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水戸家の家訓

 みかげあふぎと三輪信善
                   但 野 正 弘


 年末押し迫って参りました時期でございますけれども、講座の今月の担当ということでご指名いただきました但野でございます。本日は、与えられました題名が「みかげあふぎと三輪信善(みわのぶよし)」という題でございまして、2、3年前に、水戸学講座で一度『みかけあふき』そのものについてはお話したことがございます。しかし『みかけあふき』という書物をまとめた三輪信善という人についてはほとんど触れませんでした。そこで今回は三輪信善についも触れてみたい、それから『みかけあふき』の内容についても少し詳しく触れてみたいと思いまして、若干史料を用意させていただきました。
 このお隣の常磐神社のご本殿の後ろに、三つの石碑が建っております。向かって一番右端が「仰景碑」という石碑です。この「仰景碑」というものは、水戸藩の第九代藩主でありました烈公・徳川斉昭公の愛民の治世、それに感謝をして、その恩に報いようという事から[みかげ講]という講を結んで農業に仕事に励んだ人々、そういう方々を明治31年に水戸出身の栗田寛博士が顕彰された文章を刻んだものであります。
 現在この碑は、右上の方が剥離してしまいまして、判読できなくなってしまっております。私の高校時代に拓本を取ったころには、まだ結構残っておりまして解読ができました。現在は大変見ずらくなってきております。この「仰景碑」の元になりましたものが、これからお話し申し上げます三輪信善という人が、嘉永3年に詳しく書き記しました『みかけあふき』という書物であります。尚『みかけあふき』は、現代語で「みかげあおぎ」と読みます。
 いま私がもって参りましたのは、安政4年に出版された『みかけあふき』の木版本ですが、前の方に拓本が載っております。この会場の向かって左側に掛け軸をかけておきました。後程話の中に出て参ります烈公の書を石摺りにした掛け軸です。その一文字一文字を『みかけあふき』の前の方に掲げまして、そして以下、三輪信善が烈公の教訓とか、飢饉の状況とかを書き記しております。
 しかしこの『みかけあふき』の著者である三輪信善という人については、あまり詳しい経歴は分りません。彰考舘にございます『水府系纂』とか、その他のちょっとした書物に出てくる略歴で、ある程度分かりますけれども、細かいことになると私も分かりません。とにかく分かりましたことだけ、プリントの方に書かせていただきました。
 三輪信善と言う人は、名は信善、通称は友右衛門、幼名が初太郎とか六之介とか言っておりました。祖父は三輪友右衛門正信と言い、彰考舘に勤務をしておったようであります。ところがこの祖父にはお子さんがなく、鈴木総兵衛という人の弟を養子にもらいまして、友右衛門信政と名乗らせています。その奥さんは友右衛門正信の娘さんです。したがって三輪家の系図を見ますと、代々通称は友右衛門です。
 この友右衛門信政と正信の娘さんとの間に三輪信善が生まれる訳ですが、実はその生年月日が分かりません。『水府系纂』にも記載がありません、『水府系纂』は、三輪信善が亡くなる前に書き終わっております。したがって信善が亡くなった事については、記載されていないわけです。他のいろいろな書物に書かれているところから、拾い出しまして、慶応3年の12月晦日に二条城で亡くなっているというふうに資料には書いておきました。しかし何歳で亡くなったということが書いてありませんので、生まれはいつかということは分からない。今後何かの史料で見つけ出すことができるかも知れませんけれども、現在はわかりません。
 そしてある時期から、水戸藩の国学者であります吉田活堂(令世・のりよ)の門人として国学を勉強したようでありますが、経歴の方には全く出て来ません。出版された『みかけあふき』の中に、吉田尚徳という吉田活堂の息子さんが跋文を書いておりますが、その中に「三輪信善と言う人は自分の父の吉田活堂の門人である」というふうに書いてあるだけです。何歳から吉田活堂に師事して勉強したのかということがよく分かりません。三輪信善の経歴を見てみますと、最初に役付きとなったのが天保9年(1838)の5月、床几廻(しょうぎまわり)に就いたのが最初であったようであります。以後いろいろな役目に就いて行きます。繁雑になりますので主なものだけ掲げておきましたが、一つは弘道館歌道掛というものに任ぜられています。たぶん天保12年の事だろうと思います。天保14年に奥右筆、(おくゆうひつ)秘書のような仕事をする訳ですね。安政3年になって小姓頭取(こしょうとうどり)になっています。安政4年に再び奥右筆頭取になっている。その間、若いころには小普請組(こぶしんぐみ)とか徒士(かち)目付とか、いろいろ勤めていたようです。
