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大河ドラマ
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  • 斉昭公(慶喜公の父・9代藩主)が傅役(子供たちの教育係)

    戒めた書簡の一節
我等などは三ツ四ツの節より文公(祖父・6代藩主)のお供にて毎朝々々面白くもこれ無く寒きに御庭の御供いたし武公(父・7代藩主)の御代にも同様毎寒中御鷹(鷹狩り)に相なり候へば御灯燈にて入らせられ、夜もまた御灯燈にてお帰りに相なり、手も足も皆ひびにて血流れ申し候を足洗い候節に、垢すりにて、むしり取り候へき、耳などは霜やけにて絶えず血のみ出候へき、鶴千代(斉昭公の長男・第10代藩主)なども寒く相成り候はば、朝は七ツ頃より起き候て、水にて顔あらひ入側の障子などあけ顔へ風のつんつんと当り候ところにて、大声にて四書にても読み、少々空しらみかかり候はば、直ちに鷹に(鷹狩り)出従ひ、鷹合わせ申さざる日たりとも、一廻り庭を廻り帰り候て、食事にても致し、書物なり剣術なり致し候がよろしく候、こたつなどへ、くぐり込み居り候様にては、とても用に立ち候人には相なりがたく候、云々。(水戸藩史料より)


  • 川路聖謨(かわじとしあきら)(1801~68)
    1850年代の幕府の高級官僚。
下級武士の出身で、能力を認められて累進、小普請奉行、奈良奉行、大阪町奉行を歴任、嘉永五年(1852)勘定奉行となり海防掛を兼ねた。
嘉永6年6月3日、ぺりーが浦賀に来航。7月3日老中阿部正弘は乞うて斉昭公を海防参与に委嘱します。ほどなく7月18日にはロシアの使節プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に来航します。川路聖謨は交渉のため長崎に赴き、さらに翌年ふたたび伊豆下田において日露和親条約を結ぶのである。(その後、条約勅許・将軍継嗣問題で一橋派と目され、大老伊井直弼に地位を追われる。)
嘉永6年6月14日、斉昭公は江戸城中において聖謨と筒井肥後守を引見します。
    これは『新伊勢物語』によると、老中阿部伊勢守の要請によるもので、伊勢守の代理として差し向けるので腹蔵なくご教示賜りたいとしている。会見場所も、この伊勢守の斉昭公宛て書簡の末尾に、朱筆の書き添えがあり、それにによると、「駒込は外に席なき故誰来りても無已、大奥寝所にする所より外無之故、其所にて逢ふ、過日勢州(註・伊勢守)来り候も同断なり」とある。
翌月プチャーチンが長崎に来たのを受けて聖謨が派遣されます。10月29日の『水戸藩史料』によると、聖謨たちの長崎への出発を慰労し、斉昭公は大小の太刀、はなむけの和歌を贈ります。
      わが国の千島のはては えそしらす さりとてよそにとらすべしやは
      みちのくの ちしまのはては えそしらぬ かそへてかへれ わか君のため

    聖謨の御返しの歌
      限りなき君が恵みは えそしらぬ ちしまのはては よみ尽くすとも
      誰れ余所にとらすべきやも我国の千しまと君がおしへあふきて
聖謨の『下田日記』(嘉永7年12月21日)によると、
    21日、くもり、又雨、又晴
    きょうは、日本・露西亜永世の会盟とも申すべき訳にて書面の取替せ有り。着服は、御紋附の羽織、蜀江かたの野袴、花山桃林のまき絵太刀作りの大小、これを用う、これは、前中納言殿(註・斉昭公)并に左衛門尉(聖謨)の自詠を鍔に彫りたる大小也。
とあり、この長崎行には藤田東湖の意向で、慶喜公の腹心となる原市之進も随行したのである。