神国」であるとの認識が国体観の根本をなしております。先に見ました幽谷・正志斎らが国体について論じておりますのは、全てここに出発点があると思われますので、次にこの「神国」と「国体」について少し見て参りたいと思います。
 その「神国」であることの理由を次に述べております。
     (天照太神)皇孫ニ勅テ曰ク、「葦原ノ千五百秋ノ瑞穂国ハ是レ吾ガ子孫ノ主タルベキ地ナリ。爾シ皇孫就イテ治スベシ。行クユキ給ヘ。宝祚ノ隆エマサンコト、當ニ天壌ト窮リナカルベシ」。三種ノ神器世ニ伝フルコト、日月星ノ天ニアルニオナジ。
 これが「天壌無窮の神勅」といわれるものであり、天照太神が御孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降ります時に、神勅と三種の神器を授けられたのであります。
 この三種の神器は、皇位継承の際に厳重な儀式とともに伝承され、位と一体のものであるのはご承知のところであります。
 そこで三種の神器の所在が皇統の正閏、即ち正統であるか否かの判断の基準になってくる訳であります。
     大日本嶋根ハモトヨリ皇都ナリ。内侍所・神璽モ芳野ニオハシマセハ、イヅクカ都ニアラザルベキ。
 大日本嶋根とは日本国のことであります。もともと日本国そのものが、天皇の治められる国であると大前提を述べ、また、宮中で天照太神の御霊代として神鏡八咫鏡を祀ってある内侍所も芳野(吉野)にあります上に、天皇の印である神璽もお側にある以上、吉野(南朝)こそ正統であると述べているのであります。
     今ノ御門マタ天照太神ヨリコノカタノ正統ヲウケマシマシヌレバコノ御光ニアラソヒタテマツル者ヤハアルベキ。
と述べて、今ノ御門、即ち後村上天皇は天照太神よりの正統を受け継いでこられたのであるから、今の天皇と争い奉る者はあるはずはないではないか、と説かれております。
 ところで、三種の神器には、どのような意味が籠められているのでしょうか。今日では殆ど触れられることはありませんが、改めて考えて見たいと思います。
     此三種ニツキタル神勅ハ正ク国ヲタモチマスベキ道ナルベシ。鏡ハ一物ヲタクハヘズ。私ノ心ナクシテ、万象ヲテラスニ是非善悪ノスガタアラハレズト云コトナシ。其スガタニシタガヒテ感応スルヲ徳トス。コレ正直ノ本源ナリ。玉ハ柔和善順ヲ徳トス。慈悲の本源ナリ。剣ハ剛利決断ヲ徳トス。知恵ノ本源ナリ。此三徳ヲ翕受ズシテハ、天下ノオサマランコトマコトニカタカルベシ。神勅アキラカニシテ、詞ツヾマヤカニムネヒロシ。アマサヘ神器ニアラハレ給ヘリ。
 三種の神器とはご承知のとおり、八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉のことであります。この鏡は正直を象徴し、全て私心なく総てのものを正しく写しだすのが鏡であります。鏡ということについて一言申し添えますと、歴史そのものを鏡という言い方があり、たとへば『大鏡』、『吾妻鏡』などの類であります。大日本史の編纂所を彰考館と申しますが、命名したのは義公であり、その由来は、孔子の編纂した歴史書『春秋』の注釈書である『左氏伝』の序文にある「彰往考来」の文字から取ったものであります。即ち歴史とは「往古を彰らかにして未来を考える」ものであり、単に昔の事績を記述するだけではないとする見識が表明されております。余談になりましたが、鏡にはそのような意味も含まれているということであります。
 次に玉、勾玉のことでありますが、玉は柔和で人と争わない善順を徳とするものであり、慈悲の本源を象徴するものであります。円く角が取れ、人々を円く治めるなどとよく申しますが、このような徳を表しているものであります。義公の政治も「慈悲の政治」と説かれておりますが、こういう神器の徳に象徴された政治を旨としたものであったのではないかと思います。
 そして剣でありますが、この剣は剛利決断を徳とし、知恵の本源なり、と説かれております。即ち、鏡の知恵と玉の徳と剣の勇気決断、この三徳を合わせ保たずしては天下を治めることは困難であると説かれているのであります。
 天照太神の下された神勅の言葉は簡潔であるが、その意味するところは深遠であり、その精神は三種の神器を尊ぶということではなくして、三種の神器や神勅に象徴される教えを御歴代の天皇が受け継がれ、天下を治める全ての根本として勤めてこられたのであります。このような伝統と教え、これを別の言葉でいいますと、神道の心がここに伝えられて来ていることが知られているのであります。 このように天照太神の神勅と三種の神器に象徴される教えを守って天下を治められることは、これこそ神国である何よりの証拠なのであります。