 安政から万延、文久と水戸藩にとっては大変な幕末激動期を迎えるわけでありますが、その間だいたい烈公とか、藩主のお側に仕えていたと思われます。そして文久3年(1863)の2月に当時の藩主であります慶篤公(順公)に従って京都へ参りました。京都へ参りましてからは、順公の弟であります松平昭訓(あきのり)公の傅役(もやく)としてお側に仕えておりましたが、昭訓公が文久3年11月23日に亡くなりましたので、代わりにその弟の松平昭武公が上京して参りますと、三輪信善は引き続いて昭武公のお傅役を勤める、というような状況で、しばらく京都におりました。
 翌年が元治元年、そして慶応元年になります。この元治元年から慶応元年にかけての時期と言うのは、有名な天狗党の事件の起こった時期であります。やがて慶応3年に昭武公はフランスへ行かれる。そこで三輪信善は京都に残りまして、当時在京の家老として取纏めをしておりました大場景淑(かげよし)と共に、水戸藩の京都の守護役という立場で活動しておったようであります。慶応3年の10月14日に第15代将軍の徳川慶喜公が大政奉還をされます。10月の末には将軍職も辞任される。さらに12月9日には王政復古の大号令及び其の夜の小御所会議において慶喜公の辞官の議が決定される。というようなことから徳川慶喜公は二条城を退去されました。その後も大場景淑と共に、三輪信善は二条城の守備ということを担当しておったようでありますが、この年12月の晦日に二条城の中で亡くなったと伝えられています。また『明倫歌集』の編纂にも三輪信善が関与していたということです。経歴については、以上の程度しか分かりませんでした。
 この『みかけあふき』を書きましたのは嘉永3年(1855)の5月です。そのころ三輪信善はどういう立場にあつたのかといいますと、前年の嘉永2年の12月に土蔵番という役に就いております。ですからこの時点では、必ずしも三輪信善自身が、そう言うものを書かなければならないという、仕事上の立場にあったとは考えられませんので、恐らく烈公の御恩に報いようとして、一生懸命に励んでいる常磐村の農民達の事を知って、自発的に自分で書き記しておいたのではないかと思われます。仕事上の立場で書いたものではなくて、信善自身の感動と言いましょうか、心から書物として残しておきたいという事でまとめられたものでありましょう。これが後に、安政4年になって正式に版本として刊行されたのだと思います。
この『みかけあふき』の内容については、細かくはそれぞれの場所で触れる事に致しまして、
 一番最初に序がのっています。
      篆序
     専 力 稼 穡 勿 忘 饑 饉 (専ら稼穡に力め饑饉を忘るる勿れ)
           天保丁酉仲秋    景山 (印)(印)
 天保丁酉中秋といいますと天保8年(1837)8月です。七年から始まった天保の大飢饉がやっと収まって来た、そういう時期であります。
 二番目には景山公(烈公)の御筆の写しということで、天保4年の告諭文が載っております。それから其の次に天保9年の烈公の告諭。
 三番目に御教喩八ヶ条として、天保8年の、農民への戒めの言葉が書かれている。
 四番目には、この『みかけあふき』というものについて、どうしてこういうことを記すことになたのか。(みかげあふぎ)という意味はどういう意味からつけられた言葉なのか。という信善自身の考え方を記しています。これを読みますと、さすがに国学を学んだ人であるということを伺わせる文章であり、内容であります。
 五番目に、これは一番最後でありますが、版本として出版するにあたって、吉田令世の息子である尚徳という人が、安政4年の7月に書いた跋文が収められています。以上でこの『みかけあふき』は終っています。そういう構成になっているのであります。
 この文章を参考にしながら、烈公と水戸の農民との係わりあいについてお話しをして行きたいと思いますが、烈公は7代藩主の治紀公(はるとしこう)の第3子として、寛政12年(1800)3月11日に誕生されています。義公が亡くなられましたのが西暦1700年ですから、ちょうど100年後に生まれられたわけであります。
