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part18

大河ドラマ
 part18


  「徳 川 慶 喜 公
    ---その歴史上の功績---」その4




   元治慶応期の混迷と将軍就任 

                  但 野 正 弘



 1 はじめに

 皆さんお早ようございます。水戸学講座も第四回を迎えましたが、いよいよ秋から冬に向かいまして、急にこゝ二、三日冷込みがきつくなりました。お寒い中お集まり頂きましてありがとうございました。
 本日は、テーマとして与えられておりますのは、「元治慶応期の混迷と将軍就任」というテーマでございまして、慶喜公の明治維新までのいろいろな事蹟行動についてお話致したいと思いますが、それは大変難しい時期でありました。と言いましても、今日お話する実際の時期は、わずかに三年でございます。元治は一年だけで、翌年慶応に入りまして元年・二年、二年の暮れに将軍に就任致します。今日は、その三年間の話を一時間半かけてお話致します。
 どこにポイントを置くかということが難しいわけでございますが、大きく三つほどにテーマを分けました。これまで三人の先生方がお話をされました幕末期を少し復習しまして、元治慶応期の前提となり、またその時代につながる文久二年三年あたりの事に少し触れることに致します。そして本題の元治慶応期の混迷、特に水戸藩幕末の重大な問題であり、また悲劇でもあった筑波山挙兵から武田耕雲斎たちに率いられて京都へ向う西上浪士軍いわゆる天狗党、天狗勢と呼ばれる人達の動き、それに対して慶喜公がどういう気持で対応されたのか。
 短い時間でありますので、筑波山挙兵に至る過程とか、筑波山から那珂湊の戦争と大子へ移るまでの経緯は省略させて頂きまして、特に浪士軍が敦賀へ近づいて来た頃からの慶喜公の対応についてお話をしたいと思います。
 なお、その前に、耕雲斎がなぜ慶喜公を頼ったのか。いわゆる天狗党事件に関する慶喜公と耕雲斎との関係についてお話したいと思います。
 そして最後に、慶応二年に十四代将軍が亡くなって、慶喜公が十五代将軍に就任した事情をお話して、本日のまとめと致したいと思っております。


