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慶 喜 公 年 譜

西暦 年齢 月 日 ・ 記  事
天保 8年 1837 1歳 9月29日、江戸小石川水戸藩邸に生る、七郎麿と称す。
イギリス、ビクトリア女王(18歳)王位に就く。(~1901)
天保 9年 1838 2歳 4月28日、水戸に移る。
天保11年 1840 4歳 1月13日、斉昭公一年間の水戸在国の許しを得。これより子弟の訓育を心掛ける。
(この年、阿片戦争)
天保12年 1841 5歳 8月 1日、弘道館開館、前将軍家斉没、斉昭公在国延年の許しを得。
天保13年 1842 6歳 7月 1日、偕楽園完成、開園。
天保14年 1843 7歳 3月15日、烈公水戸を発し日光廟予参。
4月4日江戸へ発し、5月17日水戸へ戻る。
弘化元年 1844 8歳 3月22日、斉昭公、千波原に追鳥狩を行う、七郎麿これに従う。
5月 5日、斉昭公、命により出府。
5月 6日、斉昭公、江戸駒込邸に隠居謹慎を命ぜらる。
弘化 3年 1846 10歳 1月26日、仁孝天皇崩御、2月13日、孝明天皇践祚。
弘化 4年 1847 11歳 8月 1日、七郎麿、一橋家相続の含みを以て出府命ぜらる。
9月 1日、一橋家を相続、徳川七郎麿と称す。
12月 1日、登城元服、従三位左近衛中将に任、刑部卿と称し名を慶喜と改める。
嘉永 4年 1851 15歳 2月28日、袖留の儀。
3月16日、斉昭公、初めて一橋邸へ。
嘉永 6年 1853 17歳 6月 3日、ペリー浦賀に来る。
7月18日、露使、プチャーチン長崎に来る、それぞれ国書を呈し交易を求む。
7月 3日、斉昭公、幕議参与を命ぜられる。
安政元年 1854 18歳 1月16日、ペリー再び浦賀に来る。
3月 3日、幕府神奈川にてペリーと和親条約を結ぶ。
9月18日、プチャーチン大阪に来る、京畿騒然となる。
12月21日、日露通好条約締結。
安政 2年 1855 19歳 4月 5日、慶喜公、鎌倉へ遠馬を試みる
10月 2日、江戸大地震、藤田東湖圧死。
12月 3日、一条忠香の養女美賀子と結婚。
12月15日、慶喜公、参議に任ぜらる。
安政 3年 1856 20歳 3月15日、勘定奉行川路聖謨より諸件の進言書届く。以後親交。
7月28日、書を文明婦人に呈して烈公の幕議参与の辞退を勧める。
(この年アロー戦争)
安政 4年 1857 21歳 3月11日、島津斉彬、一橋邸に来り謁す。
 27日また至る。斉彬、松平慶永に書を贈り早く西城(将軍)に仰ぎたいという。
(この年セポイの反乱・イギリスが印度を完全に獲得)
5月5日、小石川水戸藩邸にて茶会、主客慶喜公、相客文明夫人と松姫、亭主斉昭公。 (水戸学講座講録・『烈公と慶喜公』参照)
慶喜公、書を文明夫人に呈し斉昭公の幕議参与の辞退を再び促す。
7月23日、斉昭公、参与辞退を許される。
10月16日、松平慶永・蜂須賀斉裕連署して公を継嗣にと幕府に建議。
 25日、島津斉彬もこれを建議す。
安政 5年 1858 22歳 4月、井伊直弼大老となる。
6月19日、幕府勅許を待たずアメリカと条約調印。
 23日、營中にて井伊直弼がアメリカ条約調印を宿継奉書にて上奏せしことを詰責す。
7月 5日、慶喜公、登城を停めらる。
 同日、斉昭公江戸駒込邸に謹慎を命ぜられ、水戸慶篤も登城差止、尾張慶勝・松平慶永も隠居謹慎を命ぜられる。
7月 6日、家定薨。
8月 8日、朝廷密勅を水戸藩へ下し幕府を扶翼せしめる。(安政戊午の密勅)
9月 7日、幕府、梅田雲浜を京都に捕らう、安政の大獄のはじまり。
10月25日、家茂将軍宣下。
安政 6年 1859 23歳 6月 2日、幕府、横浜・長崎・函館の三港を開く。
(この年フランス、サイゴン占領)
8月27日、慶喜公、隠居謹慎を命ぜらる。
 同日、斉昭公、水戸に永蟄居を命ぜらる。
万延元年 1860 24歳 1月19日、咸臨丸アメリカに向けて浦賀出港。(5月5日浦賀帰港)
(この年、英仏連合軍北京占領)
3月 3日、水戸浪士など井伊直弼を桜田門外に斬る。
4月12日、幕府、和宮の降嫁を奏請。
8月15日、斉昭公薨ず。
9月 4日、慶喜公、謹慎を免ぜられる、なお面会・文通を禁ぜらる。
 同日、尾張慶勝・松平慶永も公に同じ。
12月 5日、米国公使館書記官ヒュースケン斬られる。
文久元年 1861 25歳 2月 3日、露艦対馬に来る。
5月28日、水戸浪士東禅寺の英国公使館に乱入。