 烈公は七代藩主のお子さんとしてお生まれになったのですが、第8代藩主には兄さんの斉脩公(なりのぶこう・哀公)がなっておりましたので、烈公は、敬三郎君と呼ばれ、30歳まで部屋住でありました。部屋住というのは、分家か他家に養子に行かない限りは、お家の家督を相続した人の援助を受けて生活をする、独立できない方です。なぜ部屋住で長い間おられたのかといいますと、哀公にお子さんがおられなかったために、自分の跡継ぎとして考えていた、という事も言われていますし、お父さんの武公の考えでもあったと言われています。
 やがて哀公が病弱で、若くして亡くなられる、このときに有名な継嗣問題が起こりまして、藤田東湖先生とか会沢正志斎先生とかが努力をされました。そして敬三郎君すなわち烈公が第九代の藩主に就任されたのが、文政12年(1829)のことでありました。数え年30歳でありました。
 烈公は部屋住の時代から「お百姓」と称する青銅で作った小さな像をお膳の上において、感謝の心を捧げてから食事をするという習わしを持っておられました。これは『農人形の記』という文章に由来が記されております。農人形と言いますと弘道館などにも大きな木像がありますし、ご年配の方ですと、昔県庁前に大きな像があったことを記憶されていると思いますが、今、義烈館の前横に大きな像があります(現在は、御田に移設)。烈公がお造りになったものは小さな像で、義烈館内にも展示されています。
 この農人形がどうして世の中に広がって行ったのか、烈公がどういう気持ちで作られ、使っておられたかということが、萬里小路睦子(までのこうじちかこ)夫人が書き記された「農人形の記」の中に出て参ります。これを読んでみたいと思います。
     いはまくもかしこき我が烈公の御うへは、よにあまねくしられたまへるが中に、まだいとわかうおはしまししほどより、ことに民のなりはひを深く御心にしめておもほしけるより、銅もてこれなるみたからを鑄(い)さしめたまひ、

      朝な夕ないひくふごとにわすれじな
          めぐまぬたみにめぐまるる身は

    かくよませたまひて、御ものの臺(だい)にすゑさせたまひ、まづはつほをば是にたまひて後にぞ御みづから物したまひき。
    かくて君たちの生ひいでたまへるごとに、御ものまゐりそむる日より、かならず是を御をしへのはじめとはしたまひしを、おのずからよにも聞えて、いとかしこき御いつくしみのほどを慕ひたまへる御かたがた、又しもが下にいたりても、おなじこころにしたまひまつれるともがらの、おほくなりもて行くにつけて、鑾山(らんざん)の君、銅のかたを其まますゑものに御手づからてうぜさせたまひ、折にふれてたまはことのしばしばなるに、この故よし記しおかずば、後の世に至りて、もて遊び物の如く成りなむもはかり難ければ、此のみたからにそふべき一ことをと、人々のせちにいはるれど、おふけなきわざなれば、あまたたびいなび聞ゆれど、ゆるしなければ拙き詞もてかい記すは、松戸戸定山の常盤のかげにとしへてすめる萬里小路ちか子。
 明治17年に昭武公は引退されまして松戸の別荘に移られました。これが松戸戸定山です。
そして後に昭武公の事を松戸公といいます。昭武公は明治43年に58歳で亡くなられましたが、烈公の側室である萬里小路夫人と一緒にここに住んでおられました。睦子夫人は、局名を秋庭の局、従一位大納言萬里小路建房卿の女で、最後の水戸藩主節公(昭武公)のご生母です。大正10年88歳で亡くなられました。したがって烈公の農人形に対するお気持ちや農人形が世の中に広められて行った理由などを能く知っておられて、『農人形の記』というものを書かれた訳であます。
 さて烈公が藩主となられましたのは文政12年、文政期も終わり頃でありました。其のころは水戸藩も他藩と同じように大変貧しい状況にありました。もともと水戸藩は決して裕福な藩ではありません、特に2代藩主の義公が亡くなられて以降、幕府でも徳川本家においても元禄時代が過ぎて、財政が逼迫してくる、水戸藩においても次第に藩政上でもいろんな問題が起こって参ります。経済的にも苦しくなって来ました。
 江戸時代も中期になってきますと、商品経済が農村に浸透して来まして、贅沢な気風も起こってくるし、また博打などが流行しました。そういうことから金銭の浪費が多くなりますし、浪費が多くなれば持っていた田畑を売ったりしなければならない。あるいは質入れしなければならない。その為に生活の基盤が失われて行く。借金を抱えて、ますます生活が苦しくなる。そういうことがずっと重なって来たわけであります。その結果、子供を生んでも育てられない。間引き堕胎が盛んに行われる。年貢逃れのために村を離れてしまう。そういうことから水戸藩の人口というものも急激に減少してきました。
