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水戸藩の学風

     ---大日本史編纂を通して---     木 下 英 明

 私は、今年の四月から県立歴史館の方に参りまして、まだ日数は浅いのですが、何卒よろしくお願い致します。
 本日は、水戸学講座の第二回目、水戸藩の学風、ということで務めさせていただきます。もとより力が無いものですから、皆様方には何かと御迷惑をお掛けすることになるかと思いますが、暫時御辛抱いただきたいと思う次第であります。 最初に、御手許に資料が渡っているかと思います。御覧下さい。綴じ込みましたものが三部ありましょうか。一つは私の手書きで粗雑で申し訳ありません。二つ目は、これは『水戸市史』からの借用で、彰考館関係の学者の一覧であります、三つ目は、大日本史の編纂事業の進展の中で、一区切りついた時に、例えば本紀列伝の完成や、又その考訂等の完了の時などに、その浄書本や板本等が幕府やら朝廷に献上されていくのでありますが、その際の上表文等をまとめておきました。大変沢山になって了って煩わしいのですが、何卒宜敷御願いしたいと思います。本題名は「水戸藩の学風」となっておりますが、副題と致しまして-大日本史編纂を通して-ということですので、大日本史の編纂という大変な一大事業を通しまして、義公(光圀)以来の精神について、或いは彰考館の学者・史臣達が、如何なる点でどういう所で、苦心惨憺してこられたのかということを、眺めていきたいと思います。固より内容は膨大なもので多岐に亘るのでありますが、その一端にでも触れ、又、皆様方がこれらの内容を通しまして、それぞれ問題点や疑問点等を感じられて、それを更に深めていって頂ければ幸いであると私は思うのであります。
 それでは最初に、私の手書きの資料から見て戴き度いと思います。これは、大日本史の編纂につきまして、水戸の第二代藩主義公以来、歴代藩主の事績を明治の廃藩の時期まで見てまいります。三枚目は大日本史の構成について、その内容を書きました。世に大変有名な大日本史ですが、但し、歴史書として今日有効に利用、活用が為されているかというと、残念ながらその事は悲観的であると言わざるを得ないと思います。私自身につきましても、色々と歴史上の事件、問題を考える際に、大日本史を利用するということはこれまで殆どありませんでした。しかし今回こういう機会に恵まれまして、私としては大日本史の有効活用ということを強く感じた次第であります。
 その大日本史の構成につきまして、資料を三枚用意しましたが、それを見て頂きたいと思います。大日本史は、御存知の通り紀伝体という書き方で、支那の司馬遷の『史記』に採られた書き方に則っているわけであります。歴史の編纂には、他に年代を追って記述していく編年体という方法があり、どちらをとるか、これが判断のひとつになるわけですが、義公は紀伝体、つまり司馬遷の『史記』に倣おう、本朝の『史記』を作る、こういう意志を明確にされたのであります。その大日本史は本紀・列伝の部類と志・表、合わせて三百九十七巻、そして目録五巻の計四百二巻が完成しております。これは、明治三十九年に至りまして、全巻揃ったということであります。
 最初に本紀について見ますと、巻之一(本紀第一)は神武天皇より始まりまして、以下御歴代が続きます。その間、巻之十(本紀第十)のところに天智天皇・弘文天皇と見えておりますが、弘文天皇(大友皇子)の御即位がどうであったのか、が問題となるのであります。これは、後ほど又出てまいります。そして巻之七十二(本紀七十二、後小松天皇〈上〉)と七十三(本紀七十三、後小松天皇〈下〉)で終っています。つまり本紀は七十三巻で閉じられ、この天皇御歴代の事績に関する記述は、第百代の後小松天皇で終りということでありまして、それ以後の室町・戦国・江戸初期の御歴代の事績については書かれていない。歴史書ですから、どこまで書くかが一つの判断、見識となるわけですが、第百代後小松天皇、ここで終わりになっている。但し、この時代は、南朝北朝と皇統が二つに分れての不幸なる時代でありまして、ここをどう書くかが矢張り問題となったのであります。皆さん御承知の様に、南朝正統という立場で大日本史は筆を執って居りますが、しかし、北朝を書かないわけにもいかない。この点大変苦労を致しまして、巻之七十二のところには「紀首に北朝五主紀を掲ぐ(原漢文、以下同)」とありまして、北朝の五人の御歴代、光厳院から後円融院までの各事績が書かれております。そして、後小松天皇に関しましては、巻之七十三にその記載があって、その終わりの一節に「初め後醍醐天皇の南巡せられしより明徳三年に至るまで凡そ五十七年」、つまり、南北両朝に分かれての争いから、神器の授受が行なわれて南北朝の合体が成りますのが明徳三年であります。その明徳三年に至るまで「皇統緒を分ち、京畿城を阻(へだ)てしが、帝、神器を受けたまふに及びて、海内始めて一統し、車書文軌を同じくし、世世相承(う)けて、寶祖彊(かぎり)無し」とこう結んで居るのであります。南北朝の一統が相成って、天皇の御世が愈盛んならんことを記して結んで居るのであります。
 次は列伝でありますが、これは天皇のお后、お子さん達からはじまり、或いは臣下達、公家、武士等多方面にわたる人物伝であります。これについてもどう書くか、色々意見が出てきたところでありますが、義公の考えを記録した書物に「御意覚書」というのがあります。そのなかに見えますことは、「皇后を伝に立つべし」天皇のお后は伝に立てろ、「本紀とすべからず」本紀には入れないぞ、とあります。つまり、これは仲哀天皇のお后であります神功皇后について、古来天皇と同じ様に扱われてきたのをどう扱うかということであります。その他「皇子皇女盡(ことごと)く伝を立つべし」、「皇子はたとひ僧にても伝を立つべし」等、義公の考えが見られます。彰考館の史臣達は、これらの主旨を承けて書き綴っていったことと思いますが、さて内容について見ることに致します。
 巻之七十四が列伝第一で、ここから始まりまして、后妃については神武天皇の后妃から以下ずっと書かれています。そして、大日本史の三大特色の一つと後に言われますその一つ、仲哀天皇の后妃(神功皇后)がこちらに入っているということであります。巻之八十五には、北朝の后妃が付け加えられております。北朝に対する扱いはこの様で、皇子については巻之九十九のところに「附北朝の皇子」とあり、巻之一百五には「附北朝の皇女」とこう見えております。ここまでは皇族方、その次の巻之一百六からは家臣達といいましょうか、皇族以外の人物伝となりまして、最初に「可美真手命」(うましまでのみこと)が出て居ります。これは饒速日(にぎはやひ)命の子と伝えられ、物部氏の遠祖とされる神の様です。どうも不勉強につき、初めて見るような人物が出て参りますが、次の巻之一百六十五には「源親房」とあります。これは北畠親房公で、以下「楠正成」とか、「名和長年・児島高徳」「菊池武時・結城宗広」「新田義貞」等建武の中興に関わる武将が書かれて居り、その辺の人名を挙げておきました。ですから私どもは、大楠公楠正成公を調べるについては、最初に大日本史を十分利用できるのであります。正成公を見る場合に、史料としては何を用いるか、大日本史はいちいちその出典注記がありますので、次はこれを見よう、そしてこの事はこの史料に基づいて書かれているということが、段々分かってくるのであります。