     コト更ニ此国ハ神国ナレバ、神道にタガヒテハ一日モ日月ヲイタヾクマジキイハレハナキナリ。
という一文の意味が、以上のことから明らかになるものと思います。
 さて、話を少し変えまして、国民として朝廷に仕える道について考えて参りたいと思います。
     仕官スルニトリテ文武ノ二ノ道アリ。坐シテ以道ヲ論ズルハ文士ノ道也。此道ニ明ナラバ相トスルニタレリ。征テ功ヲ立ハ武人のワザナリ。此ワザニ誉レアラバ将トスルニタレリ。サレバ文武ノ二ハシバラクモステ給ベカラズ。
 親房公が申されるには、朝廷に仕える道には文と武の二つあり、学問を修め道明らかなる者は大臣とし、朝廷に背き従わない者を服従させことに功績ある者は大将、将軍にすることが出来るというのであります。ただし、文は文だけ、武は武だけ学ぶというのではなく、文武ともに修業することは当然のことであります。しかし、人には文と武とに得手・不得手がありますから、どちらか優れた方で奉仕するのが臣下の道であると言えましょう。従って文武の道はしばらくもなおざりには出来ないものであると説いております。
 この文武両道の教えは、弘道館記の中に説かれている所と同じであります。弘道館は後期水戸学を特徴するものでありますが、その教育方針の眼目となったものが、すでに『神皇正統記』のなかに説かれているのを知ることが出来るのであります。
 かつて、義公も文武の奨励について、
     世上にて我事を学問好きにて武芸はこのまずと申すげに候、武芸は武家のつねなればすヽめずとても諸士みなたしなむべき也。学問をば多くは人のこのまざる事にて候間、人の人たる道をすこしもしらせたく思ふが故に、学文の儀を世話にするなり。(『桃源遺事』)
と述べておりますが、これも文武両道の教えであります。
 さて、次に保元の乱についての親房公の批判を見て参りたいと思います。この所は後程お話し申しあげます栗山潜鋒の『保建大記』に大きな影響を与えたところでありますので、ここで取り上げておきます。
     義朝重代ノ兵タリシウエ、保元ノ勲功ステラレガタク侍シニ、父ノ首ヲキラセタリシコト大ナルトガ也。古今ニモキカズ、和漢ニモ例ナシ。勲功ニ申替トモミヅカラ退トモ、ナドカ父ヲ申タスクル道ナカルベキ。
     保元・平治ヨリ以来、天下ミダレテ、武用サカリニ王位カロク成ヌ。イマダ太平ノ世ニカヘラザルハ、名行のヤブレソメニシニヨレルコトゾミエタル。
 保元の乱は、保元元年(一一五六)、鳥羽法皇の崩御を契機として、後白河天皇と兄崇徳上皇の対立、摂関家における忠通と弟頼長の争いを原因として、これに源平の武家が加わり、それぞれ親子、兄弟、叔父甥と分かれて戦った兵乱でありました。
 この乱で源義朝は後白河天皇方に付いて、上皇方に付いた父為義と戦いました。その結果上皇方が敗れましたが、その後の処分に当たり義朝は天皇の命令により父為義を斬ったのであります。このように子が父を殺すということについて、親房公は「古今ニモキカズ、和漢ニモ例ナシ」として、自分の勲功に引き換えても父を救うべきであったと、厳しく批判しているのであります。
 それより三年後の平治元年(一一五九)に、保元の乱で戦功のあった平清盛と源義朝との間に勢力争いが起こりました。これを平治の乱と呼んでおりますが、この二つの兵乱によって、天下が乱れ、武家の勢力が盛んになり、朝廷の権威が軽ろんぜられるようになったのであり、その原因は君臣・父子の道義の乱れによるのであると批判されているのであります。
 次は水戸学で特に重視しました、君臣上下の分について論じている所を見て参りたいと思います。
     我国ハ神明ノ誓イチジルクシテ、上下ノ分サダマレリ。シカモ善悪ノ報アキラカニ因果ノコトハリムナシカラズ。カツハトヲカラヌコトドモナレバ、近代ノ得失ヲミテ将来ノ鑒誡トセラルベキナリ。
 神明の誓ということは、先程から申しておりますところの、天照太神の詔勅のことであります。天と地、君と臣、親と子、更には師と門人などの関係は厳然として上下の区分が定まっており、また善悪の因果応報の関係も明らかでありますから、保元の乱や平治の乱などを鏡とし、戒めとして、身を慎まなければならないと説いております。
 最後に親房公の政治の要論について見てみたいと思います。
     オヨソ政道ト云コトハ所々ニシルシハベレド、正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也。コレ天照太神ノアキラカナル御ヲシエナリ。決断ト云ニトリテアマタノ道アリ。一ニハ其人ヲエラビ官ニ任ズ。官ニ其人アル時ハ君ハ垂拱シテマシマス。サレバ本朝ニモ異朝ニモコレヲ治世の本トス。二ニハ国郡ヲワタクシニセズ、ワカツ所カナラズ其理ノマヽニス。三ニハ功アルヲバ必ズ賞シ、罪アルヲバ必ズ罰ス。コレ善ヲスヽメ悪ヲコラス道ナリ。是ニ一モタガフヲ乱トハイヘリ。
