part9
大河ドラマ、 ア・ ラ・ カ ル ト
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西郷隆盛が藤田東湖と接触した喜びがどのようなものであったか、ということが次の資料で分かります。
安政元年(1854)の七月二十九日に、藤田東湖からいただいた書を郷里の鹿児島の伯父に送ますが、その手紙におよそ次のように書いています。
- 「藤田東湖の家を訪問すると清水を浴びたような気になって、心中一点の曇りなく爽やかに平常な心になって、帰る道を忘れるような気持ちになった。水戸の藤田東湖たちの学問は始終、武士となる覚悟を教えてくれる学問で、学者風の一般の学問とは大いに違っている。自画自賛するのではないが、藤田東湖も私の事は低くは思わないようであって、頼もしくとも、有り難いとも申してくれる。身に余り国家のため甚だうれしいことである。であるから、藤田東湖の主君である烈公がもし異国船の来航に対して鞭を挙げて先駆けするときには、自分は埋め草にでもなる覚悟である。」
また安政三年(1856)五月四日、鹿児島にいる大山正円に当てた手紙で、
- 「一橋候を西上へ引上られ候賦に相決し(相決しとは、水戸の武田耕雲斎・桑原信毅・原田兵介・安島帯刀等と密談をして決定しています。そうしますと越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らの画策と同時に、それを知らなかった水戸の志士たちも、このような動きをしたことが知られます)福山候(老中阿部正弘)能々御呑み込みに相成り、君公(薩摩藩主島津斉彬)ヘー向御願い申す訳に御座候。此の一条を初めて言上仕り候時は、実に難題に相成り居り、思召しは決して別に御座なく候。弥御許容在らせられ間敷に就いては只安然として罷り在りがたく、両田(藤田と戸田)の恩義を親しく受け居り候もケ様なる時節に寸分なりとも報いたく、山々相含み若しや再三諌争申し上げ奉り、弥別に御決定に候ては、水へ面の向け様も相叶わず、頓と共れ迄の儀と思い明らめ居り候事故余り考え過に候に付き、暫時は胸に迫り声を振り申し候。御笑察下さるべく候。然る処、思いの外思召し込み宣敷、深く御汲み取り遊ばされ、有難き次第飛揚候。天下の為め我が御国家御難事もいたし安く、且つ水府を御救い下され候儀、此より良策は御座有(間敷)候。幕府も一改革出来申すべく、神州扶持仕るべき道、更にこれなき儀に御座候。
安政三年(1856)九月二十九日上州安中領主板倉勝明、書を阿部正弘に呈し慶喜公を将軍養君とするよう建言、勝明はこの写しを越前の松平慶永に送ります。さらには十月六日には松平慶永が密書を尾張慶勝、蜂須賀斉裕に送り、慶喜公の将軍継嗣問題に協力してくれるように依頼するのであります。尾張の慶勝は一面識のみでよくわからないからと拒否致しますが、斉裕は賛意を示します。十二月十八日を見ますと、島津斉彬が近衛忠煕の養女篤姫(島津斉彬の女)を将軍家定の夫人とし、大奥から慶喜公擁立の支援を計画致します。安政四年四月二日、島津斉彬は松平慶永に「実に早く西城と仰ぎ奉り候御人物、しかし御慢心之処を折角御慎み御座候様仰せ上げられ候て然るべし」との書簡を送っています。さらに八月十四日にはペリーのあと参りましたハリスが江戸に入って将軍に謁見することが決定します。ますます家定の後の将軍をはっきりとさせなければならない情勢が迫ってきます。残念なことに六月十七日、このさなかに阿部正弘が亡くなります。
この頃、川路左衛門尉(聖謨)や藤田東潮は慶喜公の事をどのように見ていたか、
- 藤田東湖嘗て、「一橋公は日角(額の骨が高く出ている人相、帝王の相という。東湖もあったと言われている)ありて、固より非凡の人なり、且、老公(烈公)よりは一等上の方なれば、此先き又と出で難き御人なり、後には天下を治むる人とならん、されば事を急ぐは宣しからず、方今天下に人なければ、自然に任せ置くとも公に帰する外はあるまじきなり」といひしとぞ(大内毅遺書)。是れ公が十七八ばかりの事なるに、東湖は既に其不世出の資を具へ給へるを看破せり。勘定奉行川路左衛門尉も亦東湖に語りていひけるやう、「一橋公の英明にましまして、才気迸り給ふことは驚くばかりなり。先程御家中の噂を承るに、用人某といへる者木綿の服にて御前に出たるを、それは何と申すものにやと御尋ありしかば、綿服なる旨申上げしを聞召して、綿服にて出仕する程ならば、もはや娘が躍りの稽古は止めし事ならんと仰せらる、何某いたく赤面して退きしとかや。さりながら、斯くばかり御気象をあらはし給はんは如何あるべき、何処までも英気は内に秘め置かれて、唯々の有り難き御方なりと下々にて評判し奉るやうに仕りたきものなり」とて、家老・用人の人選に注意すべき事などをも物語れりといふ。是れも公十八歳の御時なり。
(東湖全集所収東湖書簡)