 次の巻之一百七十九からは、将軍伝であります。これは、将軍やその家族、又、家臣達について、その取扱いに彰考館の史臣達は苦心した様でありますが、三宅観瀾の意見に安積覚が賛成をして、この将軍伝が立てられた様であります。将軍は「源頼朝」から始まり、源氏三代で絶えますと、藤原将軍が迎えられて、それが続き、その後皇族将軍となり「宗尊親王」以下書かれ、室町に入ると「尊氏・義詮・義満」と続き、義満で南北朝の合体ですので、ここまで将軍伝が書かれております。そして、次に将軍家族伝、将軍家臣伝が書かれています。
 但し、高(尊)氏については、また問題が出てくるのであります。それは資料の方を見て欲しいのですが、巻之二百二十七に叛臣伝というのがあります。これは謀叛の人達で、叛臣伝のなかに十九名、全部戴っていた名前をそこに書いたのです。宜しからざる人物というわけであります。そこで、高氏については、最初の頃は叛臣伝こちらに入っていたのですが、ところが将軍伝が立てられるに及んで、高氏は将軍ですので、叛臣伝からそちらに移ったということであります。
 又、只今の叛臣伝の次に、逆臣伝というのがあります。これは三名で、「馬子・蝦夷・入鹿」の蘇我氏三代で、蘇我氏は逆臣である。叛臣と、逆臣と、ここのところの区別はどうなのか、難かしいところだと思います。それは本紀列伝という書き方から歴史を編纂しますと、価値判断というものが明白に出てくるのであります。編年体で書けば、こういう人物がいてこういうことをしたと、単純に言えばそれらを縷々綴っていけばいいのですが、叛臣の持つ意味は明瞭ですから、その中に誰を入れるかでこの人物はこうだ、と決まって了う様なものであります。叛臣伝の(二)に「平将門」が入っています。将門は大日本史の叛臣伝に入れられたが為に云々、という議論がよく聞かれる所以であります。ここは彰考館の史臣達が大変苦労したところで、列伝部分けといいまして大変苦心したところなのですが、今見てきた様な人物が入れられて居るのであります。
 また資料に戻っていただきまして、将軍家臣の(五)というところに、「北条義時」が入って居ります。これは家臣ですから当然ですが、義時は皆さん承久の変で、朝幕間の争いのあった時分の、幕府の執権であります。これもどう扱うかで、問題となる筈のものであります。さて、将軍の家族伝のところに「北条政子」が入って居りません。政子は、先程の叛臣伝の三つ前に列女伝というのがあります。ここに入って居りまして、これもまた入れるべきかどうか、そして将軍家族伝が設けられますと、そちらに移すかどうか議論となったところであります。資料には、列女伝に挙げられている人物のうちから、静御前や小野小町など、よく耳にする人物を書いておきましたが、そういう人達が入って居るのです。
 次に、その前の方に、文学列伝・歌人列伝・孝子列伝・義烈列伝とありますが、義烈列伝のところには、私の気がついた人物に「村上義光」が居ります。南朝の後醍醐天皇をお護り致しまして、吉野で壮烈な討ち死を遂げた人物、その村上義光がここに入って居ります。こういう具合であります。これが列伝で、その最後を見ますと、巻之二百三十二、外国に及ぶのであります。諸蕃列伝となって居りまして「新羅」とか「高麗・高句麗」、「琉球」であるとか、更に「隋・唐・宋・元・遼・金・明」等支那の方まで入ってゆきます。また諸蕃列伝の(六)のところに、「任那・耽(とん)羅(ら)」とありますが、耽羅といいますのは済州島にこういう勢力があったということで、その記述が為されています。これが列伝であります。
 そこで大日本史の中心は、この本紀列伝に、ここに重きがあるということなのですが、志・表を付け加えないと完成しません。ついてはこの志・表の編纂も大変な事でありまして、資料の志の下の方に、「権中納言従三位源光圀修」し、「七代孫権中納言従三位斉昭補」し、「八代孫権中納言従三位慶篤校」すとあって、幕末に至ってもその編纂事業が続けられていきました。その志は、祭祀関係の神祇志や、その他氏族志、職官志、国郡志、食貨志など十志あります。義公は、志の編纂も行なうよう命じたといわれ、しかし当時はその余裕がなかった様ですが、これは義公の遺志でありました。志はその後、十四志とか十五志とか変遷をして、執筆の分担をしていった様ですが、最終的には十志にまとめられました。先程の神祇志は巻之二百四十四からあり、その中に「祭儀」や「神社」、「社殿」「神官」とかあります。先年御世代わりで、大嘗祭が執り行なわれましたが、その大嘗祭については「祭儀上」というところに書かれております。「神社」に関しては、わが常陸の国は「神社八」のところに出ております。又、氏族志は各氏族、一族についてですが、皇族とその系統の「皇別」から始まりまして、「神別」は神々からの系統とその子孫があり、その他外国からやって来た渡来人や帰化人の系統についても、その記載があります。
 資料の次に参りまして「国郡志」は地理志といっていた時分もあります。長久保赤水がこれに関係しましたが、その時は地理志といってました。但し、その仕事は未完成に終わりまして、明治に入って栗田寛博士がこれを受け継いで、そして完成させたというのですが、その最初の行の下の方に常陸国が「国郡十三」の中に、東海道の一国としてあります。又、これにも外国勢が出てくるのであります。それは「西蕃」として「任那・百済・高麗・新羅」と、この辺まで入っているのであります。
 巻之三百十八からは「食貨志」で、これは経済関係ですが、「戸口・田制・賦役」や、「市肆交易・荘園」等が書かれています。次の巻之三百三十四からは「礼楽志」です。これは「即位の礼・譲位」などの朝廷の儀礼や、「山陵の制」「大喪」等、更に「神楽」「楽舞」「楽器」など音楽関係に及んでおります。巻之三百五十からは「兵志」、次に「刑法志」、次いで「陰陽志」とあり、最後に「仏事志」となり、志は十志であります。
 次は表でありまして、これは五表あります。それは「臣連・造・公卿・国郡司・蔵人検非違使・将軍僚属」などについて、これらを務めた人物の一覧表がつくられているのであります。色々と利用すべき、利用してみたい内容が沢山書かれております。
 以上見て来た様に、この編纂事業は大変な苦労と労力のもとに、推し進められてきたわけですが、同時に、その進展の中で、日本の歴史における様々な問題点が浮き彫りにされてきて、それらをどう考えるべきかという議論となり、更にそれが日本のあるべき姿を、諸外国が幕末に至り様々な災いをもたらす中で、日本のとるべき道、とるべき方策、又、あるべき様というものを、臣下として或いは国民として、如何に考えるのか、どう判断すべきかという、こういう点にまで及んで来て、そして水戸の学問というものが段々と形成されて来たのではなかろうか、とこう考えるのであります。以下は、その編纂事業につきまして、進展の内容を追っていきたいと思います。

 さて、大日本史の編纂は、言うまでもなく義公の志により始まりました。義公修史の志は、これが史記の伯夷伝を読んでのことから、この有名な一事から端を発するのであります。史記の伯夷伝を読んでの感激、義公は十八才であります。これは、自分が兄をさしおいて世子になったということに対する反省から、水戸家の跡取りを高松から迎えるということに及び、そして、史記に感動したことから歴史書の編纂をしようというところにも考えが及ぶのでありまして、義公にとりましては、まさしく生涯の一大事とでも言うべきことでありましょう。