 既に見て参りましたように、政治は三種の神器に象徴される正直・慈悲を本として決断の力が大切であり、この教えは天照太神の神勅に示されてあります。朝廷に相応しい人物がある時は、天皇はいちいち政治向きに関与せず、手をこまねいて垂拱していても良く治まるというのであります。天子垂拱はシナにおいても政治の根本、理想の姿であるとされているのであります。これについては幽谷の「正名論」でも論じられております。
 「国郡ヲワタクシセズ」と言うことについて、思い起こすことは、やはり義公のことであります。義公は兄頼重を越えて二代の藩主に就かれ、また藩主を継ぐに当たって兄のお子様を養子にされましたことはご承知の所でありましょう。当時の水戸藩の所領は二十八万石ありましたが、義公はこの中から弟頼元、頼隆にそれぞれ二万石、また時房、頼雄、頼利にそれぞれ三千石を分かち与えられました。二十八万石の内から三万石を与えられたということは、兄弟の道を立て家を斉えるためでありましたでしょうが、それを実行せしめた根本には、北畠親房公のこの教えがあったのではないかと思われるのであります。 このように『神皇正統記』は義公の事蹟に多大の影響を与えており、延いては幽谷・正志斎たちに継承され、そして後期水戸学の思想的背景を形成し、その事業として発揮されたのが、烈公を中心とした天保の改革であったのであります。

   (5)栗山潜鋒の『保建大記』について
 さきほど『神皇正統記』のところで、保元の乱や平治の乱について触れ、親房公の批判について述べましたが、この事件を解明するために精力的に力を注がれたのが、栗山潜鋒でありました。潜鋒は『神皇正統記』により歴史の目を開かれ、特にこの問題に注目して、研究の成果が『保建大記』となったのでありました。そしてこの『保建大記』を読んで、感激して学問に精進されたのが、前に申し述べましたとおり幽谷であり、それが後期水戸学の出発点となってくるのでありまして、ここに学問の継承、歴史を貫く魂の力を見るのであります。
 栗山潜鋒は山城国の淀藩の出身であります。これは父がこの藩に仕えておりました関係であります。若い時、十四歳で同年令の八条宮尚仁親王に学友としてお仕えしておりました。しかし、親王が十八歳という若さで亡くなられましたため、水戸の彰考館の編集員でありました鵜飼錬斎の推薦によって義公に仕えることになりました。潜鋒は山崎闇斎の教え崎門学を学んだ人であり、『大日本史』の編纂に当たり北畠親房公の列伝の執筆を担当したりしました。この書は始め『保平綱史』と称しておりましたが、水戸に参りまして史臣といろいろ議論をした結果、最終的に『保建大記』という書物になりました。
 この『保建大記』について、土佐の谷秦山が『保建大記打聞』という書を著しておりますが、それには次のような事が書いてあります。たまたま『保建大記』という本を手に入れた、読んでみると非常に重大なことが書いてある、そこでこの講義をはじめることにした。これは古今に珍しい書で、これこそ神道を大根にして孔子・孟子の書を羽翼にしたものである、このため自分は殊の外この書を信仰する、過ぎ去った人であるが、甚だ味方に思い講席を開くものである、と述べられております。
 後から見れば、谷秦山も栗山潜鋒も、いづれも山崎闇斎の門流であり同門の士であったのでありますが、谷秦山は当時それを知らなかったのでありました。それにしても秦山をしてこのように絶賛せしめた『保建大記』とはどのような書物であったのでしょうか。
 この書には、潜鋒自身と三宅緝明(観瀾)の二つの序文がありますが、観瀾の序文から見て参りたいと思います。
     世の季、政綱漸く弛み、民心日々に詐りてより、強僭反側の徒、累々として跡を接す。(略)特り衣纓家に神皇正統記の編有り。成憲を掲げて頽風を振ひ、系緒を弁じて姦軌を警め、黨議・卓識、諸を君を思ひ時に憂ふるの誠に本づく。(略)実に始めて与に春秋の遺意を言ふ可し。
     世の中が段々衰えてくると、政治も民心も乱れ、権力を争い主君に反逆する者、後を絶たない様相になってきた中に、ただ一人公卿で『神皇正統記』を著し正義を述べるものがあった。その書は『春秋』の遺意を継述したものである、と述べて『保建大記』に及んでくるのであります。
      而して輓近、学、士庶に降り、撰著頗る多きも、その間、亦特り潜鋒子の保建大記をえたり。体を范氏の鑑に擬し、旨を朱子の綱に取り、敬畏を君心に致し、礼文を臣道に謹み、忠邪遁れず、終始繹ぬ可く、以て政の得失・事の是非に至るまで、一に皆、断ずるに古義を以てす。其の本を推し正を貴び、名教を愛説するは、固より源准后の作と相亞ぐ可くして、措辞の厳・行文の雅は、迥かに已に前人に度越す。