 2 激動する幕末

 資料の最初のところは年表風にまとめておきました。
 日本における本当の意味での幕末期というのは、嘉永六年(一八五三)六月にペリーが浦賀へ来航した事でありました。この時慶喜公は十七歳でした。
 翌安政元年には日米和親条約の締結、安政五年には日米修好通商条約の調印。これにともなって起こってくるのが安政の大獄であります。
 この安政の大獄というのは、なぜ起こされたのか。これにはいろいろな問題があるわけでありますが、端的に言えば井伊直弼の片腕と言われた長野主膳という人物が、水戸陰謀説というものを打ち出して来たことにあります。
 それは、井伊直弼に対して、条約の調印が朝廷から許可されなかったことも、また慶喜公を将軍の後継者として表に出して来たことも、それから条約調印後に烈公達が江戸城に不時登城して大老井伊直弼を面責したことも、その他、京都を中心とする攘夷派の人達の行動、また公家達の行動も、全て水戸の斉昭、烈公が動かしているのだ。烈公自身が江戸幕府を自らの手で牛耳っていこうとするその現れである。
 このように考え、その水戸陰謀説を証拠づけるために、少しでも烈公や水戸と関係のある人々を逮捕し、証拠づけをしようとしたのだ。というふうに言われております。
 ですから、この水戸陰謀説というのは、全く根も葉もないことでありますけれども、そのために大勢の人が逮捕され、やがて長州の吉田松陰、越前の橋本左内、頼山陽の子頼三樹三郎、水戸の家老安島帯刀、藩士茅根寒緑(伊予之介)、京都留守居役の鵜飼吉左衛門、その子鵜飼幸吉というような人々が、次々と処刑あるいは切腹させられ、また追放の処置を受けたのでありました。百名以上の人々がこのような処置を受けたわけでありますし、こうした安政の大獄というものは、水戸藩にとっては非常な打撃となっていったのでありました。
 慶喜公も、江戸城に登って井伊直弼を厳しく追求したということで、安政六年八月に隠居謹慎を命ぜられております。
 十月には、先程申し上げましたように、橋本左内や吉田松陰達が処刑されています。
 ところが、こうした直弼の行動に対して憤激した水戸と薩摩の浪士達が、万延元年の三月三日に桜田門外の変で、大老井伊直弼を暗殺するという事件が起こりました。
 やがて文久元年に入りますと、通商条約が発効し貿易が開始されて行きました事から、いろいろな経済上の不安が起こって来まして、それは外国人襲撃事件へとつながって行くことになります。
 この文久元年の事については細かくは申し上げませんが、翌文久二年につながる問題に、皇女和宮親子内親王の降嫁問題があります。これは井伊直弼の後、幕閣の中心となった老中安藤信正により公武合体策が進められてゆきます。幕府では安藤信正、朝廷では若い岩倉具視で、岩倉は当時公武合体派で幕府と手を結んで行く方向を取っていました。その公武合体策の実をあげるということで計画されたのが、和宮の十四代将軍家茂への降嫁問題でありました。
 当時和宮様は、有栖川宮熾仁親王とご婚約をされておりまして、間もなくご結婚という状況にありました。幕府からの要請には、当然お兄さんである孝明天皇も反対されます。和宮様も勿論これは承諾されない。ところが岩倉具視がこの実現に動くのであります。
 結局、和宮様は当時御年十六歳でありましたが、「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」、自分が江戸へ嫁入りすることが、兄上であり天皇である孝明天皇の為になり、また日本の国民の為になるというのであれば、わたしのこの身が武蔵野の露と消えても惜しむものではないと歌を詠まれ、健気な決心をされて江戸に下られるのであります。
 ところがこうした公武合体派の画策に対し、またまた猛烈な反発をする人々が各地に出て来ました。中心となったのが水戸と宇都宮の藩士達であります。その直接の指導に当たったのは宇都宮の学者大橋訥庵であります。実際に行動を起こしたのは、水戸と宇都宮の浪士数名でありますが、こうした行動は、広くいろいろな人に呼びかけられていたようです。
 ちなみに申し上げますと、現在の埼玉県深谷市、昔の武蔵国榛原郡血洗島村に生れた農家出身の渋沢栄一という人物がおります。この渋沢栄一を取り巻く人達の所へも、坂下門外の変として後に起こる事件に関して、いろいろな呼びかけが来ています。
 このことは詳しくは申し上げませんが、しかしながらこれは大勢の人を集めて実行に移す事は難しかったようで、結局は文久二年一月に数名の人達でありましたが、安藤信正を坂下門外で襲って、信正は負傷致します。命には別状なかったのですが、これがもとで彼は老中を罷免されて行きます。
 一方、この年の七月慶喜公は隠居謹慎を許されると共に一橋家の再相続を命ぜられまして、再び一橋家の当主となりました。同時に将軍後見職に任ぜられます。
 これは当時京都において、公武合体の先頭に立っていたのは、薩摩の島津久光という人で、この人は藩主ではなく、藩主の父親、無位無官でありますが、実権をもっていました。彼は薩摩から兵を引き連れて京都に上り、やがて大原重徳という公家が勅使となって江戸へ下向することになり、それを護衛するということで江戸にやって参ります。
 そして幕府に対して幕政改革を要求する。それを承けた形で幕府が将軍後見職、政事総裁職や京都守護職という新しい役職を置いてゆきます。その将軍後見職、若い四代将軍家茂を後見するという職に任ぜられたのが慶喜公であります。
 次いで島津久光たちが江戸から京都へ帰る途中で起こったのが八月の生麦事件、英国公使館員が行列を横切ったということで斬り殺された。
 ところがこれが幕府にとってはまたまた大変な難題となってまいります。
 英国人を殺したのは薩摩藩なんですが、外国は薩摩という地方の藩を相手にしないで、幕府に対して賠償金を要求して来ます。ですから外国人の殺傷事件が起こりますと、幕府はそのたびに多額の賠償金を払って行かなければならない、ということで幕府は窮地に追い込まれて行くことになります。
 この文久二年の九月頃から、慶喜公は開国論に変ってゆきます。
 これは前回木下先生がお話下さった中にもありましたが、文久二年の九月晦日に、松平慶永の破約攘夷説を退けて、慶喜公が開国説を主張したことを、『徳川慶喜公伝』から史料をあげられてご説明がございました。
 特に大事なところは、政府と政府との間に取り交わした条約でありますから、これは決して不正とは言えない。いま自分が開国の意見を述べるということは、すでに幕府は無きものと見て日本全国のために計らんとするにある。もう幕府がどうのこうのという問題ではない。日本という国家と外国の関係において、一度結んだ条約を簡単に破棄することは出来ない。従って国を開き通商条約を結んだ以上は、きちんと守って行くのが外国との信用問題である。ということで、攘夷の問題については、慶喜公は反対の立場をとるようになって行きます。