 十八才までの義公は、俗に言えば不良少年と言われてもおかしくない程の有様で、これは色々と言われている通りでしょう。それが断然一変したのであります。偉人義公の基はここにあり、というわけなのでありますが、それは正保二年(一六四五年)という年、義公十八才の折にその志を立てたということは色々な史料に見えております。お手元の資料の中の、「大日本史叙」のなかにも見えて居ります。「先人十八歳、伯夷伝を読み、蹶然として其の高義を慕ふあり。」「是において乎、慨として修史の志を立て」とあり、又、梅里先生碑文にも「蚤(はや)くより史を編むに志あり。」「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す。」とあって、修史の志がここより出ているということが見えております。
 そして、具体的に仕事を始める為に、史局(後に彰考館と命名する)を設けますが、そこが神田(後の駒込)の水戸藩の別邸のお茶屋というところで、今の東大の農学部構内となりますが、そこに置いた。時に、明暦三年の二月二十七日(一六五七年)のことであります。ここから、大日本史の編纂事業は開始され、そして、完成したのが明治三十九年ですので、これが西暦で一九○六年ですから、差し引きしますと約二百五十年間の修史事業となる。二世紀半にわたる、水戸藩一藩による修史事業といわれるのであります。しかも、義公修史の志を立てた、先程の十八才の時から計算を入れますと、更に十二年が経って居りますので、二百六十余年間の修史事業とも言える訳なのでありますが、それは兎も角と致します。編纂事業が始まって、資料に「新撰紀伝」の執筆始まる、とあります。これは寛文元年の頃から始められ、義公はこの年に藩主となり、各地から執筆者を、歴史学者といいましょうか、史臣をだんだん招き入れていき、愈々修史が本格化していく。次に寛文十二年(一六七二年)には、史局を小石川の水戸藩本邸に移します。そして、春秋左伝集解杜預の序より、「往を彰かにし来を考ふ」よりとりまして、彰考館と命名するのであります。
 このころ本紀は、桓武天皇の頃まで書き進められてきた様であります。神武天皇から桓武天皇までで、そして多くの学者を招聘しまして、「史館警」という史臣達の編修態度の規定とでも言うべき五箇条を設けたり、又、彰考館を開くに当たっては「開彰考館記」というものを、史臣の田中犀(号は止丘)が書いて居ります。その中に、義公の言葉として「上神武より、下近世に至り」と見えて、この今進めている歴史書は、神武天皇から近世に至るまで書くという意志が見えるのであります。近世とはどこまでを指すのか、というと難しくなるのですが、先程紹介しました「御意覚書」という、井上玄桐等が義公の事について綴った書物によりますと、その範囲は「後小松迄にて絶筆と兼て被仰出候得共、思召御座候間、後小松以後の事にても紀伝入可申所をば右之通表題朱点可仕事」(天和三年十一月五日の項)とあって、後小松以後の事でも、書くべきことがあったならば記入しろという、そういう言葉が見えて居ります。
 そこで、後小松天皇までという、一つの区切りが義公によって示されてきた様であります。又、いまの資料に、「幕府『本朝通鑑』脱稿」と書いてあります。これは、幕府がお抱え学者の林家(鵞峰等)に命じて、矢張り日本の歴史を書くのであります。それが、寛文十年に出来ました。彰考館と命名する二年前で、義公はこの事はよく御承知だと思うのであります。それは編年体で書かれていて、三百十巻、神武天皇から後陽成天皇の慶長十六年まで書かれている、とこういう内容であります。
 義公が何故紀伝体を採用したか、ということについては、色々と議論があるのですが、一つの論として、幕府が編年体を採ったということで、同じ体裁でもどうかというので、それならばという、これは便宜的な見方になるかも知れませんがそれで紀伝体にしたのだろうという、こういう議論もあります。但し、義公が史記の伯夷伝に大変感激されて、それは並大抵の事ではないとすれば、日本の史記をつくるという気持ち、これを排除することは難かしいことと思われますが、かたや一方でそういう意見も出てくるのであります。

 さて、愈々彰考館の仕事も進行していきまして、資料の次を見ますと、「新撰紀伝」一百四巻が完成しました。時に延宝八年ころといわれ、それまでやってきました仕事が一応まとまりまして一百四巻。これは今日、その稿本が無いので、内容については良く分からないといわれて居りますが、十四人の史臣達が関係して分担執筆をし、本紀は神武天皇紀から後醍醐天皇紀まで、その他皇后紀や諸女列伝、皇子伝などから成っているといわれています。そこで皇后紀ですが、大日本史では皇后は列伝に入れられましたが、この時出来ましたものには、皇后は本紀に入って居ります。それが、当時の一般的な認識であった様なのであります。ですから大日本史の三大特筆といわれるものは、まだこの頃、新撰紀伝の中には明白にはなっていない。ただ、天智天皇の御子さんの大友皇子は、壬申の乱という騒ぎで非業の最期を遂げられましたが、この御方は即位をし、そして本紀に載せてあります。これは三大特筆の一つに合致して居ります。神功皇后につきましては、これは本紀に書かれて居り、南朝正統についてもまだ明白でない、とこういうことなのであります。
 そこで、又資料を見てもらいますと、義公はこの新撰紀伝について、色々と不満があった様でありまして、それは天和三年(一六八三)のところに、義公が「新撰紀伝」の改訂を命じておりますが、これは不十分であるので新たにやり直そうと、こういうことの様です。その為に、同年、彰考館に総裁を置き、貞享三年(一六八六)には本格的な史料調査の開始が見られます。
 彰考館総裁については、その最初の総裁は人見伝であります。資料に総裁一覧の表がありますが、その中に人見懋斎(ぼうさい)とあり、これが最初の総裁であります。以後、彰考館総裁は、大体二名置かれていき(時に三人もあり)後に水戸城中に彰考館が移転されますと(江戸の史館は残る)、水戸のを「水館」、江戸のを「江館」と呼びまして、それぞれ二名の総裁が立てられていった様であります。その水戸の彰考館の設置は元禄十一年(一六九八)のことで、その間元禄三年に義公は、藩主を三代粛公(綱條)に譲りまして水戸に帰り、そして常陸太田の西山に隠居致します。そこで本紀列伝の完成に力を入れられるのですが、義公はその下書きを見られた様です。
 その後、元禄九年に「紀伝義例」の補正の議論が行なわれます。これは歴史編纂についての書き方で、編修方針ともいうべきものの議論であります。これまでも修史義例がつくられて、修史をめぐる議論が行なわれて来ました。次いで、元禄十年に「百王本紀」が脱稿になりました。これは、本紀列伝の本紀の部分であります。後小松天皇が第百代ですので、俗に百王本紀と言ってますが、新撰紀伝では本紀列伝が大体出来ていたのですから、これに手を加えて元禄十年に出来上がりました。列伝はまだ完成していないのですが、ここには三大特筆は既に確立されている、と言われます。つまり、神功皇后が皇后伝に入り、天皇大友については前に見た様に本紀に立てられて居ります。
 今日見る活字本の大日本史は、明治三年に諡(おくりな)が贈られたことを受けて、天皇大友は弘文天皇と改まっていると思います。また、「百王本紀」には九条廃帝という御方が入って居りますが、矢張り明治三年に、仲恭天皇と諡が贈られましたので、今日ではその様に改まっていると思います。九条廃帝という御方は、承久の変の時に、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇の討幕計画に際して、御父順徳天皇の譲りを受けて即位されますが、これが変後、北条義時の為に位を追われます。それで、九条廃帝などという言い方がなされて居りますが、これを本紀に立てました。更に、南朝の長慶天皇については、その即位が明白でなく異論があった様であります。これは、大正十五年(一九二六)になって、天皇在位の事実が承認され、長慶天皇という諡が贈られて皇統譜に登録されるのでありますが、この御方が九十八代として百王本紀には載せられて居ります。
