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part6

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  • 『北島志』
 斉昭公は早くから「水戸藩は北国の押え」という意識がありました。嘉永6年6月にはペリーが浦賀に、7月にはプチャーチンが長崎に相次いで来航致します。特にプチャーチンは通商と共に北地の国境の確定を要求して参りました。この長崎でのプチャーチンとの交渉は幕府海防掛の川路聖謨などが当たりますが、水戸藩からは日下部伊三次と後に慶喜公の腹心となる原市之進が川路に随行致します。この12月に斉昭公は豊田天功に『北島志』の編集を命じます。
 翌安政元年12月下田で日露和親条約が調印されますが、その直前の9月に千島・樺太の状況を記した『北島志』が豊田天功によって完成します。川路は下田に行く前にこれを読みました。そして択捉島が日本の所属であるのはもちろん、樺太島もアニワより黒竜江付近まで日本領であると証拠を挙げて応酬します。頑として主張します。
 川路聖謨の『下田日記』によると、だんだん交渉が難航して来る中にあって「断然として今一度と言いて、申し争いて言いたるに、彼思いの外に屈して十数カ条の条約悉くに決したり」ということで、12月21日調印されたのである。必ずしも斉昭公や天功の主張する樺太、千島全島、カムチャッカも日本領だという交渉にはならなかったが、少なくとも、斉昭公の意を体して『北島志』を学問的よりどころとして、川路聖謨がプチャーチンとの交渉にあたったと言えます。

<参考>『大日本史諸蕃伝と北島志』(水戸学講座講録)