 近世に至り、多くの書物が著されたが、特筆すべきは潜鋒の『保建大記』であり、体裁は宋の范祖禹の『唐鑑』に倣い、主旨は同じく宋の朱憙の『通鑑綱目』に取り、大義名分に基づき、政治の得失を論じるところは、『神皇正統記』に次ぐべきものであり、行文の厳格さにおいては、それを凌駕するものがある、と賛嘆しているのであります。
 次に、その名分、得失の論について見て参りたいと思います。
     蓋し邦を有つ者は、当に祖訓を慎しみ、名分を明らかにして、以て民志を定め、窺覦を杜ぐべし。故に君を立つるは必ず一種に定めて、君臣の分、厳なり。
 「邦を有つ者」即ち天皇は天照太神の神勅である祖訓を慎しみ守り、上下の名分を明らかにして国民の向かうべき方向を定め、皇位を窺う者が出ないようにすべきである。従って、皇位継承者は一系と定め、これにより君臣の分が厳重になるのであると述べております。
 この国体観は『神皇正統記』に論ずる主旨と同じであり、また先に見ました幽谷・正志斎の主張と共通する所のものであります。このように後期水戸学の淵源もまた同じところにあることが知られるのであります。
 『保建大記』においては、保元の乱の原因を究明する立場から、その争乱の原因とその対策に及んで論及しているのが特徴となっております。
     今、叔、姪を以て父と為し、少、長を以て子と為すは、則と父、父たらず、子、子たらざるなり。何を以て臣の臣たらざるを防がんや。是の故に、赫々たる邦則、父子相紹ぐを重んずるは、君臣を厳にする所以なり。
 第八十代高倉天皇は叔父でありながら、姪(甥)の第七十九代六条天皇を父とし、従って六条天皇は年少でありながら年長の高倉天皇を子とされたことは、即ち「父、父たらず、子、子たらざるなり」の状態であり、これでは君臣の乱れを防ぐことは出来ない、父子相承を守ることは君臣の分を厳重にするために不可欠の条件である、と述べております。
 保元の乱の原因はこの君臣・父子の道義の乱れに由来するものであることを指摘したものでありますが、この継嗣の問題は、兄を越えて藩主となった義公にとりましても非常に重大な問題であったことはご承知の所でありましょう。
 次は水戸学で特に問題としました華夷内外の弁、区別のことであります。
     臣愿曰く、華、夷、何の常か之れ有らん。華にして夷の礼を用ふれば、則ち夷なり。夷にして華に進まば、則ち之を華とす。源親房も亦曰く、「彼、我を以て東夷と為すは、猶ほ我、彼を以て西蕃と為すがごときなり」と。
 冒頭に「臣愿」とあるのは、潜鋒の名を愿(やすし)といいます、臣とは何を意味するのでしょうか。主君に当たるのは、水戸藩にあっては藩主であり、幕府にあっては将軍でありますが、もともと『保建大記』は八条宮尚仁親王のために書かれたものでありますから、親王に対しての臣下と書かれたものであると思われます。
 華(中国)と夷(狄)との区別については、一定の基準というものはない。華の者(国)が夷の者(国)の礼儀を用いることをすれば夷となり、夷が華の礼儀を用いるようになれば華ということができる、というのであります。
 これは国体の尊厳を保ち得るかどうかという重大な基準であるといえます。
     近ごろ学、市井に堕ち、文、晉紳に振はず。旧典にくらくして、之を顧みず。或は元・明を呼びて中華と為し、自ら称して東夷と為す。殆ど、万世父母の邦を外視して、百王憲令の著はるヽを無蔑するに幾し。
 江戸時代において、学問が衰えたため華夷の弁別が出来なくなりまして、シナを中華と呼び、わが国を東夷と見なす風潮がありましたことを慨嘆するのであります。
 このように華夷の弁についても、『神皇正統記』に始まり、『保建大記』に及び、やがて幽谷・正志斎に至っていることが理解できるのであります。
 次に一国の興廃についての潜鋒の主張を見て参りたいと思います。
     夫れ興廃は天なり、隆替は時なり。苟も復古に志有らば、則ち必ず其の本を修めて、以て其の心を服するのみ。(略)臣之を聞く、人君能く身を律し徳を慎めば、則ち天下の人心、服するを期せずして自ら服し、畏するを期せずして自ら畏す。人心の畏服する所、天命従ひて焉に帰す。天命の帰する所、敦か能く之を禦がん。人君たる者、其れ、思ひを此に致さざる可けんや。