 こういうことで、百王本紀が出来上がりました。但し、これは後に何度も修訂の手が加えられていくのであります。延々と続けられていきます。

 さて次を見ますと、元禄十一年に、彰考館の水戸移転があります。江戸の史館は一部残されますが、水戸に主力が移り水戸の彰考館が充実した。或いは、列伝完成に総力を挙げる、ということが背景かと思われます。次に、義公が元禄十三年に亡くなります。時に七十三才ですが、元禄十三年は西暦で一七○○年です。これは、覚えるのに真に都合の良い、区切りのよい年であります。そして、丁度百年後の西暦一八○○年には、烈公(斉昭)がお生まれになって居ります。義公が亡くなられて、百年後であります。その元禄十三年に、義公は后妃伝や皇子伝などを見られたらしい。その稿本は、前年の元禄十二年の十二月頃に出来ていて、それを見られたらしいのです。つまり、本紀列伝に関しては、義公一代の内に完成はしませんでしたが、内容についてはほぼ義公はこれを一覧し、掌握出来たということの様であります。但し志・表はまだで、編纂事業はまだ残っているということであります。
 義公に関しては概略以上のようですが、その他義公が言われた事等について見ますと、神代の時代については、天神本紀、地神本紀を立てろという指示があった様であります。貞享元年に、そういう義公の命があったそうで、これは「御意覚書」に見えています。しかし、これは出来ませんでした。天神本紀、地神本紀が何故出来なかったかは、議論の出てくるところだと思います。その他、仮名で書く仮名紀伝をつくろう、という考えもあった様であります。本来は漢文ですが、そういう試みもあった様であります。
 次に、資料の義公以後について見ていきますが、義公以後は、義公の意志というものが何処にあったか、ということが一つの柱、心棒になって、本紀列伝の内容についても判断の基準となり、それを基にして論が展開されていき、又、これからの仕事である志・表の編纂についてもその様であります。修志の事業の進展は紆余曲折があって、進んだり遅滞したり、放置せられたり、又、何とか早く今後五年間で完成しろ、とか色々あって続いていくのですが、その中で義公の本志はどこにありやということが、絶えず言われ、問われていった様であります。
 それでは義公以後を見ていきますと、三代目は粛公(綱條・つなえだ)であります。この方は御承知の様に、義公が高松の兄(頼重)さんの子を二人、養子として貰い受けました。一人は亡くなり、もう一人が粛公です。粛公は義公の意志をうけて、元禄十四年に修史の精励を時の三総裁に申し渡します。義公が亡くなられたので、元禄十五年には水戸の彰考館の規模が縮小されまして、江戸の方が充実される。そして資料の宝永四年(一七○七)に、三、四年以内に紀伝全部の完成を督励する、とあります。これは、本紀列伝ですが、ところが列伝については、先程の様に、部分けといいますが叛臣、逆臣等の判断がなかなか大変なのであります。そこで、宝永五年に、史臣の三宅観瀾は新たに将軍伝を立てることを提唱し、これが採用されました。それにより足利高氏が動き、北条義時が動き、北条政子についてはどうするかという議論が出てくるのであります。
 次に、正徳五年(一七一五)に紀伝の清書が完成しました。義公の命日である十二月六日に完成し、廟に献じられました。これを、正徳本大日本史と言って居ります。正徳清書本大日本史であります。大日本史という呼び方については、この時の「大日本史叙」の中に、「名づけて大日本史と曰ふ」と書いてあるのですが、後に文公治保(はるもり)の時分に、藤田幽谷達が出てきますと、この書名をめぐりまして大問題となるのです。この時には、この本の命名について意見が求められておりまして、江戸の彰考館は「大日本史」と、水戸の彰考館は「皇朝新史」が良かろうと、こういう議論があって、藩主粛公は「大日本史」をとり、これに決めたということなのであります。ところで義公は、この書物の名前を決めていませんでした。これについて、安積澹泊(覚さん)は、この時「義公は全部完成した時に、これを朝廷に献上して、天朝から題名を賜わることを考えていた」のではないか、という趣旨の発言をして居りますが、この時分には、江戸の彰考館の主張した大日本史が書名として決定されて、それ以来そのように呼ばれることになりました。

 さてその翌年の享保元年(一七一六)に、新たな命が藩主から出されました。それは志表と続編の編修と、もう一つは紀伝の論賛をつくれ、という話が出たのであります。これも、後に大きな問題となるのですが、続編といいますのは、本紀が第百代の後小松天皇で終わってます。そこで、その次をつくれということなのであります。紀伝の論賛は、本紀列伝の各人物について、賛をつけろということで、賛というのは言わば論評であります。価値評価ということが、明確に出てくる内容でありまして、当然難かしい仕事になりますが、この論賛については安積澹泊老牛に命が出ます。安積澹泊はこの仕事を一気呵成に進めて、やがて完成します。完成した紀伝の論賛は、大日本史に付けられて、その後幕府に献上されたりするのですが(享保進献本)、この論賛もその後問題となります。この時分には、こういう諸問題が出てきたのであります。
 安積澹泊は、論賛を書き進めていきまして、それを史館員に見せて批評を求め、又、三宅観瀾にも遂一見せます。三宅観瀾はそれに評を下しまして、それが『大日本史本紀論賛駁語』というものになって、まとまって居ります。
 これが三代粛公の時分ですが、次は四代成公(宗尭・むねたか)であります。この辺りから水戸の藩主は、幼い殿様が続くのであります。四代成公は、十四才で藩主となり二十六才で急死され、次の良公(宗翰・むねもと)は三才で藩主となり、三十九才で亡くなり、六代文公は十六才で藩主となる、という有様です。幼い藩主を戴いての藩政運営であり、改革であり、そして史書の編纂事業となる訳であります。
 さて、成公も高松の人であります。つまり粛公にはお子さん吉孚(よしざね・恭伯世子)がおられましたが、亡くなられて、そこで又、高松から養子を入れられます。高松には粛公の弟(頼侯)のお子さん(松平頼豊)が藩主で居られまして、その殿様のお子さんを迎えられました。これが、成公(宗尭)であります。 大日本史の編纂につきましては、享保五年に紀伝が幕府へ献上されます。将軍は吉宗で、これには論賛が付けられて居ります。清書して、献上されました。正徳清書本が出来て居りますので、それをもとにして、また修訂して幕府に献上、とこうなったのであります。
 又、この時に、朝廷に献納するかどうかの議論が出て参りました。幕府は大日本史の刊行を考えて、その承認を朝廷から得るべく武家伝奏と交渉をします。それを受けて、朝廷内でも協議をしますが、問題となりましたのは、大日本史のとって居ります南朝正統という立場がどうなのかということであります。三種の神器の相伝を基準に考えても、今の天皇は北朝ではないか、という論もあって、その辺りからなかなか難かしいということで、刊行には支障ありとなり、この話は先に延びて了います。次に、享保十二年には修志の督促が出されます。五年間を限って完成させる、という藩命ですが、この時の総裁は打越撲斎で、これに命が出る。この時、十志の篇目は出来ていたが、本紀列伝の修訂に力を入れていたので、なかなか仕事が進まず、十志の篇目についてはどういうものであったか、分からなくなっていたという事情もあった様です。