 これはやはり将軍後見職として現実の政治を担当する立場にある人としては、国内の問題ならいざ知らず、外国との問題については、日本という国全体の立場で考えなければならないという、大局的な立場に立って開国という考え方を表明するようになって来るのであります。
 十一月には慶喜公は権中納言に任ぜられます。そして十二月十五日に江戸を発って上洛致します。この慶喜公に従って京都に上ったのが武田耕雲斎であります。これらのことに関してはのちほど申します。
 年が改まって文久三年(一八六三)、慶喜公は二十七歳です。二月には十四代将軍家茂も江戸を発ち三月四日に京都に上って参ります。これは幕府にとっては画期的な事でありまして、三代将軍家光が京都に上って以後、四代将軍家綱以降は、誰一人として京都に上った将軍はいないのです。
 征夷大将軍というのは、天皇から任命されている官職にもかかわらず、その征夷大将軍に任ぜられた者が、お礼のために京都に上るということを家綱以降誰もして居なかったのです。それが十四代将軍家茂の時に、二百年ぶりに上洛したわけであります。
 この将軍上洛にともない、水戸十代藩主である慶篤公(順公)もやはり江戸を発って上京致します。この時に藤田小四郎も京都に上るのであります。それは順公を警護する立場で上京するのが、後に行動を共にすることになります山国兵部で、兵部の部下として若き小四郎が行くのであります。これまた後の小四郎の行動に結びついて行く重要な問題であります。
 こうして舞台は江戸から京都に移って行きます。将軍、将軍後見職、水戸藩主、そういう人達が京都に集まり、三月十一日には孝明天皇御自ら賀茂社に行幸されて攘夷を祈願されます。四月二十日には将軍家茂が、五月十日を期して攘夷を実行するということを天下に公表するのであります。
 しかしこの点については、慶喜公は非常に難しいという考え方を持っておりました。というのは、もう国を開いてしまっているのに攘夷は難しいのだ。出来るわけがない。
 ところが当時、京都における大方の動きは非常に強く攘夷に向っている。攘夷を主張する人達から見れば、この攘夷の実行を幕府に迫るということは、幕府がますます窮地に追い込まれて行く事になる。幕府を窮地に追い込む重要な方法は、攘夷の実行を迫ることでありました。 慶喜公としては、「こうなった以上、仕様がない。」ということで、一説には、出来るだけ早い時期に攘夷を実行するという事を表明した方がよい。難しい、不可能な事を逆に発表した方が良いのだ。準備をする余裕のあるような先の時期にすると、かえって苦しくなる。四月二十日からわずか二十日後に攘夷を実行する、ということは実際には出来るわけがない。慶喜公は、そういう考えを持ったとも言われております。
 そして、(将軍家茂が)上奏した二日後の二十二日に、慶喜公はパッと京都から江戸へ帰ります。将軍後見職の慶喜公が江戸に戻ってしまう。そうすることによって慶喜公自身は、攘夷の実行に加わらなくても済む訳であります。そういう一面もあったかも知れませんね。
 一方長州藩は、五月十日に下関海峡において外国船を砲撃致します。
 以後、七月二日には、生麦事件の報復として鹿児島湾にやって来たイギリス艦隊と薩摩との間に、薩英戦争が起こります。
 八月十三日には孝明天皇から攘夷親征の詔勅が出されました。これを受けて八月十七日に天誅組が大和五条の代官所を襲撃し、攘夷の火の手をあげましたが、間もなく鎮圧されました。 ちょうどその頃、夏から秋にかけて武蔵国血洗島村の渋沢栄一たちが、攘夷を実行する計画を持ったのであります。高崎城をまず襲撃して乗っ取り、そこから一挙に横浜を襲撃するという計画を立てていました。渋沢栄一はこの頃二十四歳の若者で、強く攘夷の意気に燃えておりました。
 指導者は従兄の尾高新五郎で、渋沢栄一より十歳年上でありました。少年の頃から栄一は、新五郎の学問指導を受けておりました。この尾高新五郎を中心に、渋沢栄一・従兄の渋沢喜作(のち成(誠)一郎とも称した)ら六十数名が集まって高崎城を乗っ取ることを画策する。そこに攘夷の旗挙げをしようという計画が進んでいました。
 しかし、これは京都から帰った新五郎の弟尾高長七郎に止められます。栄一らは涙を呑んで高崎城襲撃を断念致します。これで渋沢栄一は命が助かったわけであります。
 栄一と喜作は、間もなく血洗島村に居られなくなって江戸に出ます。そして、かつて知合っていた平岡円四郎との関係で京都に出て慶喜公に会い、一橋家の家臣となります。
 当時は、そういう攘夷の動きが大変活発になり、天誅組の挙兵の他、全国各地でこうした攘夷の計画が青年達によって起こそうとされていたのであります。
 ところがこうした動きが、百八十度転換してしまうのが八月十八日の政変であります。
 これまで朝廷においては、三条実美及び長州藩を中心とする攘夷はが主導権を握って居たのでありますが、これによって長州藩の御所の御門の警備が解任され、三条実美以下七人の攘夷派の公家達が、朝廷を追放されてしまうという七卿落ちと呼ばれる事件が起こり、替わって中川宮を中心とする薩摩・会津・桑名などが御所の中に入り、公武合体派が勢力を盛り返しました。この頃から幕府は窮地を脱した形で勢いづいてゆきます。
 これ以前、八月十三日の攘夷親征の詔勅を受けて、天誅組が挙兵しているのでありますが、十月十二日には平野国臣を指導者とする但馬生野において攘夷挙兵が行なわれています。しかしこれも鎮圧されます。
 十月二十六日に慶喜公は再び江戸から海路上京致します。この時慶喜公は神戸兵庫に十一月十二日に到着し、やがて京都に入りました。
 十二月三十日には朝議参予を命ぜられ、朝廷の重要な会議に参画する事になります。
 なお、慶喜公はこの年の四月二十二日に京都を発って、一度江戸に帰っておりますことは、すでに前述したとおりでありますが、その時に慶喜公と共に江戸に戻ったのが武田耕雲斎でした。その耕雲斎は、慶喜公が再び上京された後の十二月二十七日に、関東の動きが非常に不穏であるということから、幕府の命により関東鎮撫を依頼されたのでありました。
 先程申しましたように血洗島村の渋沢栄一などの動きがあります。水戸藩領内においても、いろいろな動きが出て来ております。そうしたものを平穏に押さえるよう幕府から依頼され、二十八日に江戸を発って水戸に向います。
 同じ頃、将軍家茂はまたまた京都に上ります。そして元治元年を迎えるのであります。


