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弘道館と弘道館記

  • 弘道館  国指定特別史跡・国指定文化財
    所在地=水戸市三の丸一丁目

  • 水戸駅から徒歩7分


  • 弘道館は水戸九代藩主斉昭公が、藤田東湖や会沢正志斎などの学者の意見を聞いて、多くの困難な障害をのりこえて、天保12年(1841)に創立した藩校で、藩政改革(いわゆる天保改革)の眼目として、ロシア、イギリス、アメリカなどの外国勢力が我が国に迫りつつある時、長くつづいた社会や政治の腐敗堕落を改革して、国家の独立と発展を全うするためには、まず優れた人材を養成しなければならないと、従来の、幕府や諸藩の学校とは違った構想で造られたのである。


  • 藤田東湖の草案に基づき、斉昭公の名で発表された『弘道館記』やこれを、斉昭公の命によって藤田東湖が解説した『弘道館記述義』は名文であるとともに、弘道館設立の趣旨を余すところなく記している。


  • 弘道館の敷地は54,070坪(約178,400平方メートル)と大規模で、
       金沢の明倫堂(17,000坪)、
       萩の明倫館(14,000坪)、
       幕府の昌平黌(11,000坪)

    と比較しても構想の雄大さを窺うことができる。


  • 施設としては、
    正庁・至善堂・文館・武館(撃剣館・槍術館・柔術館)軍機局・天文・算数・地図等の館・医学館・その他の建造物、
    また広い調練場・馬場のある、今日の総合大学的規模であった。

  • 明治以降の弘道館
      *明治元年(1868)天狗諸生の内戦で、文館・武館・医学館等焼失。
      *明治5年(1872)12月8日弘道館閉鎖。
      *明治8年(1875)太政官布告により公園となり、建物は同15年(1882)まで県庁、その後一時小学校や女学校などの仮校舎として使用された。
      *大正11年(1922)3月8日史跡指定を受く。
      *昭和20年(1945)8月戦災で鹿島神社、孔子廟、八卦堂など焼失。
      *昭和27年(1952)3月29日国指定特別史跡に指定。
      *昭和38年(1963)大修理及び一部復元完了。
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    現存及び復元の諸施設

    正庁(学校御殿)
      藩主が臨席し、文武の大試験、その他の儀式などに用いられた第一の場所である。
      ・正席(一の間)は24畳、床の間、棚、書院付
      ・二の間は15畳、
      ・三の間は12畳、
      ・玄関の間は24畳、床の間付
      ・溜(たまり)の間は12畳と6畳
      各部屋の周囲には広い畳廊下がある。
      戦災を免れ、重要文化財に指定されている。



    至善堂(しぜんどう)
       正庁から広い畳廊下を通って奥に入ると、藩主の休息所であり、諸公子の勉学所であった至善堂がある。ここは奥の御座の間をはじめ4室からなっている。斉昭公には諸公子が沢山あったが、五郎麿(のち鳥取の池田慶徳)、七郎麿(のち一橋家を継ぎ、15代将軍となった徳川慶喜)、八郎麿(のち川越の松平直侯)九郎麿(のち岡山の池田茂政)、十郎麿(のち石見浜田の松平文武聴)などは、みな水戸城から大手橋を渡って弘道館へ通い、勉学した。
       至善堂の名は、斉昭公がシナの経書『大学』からとって命名したものであるが、特に明治元年に最後の将軍徳川慶喜公が謹慎された部屋としても有名である。



    弘道館正門
       水戸城跡大手橋に向かい、正庁の正面にある門で、棧瓦葺きの四脚門、左右に瓦葺きの漆喰塗り土塀が続いている。重要文化財である。





    孔子廟とその正門


       安政4年(1857)建立、大成殿を模したもので、平屋建、瓦葺き入母屋造、孔子をまつった廟である。戦災で正門と左右の土塀を残して焼失したが昭和54年11月旧態に模して再建された。