 資料の二枚目に来て下さい。次が、五代藩主の良公(宗翰・むねもと)であります。享保十九年に、幕府より出版の許可が出ます。元文元年(一七三六)になりまして、総裁打越撲斎の意見書というのが出ます、この辺が、大日本史編纂が停滞していた時期だと言われるのですが、打越が意見三箇条を申し上げます。三大議とも言われまして、この結果、現行の紀伝体の体裁が出来たと言われますが、主な点の一つは、北朝の五人の天子を、北朝五主を後小松紀の下に付けるということ、これは先程見て来た通りであります。二番目には、北朝の皇子、皇女を別の伝に立てること。これも先程見た通りですが、これらは大日本史の上木板行を控えまして、その検閲をし、体裁を整えたことでありました。そして、打越撲斎のもう一つの功績は、先程申し上げました続編計画を中止せしめた、ということであります。これは、別項で又出て参りますので、今は先を急ぎます。
 元文二年には、紀伝の検閲が終わりました。その都度、紀伝は絶えず手を入れられていくのですが、そしてこの年、長いこと編纂事業に従事し、尽力してきました安積澹泊が、八十二才で亡くなりました。その検閲本、これを元文検閲本と言うのだそうですが、この度版を起こすについて検閲が急がれて、そして浄書をして完成したのがこの元文検閲本、とこういうことなのであります。ですから、紀伝は義公の時分に大体出来たということですが、その後手を入れ手を入れ、修訂を重ねて来ているのであります。
 次に、寛保元年(一七四一)には、未完成の九志(十四志のうち)について分担を定める、とあります。結果的に、志は十志になって了いますが、この年に執筆者の分担をしました。当時の記録を見ますと、それぞれ割当が成されて居ります。その時に成稿として出来ていたのは、安積澹泊が編纂しました食貨志と兵馬志、そして、その他の史臣が編纂した職官志、音楽志は出来ていたらしいのですが、この年、新たに割当が決められて、また仕事が進められていきます。それでも、宝暦十年(一七六○)には、また改訂があって、そして担当者が変わり、新たな割当となるのであります。その時には、芸文志とか地理志は空白で、割当者がいない、という風に記してあります。

 次は文公(治保・はるもり)ですが、この時分から再び編纂事業は活発化して参ります。それは、立原翠軒が出る、藤田幽谷が出る、高橋広備が出る、と人材輩出となり、総裁の立原翠軒は、寛政元年に上書を呈し、志表の廃止と紀伝の公刊とを進めようとしました。この頃、大日本史の三大議ということがいわれて、大きな議論となるのであります。三つの問題が、この時分に出て参ります。一つは志・表の問題、二つ目は題号の問題で、大日本史という書名を巡る問題である。三つ目は、論賛を削除せよ、という議論が出てくるのであります。
 最初の志・表の編纂については、この仕事がなかなか進展しない、そして、紀伝以上に大変な仕事である、ということで立原翠軒は紀伝の公刊を進める為にも、当時の様々な状況を考えて、志・表の廃止も已むなし、ということを言うのであります。一方、紀伝の公刊については、その校訂を幕府の儒者の柴野栗山に依頼したり、『群書類従』の編纂で知られる塙保己一に頼んだり、その他朝廷の有職研究家の裏松光世や、京都の考証家の藤貞幹に頼んだりして進めるのであります。その結果、資料にある様に、源義朝や藤原公宗が列伝から叛臣伝へ、源義仲が叛臣伝から列伝、又、楠木正儀が将軍家臣伝から列伝へ動くという、そういう変更も起きたのであります。
 その次に、二つ目の題号の問題は、藤田幽谷は「大日本史題号四不可論」を掲げて、四つの点で問題が多い、「史稿」と呼ぶのが良い、と言うのであります。これは難かしい問題ですが、四つの点を簡略に申し上げますと、(一)天朝、国号を日本と称するも、未だ嘗て大日本と称せず。(二)天子の命なく修むる一家の史書に、日本と命名すべきでない。(三)シナは易姓革命の国なので、正史に国号をつけているが、日本は開闢以来一姓相承けている故に必ずしも国号を冠しなくてよい。旧事記、古事記なども国号をつけて呼んで来なかった。日本書紀については、これは一考を要することである。(四)固より一家の私書で、義公の意志を考えても、今これを天闕に奏せずして、私に版にまとめ、公然と大日本史と称するのは、朝廷を蔑(ないがしろ)にすることにはならないか、という論旨であります。これは、幽谷の厳正な正名論、国体論から発した意見でありますが、しかしこの一件は、後に文化六年(一八○九)に朝廷から勅許を得ました。朝廷に尋ねて、公家を通して勅が下ります。それは「旧によりて大日本史と号して可なり」という、光格天皇の勅許を戴きまして、そしてこの件は落着するのであります。
 その次は、論賛削除の問題ですが、これは安積澹泊が賛文をつけていったものであります。本紀に載せられて居ります御歴代から、列伝のそれぞれの人物につきまして、その論賛が書かれました。そこでその内容となりますと、論評ですので、なかなか歴史上難かしい所も出てくるのです。例えば、建武の中興の時の後醍醐天皇のところなどはどうか、ということになる。後醍醐天皇の部分について論賛を見てみますと、建武の中興が達成されてもすぐ崩れて了いますが、
    而して吉野の駕は、永く回轅(かいえん)の日無し。何ぞや艶妻(えんさい)嬖せられて賞罰濫(みだ)れ、諫臣去りて紀綱紊(みだ)る。忠臣義士有りと雖も、肝脳(かんのう)草野に塗(まみ)れ、而して終に之を能く救ふこと莫きなり。
とあって、文章は難かしいのですが、中興は瓦解し、
    特に惜む其の撥乱の才は、以て俊傑を駆使するに足るも、而かも聡叡の蔽は、忠イ妾を甄別(けんべつ)すること能はず。延喜の治に復せんと欲すれども、其れ得べけんや。(『訳註大日本史』十二、建国記念事業協会刊)
と見えて居ります。ここでは後醍醐天皇の才智得失にも論が及び、そして延喜の治を目標とされて、天皇親政を考えられたが、それは叶わなかった、と記されて居ります。そこで、この様な賛文というものが適切なのかどうか、なかなか難かしいところなのであります。当時の議論を見てみますと、シナの正史については、元史を除いては全て論賛は付いて居りますが、日本に於いては、日本の国柄から見て適切ではないのではないか、という論になるのであります。これは資料の、享和三年(一八○三)のところに、総裁高橋坦室(広備)から論賛削除の意見、というのが出ます。幽谷も、これに賛成します。その高橋坦室の意見は、
    上公総司渡辺騰をして、之を伝えしめて曰く、凡そ史の論賛ある、是れ皆勝国異代の得失を論ずる。
と、上公文公の論賛削除の意見を述べて、論賛はシナに於いては、前王朝を倒して勝った国が負けた王朝を論ずるのが通例で、それは、
    口を極めて是非するも、固より妨げざる所、独り吾が天朝は百王一姓、方今の世至尊垂拱(すいきょう)して、政を関東に委ぬと雖も、然れども君臣の名分、厳乎として乱れず。四海の内、皆正朔を奉ぜざるはなし。
という。シナでは、口を極めて前王朝を論評するが、日本では、只今は幕府が政治を任されているが、それでも君臣の名分は乱れず、四海のうち、天朝の臣民ではない者はいないのである。そして、
    今其の失得を論じ、忌憚する所無し。事体已に宜とする所に非ず。安(いづくん)ぞ先公の意に負かざるを知らんや。寡人の意は悉く之を刪去せんと欲す。宜しく評議すべし(『修史復古紀略』原漢文)