 その統計を二、三挙げてみたいと思います。武士と町方の人達を除いた、農民人口だけに限って挙げて見ますと、8代将軍吉宗の享保の改革が行われた頃の、享保17年(1732)の水戸藩の農民人口は309,711人と記録されています。ところが約70年後の文化元年(1804)には223,635人に減少している。そして20数年たちました文政11年、烈公が藩主になられる前の年で227,403人、わずか4,000人ぐらいは増えていますけれども、22万人台は変わらない。烈公が藩主になられた後、天保5年(1830)が242,939人、15,000人ほど増えて来ている。それでもこの享保17年から天保5年まで約100年の間に66,772人減少している。これから少しずつ増えて来ています。したがって烈公がお生まれになりましたのが、寛政12年(1800)で、ちょうど文化元年の4年前であります。最も水戸藩の人口が減少した時期です。部屋住時代から藩主になられるまでの間、ずっと22万人台であったわけです。いうなれば、水戸藩が最も多くの問題を抱え、人口の上でも減少していた、そういう時期でありました。したがって烈公が藩主になられた文政12年頃と言うのは、多くの深刻な問題を抱えた時期でありました。
 そこで烈公は、藩主になられますといろいろな改革をされますが、やはり藩主として何よりも農村を復興したい、このことを痛切に考えておられました。最初に藩主として水戸に帰えって来られたのが天保4年(1833)です。農村復興のために精力的に領内を視察して郡奉行たちに告諭文を出されています。
それが、『みかけあふき』の景山公御筆の写し、であります。
    ・・・・我らいやしくも天朝より、三位の貴きに命せられ、将軍よりは三藩とも立置れ候上ハ麁衣菲食(そいひしょく)を用ること格外にハ有まじきや、然るを其格外なることをもいとはず行はゞ、下々も自ら准じて奢(しゃ)もやみ博奕(ばくち)もやみて、人々勝手を取直し、父母子弟の教養もなら  んかと思う故なり・・・・天より授かりたるたまものをわが物のように思ひ、生死を自由にするハいかなるこゝろぞや、よくよく考へ見よ、わが身ハ父母のわけたる身、我が子ハ我みをワけたる身なれバ、わか子を殺すハ、我身ころし、父母を殺すもおなじきに似て、天道において有るまじきことなり・・・
       天保四年巳七月廿八日            御花押
 こういうふうに烈公は教え諭すわけであります。そうしてさらに藤田東湖とか会沢正志斎などの新進気鋭の学者を郡奉行に抜擢していきまして、稗倉(ひえぐら)を管理します。水戸藩全体で約20万俵の稗を貯蔵したと言われております。そのほかに常平倉というのを造りまして、稗倉の方は粟や稗を主として貯蔵します。常平倉というのは米を貯蔵します。ただし常平倉のほうは長期間を考えません。米価が安いときに、だぶついている時に買い入れて、常平倉に貯蔵する訳です。米のだぶつきを押さえますから、米価が下落するのを防ぐわけです。いざ飢饉と言うときには米を出して、また飢饉でなくとも米を放出する事によって米価の安定を図かりました。短期間というのは、米はいつまでも貯蔵できないからです。大体五年から七年くらい、粟稗は百年は大丈夫とも言われます。したがって飢饉対策として貯蔵しておく分には、米のように入れ替えをしなくても済む。長期間にわたって飢饉に備えることができる。そういうことから稗などを貯蔵したのであります。こうした稗倉とか常平倉というのを準備します。
 さらに人口が大きく減少して来ている中で、人口対策ということを考えるわけであります。その人口対策として、今日の児童手当のように多くの子供を育てる家庭を表彰しました。あるいは金とか扶持米を与える制度を設け、また妊婦の届け出制を行い、子供が生まれても中々育てられないというけれども、育てる方法はあるのだ、と言うことを公示し、いろいろ考案しておりまして、例えば今日の哺乳瓶に当たる物を発明しています。どんな形かと言いますと、竹を切って細い管をつけて、その先にきれいな布切れを巻いて吸い口を造る。そして重湯をいれる。そうした図も、書いたものが残っております。