 国の興廃・隆替は天と時によるが、復古・興隆を期待するならば、人君として道徳を修めて身を慎めば、天下の人心自ずから心服するに至り、天命もやがて己れのほうに来るのであるということを述べております。即ち天命もまた、自分の努力により招来することが出来るという判断をしているのであります。 このように君主、或は為政者、人の上に立つ者の心掛けるべき所は、徳を修め身を慎むことが肝要であり、それにより天下は自ずから治まるものであることを繰り返し説いているのであります。
 次が前述の保元の乱における義朝の態度についてであります。
     臣愿曰く、臣の君に於ける、子の父に於ける、所在に死を致すのみ。義朝、勤王の日に当たりて、父に抗せざるを得ず。寧ろ血を欧くの趙苞たるも、心を指すの徐庶たる可からず。禍乱既に平ぎ、其の父、我に帰す。荳、其の子従りて之を殺すの道有らんや。君命に方ひ、与に倶に鼎钁に就くと雖も、可なり。
 源義朝が後白河天皇の命令により父為義を斬ったことを親房公が厳しく批判されたことは既に述べましたが、潜鋒はさらにこのように批判されたのであります。
 「血を欧くの趙苞たるも」とありますのは、シナの『後漢書』独行伝にある故事で、遼西太守となった趙苞のもとへ赴いた母と妻子が、途中鮮卑の軍に人質として捕らえられた。「私恩を顧みて忠節を殷つべからず」という母の励ましで、趙苞は鮮卑軍を破ったが、そのため母は殺されたのであります。のちに母の遺体を故郷に帰葬し、墓前で血を吐いて死んだことを言っております。また「心を指すのは徐庶たる可からず」とありますのは、『三国志』諸葛亮伝にある故事で、徐庶ははじめ劉備に属していたが、母が曹操に捕らえられると、わが心(むね)を指して「いま母が捕らえられてこの心が乱れた」と言って劉備のもとを去った。母はわが子が曹操のもとに来たのを見て怒り、自から首を縊って死んだということであります。
 義朝としては戦いが終った後であり、ひたすら助命を乞うべきであり、たとえ父子とともに鼎钁、釜茹でにされてたとしても、父を斬ることは断じてすべきで無かったと批判しているのであります。
 ところで、この保元の乱は、原因においてはともかく、どちらに正義があったのか。最後に、この点について潜鋒の論を見て参ります。
     院は兄たりと雖も、位を去ること久し。帝は弟たりと雖も、当今の天子なり。馭宇、年を踰え、未だ失徳有らず。院の兵を構ふること、其れ何の名あらんや。是の時に当りては、宜しく、躬、三器を擁するを以て正とすべし。
 兄とはいえ崇徳上皇は皇位を去ってから久しく年を経ており、後白河天皇は弟とはいえ今上の天皇である、しかも特に失徳があったわけでもないのであるから、この時においては「三器を擁するを以て正とすべし」として後白河天皇を正とするのは当然であると断じております。
 ここにおいても、三種の神器の帰するところを以て正統とするという判断を示されております。
 この問題について付け加えますと、吉田松陰は『講孟箚記』の末尾に『保建大記』の講義を付してありますが、その中で次のように論じております。
     嗚呼神器ハ正統ノ天子の受禅スル所ナレバ、君臣上下死ヲ以テ固守スベキコト、其義昭昭ナリ。善ク此義ヲ明ニシテ後、神器・正統一致ナルコト、益々昭昭ナリ。故ニ是ヲ即位ノ初ニ正フシ、是ヲ在位ノ間ニ守リ、是ヲ禅位ノ終ニ慎ム。是万世帝皇ノ大法ナリ。
 皇位と神器の授受は正統の天子であることが大原則であり、これは死をもってまで守るべきことであり、これによって始めて神器と正統が一致するのである、従って、皇位と神器の授受は慎重に、かつ厳正におこなわれなければならない、これが万世にわたっての帝皇の大法であると断じております。ここにも『保建大記』の主張と通じるものを見ることができると思います。
このように正統の天子の判断基準を神器の所在によるとの論拠について、先人の考えを述べて参りましたが、その理由には『大日本史』の三大特筆の一つである南朝正統論に関係するからであります。
 かつて義公は南朝正統論について、次のように述べております。
     こればかりは某に許してよ、後世われを罪する事をしるといへども、大義のかかるところいかんともしがたし。(「年山紀聞」安藤為章)
 「大義のかかるところいかんともしがたし」とは如何なる考えがあったのでありましょうか。仮に北朝を正統であるとすれば、足利高氏が官軍となり、楠木正成が賊軍・逆臣とならざるを得なくなります。そのような事になりますと、当に大義の判断が逆転してしまい、日本の道義、道徳の基準が根本から崩れてしまうのであります。従いまして、義公はいかなる罪を得ようとも断じてこの点は譲ることが出来ないと覚悟のほどを述べたのでありました。義公のこの覚悟・決心をえましたのは、やはり『神皇正統記』であり、「神勅」であったろうと思います。 以上で、後期水戸学とその由来する所の概略についての話をおわりに致します。