という、文公の論賛削除の意見である。文公は、論賛は義公の意志に反すると言い、高橋担室もこれを受けて義公の本意から推して、論賛削除の私見を展開して居ります。そこで、これは文化六年に、藩主武公(治紀・はるとし)の命で削られます。そして同じ年に、大日本史の版本が成り、幕府に献上されるのであります。

 こういう動きが文公の時にありまして、論賛については紀伝体の体裁からしまして、当然出てくる問題であり、また我が国の歴史を考えましても、華夷内外の弁から、これまた避けては通れない問題、ということになるかと思います。その間、立原翠軒とその門下生の藤田幽谷、更に高橋担室等との間で、種々意見の違いや議論が出ます。そして、立原翠軒は享和三年に、総裁を辞めて致仕をします。辞めて了うのであります。これに伴って、立原派といわれる桜井龍淵(安亨)や大竹雲夢(親従)などの史臣も、彰考館を去っていく。これらの動きを俗に、史館動揺と呼んでいるのであります。
 さてその次に、七代武公(治紀)、八代哀公(斉脩・なりのぶ)と続きます。この間、文化六年には大日本史の紀伝刻本二十六巻が幕府に献上され、翌文化七年には朝廷にも献上となります。これに対しては、光格天皇からの勅を戴きますが、更に文政二年には、一月に幕府へ、十二月には朝廷へ大日本史の紀伝刻本四十五巻が献上されます。愈々ここに、朝廷への進献という、義公以来の歴代藩主の宿願ともいうべき目標の一つが、達成された感がするのであります。
 九代は烈公(斉昭・なりあき)ですが、残された志表の編纂に、藤田東湖の推薦を受けた豊田天功が尽力します。資料にある様に、仏事志をはじめとして、修志の仕事を精力的に進めていき、兵志、刑法志等、次々に成稿していきます、しかし、時代は幕末の多事多難、内憂外患の折に遭遇しているのであります。
 次の十代順公(慶篤・よしあつ)は、嘉永五年(一八五二)に大日本史の版本の紀伝百七十三巻を、朝廷と幕府に献上します。これが、紀伝全部の出版と献納の完了となりまして、嘉永五年のことであります。ペリーが翌年来ますが、ペリー来航の前年に、紀伝全部の出版と献納が完了した。しかし、これは紀伝で、まだ志表は整わず、それは明治以後の、廃藩置県の後、とこうなるのです。これに尽力しましたのが栗田寛博士で、栗田寛博士が志表の編纂に力を入れられます。そして版本が成りまして、十志五表を含めて完成したのが明治三十九年のことであります。この年の十二月二十六日に、常磐神社の社前に大日本史の完成を奉告し、彰考館を閉鎖します。そして、朝廷に大日本史紀伝志表三百九十七巻、目録五巻の計四百二巻を四函に納めて献上したのであります。一大事業がここに終わりを告げる、とこうなったのであります。

 その間、様々な問題が出て来ましたのは今迄見てきた通りですが、それは次の、これは先程の五枚目の資料で、もう一度見て下さい。大日本史の編纂をめぐって、というところです。(一)は書名について、ですが、これは先程見て参りました。(二)の続編計画については、総裁の打越撲斎が、これを中止せしめました。藤田幽谷はこのことを激賞されますが、もともとの起りは、正徳年間に、江館総裁の酒泉彦大夫弘と佐治理平次の二人が修志を言い、続編編修を言うに始まります。そして、義公にも後小松以後の事について、記録しておくように、との言もあり、又、総裁の栗山潜鋒は『倭史後編』という書物を書いて、後小松、称光、後花園の三天皇の紀を作って居り、これは続編を考えたものではないか、という議論も出て来ます。そこで問題となるのですが、これは矢張り、義公の遺志というものを基準に考えて、続編の議は義公の遺志ではない、ということで総裁打越撲斎の言により中止せられたということであります。藤田幽谷もこれについて、『修史始末』の中で、色々と論じているところであります。
 (三)の論賛について、は、先程見た通りであります。(四)は三大特筆について、でありますが、これは神功皇后を后妃伝に入れたこと、天皇大友紀を立てたこと、そして南朝を正統としたこと、であります。神功皇后については、今迄見てきました。天皇大友は、これは古代に、天智天皇が亡くなられて、壬申の乱が起き、争いに勝った大海人皇子が天武天皇として即位しますが、その間、天子の存在が無いとは思われない、という論から出て居ります。そこで、『懐風藻』には皇太子と書かれているとか、『水鏡』や「立坊次第」等にいろいろ証拠を求めて居りますが、天皇の地位は空けること無く受け継がれている、というそういう立場から論じているという感じが致します。当時の史書であります『日本書紀』にも「近江朝」「近江朝廷」と記してあって、天智天皇崩じてより、天武天皇の即位まで、政令はどこから出ていたのであるか、それを率いていたのは天皇大友である、ということであります。弘文天皇という諡は、明治三年になって贈られますが、大友皇子即位説といいますのはその辺が根拠とされている様であります。
 (五)の史館動揺については、これも前述の通り、文公の時に起きました大日本史の三大議をめぐって、時の総裁の立原翠軒と、その門下生である藤田幽谷等の史臣達との意見の相違があり、遂に翠軒の致仕となり、師弟袂を相分かって、立原派と藤田派という、水戸藩にとりましては真に不幸なその後の動きに発展して了うのであります。そういう一件であり、これら困難な諸事態を経過しまして、そして、明治になって、やっと完成したということであります。最後に、これら編纂事業の過程の中で、歴代藩主がその都度奉りました上表文、或いは跋文等から、修史の精神、又は水戸の精神というものを、眺めていきたいと思います。

 それでは、資料を御覧戴き度いと思います。最初に「大日本史叙」というのがありますが、これは三代藩主の粛公(綱條)が正徳五年に、正徳清書本に付けた叙文でありまして、下に註があります。彰考館総裁大井広(松隣)の撰んだ文であります。それを見ますと、
    先人十八歳、伯夷伝を読み、蹶然(けつぜん)として其の高義を慕ふあり、巻を撫(ぶ)し、歎じて曰く『載籍あらずんば、虞夏の文、得て見るべからず、史筆に由らずんば、何を以てか後の人をして観感する所あらしめん』と。是に於て乎、慨焉として修史の志を立て、上は実録に根據し、下は私史を採セキ(さいせき)し、旁(あまね)く名山の逸典を捜(と)り、博く百家の秘記を索(もと)め、綴緝(ていしゅう)すること数十年。勒(ろく)して一書を成す。
とあり、これは義公の修史の由来を記し、次いで日本の歴史に論及するのであります。
    人皇基を肇(はじ)めしより二千餘年。神裔相承け、列聖統を纉(つ)ぎ、姦賊未だ嘗て覬兪(きゆ)の心を生ぜず。神器の在る所、日月と並(あわ)せ照す。猗歟(ああ)盛なる哉。
神武天皇以来御歴代が相継ぎ、天位を盗み取ろうとする様な者は、いまだかつて無いのである。その原因を見るに、
    祖宗の仁沢(じんたく)、民心を固結し、邦基を磐石ならしむるに由る。
のであり、明君良臣が際会してその治政を執り行なってきたのである。しかし、史書がなければ、これらの治績は明らかにならないのであり、この事を惜んで修史の業を始めたのである、と言い、