文久 2年 1862 26歳 1月15日、水戸浪士など坂下門外に安藤信正を斬る。
4月16日、島津久上京し幕政改革意見書を朝廷に上る。
 23日、寺田屋事件。
 25日、慶喜公、面会・文通を許され。(5月7日始めて登城)
7月 6日、一橋家再相続を命ぜられ将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に補せられる。
7月22日、幕府諸大名参勤交代の制を改め妻子の帰国を許す。
8月21日、生麦事件。
9月30日、慶喜公、營中にて開国説を主張し松平慶永の破約攘夷説を斥ける。
11月 1日、中納言に任。
11月27日、三条実美ら江戸城で攘夷決行の勅定を伝宣し、慶喜将軍とともに拝す。
12月15日、慶喜公、江戸を発し陸路上京する。
文久 3年 1863 27歳 1月 5日、慶喜公、入京、東本願寺に館す。
 10日初めて参内。
 11日、三条実美等8人勅を奉じて公の旅館に望み攘夷期限の決定を迫る。
2月13日、将軍江戸を発し。
3月 8日、将軍入洛。
 19日、慶喜公、将軍に従い参内し、始めて真の叡慮を拝し、近日の勅諚に疑うべきものあるを知る。
4月20日、攘夷の期限を定めて5月10日となす。
 22日、慶喜公、攘夷の勅諚を奉じ京都発5月8日江戸に帰る。
6月13日、将軍大阪を発し16日海路江戸に帰る。
8月18日、朝議一変し三条実美等参内を停められ長州に走る。
10月26日、慶喜公、江戸を発し海路上京す。
11月12日兵庫に着し、26日入京、東本願寺に館す。
12月21日、慶喜公、若州屋敷に移る。
 22日、慶喜公、松平慶永の問いに答えて政事の方針は中興にあらずして創業にあるべき旨をいう。
 27日、将軍江戸を発し、 1月15日入洛す。
 晦日、慶喜公、朝廷より参豫を命ぜられる。
元治元年 1864 28歳 1月21日、将軍参内、公武一和、攘夷の功を奏すべき旨の勅諭を賜う、公これに扈従す。
 中旬、慶喜公、二条城にて、開国の方針に一変せんことを主張す、老中等聴かず。
3月 9日、慶喜公、参豫を辞す。
3月25日、慶喜公、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を命ぜられ、後見職を免ぜられる。
3月27日、藤田小四郎等筑波山挙兵。(天狗党の乱)
4月、水戸藩より原市之進・梅沢孫太郎を雇用する。
5月 9日、慶喜公、下阪、摂海を巡視し20日帰京。
 16日、将軍大阪を発し20日江戸に帰る。
6月 7日、五條橋に落書して、慶喜公を大奸賊と罵り、翌日また落書して天誅を加えんという者あり。
 29日、この頃長州兵京都に集まるにより、勅して慶喜公に鎮撫を命ぜらる。
7月19日、長州兵御所を犯す(禁門の変)、慶喜公兵を指揮してこれを撃ち24日に至る。
 24日、幕府に勅して長藩を追討せしむ(第1次)。
8月 5日、英仏米蘭の連合艦隊下関を砲撃す。
12月 3日、慶喜公、武田耕雲斎等追討のため京都を発し近江路に出陣し16日海津に至る。
 17日、武田耕雲斎など降伏す。
 23日、海津を発し26日京都に帰る。(天狗党の乱)
 27日、征長総督、追討諸軍に撤兵を令す。
慶応元年 1865 29歳 1月19日、武田耕雲齊らを田沼意尊に引き渡す。
2月、武田耕雲齊ら処罰される。
5月16日、将軍長藩再征のため江戸を発す。
閏5月22日将軍入洛、参内して再征の事由を奏す、慶喜公これに扈従す。
(この年南北戦争終る)
慶応 2年 1866 30歳 1月21日、坂本龍馬・小松帯刀・西郷隆盛・木戸孝允・京都に会合し、薩長連合して王政を復活せんことを密約す。(薩長同盟)
1月22日、慶喜公参内、長州藩処分案を奏し、勅允を蒙る。
6月 7日、慶喜公参内、長州藩裁許に服せざるを以て征討する旨を奏し、征長軍戦端を開く(第2次)。
7月20日、家茂薨ず。
7月28日、将軍の名をもって慶喜公に宗家を相続せしめ名代として長州に出陣せしめんことを奏す。
8月 7日、勅許せらる。
8月16日、慶喜公、書を上りて長州征討の兵を解き諸大名を招集して爾後の方策を議せんことを奏請(21日休戦の勅命下る)。
8月20日、将軍に就任。
9月 2日、慶喜公、施政の大方針を八条を記して老中に授く。
11月28日、慶喜公、弟清水昭武に仏国渡航を命ず。(1月11日横浜出港=パリ博)
12月 5日、慶喜公、正二位・大納言・征夷大将軍・右近衛大将に任ぜられる。(将軍宣下)
慶応 3年 1867 31歳 1月 9日、明治天皇践祚。