 こうした政策を実施している間に、少しずつ人口は上向きになって来ます。そして、烈公自ら身を持って節約を実行する。常に綿服を着用する。絹の着物はよほどの事がない限り着用しない。食事は一汁一菜に止めて質素な生活をする。これは民を思うためにほかならない、ということでありました。このように勧農と節倹を推し進められた烈公は、天保7年の夏になりまして、これから来年にかけて大変な飢饉になるかもしれない、天候不順になるという事を察知されます。夏のうちから、ナスが非常に味がよい、これは飢饉の前触れであるという言い伝えがある、ということで飢饉に備えて常平倉を急遽満たさせるとともに、勘定奉行の川瀬七郎右衛門と言う人を九州へ派遣致します。米の買い付けです。まだ全国的に大騒ぎになっていない前ですから買い付けができました。同時に干し草を用意しました。キビ団子も用意しました。実際飢饉になりますと重要な食料になるのです。ふだんから畳の中にいろんななものを折り込んだり、壁の中に海草類を塗り込んだり、いろんな方法が考えられていたようでありますが、やがて、予想どおり7年の秋から8年にかけて全国的な大凶作になっていったのであります。
 天保8年の2月には有名な大塩平八郎の乱がおこります。関東東北の飢饉、これも多数の餓死者を出しました。この状況について三輪信善が『みかけあふき』の中に次のように記しております。
     ワが中納言の君、天保七年といふ年のまがごとにあひ給ひて、うゑにせまれる人々をすくはせたまふこと大かたならず、世にならびなきおほんいさをこそかゝやかし給ひつれ、此年のうゑくるしめるさま、いまはしきことゞもおほかる中ニ、其ころ、ミやこにありつる人のかたるを聞に、うゑて死ぬもの数をしらず、されバとりべ山のふもとに、大きなる穴をうがちてかばねをいとさはに、かき入て埋めしかば、其あしき臭あふれて、人々ゆきなやみしとぞ、江戸にても死せし人すくなからず、あるとき中納言の君、出たゝせ給ひしに、御のりものゝうちより、しゝたる人をミそなハし
    (三家の君出たたせ給ふをりハ、まへの日より道をきよむるほどのことなれども、この時ハかばねいづこの巷にもありけれバ、道をかへて通させ給ふことさへなしたまはずとぞ)
    たまひて、いたくかなしませ給ひ、我国にハかかるもの、たえてあらせじとて、つかさづかさをはげまし、御くらをひらきてすくはせ給ひしかば、ワが水戸にのミうゑたるものひとりもなきハ、いとありがたきおほんめぐみならずや、殊にミづからもかゝせ給へることく、御身をさへくるしめ給ひて、神をいのらせ給ふなど、いともかしこきこと也けり、うゑてくるしむこと、みやこ江戸さへかくの如し、まいてかた田舎のさま、おもひやるべし、
 言うなれば烈公の「備へあれば憂ひなし」、これは義烈館にも烈公の書として掲げてありますが、そして「領内の民一人たりともゆめゆめ飢えさすべからず」、そういう確固たる決意に基づいて、適切な救民政策が功を奏して行ったのでありました。更に一通り天保の飢饉が遠のきました後も、
 天保8年の9月には御教諭八ヶ条というのを示されました。
    一、父母を大切にいたし・・・・
    一、朝おきを致し・・・・
    一、けんやくをまもり・・・・
    一、育子の義ハ・・・・
    一、ばくゑき、わるあそび并大酒・・・・
    一、去申年の大ききんにて、かんなん辛苦いたし候事を必ずわするべからず、又子々孫々へも申傳可申事
    一、むぎ、あは、ひえを多く作り・・・・
    一、くず、わらびの根は勿論・・・・
 そして翌年天保九年六月、括弧して三日とあるのは、常陸帯の中に「危急を救い給ふこと」、として三日と書いてあります。
     ・・・君子ハ民の父母と有之候得バかりそめにも国中数十万人の父母とあふがれ候上ハ、いかて子の飢にせまるを見るにしのびんや、これによりて、今日より七日の間精進潔斎して鹿嶋・静・吉田などへ五穀成就萬民安穏の願をたて候得共、日々平常の食を用ひ候てハ恐懼(きょうく)のことゆゑ、我等も簾中(れんちゅう)初、今日より日々粥(かゆ)を食し上ハ天の怒(いかり)をつゝしみ、下は民の患(うれい)を救ひ候心得に候
       天保九年戌六月(三日)            御花押
 こうすれば、領内の人々も必ずや我々のそうした心を推察して、次第に米穀を余して蓄えるようになってくるだろう。そのために我々は率先垂範してやらなくてはいけないのだ、と言うことを烈公は述べられております。
 こういうことで、とにかく天保7年から8年にかけての飢饉を乗り切り、しかもその後においても、油断なく生活をしつかりさせて行くと言うことを指導された烈公に対し、水戸藩の農民の間から強い敬慕の念が興ってきました。その代表的な人達が常磐村の12戸の人々であります。この常磐村というのは、天保時代の地図を見てみますと、大変広い範囲にわたっております。大体現在の大工町から雷神前を通ってくる、あの道路から西の方はほとんど常磐村と考えていいのですね。袴塚あたりも常磐村であります。堀町なども常磐村です。広い範囲なんですね。だんだんと合併されて水戸市内になりました。ですから、今、常磐町と言っている所だけが常磐村でなくて、大体水戸市の西側部分が常磐村です。