    此(こ)れ斯(こ)の書の作らるる所以なり。綱條膝下(しっか)に在りて毎(つね)に其の言を聞けり。曰く『史は事を記する所以なり。事に據りて直書すれば、歓懲自ら見はる。上世より今に迄(いた)るまで、風俗の醇澆(じゅんぎょう)、政理の隆替、ショウショウ 然として諸(これ)を掌に覩(み)るが如し。善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべく、而して乱賊の徒をして懼(おそ)るゝ所あらしめば、将に以て世教を裨益(ひえき)、綱常を維持せんとす。文は直ならざるべからず。事は核ならざるべからず。如(も)し出入左右する所あらば、則ち豈之を信史と謂ふべけんや。是(こ)の書の如きは、則ち惟(ただ)其の実を務めて其の華を求めず。寧(むし)ろ繁に失すとも簡に過ぐること莫れ。其の刪裁(さんさい)に至りては姑(しばら)く大手筆に俟(ま)つあらん』と。
と、粛公によって義公の言葉が引用されています。それは、歴史を明らかにして、乱賊をして恐れる所をあらしめて道徳、人道を守ろうとする。その為の修史で、「信史」を目指し、その姿勢は「其の実を務めて其の華を求めず。寧ろ繁に失すとも簡に過ぐること莫れ。」ということで、これは有名な言葉であります。そして、その文章の修訂は、大歴史家に委ねるしかない、ということであります。次に、神武天皇より後小松天皇までの本紀七十三、列伝は百七十。都(すべ)て二百四十三巻が成り、これは昭代の成典、つまり完全なる典籍ではなく、後の修史者の校訂に任す、という謙虚な言葉が続いて居ります。そして、これが 「亦先人の意を遵奉する所以なり」と、義公の意志を慮っているのです。
 これは『訳註大日本史』(建国記念事業協会刊、昭和十六年)からとりまして、訳文でありますが、行が変わったり、字が上がったりして居ります。漢文ですと更に明瞭なのですが、これは八分という書き方で、朝廷や皇室の事が出てきますと行を変えています。これは平出といい、又、一字上げる台頭、その他文字を空ける欠字等が見られますが、皆さん弘道館記などを見られますと、堂々たる大文章で、八分で書かれて居ります。これも、その様な体裁で書かれているのであります。

 次は、武公(治紀)の上表文であります。武公は文化七年の十二月に、朝廷に献上します。前年には、大日本史と号して可なり、という勅許を得て居ります。論賛削除の決定もあって、大変な年でありましたが、文化七年に晴れて献上します。その時、光格天皇より勅諭をいただきます。資料の一番後ろになりますが、順序が逆になって了いますが、文化七年に武公が朝廷に献上し、光格天皇これを嘉賞され、関白鷹司政煕(まさひろ)をして勅諭を伝えられます。それは、
    専ら国史に據(よ)り、博く群書を考へ、一大部の書と為す。昭代の美事、堂構の業、勤労想ふ可し。
と、こういう勅を戴いたのであります。堂構の業とは、書経にある語で、子が親のあとを継いで成せる業、という意のようで、勅諭は水戸藩歴代の勤労に思いを致し、昭代の美事と賛えたのでありました。
 武公は勅諭を得て、勅諭の後に附せる文をつけます。それを見ますと、文化七年に献上して、
    皇上嘉賞させたまふ。聖旨右の如し。藤公書を貽(おく)りて伝諭す。臣治紀天恩を感戴し、抃躍(べんやく)に勝(た)へず。茲(ここ)に藤公の書中に就て謹みて聖旨を録し、諸(これ)を巻首に弁し、永く不朽に伝ふと云ふ。
とあって、天恩を感戴してその喜びを記し、この勅を大日本史の巻首に載せることにした、ことを言っています。
 その次は、「大日本史を進むる表」で、文化七年の献上の時の上表文であります。これは、藤田幽谷の筆になる、と下の註にもありますが、それは、
    臣治紀言(まう)す。伏して惟みるに、太陽の照す攸(ところ)、率土日域に匪(あら)ざるは莫く、皇化の波(おほ)ふ所、環海咸(ことごと)く天朝を仰ぐ。
と始まる一大文章であります。そして、
    帝王の授受、三器は、神聖の謨訓(ぼくん)を徴し、宝祚の隆なる、天壤と窮り無し。
とあって、日本の国柄(国体)に対する意識が愈々明確になり、それが文章に現れてきている様に感じられます。以下、日本の歴史の時運の盛衰を言い、今日、光格天皇の御世となり、文化という年号が立てられている。そこで、
    何人か聖天子の風教に遵(したが)はざらん。ショウ学の任を関東に委す。
とあり、ショウ学の任は、皇室の諸子の学舎である淳和ショウ学の両院の別当について、別当は源氏公卿中の第一の者を任じたことで、室町時代は足利氏であり、徳川時代は累代の将軍がこれを継承した、ということであります。そして、
    臣等嘗(かつ)て大将軍の家訓に聞けり。伏して念ふに、臣材質愚鈍、学問空疎、徒(いたづら)に父祖の餘蔭(よいん)を承(う)け、叨(みだり)に藩屏の重寄(ちょうき)に膺(あた)る。爵、三位を忝(かたじけな)くして、尸素(しそ)の譏(そしり)免れ難く、官、参議を帯(お)びて、牆面(しょうめん)の陋(ろう)是(こ)れ慚(は)づ。惟(ただ)々此の国史は、責(せめ)臣が家に在り。忠を本朝に竭(つく)さんと欲す。盍(いづくん)ぞ孝を前人に追はざる。
とある。大将軍は家康で、文公は国家を支えるべき重き立場にあり、又、国史についてはその責任は水戸家にある、と言い、その心は、忠を国に尽くすことと言って居ります。次に義公のことに及んで、
    臣が五代の祖光圀少(わか)うして学を好み、義を為すに勇む。身は外にありと雖も、乃(そ)の心は王室にあり。毎(つね)に旧史の闕文を慨(なげ)き、歴世の実録を修めんと欲す。館を開きて士を聘(へい)し、名山通邑の逸書を輯録し、購求の切なるや、使幣を遠(えん)邇(じ)に馳(は)せ、人に因りて伝奏し、蘭台石室の秘冊を借ることを許さる。繙閲(ばんえつ)の勤、寝食を昼食に忘れ、貫穿馳騁(かんせんちてい)衆技を集めて以て效を成す。取捨裁断、独得の特見を発し、紀志表伝一家の言を創立し、信疑を筆削す。庶(こいねが)はくは万世の鑑(かがみ)と為らん。
と、義公の修史の志を述べています。身は将軍の家来でありますが、心は王室にあって、わが主君は天子なりという義公の心であります。そして、六国史のあとが続かず、正史の欠けていることを歎いて修史の業を起され、史料を集め、独特の史観を形成した。この大日本史は、後の世の万世にわたっての鑑ともいうべきものにならん、と言う。歴史は鑑なりと言われますが、世を映し出す鏡の如くというわけであります。
 次に大日本史の構成に及び、又、三大特筆を述べています。それは大友を帝紀に陲(のぼ)せ、神功を后妃に列(つら)ね、皇統の正閏は神器の在否に見て、南朝正統とした。次いで、
    逆順の際忠奸の別、人臣を是非するは悉く公論に由りて折衷す。我を知り我を罪するは、蓋(けだ)し深く自ら任ず。之を刊し之を正すは、将来に待つあり。
とあって、人臣の是非は史料を求め、公平の論により、又、後世に資するものである事を言う。そして、その為に校訂、補修につとめて来て、今日出版ということになりました。ついては、版木に起こして、世に伝わることになれば、私撰の史書といえども国体に係わる問題を含んでいる。
    竊(ひそか)に顧(おも)ふに、斯(こ)の書私撰に属すと雖も、苟(いやしく)も世に伝はらば、国体に係はるあり。
とあって、そこで大日本史という題号について論が及び、これは粛公の時に、仮に題号をつけましたが、
    今且(まさ)に版に鏤(ちりばめ)んとす。曷(なん)ぞ奏請すること無からんや。乃ち百揆の吹嘘に因り、竊(ひそか)に九重の進止を取る。恭(うやうや)しく天意の降鑒を蒙り、書名をして公行せしむることを許さる。
とあって、天朝に伺いを立てまして、ここに「大日本史」と晴れて名を付けて版行が出来た、ということなのであります。
 藤田幽谷の文章は、流石に含みのある、言葉としては難かしいものですが、堂々としたものだと思います。時に文化七年、この上表文が差し出されました。
