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最後の将軍 徳川慶喜公

徳川最後の将軍

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公



明治34年の頃、私、渋沢栄一(しぶさわえいいち)が大磯から帰る汽車の中で、
伊藤博文(いとうひろふみ)公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました。

「渋沢さんはいつも徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公を誉めたたえておられますが、
私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、
今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」

と話されました。
伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、
いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、なぜですか?とたずねました所、
「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、
慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、
私は慶喜公に「維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?」
とたずねたところ、

慶喜公は迷惑そうに
「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。
ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。

私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、
我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、
幕府をお助けすることは勿論でありますが、

これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、
そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。

これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、
絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。

もしもの時のためにお前に言っておく。

と教えられてきました。

しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、
二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、

父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。

この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、

お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。

と言われました。

この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます」


と慶喜公は答えられました。

本当に奥ゆかしい答えではありませんか。

慶喜公は本当に偉大な方です。

と伊藤公が言われました。

私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、そのような事があったなあ

とおっしゃいました。
(渋沢栄一著、徳川慶喜公伝・第4巻から。現代文に訳)

[参考資料]
『烈公の改革と幕末の水戸藩』 平成6年度水戸学講座講録 常磐神社発行

『義公・烈公・みかけあふき』 常磐神社発行