 3 元治慶応期の混迷

    (1) 元治元年(一八六四)の情勢

 この元治元年、慶喜公は二十八歳であります。一月十五日に家茂が入洛します。
 慶喜公は三月二十五日に禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられます。禁裏御守衛総督というのは、今で言えば皇宮警察本部長、昔で言えば近衛師団長。摂海防禦指揮というのは、神戸のあたりから大坂にかけての大坂湾(明治以後は大阪)の海岸防禦、いわゆる海岸防衛隊長であります。その両方を兼ねたのであります。
 なぜ慶喜公がこういう職に就かれたのかと言いますと、その前提があります。
 この職を狙ったのが薩摩の島津久光でありました。久光は当時無位無官でありましたが、藩主忠義の実父として国父の尊称をうけ、薩摩藩の実権を掌握し、また朝義参予を命ぜられて、公武合体派の中心として朝廷でも重き立場にありました。しかし特別な官職には就いておりませんでしたので、そこで薩摩の兵を引き連れて禁裏を御守衛する総督と、海岸防禦の指揮官の地位を狙ったらしいというこであります。
 そして折田要蔵という兵学者を称する者に命じて、大坂に塾を開かせ、海岸防禦その他を研究させているということでありました。この情報を察知したのが慶喜公の用人でありました平岡円四郎であります。
 平岡は、島津久光の動きがおかしい。久光が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられると我が主君である慶喜公の動きがほとんど封ぜられてしまう。この久光の野望をなんとか粉砕する必要がある、と考えた。
 そこで平岡は、渋沢栄一に折田要蔵の塾に入塾しろと命じます。栄一はさっそく築城学を学ぶという名目で塾生として潜り込みます。そして折田を観察します。そうすると、薩摩藩の動きがよくわかりました。
 折田は単純な人らしく、仰々しく看板をあげたりしておりますが、内容的には全然だめだったようです。格好だけつけている男だということを渋沢栄一はつかむわけです。そして島津久光は、このように海岸防禦の準備をしているのだということを天下に見せることによって、摂海防禦指揮などに任命して貰うことをねらっている、と栄一は久光の魂胆を察知し、これを平岡に報告します。
 平岡はこのことを慶喜公に伝え、島津が任命される前に手をうつ必要があるということで、慶喜公の立候補となり、朝廷では幕府の了解のもとに、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の職に慶喜公を任命したとのことであります。そういう裏がありました。
 ところが、これが三月二十五日です。その二日後の二十七日に、水戸の藤田小四郎達六十三名が筑波山に挙兵しているのであります。その後の藤田小四郎達の動きは省略しますが、六月五日には池田屋事件が起こります。
 これは新選組(新撰組とも書く)を主力に京都守護職の会津藩兵や所司代の兵が、池田屋に集合していた宮部鼎蔵ら尊攘の志士達を襲撃し、多くの人が殺傷されるという事件でした。
 なお、誤解がありまして、この池田屋事件のときに一橋家に仕えている渋沢栄一が、新選組と行動を共にしたというふうに思っている人が居りますが、この時渋沢栄一は京都には居りませんでした。この頃彼は関東に来ていました。
 慶喜公の命令で、一橋家には兵隊がおりませんので、一橋家の領地に行って兵を集めて来いということで、渋沢喜作と共に関東の領地を回りました。例えば下野(栃木県)の塩谷郡高根沢村など。第二回講座で仲田先生が宇津救命丸の話をして下さいましたが、その宇津家のある高根沢です。一橋家の賄い領の一つです。
 そういう土地を回って兵隊を集めるのですが、大変苦労したようです。すでに三月二十七日に藤田小四郎達が筑波山で挙兵していますから、志ある者の多くは筑波山に集まっておりました。渋沢栄一達は、かつて同志として交際連絡があった者達を尋ねますが、なかなか集まりません。それでも数十名の兵を集めて京都へ送りました。
 その間に池田屋事件が起こっているわけでありますから、渋沢栄一はこの事件には関係しておりません。
 しかも、同じ年の六月十六日には、一橋家の平岡円四郎が水戸藩士によって暗殺されます。林忠五郎と江幡貞七郎の二人によって殺されてしまいました。
 平岡円四郎という人は、非常な人物で、この人を推薦したのは藤田東湖であります。
 慶喜公が烈公に、ぜひ自分の側に仕えてくれる優れた人物がほしい、と要望された時に、烈公から藤田東湖に相談がありました。その時東湖は、幕府の川路聖謨から、平岡円四郎が優れた人物であると聞いておりましたので、彼を推薦したと言われております。
 平岡は、慶喜公の小姓となります。その時三十歳を過ぎており、豪気な人物でもありましたので、小姓として身の回りのこまごまとした世話をすることは苦手な人でした。
 食事の時には給仕をし、ご飯を盛らなければなりません。飯盛なんかやったことがありませんから、しゃもじでうまく茶碗に盛ることが出来ませんでした。見るに見兼ねた慶喜公が、飯はこういうふうに盛るのだと教えられたこともあるそうです。そういう平岡でしたが、一生懸命に慶喜公に仕え、重要な人物になって行きます。
 渋沢栄一を見いだしてくれたのも平岡円四郎でした。
 ところが、渋沢栄一達が関東に来ている間に、慶喜公の主家筋にあたる水戸藩の二人の人物によって暗殺されてしまったのです。
 この六月五日の池田屋事件に憤激した長州藩は、前年の八月十八日の政変以来の鬱積した思いと、公武合体派の薩摩・会津・桑名などの幕府軍を御所から駆逐し、攘夷を実行すべきであるとの考えから、ついに七月十九日に大挙して京都に入り御所を攻めました。これを禁門の変と言います。また蛤御門の戦いが激烈でありましたので、蛤御門の変とも称します。
 長州藩兵を指揮したのが、九州久留米の水天宮の神官真木和泉守保臣でありました。この人は、明治維新の方向を明確に打ち出すその元をつくった人だと言われております。水戸にも遊学し、水戸で多くのことを学んだのでありました。
 もう一人の中心的人物は、久坂玄瑞。彼は亡き吉田松陰の一番弟子といわれ、松陰の妹を妻に迎えた人物であります。
 しかしこの禁門の変は、皮肉なことに、最も朝廷の立場を考え幕府と対決し、攘夷を実行しようとした長州藩が、御所の外から御所(皇居)に向けて大砲・鉄砲を打つ立場になってしまい、佐幕派の会津桑名、またこれと行を共にする薩摩藩が、御所の中にいて天皇をお守りする立場になったのでありました。これは長州藩にとっては非常につらい立場でありました。
 この禁門の変において目覚ましい活動をされたのが慶喜公であります。禁裏御守衛総督としてその指揮にあたりました。
 そして長州藩は敗れました。指導者であった真木和泉守は、京都と大坂の中間にあります天王山において他の十六名の同志と共に割腹するのであります。
 真木和泉守は「大日本史恐ろしく候間」という言葉を残しています。則ち、自分が卑怯な行動を取れば、やがて「大日本史」という書物の中に逆臣叛臣として書かれる。そういう意味で水戸の「大日本史」を恐れる。「大日本史」の中に正しい生き方をした人物として書かれるような、そういう死に方をしたい。ということで、責任を取って腹を切るのであります。久坂玄瑞はこの戦いで戦死しています。
 この禁門の変というのは、慶喜公にとつても重大な事件であったのであります。
 やがて八月を迎えますと、二日に幕府は禁門の変の責任を追及して、第一次長州征伐を発令致します。三日後の八月五日には、前年の五月十日に実行した下関海峡における外国船砲撃事件の報復として、四国連合艦隊即ちアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国が、軍艦を率いて下関にやって来て長州藩を攻撃します。
 長州藩は、国内においては幕府の第一次長州征伐を、対外的には四国連合艦隊の攻撃を受ける、内外共に両方から攻められるという苦況に陥ったのでありました。
 さて、話題の中心を水戸に戻します。元治元年三月二十七日に筑波山に挙兵した藤田小四郎達は、その後日光・太平山、再び筑波山さらに那珂湊と転戦し、その間水戸藩内における紛争は、複雑な様相を呈し、激派・鎮派、そして諸生派と、いろいろな動きがありました。
 しかも抗争はますます深まってゆきました。やがて那珂湊の戦いで勝敗が決した形となり、武田耕雲斎や小四郎達は十月の下旬に那珂湊を発って大子に集結することになります。
 耕雲斎は、はじめ小四郎達の行動を押さえて自重するように言い聞かせてきたのでありますが、結局、水戸藩内の佐幕派、諸生党そして幕府の行動によって耕雲斎自身がこの動きの中に巻き込まれ、ついに小四郎達に同情し、自らも行動をともにしようということで大子に集結していったのでありました。


    (2) 慶喜公と西上浪士軍(天狗党)