 さて、次に参ります。次は、烈公(斉昭)の名で書かれた嘉永四年の跋文があります。これは、嘉永五年に、幕府と朝廷に大日本史の刻本が献上されます。藩主は順公(慶篤)でありますが、時の孝明天皇にこれを献上しました。藩主は順公ですが、烈公の名で、総裁の青山延光がこれを書いたということです。跋文ですのであと書き、後ろに付けられた文章ですが、内容を見ますと、大日本史二百四十三巻の版刻が成り、志表はまだである。そして、帝大友の即位と、南朝の正統について、
    帝大友実ニ天位ヲ践ミタマフ。而シテ後世能ク知ルモノ莫(な)シ、後醍醐帝南狩シタマフヤ、実ニ神器ヲ擁シタマフ。而シテ後世能ク弁明スルモノ莫シ。直筆有ラズンバ、帝大友終ニ寃(うらみ)ヲ万古ニ銜(ふく)ミタマヒ、而シテ後醍醐帝按剣ノ憤終ニ伸スヲ獲ザルナリ。
とあって、帝大友の即位と南朝正統の二点について、特に論及し、更に、
    正閏ノ分ヲ曰フガ若キハ、臣子ノ当(まさ)に議スベキ所ニ非ズ。則チ神器ノ重ハ万世ノ宝鎮タリ。授受ハ至厳。以テ覬覦(きゆ)ヲ絶ツ。
と続いて、神器の所在は重大であり、授受は至厳であって、南北朝の正閏論争は臣下たるべき者の議論すべきものではない、と断言をしています。覬覦を絶つ、という。つまり身分不相応なことをうかがいねらうことを防止し、そのことが、
    此(こ)レ乃(すなは)チ天祖ノ鴻基ヲ無窮ニ肇メタマヒシ所以。凛(りん)々乎トシテ畏ルベキナリ。昭々乎トシテ誣(し)フベカラザルナリ。
ということであり、続いて、
    大統ノ帰スル所ハ惟(こ)レ神器、是(こ)ニ視ル。則チ万世ノ公論自( おのづか)ラ欺クベカラザルモノナリ、此レ斯(こ)ノ書ノ直書シテ、而シテ疑ハザル所以ナリ。是レヲ跋ト為ス。
と結んでいます。この跋文においては、今の二点について論じ、大日本史もこのことを直書した、と記して居り、万世の公論というものを論じているのであります。簡潔に、しかも明瞭に言って居るのであります。
 これが烈公の跋文でありますが、続いて明治に入りまして、明治三十九年に愈々全部まとまりまして、そして朝廷に献上されます。時に、徳川圀順公が捧呈しますが、その折の跋文を見てみたいと思います。これは、栗田寛のお子さんである勤の起草といわれます。最初に義公の修史の志を言い、その後を歴代藩主が継いでいく。
    貽厥(いけつ)丁寧、以テ継ギ以テ述ブ。烈公順公ニオヨビテ校訂緝補、 孜孜(しし)トシテ懈(おこた)ルアラズ。其ノ紀伝刻成リ、巳ニ之ヲ天 コンニ献ズ。
貽厥は子孫のことで、歴代藩主がこれを継いでいき、孜孜は努めて倦まぬことで、怠りなく事業を進めていき、そして紀伝が成った。志表も随時出来ていき、明治維新が達成されて、大日本史も愈々完成する。
    今ヤ皇化シツ隆ノ際ニ会シ、爰(ここ)ニ始メテ其ノ完成ヲ告グ。祖孫十世ノ志是(ここ)ニ於テ乎(か)伸ビ、二百餘年ノ業是ニ於テ乎卒(おは)ル。(中略)抑(そもそ)モ義公ノ志ハ鑑(かがみ)ヲ百世ニ垂レ、以テ人道ヲ扶植スルニ在リ。圀順辱(かたじけ)ナク其ノ裔(えい)ヲ承ケ、区区ノ誠、涓埃(けんあい)ニ補アランコトヲ庶幾(こいねが)フ。豈ニ敢テ昭代ノ盛ニ答フト謂ハン哉。
徳川圀順公も義公の遺志を承けて、微少なりとも誠を尽くし、そしてここに完成したのである。義公の志というものを代々承け継いで、その志とは鑑を百世に垂れ、そして人道を扶植することであり、その事業が二百余年に及んで完成したのでありました。そういう内容を、見ることが出来ると思います。
 次に、最後の資料を見ていただきたいのですが、明治天皇は水戸に対して、色々と御心を懸けられました。義公、烈公については、初め従一位を贈られ、後に正一位を贈位になられました。神社の創建に際しては、常磐神社の社号を下され、又、両公には神号を与えられました。そしてお宮は、別格官幣社に列せられますが、明治八年四月四日に、明治天皇は東京小梅の水戸邸に御臨幸なられて、義公烈公両公の遺墨を御覧になられました。そして、御言葉をいただきました。それは、
    朕親臨、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其ノ功業ヲ想フ。汝昭武、遺志ヲ継キ、其レ能ク益々勉励セヨ。
というものであり、又、その時御製を詠まれました。
    花くはし桜もあれと此の宿の
           世々の心を我はとひけり
という御歌であります。
 その次に、明治三十三年十一月に、近衛師団機動演習が関東で行なわれました。その時笠間に行幸され、勅使を瑞龍山に遣わされて、義公に正一位を追贈され、その際勅語を賜りました。それは、
    贈従一位徳川光圀。夙(つと)ニ皇道ノ隠晦(いんかい)ヲ慨(うれ)ヒ、深ク武門ノ驕盈(きょうえい)ヲ恐レ、名分ヲ明カニシテ志ヲ筆削ニ託シ、正邪ヲ弁シテ意ヲ勧徴ニ致セリ。洵(まこと)ニ是レゅ)ニシテ、実ニ復古ノ指南タリ。朕適々(たまたま)常陸ニ幸シ、追念転(うたた)切ナリ。更ニ正一位ヲ贈リ、以テ朕カ意ヲ昭ニス。
というものであり、この時に正一位の贈位があり、「勤王ノ倡首ニシテ」復古ノ指南タリ」と義公の功業を讃えたのであります。
 しかし今日、大日本史に対しましては、その利用についても、又、評価というものにしましても芳しいとは言えないのですが、最後に哲学者の西田幾太郎の大日本史に対する批評を紹介して、閉じたいと思います。それは、
    明治以来、我が国の歴史学は、西洋史学の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にするところであるが、自分の見る所を以てすれば、明治大正の間、歴史の名に価するほどの著述は一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史といふものから見て、真に歴史と云ってよいものは、水戸の大日本史があるだけである。(『大日本史の研究』所収「大日本史概説」)
と言って居ります。
 以上、甚だ整わず不備でありましたが、大日本史の編纂に関しまして、縷々いろいろ見て来たところであります。その基づく所は、先人義公が史記の伯夷伝を読み、決然としてその行為を慕うあたりから修史の業が起こりました。ついては、日本の歴史の編纂を進めていくについて、日本の歴史の特質というもの、国柄、国体についての考究が為され、これが明らかにされていきました。そして、宝祚の無窮ということを念じ乍ら、これを編纂していったのであります。しかし、その事業は時代の幾多の波を受けながら、必ずしも順調に進んだわけではありませんでしたが、その間、広く人材を求めて、又、内容については吟味を尽くし、校訂修訂を重ね、そして論ずべき議論を尽くして来たのでありました。その結果、やっと完成を迎えたということでありますが、その途中、色々な所で見られる水戸の学者達の意見、見解、或いは義公の精神、遺志を巡っての考察や議論等、百出して参りました。又、大日本史の内容に見られる列伝部分けや、歴史上の大きな問題等についての議論などが、やがて一つに大きく纏まっていき、集大成され水戸の学問となっていったのではないかと考えます。そして、その間の種々の議論や、問題に対する姿勢、判断、見識等に、いわば水戸の学風というものが窺えるのではないかと思います。
 本日は誠に用意整わず、内容浅く、粗雑でありまして大変失礼致しました。これをもちまして、私の粗末な話を終わらせて戴きます。どうも有難う御座居ました。

    (当時)茨城県立歴史館史料部県史編纂室主任研究員
    (現在)茨城県立歴史館首席研究員