   四 烈公の改革 -----天下の魁

   (1) 改革の源流

 次に烈公の改革について考えて参りたいと思います。これまでわが国のあり方、為政者としていかにあるべきかについて、先人の教えを見て参りましたが、それを具体的に政治のなかに実現しようと努力されたのが、烈公であると思います。その天保の改革を実践しようと決意させたものは、わが国の歴史の中から、或いは北畠親房の『神皇正統記』であり、栗山潜鋒の『保建大記』などから学んだものであったろうと思います。そして何よりも、烈公が藩主になるまで、学問のお相手をしていましたのが、藤田幽谷門下の会沢正志斎や吉田令世などでありました。ここに学問の継承・伝達が行われていたのでありまして、この学問の裏付けのもとに、自ら改革の先頭に立たれたのが烈公であったのであります。
 烈公が藩主になられましたのが、文政十二年(一八二九)、三十歳の時であります。長いこと自分が考えておりました政治改革の方策、或は民心の治め方、或いは君臣のあり方などについて、領内の人々に初めて明らかにされたのが、有名な「告志篇」であります。大変長いものでありますが、次第に人々の間に書写され、後には印刷になりまして他藩の人々の間にも広まり、非常に尊重されたものでありました。
 その『告志篇』の一文を紹介したいと思います。
     人は貴き賤きによらず、本を思ひ恩に報い候様心懸候儀専一と存候。抑日本は神聖の国にして、天祖天孫統を垂、極を建給ひしよりこのかた、明徳の遠き太陽とともに照臨ましまし、宝祚の隆なる天壌とともに窮りなく、君臣父子の常道より衣食住の日用に至るまで、皆これ天祖の恩賚にして、万民永く飢寒の患を免れ、天下敢て非望の念を萌さず、難有と申も恐多き御事なり。然れども数千年の久しきうちに盛衰なき事あたはず(略)我等愚昧にして士民の上に立べき者にあらねど、祖先の余蔭により、天朝及び公辺の恩沢に浴し、不肖乍ら三位の尊を汚し、三家の重きに列して、天下の藩屏とも相成居候上は、及ばず乍ら国家を安定し、士民を撫育し、本に報い恩を酬い申度、日夜心をつくし候事に候、(略)されば某は古の明君賢将を慕ひ、各は古の忠臣義士を学び、在世にはともに他国に手本にもなり、後代にはよきためしにひかれ、父母の名迄も顕す様にと真実に心懸度事に候。
 初めに「人は貴き賤きによらず、本を思ひ恩に報い候様心懸候儀専一と存候」と報恩と感謝の大切なことを述べ、続いて国体を説いていきます。
 「我等愚昧にして」と、複数になっておりますが、これは烈公ご自身をさしております。「愚昧にして」とは謙遜してのことでありますが、自分は国(藩)を治めるため日夜心を砕いている。そこで古の明君賢将、忠臣義士を学んで、自分が藩主の間は他国の手本になり、後の世には良い先例となるような藩政をしたいものである。この努力により父母の名を顕彰できるように心掛けているというのであります。
 このような烈公の志、熱意、決意は誠に仰ぐべきであると思います。そして実行する以上は天下の魁として他藩の手本となり後世の模範となりたい、という気概を示されて政治の改革に臨まれたのであります。

   (2) 改革の主眼
 烈公の天保の改革については、いろいろ説かれておりますので、詳しく述べるのは差し控えますが、概要を申し上げますと次のようなことであります。
 江戸時代には幕府や諸藩において種々の改革が行われました。一般的に改革の背景には財政窮乏という止むにやまれない事情がありましたため、改革の主眼はどうしても財政の建て直しということになりました。
 しかし、水戸藩の改革におきましては単に財政再建という、利害損得のためだけの改革ではありませんでした。この点は他藩の改革と異なる所であり注意すべきであろうと思います。
 天保の改革の主眼は、先ず旧弊の打破ということでありました。やはり永い間天下太平の世が続きますと、次第に古いしきたりや旧弊が表れ、政治にも活気を失い、気風も衰えて参ります。これを打破することが改革の第一歩でありました。 藤田東湖の『常陸帯』は烈公の藩政改革の理想と経過について詳細に記述してあります。その中に「政府の旧弊を破り給ふ事」という箇条で、そのことを述べております。 また「御世の初執政其他職々進退し給ふ事」という箇条では、改革の始めに大切なことは人事一新、人材登用ということを述べております。この中に下級武士ではあるが、学問を積み進取の気性に富む幽谷門下の若い人材が多く登用されるようになるのであります。藤田東湖、会沢正志斎、豊田天功などといった人物が烈公の諮問に応えては意見を呈上し、積極的に改革を補佐していったのであります。烈公にとりましては、そのような人物に恵まれ、登用出来たところに改革の成功の要因があったのであろうと思われます。