 元治元年十一月一日、武田耕雲斎や藤田小四郎達約千名は、尊王攘夷の素志を慶喜公を通じて朝廷に訴えようと、常陸大子を出発し京都へ向いました。耕雲斎達は下野から上野に出て、下仁田で高崎藩兵と戦って破り、さらに信濃国和田峠で諏訪・松本藩兵を撃破して木曽路に入り、十二月一日には美濃国揖斐の宿に到着しました。ここで耕雲斎達は重大なことを知らされます。それは頼みの綱と思っていた慶喜公が討伐軍の大将となって出陣してくるということでありました。
 慶喜公は、禁裏御守衛総督という立場から、幕府軍や諸藩兵と戦いながら京都に向ってくる耕雲斎達の西上浪士軍に対応しなければなりません。十二月三日に慶喜公は追討軍を率いて、琵琶湖のほとり大津へ出陣致します。
 西上浪士軍は美濃揖斐から北上して、十二月十一日に越前の新保宿に入ります。
 十二月十六日慶喜公は本陣を琵琶湖の北、海津というところに移します。そして十七日に総攻撃と決定しました。
 年表だけを見て参りますと、慶喜公は一方的に武田耕雲斎達を討とうとしているように見えますが、実はその裏にいろいろな問題がありました。
 十七日に総攻撃と、慶喜公が決定したということを、加賀藩の家老永原甚七郎から知らされた耕雲斎は、ついに十九日に加賀藩に降伏します。
 その前の十二月十二日に、すでに耕雲斎は嘆願書を提出しておりましたが、これは取り上げられず、降伏文書でなければ受け付けられないということでありました。
 耕雲斎達は、現在おかれている状況や今後の事などを話し合った末に、ついに降伏することに決しました。
 十二月二十日に耕雲斎は、正式に降伏状を提出しています。このあたりの日付については、書物によっていろいろ違いがあります。記録した人の立場によって違いが生じているのかも知れません。
 二十一日に一橋総督は降伏状を正式に受理します。二十三日慶喜公は海津を発って京都に戻られます。そして田沼玄蕃頭意尊との話し合いが行なわれます。
 二十四日から二十五日にかけて、浪士達は敦賀の三つの寺(本勝寺・本妙寺・長遠寺)に収容されましたが、この時、加賀藩は実に懇切に彼らのめんどうを見てくれました。正月を迎えますと鏡餅まで差し入れてくれました。加賀藩の永原甚七郎は、耕雲斎達にとっては非常に有り難い人物でした。
 しかし年が改まった慶応元年一月二十九日に、常野浪士追討軍総括・若年寄の田沼玄蕃頭意尊の手に引き渡されることになります。田沼は直ちにこれを越前海岸の舟町にある十六棟の鰊倉に閉じこめてしまいました。五十名づつ収容し、足枷まではめてほとんど動きが取れない状態にして、帯とか袴など紐類は全部取り上げ、一日の食事も握り飯二、三個ぐらいという凄惨な状況に追い込んだのでありました。
 そして翌慶応元年二月四日から、三百五十二名が斬首されて行きました。
 武田耕雲斎や藤田小四郎、田丸稲之衛門、山口兵部の四名の首は、塩漬けにされて水戸へ送られ、市中に晒されるという残忍な事まで行なわれています。そのほか遠島・追放、或は水戸藩引渡しなどに処せられ、水戸におけるその家族縁者達も、八十数歳の老婆をはじめ三歳の子供まで殺されるという悲劇が繰り返されて行きました。
詳しいことについては、皆さんそれぞれ色々な書物でご承知のことと思いますので、ここでは以上で止めておきたいと思います。
 つぎに、慶喜公と武田耕雲斎との関係について見て行きたいと思います。


    (3) 慶喜公と武田耕雲斎

 二年の歳月が遡った文久二年(一八六二)十二月十五日、慶喜公は江戸を出発して京都に向われました。この時、四日前の十一日に、一橋公に従って上洛せよ、という命令が幕府から耕雲斎に出されました。
 耕雲斎の本名は正生といいます。伯道は字、修理とも称しています。後に伊賀守、従五位下に任ぜられています。号が耕雲斎。その耕雲斎が、一橋公に従って上洛せよ、という命令を受けたのが十二月十一日。それには次のように書かれておりました。(一部、漢文を書き下す)
┌───────────────────────────────┐

│                     武 田 耕 雲 斎 │

│京都御警衛の儀に付。今度大坂表海岸。見置きの為。一橋中納言殿。│

│相越され候よう仰出され候。右は源烈殿にも積年御憂慮。之れ有られ│

│候事故。其方並に有志の者の内。五六人召し連れらるべく候間。国家│

│諸事。格別骨折相勤めらるべく候。    (『武田耕雲斎詳伝』)│

└───────────────────────────────┘

 
 このたび一橋中納言慶喜公が幕府から命ぜられて、京都警備の為に大坂など海岸を視察し、その防衛に当ることになり、京都へ来るようにとの仰せ出がありました。
 右は烈公も長い間、海岸防備と攘夷の問題について考えられて来たことでもありますので、其の方(耕雲斎)及び有志の者五六人を連れて上洛されることになりました。ついては国家の為に、一所懸命粉骨砕身して勤めてほしい。こういう命令を耕雲斎は受けたのでありました。
 そして慶喜公は十二月十五日に江戸を出発し上洛します。武田耕雲斎は約十日遅れて二十四日に、次男の正義、及び梅澤亮・梶信基・大胡資敬などを従えて江戸を出発しました。
 この武田耕雲斎が京都へ行くことについては、慶喜公から特別の依頼がありました。
  ┌───────────────────────────────┐

  │───陳者中納言様御参内も。十日と御治定相成候。其己前種々御相│

  │談も遊ばされ度旨。御沙汰之れ有り。───旁御一刻も早く御到着相│

  │成候様仕り度く。一体御召連の御同勢も。多く之れ有るべし。左候得│

  │ば自然人馬継立等。都て早々相成り間敷き故。貴所様丈。先御引分れ│

  │昼夜御兼行。十日己前御到着。相成候様仕り度く。尤。中納言殿にも│

  │右の思召に候間。───                    │

  │  正月七日               澤   勘 七 郎 │

  │   出於京師              岡 部 駿 河 守 │

  │                               │

  │   武 田 耕 雲 斎 殿      (『武田耕雲斎詳伝』)│

  └───────────────────────────────┘

 慶喜公が京都に着かれて宮中に参内されるのは、正月十日ということに決まりました。
ついてはそれ以前に慶喜公は耕雲斎と種々相談をしたい、という御沙汰がありました。どうか一刻も早く到着するようにして頂きたい。ただ、同行の人数も多いことでしょうし、荷物を運んだり、乗る馬の準備のこともあるだろうから、そんなに早く来いといっても来られないか知れない。そこであなただけでも昼夜兼行で、十日以前に京都に到着出来るようにして頂きたい。これは中納言殿即ち慶喜公の思召しでもあります。
 という内容の手紙でありました。慶喜公の相談相手として、早い京都到着を促すものであったわけです。
 これより文久三年(一八六三)に入ります。二月十三日には将軍家茂が上洛の為に江戸城を出発し、三月四日に京都に到着します。
 二月十六日には水戸藩主順公慶篤も上洛のため小石川邸を発って、三月六日に京都に到着しましたが、その月末の二十五日には順公は将軍の名代として江戸に帰ることになります。将軍家茂も将軍後見職の慶喜公も京都に来てしまっておりますので、江戸はがら空きの形であります。これはまずいというので、水戸藩主の順公が将軍の目代(代理)として江戸に帰ることを命ぜられたわけであります。
 この時に、順公のお供として山国兵部と一緒に京都に上った藤田小四郎は京都に残ります。残って長州藩の人達と色々会合を持つのであります。
 順公が京都を離れる前日の三月二十四日、順公に代わって京都の守衛は弟の松平昭訓(余四麿)があたるよう命ぜられました。これを補佐するのが家老武田耕雲斎達であります。
 その耕雲斎や大場一真斎に対して、国事に尽瘁すべき旨の朝廷の命令が出ます。これは『三条実美公記』の中に次のように書かれています。尚、水戸黄門は十代藩主順公慶篤を、一橋黄門は徳川慶喜をさしています。
  ┌───────────────────────────────┐