 その常磐村の12戸の家の人達が講を作ったわけです。これがいわゆる「みかげ講」と呼ばれるものなのです。この「みかげ」というのは、三輪信善の『みかけあふき』にも出て来ますけれども、三輪信善は、『みかけあふき』の最後のところに、「筑波山このもかのもの歌によりて、ミかげあふぎといふべきよしこたへたり、そは中納言の君のミかげに、ます蔭ハたえてあらじと思ふニなん」と書いてあります。
       古今集 巻第二十 大歌所御歌
             東 歌
               ひたちうた
      (1095)
            筑波根のこのもかのもに蔭はあれど
                    君が御蔭にます蔭はなし
 栗田寛先生は「仰景碑」の中で「古語に泰山仰兮景行々兮(たいざんあおぎてけいけいこうおこなわる)と云るは、やがて御かげをあふぐ意にもかなへればとて」と述べておられますが、そんなところから、「みかげ講」という講が作られた訳であります。これは常磐村12戸の人達が、天保8年に烈公から配られた書を掛け軸に表装しまして、「石摺りにした」と他の本に書いてありますので、石に彫ってそれを拓本にして配ったと思われます。そのうちの一枚がこれです。『専ら稼穡に力め饑饉を忘るるなかれ』という、この掛け軸を掲げて、烈公を拝む気持ちで拝んだのですね。
そして烈公の徳を忘れないようにと、「みかげ講」という講を作りました。「仰景講」と書いても「みかげこう」と読んでいたようです。集まった人達はしだいに数も増えて来ました。初めの内は年に3度、2月4日、7月4日、11月中の卯の日、この3回集まりました。そしてわざわざ粟や稗のご飯を作りまして、それを食べて、掛け軸を拝し、飢饉の苦しかったこと、烈公にどれほどみんながお世話になったか、と言うことを語り合い、はげまし会う。農業も一生懸命やろう。そういうことを申し会わせて集まって来た。
 更に日頃から節約したお金を少しずつ、いざという時の為に貯蓄をしたようであります。これがずっと幕末・明治と続くのです。明治6年に常磐神社が創建されることになります。その時に非常に感激した常磐村の人達が、毎月講を開いて、そのころになりますと毎月開いていたようであります、そして蓄えていたお金を元にしまして、3,000本の杉苗を常磐神社の回りに植えたのです。これがいま繁っている神社の森です。
 この「みかげ講」はいつ頃まで続いたんだろうか。明確な記録はないのですが、20数年前に、私は大学生時代にこのことを調べたことがありますが、明治31年に栗田寛博士が「仰景碑」の文を書かれ、石碑が建てられたのですが、このとき碑の後ろに名前が刻まれました。まず最初に12人の名が書いてあります。恐らくこの人達の先祖が、最初の常磐村の12戸の人達だったのではないかと思います。それにさらに石工浅野留吉と書いてあって、そのほかに仰景会員として3名が書いてあります。私は大学生時代に剣道をやっておりまして、その先生のお一人に三田寺弘先生という方がおられました。もしかして、と思いまして先生のお宅をお尋ねし、「みかげ講」の会員のご子孫ですかと、うかがいますと、たしかにそうだと言うことでした。明治33年頃に碑を建てたときの三田寺家の当主は達さんでした。
 その時、弘さんのお母さんで、多分、達さんの娘さんだと思いますが、当時78才のおばあさんでしたが、お茶を入れて来てくれましたので、おばあさんに聞きますと、「昭和の初め頃まで、それぞれ会員の人達の家を持ち回りで講が開かれておって、わたしの若いころでしたが、月に一度ほど何人かの会員がそれぞれ持ち回りで集まっておりました。そして烈公様の事や飢饉の事などを話し合っておりました。」そういう話をしてくれました。
 ですから、この「みかげ講」は昭和の初め頃まで開かれておったことがわかったわけであります。
 もう一つここで触れておきたいのは、結局、烈公の愛民の治世と、それに感謝して講を結んだ常磐村の「みかげ講」の人達の事実をよく考えてみますと、それは神道の世界に到達するということです。これについては、彰考舘副館長(当時)の照沼好文先生が、『水戸史学の伝統』という書物の中で、「水戸烈公の生祀(せいし)と御陰講」と言うことを書かれております。今、話をしています「みかげ講」の事にふれながら、烈公に対する信仰について、「生祀」ということを書いておられます。