    鐘楼と学生警鐘
       孔子廟の西側に向かい合って建てられているのが鐘楼で、中には学生警鐘一基が釣り下げられている。鐘の外側正面には、しめ繩と八咫鏡(やたのかがみ)および勾玉(まがたま)を榊(さかき)にかかげて紙垂(しで)をつけた浮彫りが施され、背面には斉昭公の自筆で、
        物学ぶ人の為にとさやかにも
        暁(あかつき)告(つぐ)る鐘のこえかな
                (万葉仮名)
      という歌が浮彫りされている。
       また鐘の内面には、鋳造の由来が浮彫りされ、烈公の自署と花押(かおう)がある。



    八卦堂と弘道館記の碑
       『弘道とは何ぞ。人能(よ)く道を弘むるなり』ではじまる弘道館建学の由来を記した、巨大な石碑が『弘道館記』の碑であり、それをおさめている八角の堂舎が八卦堂である。
       館記は、天保8年7月斉昭公の趣旨を体して藤田東湖が草案を書き、藩の学者会沢正志斎、青山雲龍、幕府儒官の佐藤一斎等が意見を加えて修正し、天保9年3月、斉昭公の名で発表された。

            弘 道 館 記
       弘道(こうどう)とは何ぞ。人、よく道を弘(ひろ)むるなり。天地の大経(たいけい)にして、生民(せいみん)の須臾(しゅゆ)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のためにして設けたるや。恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古、神聖、極(きょく)を立て統(とう)を垂(た)れたまひて、天地位(くらい)し、万物育(いく)す。その六合(りくごう)に照臨し、宇内(うだい)を統御したまひし所以(ゆえん)のもの、未だ嘗(かつ)て斯道(このみち)に由(よ)らずんばあらざるなり。宝祚(ほうそ)、これを以て無窮、国体、これを以て尊厳、蒼生、これを以て安寧、蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)これを以て率服(そつふく)す。しかも聖子神孫、なほ肯(あ)へて自(みず)から足れりとせず、人に取りて以て善をなすことを楽しみたまふ。すなはち西土唐虞(せいどとうぐ)三代の治教(ちきょう)のごときは、資(と)りて以て皇猷(こうゆう)を賛(たす)けたまへり。ここに於て、斯道(このみち)いよいよ大に、いよいよ明らかにして、また尚(くわ)ふるなし。中世以降、異端邪説、民を誣(し)ひ世を惑(まどわ)し、俗儒曲学、此を舎(す)てて彼(かれ)に従ひ、皇化陵夷し、禍乱相踵(あいつ)ぎ、大道(だいどう)の世に明らかならざるや、蓋(けだ)しまた久し。
       我(わ)が東照宮、撥乱反正、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。吾が祖威公(いこう)、実に封(ほう)を東土に受け、夙(つと)に日本武尊(やまとたけるのみこと)の為人(ひととなり)を慕ひ、神道を尊び、武備を繕(おさ)む。義公(ぎこう)、継述(けいじゅつ)し、嘗(かつ)て感を夷斉(いせい)に発し、さらに儒教を崇(とうと)び、倫(りん)を明らかにし、名を正し、以て国家に藩屏(はんぺい)たり。爾来(じらい)百数十年、世(よよ)、遺緒(いしょ)を承(う)け、恩沢に沐浴(もくよく)し、以て今日(こんにち)に至れり。すなはち苟(いや)しくも臣子(しんし)たる者は、豈(あ)に斯道を推(お)し弘(ひろ)め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。これすなはち館の、為(ため)に設けられし所以なり。そもそも、夫(か)の建御雷神(たけみかずちのかみ)を祀(まつ)るものは何ぞ。その、天功(てんこう)を草昧(そうまい)に亮(たす)け、威霊をこの土(ど)に留めたまへるを以て、その始めを原(たず)ね、その本(もと)に報(むく)い、民をして斯道のよりて来るところを知らしめんと欲するなり。その孔子廟を営むものは何ぞ。唐虞三代の道、ここに折衷するを以て、その徳を欽(きん)し、その教を資(と)り、人をして斯道のますます大にして且つ明らかなる所以の、偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。
       嗚呼(ああ)、我が国中(こくちゅう)の士民、夙夜(しゅくや)解(おこた)らず、斯(こ)の館に出入し、神州(しんしゅう)の道を奉じ、西土の教を資(と)り、忠孝二なく、文武岐(わか)れず、学問・事業、その効(こう)を殊(こと)にせず、神を敬(うやま)ひ儒を崇び、偏党(へんとう)あるなく、衆思(しゅうし)を集め群力を宣(の)べ、以て国家無窮の恩に報いなば、すなはち豈(あ)にただに祖宗の志、墜(お)ちざるのみならんや、神皇(しんこう)在天の霊も、またまさに降鑒(こうかん)したまはんとす。
       斯の館を設けて、以てその治教(ちきょう)を統(す)ぶる者は誰(たれ)ぞ。権中納言従三位源朝臣斉昭なり。