1月23日、慶喜公、勅許を得て征長軍解兵を令す。
2月 5日、慶喜公、大阪にて仏公使ロッシュを引見、幕政改革の意見聴取。
3月 5日、慶喜公、兵庫開港勅許を奏請、許されず、22日再び奏請、尚許されず。
 25日、慶喜公、大阪にて英国公使パークス、次いで仏・米・蘭各公使を引見、各々条約の如く兵庫を開港すべき旨を声明す。
5月23日、慶喜公参内、兵庫開港・長藩処分寛大の勅許を奏請、朝議夜を徹し24日に至り許さる。
7月24日、慶喜公、大阪に至り、
 25日・26日、ロッシュを引見し、仏艦を訪問。
 27日、パークスを引見。
8月14日、原市之進京都で斬らる。
 28日、ロッシュ政治改革意見書を慶喜公に呈す。
9月19日、山口にて木戸孝允など大久保利通と攻守同盟を約す。
 21日、慶喜公、内大臣に任ぜらる、右近衛大将故の如し、この日、二条城に移る。
10月 3日、山内豊信政権奉還の建議書を慶喜公に呈す。
 13日、慶喜公、在京諸藩重臣を二条城に召し、老中をして政権 奉還の決定を告げて意見を徴し、了りて小松帯刀・後藤象二郎など6人を引見。
 14日、上表して政権を奉還せんことを請う。
 15日、許される。
  (14日、討幕の密勅薩長両藩に下る)
 24日、慶喜公、将軍職の辞表を提出す。
11月14日、坂本龍馬・中岡慎太郎京都に斬らる。
12月 7日、王政復古の発令。兵庫開港・大阪開市。
 9日、小御所会議(徳川氏の処分について)。
12月12日、慶喜公、二条城を出て下阪す。
明治元年 1868 32歳 1月 3日、大阪の幕軍北上し伏見・鳥羽に至る、薩長の兵に迎撃されて敗走。(鳥羽伏見の戦)
 6日、慶喜公、大阪城を出て12日海路江戸に帰る。
 7日、慶喜追討の勅命下る。
 10日、慶喜公、官位を停めらる。
 (この月、ロッシュ江戸に来りて再挙を勧む、慶喜公拒絶する)
2月 3日、天皇親征を令す。
 9日、熾仁親王を東征大総督となす。
 12日、慶喜公、江戸城を出て上野大慈院に謹慎す。
4月10日、慶喜公、勝海舟の労を賞し刀を与う。
 11日、江戸開城、この日、慶喜公大慈院を出て15日水戸・弘道館至善堂に謹慎。
閏4月29日、慶喜公、勅諚により徳川宗家の家督を田安亀之助(家達)に譲る。
5月15日、上野の彰義隊潰走。
7月19日、慶喜公、弘道館を発して23日駿府に着し宝台院に謹慎す。
 (この日、江戸を東京と改称)
8月27日、天皇御即位。
9月 8日、明治と改元。
11月 3日、清水昭武帰朝。
 (18日昭武、水戸慶篤の養子となる)
明治 2年 1869 33歳 5月18日、榎本武揚など降伏、函館平定す。
6月17日、朝廷、諸藩版籍奉還の請を許し、藩主をもって知藩事となす。
 同日、公卿・大名の称を廃し、改めて華族と称す。
9月14日、慶喜公、謹慎を免ぜらる。
10月15日、慶喜公、静岡紺屋町元代官屋敷に移る。(夫人、東京を発し11月3日静岡に着す)
12月20日、光圀公・斉昭公に従一位を贈らる。
明治 8年 1875 39歳 4月 4日、天皇、東京小梅の水戸家下屋敷(今の墨田公園)に行幸、次の御製を賜る。
『花くはし桜もあれど此やどの世々のこころを我は問ひけり』
明治13年 1880 44歳 5月18日、慶喜公、正二位に叙せられ、旧位に復す。
明治22年 1889 53歳 5月17日、慶喜公、水戸に至り瑞龍山に詣で、さらに藤田東湖の墓に詣でる。
5月20日静岡着。
明治26年 1893 57歳 1月27日、母文明婦人逝去。
明治27年 1894 58歳 5月、美賀子婦人病気療養のため、東京千駄ヶ谷邸に移る。
7月9日、同所にて死去。
明治30年 1897 61歳 11月19日、東京に移り、巣鴨邸に入る。
明治31年 1898 62歳 3月2日、初めて参内、天皇皇后に拝謁。
5月20日、初めて東宮御所に祗候拝謁。
明治33年 1900 64歳 6月22日、麝香間祗候となる。
10月19日、参内
明治34年 1901 65歳 12月24日、小日向第六天町邸に移る。
明治35年 1902 66歳 6月 2日、内勅により分家する。
6月 3日、慶喜公、華族に列し公爵を賜う。
明治41年 1908 72歳 4月30日、慶喜公、勲一等に叙し旭日大綬章を賜う。
大正 2年 1913 77歳 11月22日、慶喜公、旭日桐花大綬章を賜う、この日薨ず。
11月30日、谷中墓地に葬らる。
(主として、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』年譜に拠る)