  │有栖川。中川両親王奏して。水戸家老大場一真斎。武田耕雲斎を朝廷│

  │に召し。───朝命を伝へて曰く。此回の事実に国家緊要也。汝等黄│

  │門を輔翼し。精力を竭し。以て国威を興張。───且つ一真斎は水戸│

  │黄門に付属し。耕雲斎は一橋黄門に付属すべし。         │

  └───────────────────────────────┘

 そして四月四日には耕雲斎に対して、御所近くに移り住めというお達しがありまして、長者町という所に移ります。
 さらに四月十五日、耕雲斎は宮中において天皇の御陪食を仰せ付かりますと共に、食事の後で、孝明天皇が御使いになられた御箸を拝領しています。
 水戸の家老でありますから直臣ではなく、陪臣である耕雲斎が天皇の御陪食に与るという、この辺りが、耕雲斎の人生の中で最も華やかな時期であり、この人が翌々年にはこの世から消えるということは、誰も想像しなかったでしょう。
 四月十九日になりますと慶喜公は江戸に帰ることになります。この時に、耕雲斎も一緒に江戸に連れて帰りたいと慶喜公は上請致します。
 朝廷としては耕雲斎を京都に残したかった。順公の代わりに京都の警備に当る松平昭訓が在京中であるので、是非これを補佐してほしいと、差し止めようといたしますが、慶喜公が是非ともと言われますので随行を許可致します。
 こうして二十二日朝、耕雲斎は京都を発ちます。この日の夕方には慶喜公も江戸に向けて出発されます。この時次のような文書が交付されています。
  ┌───────────────────────────────┐

  │                      水戸殿家老    │

  │                        武田耕雲斎  │

  │───滞京之儀一橋中納言へ御沙汰相成候処、何分召連周旋申付られ│

  │たき旨。段々言上の次第も之れ有り候間。───         │

  │                   (『武田耕雲斎詳伝』上)│

  └───────────────────────────────┘

 こういうことで、いかに慶喜公が武田耕雲斎という人物を必要としていたかが、了解できると思います。
 慶喜公と共に江戸に戻った耕雲斎に対して、順公は、六月十六日に水戸領海岸を巡視せよ、水戸藩としてどういう防備をすればよいか検討せよと命じまして、耕雲斎は江戸から水戸に戻ります。
 ところが、一ヵ月後の七月十八日に慶喜公は再び上京を決意して耕雲斎に一書を与えます。同日付けで、「一橋」という署名があります。
  ┌───────────────────────────────┐

  │───其後種々相談申度義出来。実に懐敷存続候。───断然上京一│

  │身安危を決し申すべしと。決心いたし候。右に付内々此段申遣し候。│

  │天下之御為。徳川家之為と存ぜられ。尽力之程偏頼入候。委細申遣度│

  │候得共。紙上に伸べ難き次第に候。一日も早く罷登。面会申度鶴望致│

  │候。───                          │

  │      七月十八日                    │

  │                         一   橋 │

  │       耕雲斎方へ       (『武田耕雲斎詳伝』上)│

  └───────────────────────────────┘

 その後、種々相談したい事もあり懐かしく思っている。この度、断然身命をなげうって上京しようと決心した。この事を内々申し遣わすが、天下の御為、徳川家の為、耕雲斎よ力を尽くしてやってくれ。これを頼むぞ。委細を書き遣わしたいが手紙には書けない。一日も早く江戸に出て来い。直接会って話をしたい。首を長くして待っているぞ。
 という内容の手紙でありました。
 そこで、耕雲斎は七月二十八日に水戸から江戸へ出て行くのであります。
 しかし、八月十八日には、先程申しましたように「八月十八日の政変」。それと前後して天誅組の乱、生野の変などが起こっております。
 一方この年の暮、十二月二十七日には、幕府は耕雲斎に対して関東激派の鎮撫を依頼しております。先程話をした通りであります。そこで耕雲斎は翌二十八日に江戸を発ってまた水戸へ向います。
 そして元治元年を迎える。その元治元年正月九日、武田耕雲斎は諸大夫に列し、伊賀守に任ぜられました。これは普通の家老等では、諸大夫に列するとか、何々の守というのはなかなか戴けない。しかも従五位下に叙せられます。
 こういうことで、耕雲斎は大変な信頼を得て、単に水戸家の家老というだけではなく、天下に係わる人物として、多くの人から、朝廷からも幕府からも評価されてされて行く。慶喜公からも信頼される立場になって行くのであります。
 その頃、即ち元治元年の春頃、藤田小四郎は長州藩と密接な関係を持って行 きます。桂小五郎、因幡国の八木良蔵・藤田小四郎達が麻布にあります長州藩邸に集まったと言われております。そして東西で兵を挙げるということを密議したのだそうであります。
 長州藩は京都に攻めのぼって薩摩・会津に対抗する計画。その際に幕府が簡単に京都に向わないようにするにはどうするか。そこで必要なのは水戸なんだ。水戸が中心となって関東で挙兵してくれ。そうすれば長州藩は京都にいる薩摩会津をやっつけることが出来る。幕府が動かないようにしてくれ。そのために桂小五郎は藤田小四郎達に軍資金を出そう、ということを約束したと言われております。
 本当に金が渡ったかどうかは確認出来ませんが、一千両あるいは二千両渡されたとも言われております。小四郎達が挙兵すれば、必ず長州藩は応援するという約束であったと言います。
 これは密約でありますから、裏付けを取ることは難しいのでありますが、そういうことを考えて来ますと、小四郎達の筑波山挙兵の元とも言うべきものが、こういうところにあったんだなあということを、改めて感じとることが出来るのであります。
 これより小四郎は小川や潮来などを遊説して、竹内百太郎とか岩谷敬一郎などの有力者を同志に得て行きます。
 三月二十七日には、小四郎達は田丸稲之衛門を総帥と仰いで筑波山に挙兵します。
 その二日前の三月二十五日に、慶喜公は禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられ、将軍後見職は辞任致します。
 四月三日、慶喜公から耕雲斎へまたまた次のような書簡が出されています。
  ┌───────────────────────────────┐

