HOME >大河ドラマ・ア・ラ・カ・ル・ト >part5

水戸光圀公と斉昭公

境内のご案内

常磐神社について

水戸のご案内

歳時記~季節の写真~

蔵~資料館~

写真館

English

お問合せ

水戸学

水戸学FAQ

祭事・催事・行事

サイト内検索

RSS配信中

part5

大河ドラマ
 part5


  • 栗 田  寛
        『大日本史』の編纂を続けていた彰考館では、嘉永5年(1852)2月7日、訂正復刻された紀伝173冊を幕府へ、29日には朝廷へ献上した。これより志表の編纂に専念するのであるが、最も力を注いでいた豊田天功は、嘉永6年11月再び彰考館に入った。(離れること9年)入館するや、『北島志』(蝦夷志)『北慮志』(ロシア志)の編纂を命ぜられ、これを安政3年(1856) 8月までに完成した。すでに7月には彰考館総裁となっていたが、安政5年7月5日斉昭公は謹慎となり、8月16日には小石川邸に密勅が届けられて騒然となり、ついに万延元年(1860)桜田門の変につづいて、8月15日斉昭公は61歳で亡くなられる。天功も文久4年(1864) 1月60歳で世を去り、其後の編纂は門弟、栗田寛に引き継がれる。
 幕末維新に際して水戸は党争に終始するのであるが、維新の後、修史の事業も復活するようになった。慶応4年徳川慶篤は37歳で世を去り、弟昭武(斉昭公第18子)が後を継いだ。明治2年(1869) 彰考館は水戸家の帰属として経営することとなり、人員も整理し、編纂に津田東巌、栗田栗里(寛)菅桜廬その他10名となった。すでに紀伝の出版は出来たが、これより志表の草稿を整理し、また新たに稿を起こして、出版にとりかかる事になった。これは草稿が完成したものから行う事にした。こうして明治4年(1871) 1月、刑法志を出版したが、7月廃藩置県となり、彰考館はこの後、弘道館、柵町中御殿、偕楽園東南隅(現、常磐神社東鳥居の辺)と転々として明治12年(1879) に偕楽園南崖の地(現、常磐線跨線橋の突当りの辺)に新築移転し、ここで『大日本史』は完成した。
 これより仏事志、職官志、氏族志が出版され、同17年(1884) 9月栗田寛は元老院へ奉職するが、礼楽志、食貨志を出版した。同22年(1889) 3月、栗田は官を辞して帰郷し、編纂に従事するが、同25年(1892) 10月文科大学教授になって上京し、東巌も亡くなったので青山鉄槍が編集を引き継いで神祇志を出版、鉄槍は2年間で館を辞したが、当時栗田の門弟清水梅蔭(正健)、栗田晦屋(勤)などが編纂につとめ、陰陽志を出版、同29年(1896) 梅蔭は転出、翌年村岡良弼が入り、国郡志の校訂にあたり4年間を費やして完了したので辞職した。
 その前後、志・表の出版になるもの多く、明治39年(1906) 12月26日、その完成を奉告し『大日本史』397巻、目録5巻、計402巻、二組が明治天皇、皇后へ献上され、一組が常磐神社に奉納されたのである。光圀公が編纂にとりかかって以来、実に250年の歳月が流れていた。
(福田耕二郎著、水戸の彰考館より)