 また「文武を励し言路を開き給ふ事」等という箇条があります。意見のある者は、どのような役にあるものでも良いから、遠慮なくどんどん申し出るようにとの達しであります。これにより藩主も下情に通じ、門閥重臣の人々も言行を慎むようになって参りますし、下役や村の役人にも藩政に参加する道が開かれてくるわけであります。永いこと言いたいことがあったけれどもどこに言っていいかわからなかった。自分の考えていた意見を封事によって殿様に申し上げるチャンスが来たといって、有志は奮い立って長い封事を提出するようになり、次第に改革の気運が出来てくるのでありました。
 改革の第二点が、財政節約と飢饉救済であります。先程、改革の目的は単に財政の建て直しではないと申し上げましたが、しかし、財政問題は藩政の重要な部分であります。当時の財源は農民からの年貢が大部分を占めておりました。しかし、農地にも労働力にも限度がありますから、収入額も自ずから限られて参ります。従って「入るを図って、出るを制す」が財政の基本原則となります。そこで烈公は自ら率先して倹約を実行され、衣服や食事、遊興を制限されたのであります。一方、悪制の廃止、献金により武士の身分を得る献金郷士制度の廃止などを行い、そして良いと思うことには沢山のお金を使いました。弘道館の建設や海防の施設、武器の製造などについては惜しみなく費用を使ったのであります。弘道館の建設には数千両の費用がかかったのでありますが、一切、藩の費用は使わないで、烈公ご自身のお手元金をもってこれに充てたのであります。

  (3) 二大事業 -----検地・弘道館
      1, 検  地

 天保の改革の二大事業と言われますのは、学校建設と検地であります。学校建設即ち弘道館については後で申し上げますが、検地については藩祖威公の検地以来、水戸領内では実施しておりません。そのため内密の土地売買や隠し田が増し、富農と貧農の格差が拡大して参りました。そこで改めて検地をして田畑の面積を確定して境界を正し、領民の持ち高を把握して税収を明確にし農民の生活の安定を図ろうとしたのであります。
 その実施にあたり、いろいろ反対意見もあったため、東湖ら幽谷門下の有志と図り、まず善政を行い、民の信頼を待って、実施へ踏み出そうということになりました。 天保十年(一八三九)、東湖、吉成信貞、川瀬教孝らの改革派といわれる人々を中心として検討を進め、従来の六尺平方を一間とする基準を改め、六尺五寸平方を一間として農民に有利となる方法で実施することにしたのであります。 このようにして検地は、天保十一年七月から十三年十一月まで二年五か月の間、厳正に実施いたしました。その結果、領地の貢納高は十万石減少してしまったのでありましたが、心配した農民らの反発もなく平穏の内に終わることができました。
 当時、他藩などで行われた検地は年貢高を上げ、収入を増やし、財政を潤すために実施されるのが普通でありましたが、水戸藩では検地の目的が別の所にありました。
 東湖の主張した所でありますが、「一石一粒上を利す」ためでなく、「大不平大凸凹を平均候迄」と「勤労意欲の高揚のため、利のためでなく、義のため」ということであり、結果的には農民の有利な検地となったのでありました。

     2, 海防の制
 それから第二番目に申し上げておきたいことは海防の制についてであります。水戸藩領は太平洋に面した長い海岸がありますので、外国の船はどこからでも上陸できます。林子平に『海国兵談』という書物がありますが、この「海国」とは日本のことであります。わが国は四方を海に囲まれておりますので、「海国」といったのであのます。その海国日本を外国の侵略から護るという意味で当時使われた言葉が「海防」であり、攘夷思想と共通するものでありました。水戸藩においては、幽谷が早くより海防に注意を払っておりました。その考えは門人会沢正志斎らに受け継がれて、烈公に至っております。
 烈公は海外の事情を研究するため、蘭学者を招いたり、オランダ兵書の翻訳を命じたり、大砲の鋳造を研究させたりして海防のために心を砕いておりました。
 郡奉行であった幽谷門下の吉成信貞も封事を呈上して、西洋列強の接近とその侵略の危険性を説き、武士の義気を振い起こし、武芸を鍛えることなどを述べて、海防の緊急性について大いに意見を吐きました。
 このようにして藩内に海防に対する備えの気運が高まり、遂に海防掛が任命されるようになりました。