  │───今般禁裏御守衛総督。其外摂海防禦之大任仰せ蒙り。一身に取│

  │り本意至極。有り難き仕合せと存じ奉り候。───重大の任を蒙り。│

  │源烈様御遺志に基き。尊攘之微意も相貫き申すべしと。悦入り候段─│

  │──。                            │

  │ 再白。兵食不足之身分。───兎も角も実家之御厄介を以而。相勤│

  │候外之れ無しと存じ候。───尚手許用向申付度。市之進孫太郎共。│

  │是非相雇申度。───但其許都合よろしく候はば。人数二三百人許り│

  │相率ひ。出京候て小子を扶助いたし。国家之御為。烈公御遺志を継承│

  │致され候様頼入候。安危存亡只この一挙に御座候。        │

  │                   (『武田耕雲斎詳伝』上)│

  └───────────────────────────────┘

 国家のため、烈公の遺志を継承するため宜敷く頼むぞ。安危存亡ただこの一挙にかかっているのであるから、この際援助してくれよ。という事であります。


    (4) 西上浪士軍(天狗党)に対する慶喜公の心情と対応

 このような慶喜公と耕雲斎との関係があったのであります。ですから、耕雲斎からすれば、文久二年三年、元治元年春という時期に於て、実際に慶喜公と行を共にし、その相談を受け、信頼されて、慶喜公という人物を見てきたわけであります。
 従って水戸藩の内部抗争の果てに、大子に集結した同志を率いる耕雲斎にとって、本当に頼れる人は慶喜公でありました。慶喜公ならば自分等の考えを分かってくれるに違いない、そういう信頼感が耕雲斎にはあったと思います。
 しかも藤田小四郎達が筑波山に挙兵し、旗印として掲げたのは「尊王攘夷」です。
 その尊王攘夷の「攘夷」は、幕府の方針であったはずです。すでに将軍自らが攘夷決行を宣言し、朝廷からは攘夷親征の詔勅が出されている。それを何故水戸が実行しないのか。烈公以来、天下に魁て説いて来たのが水戸ではないのか。遡れば藤田小四郎のお祖父さんである幽谷先生がそれを説き、父親の東湖先生がそれを説いて来た。
 その孫、子である小四郎自身がこれを実行しないという事は、逆に言うと、烈公というかつての水戸家の主君に反し、親や祖父の遺志を無視することになる。それを実行するのが忠義である。というのが藤田小四郎の考えであったと思います。しかもその裏には長州藩との密約もあったでありましょう。
 そして慶喜公からの耕雲斎宛の手紙の中にも、「烈公御遺志を継承致され」と書いてあります。烈公の遺志を継ぐということは、尊王攘夷であります。ですからその実現を幕府に迫り、幕府に実行させることが出来たならば、我々はどうなっても良い。というのが最終的な耕雲斎達の考え方であったと思います。
 その為には朝廷の御力によって幕府を動かす他はない。しかし直接朝廷に訴えることは難しい。幸い禁裏御守衛総督として京都には慶喜公が居られる。慶喜公を通じて、我々のこの至誠を朝廷に嘆願したい。ということで大子を発するのであります。
 それより、下野・上野の下仁田・信濃の和田峠、そして美濃へと進みます。
 一方慶喜公にも考えがあります。これは『武田耕雲斎詳伝』の著者である大内地山氏の文ですが、
    「京師警衛総督、中納言一橋慶喜思へらく。彼輩来って吾に投じ以て朝裁を請ふ。是れ必らず幕府の嫌疑を招ぐことゝなる。如かず江州路へ出張して之れが鎮静をはからんにはと。」
と、即ち慶喜公はこう考えられたであろう。耕雲斎達がやって来て自分の処へ投降し、朝廷に訴え、裁許を願うということであるが、自分の処へ来て、自分がそれを受け入れるということは、必ず幕府の嫌疑をまねくことになる。むしろ私は、近江国琵琶湖近くまで出張して耕雲斎達を抑える方がよいと思われる。
 大内地山氏は、このように慶喜公の気持を忖度して書いています。
 さて十一月下旬、朝廷に対して、慶喜公の願書が出されます。
  ┌───────────────────────────────┐

  │此度常野浮浪脱走の徒。多人数中仙道筋罷登り容易ならざる模様に相│

  │聞え。此上万一帝都へ相廻り候様の義。御座候ては。職掌に執り恐入│

  │候のみならず。右の内私実家の家来も交り居り候得ば。別して相済ま│

  │ざる次第に付。江州路へ早々追討出張仕度存じ奉り候間。何卒暫時御│

  │暇成し下され候様。仕度内願奉り候。              │

  │                               │

  │  十一月                          │

  │                   (『武田耕雲斎詳伝』下)│

  └───────────────────────────────┘

 慶喜公は禁裏御守衛総督という職務に就いております。その職掌は禁裏=天皇の御所を守護することであります。これを忠実に実行することは当然のことでありますし、その為には、京都に向って来る耕雲斎達の西上浪士軍(天狗党)は、これを止め、鎮定しなければならなかったのであります。そこで追討軍を自ら率い、近江へ出 陣するために許可願いを朝廷に提出したのでありました。
 十一月三十一日、これについて朝廷から出馬してよろしいという御沙汰書が出ます。
  ┌───────────────────────────────┐