 生きている人物に、「かしこし」という念をもったときに、遥拝の形で写真、衣類、品物、そういうものを通して宗教的な儀礼を行う、例えばその方の写真とか、その方の使っておられた物をいただいて、その品物を前において、或るいはその方の書、掛け軸とか、そうしたものに手を合わせて拝礼すること、そういう宗教的な儀礼を執り行うことを「生祀」という、死んだ方をお祭りするのではないのです。現に生きておられる方に対してそういうことをするのを「生祀」という。また「生祠」という字を使う場合は、生きている人を社に祀ることです。宗教的な建物です。烈公の場合は「生祀」であると照沼先生は言われる。というのは、『みかげあふぎ』にそのことを証明する、あるいは「仰景碑」の中に、そのことを説明する箇所がいくつか出て来ます。
まず、『みかげあふ』ぎの方では、
     ここに常盤(ママ)の里人、君のふかきおほんめくミをも、うゑにせまりしくるしミをも心にわすれず、年に三度二月四日七月四日十一月中の卯の日おもふどち打ちつどひてまきのはじめにあけたる文字を拝ミ、いさゝかなる粟稗などの飯をたうべて、こしかたのことゞもかたらひつゝ、きみのいさをのたかきをあふき、御めくみのふかきにむくいむことをはかれるとぞ、あなうるハしきわざなるかも、さる人々はかならず、たらちねにもよくつかへ神の道をもたふとびて、かのよこしまなるをしへなどにまとはぬこと、いはでもしるきことなりけり、いかで此まこゝろの世にもあまねくなりなんにハ、忠孝てふ道もおのづからおこりて、國もにぎはひ人もとみて、うましまつりごとも行はるめれバ、神の御心にもかなはせ給ひて、さる人々をまもりまさんこと、なにかハうたがひあるべからん、いとめでたくも思ひよりたることなるかな、さて此事なにとか名つけてえさせよといふに、筑波山このもかのもの歌によりて、ミかげあふぎといふべきよしこたへたり、そは中納言の君のミかげにますかげハたえてあらじと思ふニなん
      嘉永三年といふ歳の五月のすゑつかた
                        三輪信善記并書
 というふうに、信善は常磐の里人たちが、まさに烈公を神として祀り、その徳に応えて行くという一つの行動を取っているのだ。神の道につながる手振りなのだ。という事をここで紹介しているのであります。信善自身が『みかけあふき』の最初のところで、神道というものは、毎日の村々における生活そのものが、実は神の道なんだ、と言うことを説いております。
    「ミかげあふぎのゆゑよし」
     おほよそ人としてハ恵(めぐみ)といふことをしり、しりてハこれにむくゆるわざをなん心にはかくべきこと也(なり)ける、そもそも此日の本ハ神の御國にして、あめつちわかれしよりこのかた、いやつぎつぎにさかえ給ひかしこくも天照大御神より、いまのミかどにいたるまで、あまつ日つぎたえさせ給はず、あやにくすしきミ邦にて、異國とハいたくやうかはれることをよくさとり、皇孫命(すめみまのみこと)あもりましゝよりこのかた、つぎつぎの皇帝、神ながら大御世をさめ給ひしおほんめくみをあふぎたふとみて、これにむくいんと思はゞ、直く平らかなる道によりて神をこそたふとむべけれ、さるはおのおのすめる村郷にゆゑよしたゞしき神をいはひて朝夕に敬ひつゝ、かのよこしまなるをしへなどにハ、かまへてそまじと、おもひとるべし・・・・・
これを読むと信善の神道観というものがお解りいただけると思います。さらに栗田寛博士の「仰景碑」の中に
    その年頃に、公の国民(くにたみ)に諭し給へる御文のありけるを、殊に仰ぎ尊み敬ひおろがみ奉りし民なむ常磐村に十二戸ありけるが、各もおのも心を協せ力を共にし、長く其の御恩徳を忘るまじき由を誓ひ、御ふみを掛軸に表装して其を拝みまをし、彼の凶荒の艱難なるありさまを、ともともに打語らひつゝ、其御徳に報い奉らんとて、御陰講といふ社を結びて神とも神と崇まへまつりしより、六十年あまりを一日の如く今に仕奉り来しは、厚くまめまめしき心になむありける
ですから、明治31年から溯って60年というと天保9年頃になります。其のころからずっとこうした気持ちで烈公を崇めて来た、ということが述べられている訳であります。