        天保九年歳次戊戌春三月、斉昭、撰文、并びに書、及び篆額

      ((((館記の言わんとするところを要約すると))))

      1、道を弘めるものは人である。故に人は人としての道を学び、これを弘める使命を持たなければならない。
      2、日本の道は神皇の道である。ご歴代の天皇も国民も、この道を一貫して守って来た。わが国の歴史に栄枯盛衰はあっても断絶が無いのは、非常逆境の時に非常の人物が出て、この道を死守して来たからである。だから、国民はこの恩に感謝し、この恩に報いなければならない。
      3、この恩に報いるためには、日本の道を実践するとともに、外国の良い教えを取り、忠孝二無く、文武岐(わか)れず、学問事業其の効を殊(こと)にせず、神を敬い儒を崇び一方に偏することなく、衆思を集め、群力を宣(の)べなければならない。それには日夜怠らず努力することが必要である。というような内容である。

       高さ約318センチメートル、幅約191センチメートル、厚さ約55センチメートルの巨大な寒水石(かんすいせき・県内久慈郡真弓山から切り出された大理石)に斉昭公の書及び篆額(てんがく)をもって刻まれた。これに大きな同質の台石がついている。
       この碑を覆う堂舎としての八角堂は、それぞれの面の軒には、万物変化の相を示した易の八卦を配し、その中に万古不動の日本の道を説いた弘道館記の碑を建てたことは、斉昭公の絶妙の配慮であると思われる。
       八卦堂は昭和20年の戦災で焼失し、碑もかなり損傷したが、昭和28年に堂は復元された。



    要石の歌碑
       孔子廟と鹿島神社との間、大きな楠の木の下に建てられている。地上露出部分は高さ202センチメートル、幅は広いところで約190センチメートル、厚さ約34センチメートルの伊豆石(小田原の大久保加賀守忠真から贈られたものという)の巨大な自然石の歌碑で
        行末もふみなたがへそ蜻島(あきつしま)
        大和(やまと)の道ぞ要(かなめ)なりける
      という斉昭公の歌が刻まれている。
      弘道館記の精神をこの一句に凝集した歌である。



    種梅記の碑
       水戸は梅の都として名高いが、このように水戸に梅樹が沢山植えられるようになったのは、天保年間以来のことである。
       鹿島神社の社殿のわきに「種梅記」の碑が建っている。斉昭公の撰文及び書になるもので、文中に
        「夫(そ)れ梅の物たる、華(はな)は則ち雪を冒(おか)して春に先んじて風騒(ふうそう)の友となり、実(み)は則ち酸を含んで渇を止め、軍旅の用となす、嗚呼備(そなえ)あるものは患(うれい)なし」
      とあり、偕楽園及びその近郊、弘道館、士民の家などにも梅樹を植えさせた由来が記されている。高さ約189センチメートル、幅約98センチメートル、厚さ27センチメートルの斑石である。碑屋は建てられているが碑石はかなり損傷している。



    鹿島神社
       祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
       斉昭公は弘道館を開設するにあたって、その敷地内に、精神のより所としての鹿島神社と孔子廟をまつり、学校の聖域とした。鹿島神社の遷座祭は諸手続きの関係で遅れ、天保12年には仮開館式だけがあげられ、17年後の安政4年5月9日の遷座祭の日に、弘道館も本開館式が挙行された。
       御祭神は国土平定の祖業に貢献された神で、常陸一の宮である鹿島神宮から分霊を勧請して祭ったのである。
       明治15年県社に列したが戦災で消失し、仮殿のままで復元されていない。