part5
大河ドラマ、 ア・ ラ・ カ ル ト
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幕末維新に際して水戸は党争に終始するのであるが、維新の後、修史の事業も復活するようになった。慶応4年徳川慶篤は37歳で世を去り、弟昭武(斉昭公第18子)が後を継いだ。明治2年(1869) 彰考館は水戸家の帰属として経営することとなり、人員も整理し、編纂に津田東巌、栗田栗里(寛)菅桜廬その他10名となった。すでに紀伝の出版は出来たが、これより志表の草稿を整理し、また新たに稿を起こして、出版にとりかかる事になった。これは草稿が完成したものから行う事にした。こうして明治4年(1871) 1月、刑法志を出版したが、7月廃藩置県となり、彰考館はこの後、弘道館、柵町中御殿、偕楽園東南隅(現、常磐神社東鳥居の辺)と転々として明治12年(1879) に偕楽園南崖の地(現、常磐線跨線橋の突当りの辺)に新築移転し、ここで『大日本史』は完成した。
これより仏事志、職官志、氏族志が出版され、同17年(1884) 9月栗田寛は元老院へ奉職するが、礼楽志、食貨志を出版した。同22年(1889) 3月、栗田は官を辞して帰郷し、編纂に従事するが、同25年(1892) 10月文科大学教授になって上京し、東巌も亡くなったので青山鉄槍が編集を引き継いで神祇志を出版、鉄槍は2年間で館を辞したが、当時栗田の門弟清水梅蔭(正健)、栗田晦屋(勤)などが編纂につとめ、陰陽志を出版、同29年(1896) 梅蔭は転出、翌年村岡良弼が入り、国郡志の校訂にあたり4年間を費やして完了したので辞職した。
その前後、志・表の出版になるもの多く、明治39年(1906) 12月26日、その完成を奉告し『大日本史』397巻、目録5巻、計402巻、二組が明治天皇、皇后へ献上され、一組が常磐神社に奉納されたのである。光圀公が編纂にとりかかって以来、実に250年の歳月が流れていた。
(福田耕二郎著、水戸の彰考館より)