『明治維新と水戸学』
本年度の総題について
水戸史学会会長 名 越 時 正
おはようございます。私は水戸史学会の会長をして居ります名越でございます。
本日から第九回の水戸学講座が開講されることになりました。
この講座は、九年前に常磐神社の主催として、開催されたものでありますが、私ども水戸史学会では普段水戸学・水戸史学を勉強しておりますので、出来るだけご協力しようということで、共催させていただくことになりました。さらに昨年から五軒公民館も共催ということになりました。
ところで、前回の一番最後の講義のときにアンケートをお願いいたしました。そのアンケートの結果を考えまして、やはりご希望の多かったのは、水戸徳川家とか或いは大日本史、水戸の学問、幕末の水戸藩、こういうテーマが非常にたくさんございましたので、それを考えた上で、今年明治天皇八十年祭に当りますが、つい先だって七月の三十日明治神宮でお祭りがありましたが、また、ご生誕百四十年という年にもあたります。そう言うことを考えまして、明治という時代、これが水戸学の力によって興されたということは、どのような考えから言われるのか、これはなかなか簡単には言えないことだと思いますので、それを少なくとも五回にわけて、先生方に講義していただくということにいたしました。
明治維新と水戸学、ところでその明治維新と水戸学を、最も簡単に表わしますと、これは、義公烈公であり、徳川家であり、大日本史はじめ水戸の学問であり、あるいは幕末の志士の活躍であり、そして最後は一橋慶喜公ということになりましょう。そういう方達の心の置き処、根源はなんであったかというと、水戸学ということになりますので、これをお話し願うわけですが、これを最も端的に、唱歌で表したものがあります。
それは、明治三十五年に、中村秋香と言う学者が居りまして、この方は、静岡の出身ですが、旧制第一高等学校の教授、さらにそれを辞められてから、宮内省のお歌所の寄人になられた方です。この方は、八田知紀という、幕末から明治の有名な歌人の弟子となって、和歌を勉強しました。そういうことから、義公を中心とした唱歌を作りましたが大変に長い歌でして、三十章に分かれております。その題は、「常磐の蔭」という題です。このなかにですね、最も簡単に、その水戸の学問と明治維新との関係を述べておるところがあります。それは、十八番目ですが、
明治三十三年に明治天皇が笠間においでになった。そのとき勅使を瑞竜山に派遣されて、光圀公に正一位を贈られたのです。それまでは明治二年正二位を贈られて、ずっと正二位でした。義公も烈公も正二位でありました。それが三十三年に義公は正一位となられた。その時の勅語のなかに、「勤皇の倡首、復古の指南」こういうお言葉がありました。これこそ水戸の精神・水戸の学問が義公に出発し、そして明治維新に結実した。ということを明治天皇がはっきりとお認めになった言葉なのです。この「常磐の蔭」はそういうことを歌にしています。それと、それをもう少し簡単にしたのが、同じ中村秋香先生作歌の三の丸小学校の校歌なのです。これは今でもこの校歌をうたっているそうですが、明治四十年、この中村秋香さんがつくり、作曲は、前の「常磐の蔭」と同じ田村乕蔵という方が作曲したものです。
その校歌は、
水戸史学会会長 名 越 時 正
おはようございます。私は水戸史学会の会長をして居ります名越でございます。
本日から第九回の水戸学講座が開講されることになりました。
この講座は、九年前に常磐神社の主催として、開催されたものでありますが、私ども水戸史学会では普段水戸学・水戸史学を勉強しておりますので、出来るだけご協力しようということで、共催させていただくことになりました。さらに昨年から五軒公民館も共催ということになりました。
ところで、前回の一番最後の講義のときにアンケートをお願いいたしました。そのアンケートの結果を考えまして、やはりご希望の多かったのは、水戸徳川家とか或いは大日本史、水戸の学問、幕末の水戸藩、こういうテーマが非常にたくさんございましたので、それを考えた上で、今年明治天皇八十年祭に当りますが、つい先だって七月の三十日明治神宮でお祭りがありましたが、また、ご生誕百四十年という年にもあたります。そう言うことを考えまして、明治という時代、これが水戸学の力によって興されたということは、どのような考えから言われるのか、これはなかなか簡単には言えないことだと思いますので、それを少なくとも五回にわけて、先生方に講義していただくということにいたしました。
明治維新と水戸学、ところでその明治維新と水戸学を、最も簡単に表わしますと、これは、義公烈公であり、徳川家であり、大日本史はじめ水戸の学問であり、あるいは幕末の志士の活躍であり、そして最後は一橋慶喜公ということになりましょう。そういう方達の心の置き処、根源はなんであったかというと、水戸学ということになりますので、これをお話し願うわけですが、これを最も端的に、唱歌で表したものがあります。
それは、明治三十五年に、中村秋香と言う学者が居りまして、この方は、静岡の出身ですが、旧制第一高等学校の教授、さらにそれを辞められてから、宮内省のお歌所の寄人になられた方です。この方は、八田知紀という、幕末から明治の有名な歌人の弟子となって、和歌を勉強しました。そういうことから、義公を中心とした唱歌を作りましたが大変に長い歌でして、三十章に分かれております。その題は、「常磐の蔭」という題です。このなかにですね、最も簡単に、その水戸の学問と明治維新との関係を述べておるところがあります。それは、十八番目ですが、
- 維新の始めに賜はりし、御誓ひぶみの結果にて
(これは御誓文、五箇条の御誓文のこと)
この御誓ひの花はまた、王政復古に咲きいでぬ。
ああその王政復古てふ、世にかぐはしき事草は、
君がおろしし勤皇の、種よりこそは生ひにけり。
(君が、というのは,義公、光圀公をいうのです)
ああ忠臣の一声に、君が心は湊川、
さてこそ勤皇倡首てふ 畏き勅語を給ひけれ。
明治三十三年に明治天皇が笠間においでになった。そのとき勅使を瑞竜山に派遣されて、光圀公に正一位を贈られたのです。それまでは明治二年正二位を贈られて、ずっと正二位でした。義公も烈公も正二位でありました。それが三十三年に義公は正一位となられた。その時の勅語のなかに、「勤皇の倡首、復古の指南」こういうお言葉がありました。これこそ水戸の精神・水戸の学問が義公に出発し、そして明治維新に結実した。ということを明治天皇がはっきりとお認めになった言葉なのです。この「常磐の蔭」はそういうことを歌にしています。それと、それをもう少し簡単にしたのが、同じ中村秋香先生作歌の三の丸小学校の校歌なのです。これは今でもこの校歌をうたっているそうですが、明治四十年、この中村秋香さんがつくり、作曲は、前の「常磐の蔭」と同じ田村乕蔵という方が作曲したものです。
その校歌は、
- 一、 我等が人のみち分くる 学びの庭は芳はしき 名も世にたかく聞こえたる 弘道館の梅林
- 二、 七百年の冬ごもり よろずの草木にさきだちて 世に春風をいざないし 花の林はこの林
- 三、我らはここに学ぶ身ぞ 林の梅に鑑みて 嵐を凌ぎ雪に堪え 芳しき名を世に立てむ