 天保七年(一八三六)には、家老山野辺義観を助川城主(日立市)に移し、海防防御の総司令としました。また、追鳥狩という企画にことよせて大軍事演習も行いました。これは大小の大砲百余挺をもっての大規模なもので、藩内外の注目を集めたものでありました。しかし、大砲を鋳造するために寺院の梵鐘を徴発したため、寺院等の反感を買い、併せて改革反対派からの讒訴を受け幕府から謹慎隠居を命じられるに至るのであります。このことは『常陸帯』に「逐鳥狩によせて武備を整へ給ふ事」という箇条に詳しく述べられております。

     3, 学校建設
 次に学校建設のことに参りたいと思います。
 水戸藩は義公時代に、全国から学者を招聘して大日本史の編纂事業を行い、学問文化の盛んな藩でありましたにも関わらず、学校の創設はありませんでした。朱舜水の意見を聞いて学校を建設しようといふ計画はあったようでありますが、結局沙汰やみになりました。
 烈公は積極的に藩政の改革を推進するに当たって、改革の成否は人材の如何にあり、そのためには人材を養成するための学校が必要であると、早くより考えておりました。
 そこで、天保元年正月、士臣に諭して文武を督励し、かつ意見を申し出ることにより言路を開いたことは前に申し上げたところであります。その達しの中で、
     一  文武は武士の大道にて人々出精可致事、依之時々不相達候、只精不精は追て可及沙汰候条、以来左様可存事
     一 存寄有之族は、何役にても無遠慮何れより成とも封事指出可申候
と述べて、文武は武士の大道であるから、日頃から心掛けるのは当然のことである、従って頻繁には申し付けることはしないが、努力の有無については、後でしっかりと見届けるから心得ておくようにとのことであった。日頃から学問・武道に励んでいる者にとっては、時期の到来と喜び勇んだが、怠けていた者は尻に火がついたような騒ぎであったと思います。
 学校建設については、藩の重臣保守派らは財政の不足などを理由に反対しましたが、東湖を始め幽谷門下の改革推進派達は積極的に支持いたしました。
 東湖は学校を作るならば、天下一のものでなければならないと提唱し、その結果、弘道館は五万四千余坪(一七・八七ヘクタール)という広大な敷地のみならず、学校の建物においても最大規模であり、また教育の内容においても今日の総合大学的な構想を有する天下一の学校となったのでありました。
 この経過や趣旨については『常陸帯』の「弘道館を建給ふ事」の中に、詳しく述べられております。
 弘道館の教育方針は、弘道館記に明記されておりますように、神儒一致、忠孝一致、文武不岐、学問事業の一致などを目標として掲げました。当時は儒学とくに朱子学が全盛でありましたから、どこの学校でも孔子を祀り儒学を中心に学んでおりました。また武道については、城下の道場で習うのが普通でありましたから、特に学校で学ぶということは余りしませんでした。そのような中で弘道館の教育方針に神儒一致を掲げ、文武不岐を取り上げたことは天下に先駆けた方針であったのであります。幕末に至って内外の情勢が緊迫して参りますと、弘道館をモデルとした文武両道を掲げる学校も多くなって来るのであります。
 神儒一致について、『常陸帯』に
     君の仰せに漢土の学校は必ず孔子を祭る、孔子は聖人にて標準とする所なれば誠にさる事なり、されども 神国にて孔子をのみ祭らむは 神皇の道を捨て 漢土に従ふに均し、神は斯道の本にて孔子の教は斯道を助け弘むる為なれば先に 神を祭りて道の本を崇め、次に孔子を尊ひて此道のいやまし盛になりぬる由を示すべし。
と述べ、華夷内外の区別をすると共に、外国のものでも良いものは積極的に受け入れるという態度を示しております。

   五 おわりに

 以上述べて参りました後期水戸学と藩政の改革の精神を要約して最も簡潔に示したものが弘道館記であると思います。弘道館記はご承知のように烈公が起草しまして、これを東湖、会沢正志斎、豊田天功らの意見を聴取した上、また幕府の儒官佐藤一斎らにまで意見を質して完成した天下の一大文章であります。
 この弘道館記に示された精神は、やがて全国各地に広まり、国民の間に国体の認識を芽生えさせるとともに、明治維新の方向を指し示すものとなったのであります。
 この水戸学の基礎を確立されたのは、やはり義公でありました。義公が志し、念願した所こそ、朝廷の復興であり、天皇親政の国家の再建でありました。明治の御代はこのような歴史の経過を経て完成したのであります。
 本日は「後期水戸学と烈公の改革」ということで、特に、国体・君臣の義・華夷の弁などを中心として、その由来、師承するところを考えてみた訳であります。充分に意を尽くせませんでしたが、以上で本日の講座を終りにさせていただきます。

          平成4年10月講座
            (茨城県立那珂湊高等学校教頭---当時---)