 こうして烈公が生きておられる間に、すでに烈公の書を掛軸として、それを拝することによって烈公を神として崇めたということです。これが常磐村の人達によって行われた生祀信仰でありますこれは生祀の一つの事例であると照沼先生は紹介されているのであります。其の通りだと思います。こうした飢饉を通じて、人々の感謝の念というものが神の信仰へとつながって行ったところに、「みかげ講」「みかげあふぎ」というものの意味があるのだと考えるのであります。
 最後に「仰景碑」の碑文を読んでまとめに致します。これは高さが4尺5寸・幅3尺の碑です。お帰りに時間がございましたらご覧になっていただきたいと思います。
     我旧水戸藩主烈公の國に臨みて政を施らしたまふに当たりては、
     (第1回の帰国が天保4年の3月5日から5年の4月まで初めて水戸藩主として帰国)
     学校を設けて忠孝節義を教へ經界を正して貧民を救ひ給へりければ、
     (烈公は4つの目標を立てられたました。經界の儀(検地)、土着の儀(武士たちを領内各所に土着させた)学校の儀(弘道館)、総交替の儀(江戸詰と国元の藩士の入替))
     其近く仕ふる人々は申すも更なり、賎しき民どもに至るまで其の御徳を被ら
    ぬは在らざりけるを、公の不慮なき(ママ)禍に罫りて、駒籠のやかたに幽閉(とじこめ)られおわしける時、(弘化元年(1844)弘化甲辰の変です。烈公が幕府から7ケ条の嫌疑をかけられて申し開きをするわけですが、認められずに隠居謹慎を命ぜられる。)
     國中の士民目も心もくれふたがりて、かかる明君のいかでかくはなりぬる、此は讒説(ざんせつ)なりおよつれ(妖言)なりとて、或は幕府の閣老に訴へ、或は侯伯にゆかり求めて寃(えん)を雪(そそ)がむとしける人々さわなるが、中には罪かかふりて家にこもらえ、又人屋に囚はるるものありしかど、唯ひたぶるに君の御為と思ひて生死を顧みもせざりしは、我公の御徳の厚き故にあらざらむやは、まして天保丙申・丁酉の年(天保丙申は天保7年(1836)丁酉は8年)頃、天下飢饉に迫り、國々の大名小名の部下に住む民ども、食を求むるにたつきなく妻子を棄て楽國に往かむと思ひ、又は父子夫婦相携て他郷に流離(ながれ)つつ飯(いい)にゑてこやせる旅人も多かりけるに、此領内には、昔威公の御時稗倉を設けて凶荒に備へしを始にて、義公その業をうけ継ぎ、倉廩(そうりん)を加増し、此公に至りますます其謀をなし給ひければ、一人も食に乏しく、また死失る者も無りしは、公の御徳の世にすぐれておはし坐が故にこそは在べけれ、その年頃に公の國民に諭し給へる御文のありけるを、殊に仰ぎ尊み敬ひおろがみ奉りし民なむ常磐村に十二戸ありけるが、各もおのも心を協せ力を共にし、長く其の御恩徳を忘るまじき由を誓ひ、御ふみを掛軸に表装して其を拝みまをし、彼の凶荒の艱難なるありさまをともともに打語らひつつ、其御徳に報い奉らんとて、御陰講といふ社を結びて神とも神と崇まへまつりしより、六十年あまりを一日の如く今に仕奉り来しは厚くままめしき心になむありける、かくて我天皇命(明治天皇のこと)の大御世の始つかたに当たりて殊に烈公の忠誠を深くめで思し給ひて、先君義公と共に常磐の神と崇められしを、此十二戸の民共いたく嬉しみ歓びて、此講の月毎に少かづつ備へ置る物もて、神社の背後に杉苗三千株を殖て獻りけるが、今は其杉の木、青山なす繁り榮えて、御社もいと神さびて神々しくおはすなるは、やがて此民ども烈公の忠義を勵まし給へる御徳を慕ひ奉れるによれる者なりけり、古語に泰山仰兮景行々兮と云るは、やがて御かげをあふぐ意にもかなへればとて、明治三十一年八月二十九日という日に、この仰景の碑文をかき記して後世に告る者は、文科大学教授正五位栗田の寛になむ。
 こういう文章が「仰景碑」として記されているわけであります。
 天保7・8年の飢饉というものが水戸の農民にとっては、大きな問題であったと同時に、また一人の餓死者をも出さなかったということは数字的には確かめ得ませんが、とにかく水戸藩においてはその飢饉を乗り越える事が出来たということが、やがて12戸の人達による「みかげ講」という講社となり、更にこれが広がって行き、講社の人達ばかりでなく、多くの水戸の人々の心に、深く刻み込まれていったのでありました。
 烈公と水戸の農民との深い結び付きについて『みかけあふき』という文章が残されていました事は大変ありがたいことだと思います。三輪信善という人についてはあまり詳しい事は分かりませんが、吉田令世に国学を学んで神道というものをしっかりと勉強された水戸の学者の一人であったと思うのであります。
 本日は、「みかげあふぎと三輪信善」と題し、御祭神であります烈公の御神徳の一端と関連づけましてお話しをさせて頂きました。どうも失礼致しました。