  │───内願の趣聞こし召され。就ては早々出馬処置致さるべき御沙汰│

  │に候。但降伏致候はば。相当の取計致すべき事。         │

  │                   (『武田耕雲斎詳伝』下)│

  └───────────────────────────────┘

 但し、もし降伏して来た時には、それに応ずるだけの処置でいいんだぞ。ということを併せて朝廷では命じています。
 さて、十二月一日、耕雲斎達は美濃の揖斐宿に到着致します。
 この時突然、薩摩の西郷隆盛の秘命を受けたという中村半次郎、のちの桐野利秋で、人斬り半次郎と言われた人ですが、この人が耕雲斎に面会を求めて参りました。
 耕雲斎は直接会わずに、藤田小四郎や竹内百太郎に面会させました。
 中村が言うには、薩摩藩が尽力するから間道を通らず、速やかに本道(中山道のことか)を経て入京するように、との勧めでありました。ところが小四郎達は、慶喜公が鎮撫のために出陣されるとのことであるから、本道を行くのは難しい。好意は有り難いが本道を行くのはお断りする。と答えたそうであります。
 そして耕雲斎達は、慶喜公の追討軍と遭遇しないように越前に向おう、ということで路を北に取り、今の福井県境の木の芽峠を越えて行くのであります。
 薩摩は本道を通れと言うが、どのような援助をするのか。どのような行動を取るのか。中村半次郎は何も具体的には示さなかったようです。ですから耕雲斎達にとっても不安は十分にありました。
一方、十二月三日に慶喜公は京都を出発、大津に出陣。弟の松平昭武公も翌日在京の水戸藩兵、即ち本圀寺勢とよばれる兵を率いて出陣します。
 十二月七日には、大津の総督本陣から加賀藩の永原甚七郎に呼び出しが来ました。そこで永原が一橋総督の陣に行きましたところ、
     この頃、薩摩の探索方と称する者が四人、早打駕篭で美濃路に来て、大垣・彦根二藩に次 のようなことを通達したという。(『武田耕雲斎詳伝』下)
    「今度賊徒歎願の筋申立多人数間道から押寄せ来たので。一橋卿には追討を願立。諸藩へ加勢を命じたのであるが。元来一橋卿は賊徒へ理解され。降伏せしむるの内意であるから一方に於て之れを討伐したのでは。内意に悖ることになるべし。此ことを告ぐる為に是れまで出向いたのである。」
    と遊説したさうであるが。一橋卿には更に左様の所存は。毫頭之れないから信用してはならぬ。────さうした浮説に迷はさるゝことなく。充分に討伐せよ。
 このように永原甚七郎は総督の陣で言われたという事であります。即ち、慶喜公は耕雲斎達に理解を示されて、追討とは言っているけれども、実際には降伏させようという気持なのだから、これを一方的に討ったのでは総督の心に反することになるぞ。このことを告げる為にこれまで出向いたのである。そういうふうに遊説して廻っている。
 それを聞いた彦根藩と大垣藩は、慶喜公がそういう気持ならば、積極的に討つわけには行かないなあ、と弱腰になってしまった。そこで一橋卿は、さような所存は毛頭ないから、充分に討伐するようにと永原甚七郎に言い渡されたのでありました。
 薩摩藩の人間がこういうことを言って来たということについては、もう一つ裏付けとなるような話があります。
 十二月十日に一橋家の探索人で渋沢誠一郎(成一郎)、即ち渋沢喜作のことで渋沢栄一の従兄です。この人が葉原宿の金沢藩の陣にやって来まして、
    「薩人が濃江諸藩へ離間策の言を放ったといふことが知れた。────この薩人は河田十郎といふ者で。拙者が濃州路で面会したから之れを詰問した所。大に困惑したが。押て之れを追及もしなかった。────薩人遊説のことは一橋卿に於て何等関知しないのであるから。否。寧ろ一橋卿の嫌疑を解くには。速かに武田の同勢を征討するに在り」
    と述べたということです。(『武田耕雲斎詳伝』下)
 薩摩の人が本当に好意でやったのか、その辺のことはわかりませんが、好意でやったにしても慶喜公にとっては非常に迷惑なことであり、益々立場が悪くなります。結局、幕府軍と戦いながらやって来る者が、慶喜公と充分に連絡が取れていて、慶喜公 が京都に迎え入れようとしている印象を与えてしまいます。
 ですから、薩摩の探索人や河田十郎などのように、「他の藩は手を出すな。」と言って武田耕雲斎一行を庇えば庇うほど慶喜公の立場は悪くなります。幕府は益々一橋総督慶喜公を疑います。慶喜公としては命取りになりますので、そんなことは無いんだ。彼らは幕府と戦っている賊徒なんだということで、討伐命令を出さざるを得なかったわけであります。
 こういうことが、慶喜公の気持を非常に苦しめていったのでありました。
 十二月十一日に、武田勢は新保宿に入りました。
 そこで今度は長州藩が密使を遣わします。「若狭・丹波、すなわち日本海側を通って長州へ来い。長州と一緒に行動しよう。」ということを勧めてきました。七十二歳の山国兵部は「是非そうしよう。ここで自首しても我々は滅ぼされる。華々しく一戦を交えるためにも長州へ行こう。」と主張しましたが、耕雲斎が言うには(『武田耕雲斎詳伝』下)、
    「夫れ我が徒の国を去る正邪を明らかにし。先君烈公の遺訓を遵奉し外夷を掃討し。以って国威を宣揚せんとするに在った。────至願禁闕に達するに在るのであるが。命か運か今此に主君に等しき二公(慶喜・昭武)に敵することは。臣子の情。忍ぶべからざる所であるから。万事此に窮すといふべきである。従って我が徒の態度は此に決したのである。」
ということで、降伏を決意したのでありました。
 年が改まった慶応元年正月十八日、田沼玄蕃頭意尊が京都にやって来て慶喜公に会います。慶喜公は田沼に対して、直ちに引受けになるよう申し入れます。かねて田沼が来たらそうする積もりでおりましたが、唯、武田耕雲斎達が一同に処刑されることを憂慮されていました。
 ところが田沼は慶喜公を騙しました。田沼は、
     「天下の公論も之れあり。最もよき公平の処置方でなくては。皇国人心の折合もあり。別して常野にも之れと同様。降伏の徒も之れあるから。その処置は一致せねばならぬ。」
というようなことを言ったそうです。(『武田耕雲斎詳伝』下)
 田沼は「不公平な取り扱いは致しません」と言うので、慶喜公は、まさか耕雲斎達があのような処置を受けるとは想像もしていなかったと思います。
 永原甚七郎達も助命嘆願をしていますし、朝廷でも盛んに武田耕雲斎達の助命嘆願をしておりました。永原達は、出来れば加賀藩が預かって能登半島あたりに移して、暫らく生活させようという事まで考えていたという説もあります。皆が耕雲斎達が処刑されることを避けようと努力したのでありました。
 後に『昔夢会筆記』の中で、慶喜公は次のように答えています。
     「江戸の方では、武田が私等と気脈を通じているとこう見ているのだ。────それで降伏するまでの手続きはちゃんと付けて、それぞれ加州はじめへ分けて預けた。で、田沼玄蕃が 受け取りに来るというから、それを待って玄蕃が来たところで田沼へそれを引き渡した。御 引渡し申す、受け取った────、それまでで此方の手は切れた。それから後の処置は田沼がやったんだね。」
 慶喜公の立場は、武田耕雲斎達を京都の手前で、京都の町に入らないように抑える。それが禁裏御守衛総督の役目でありました。降伏した者を受け取るのが、常野の浪士達を取り締まる田沼の役割でありました。慶喜公としては渡さざるを得ないわけです。
 ただ、その後の処置が、まさかそこまでやるとは多くの人達は考えなかったのであります。見事に田沼にしてやられたのであります。そしてこれが明治の初めの時代まで尾を引く、深刻な悲劇、悲惨な状況を生み出す原因となってゆくのであります。
 慶喜公は非常に悩まれたと思います。決して、簡単に田沼に渡してしまったという事ではなく、また討伐を喜んで買って出たわけでもありません。立場上どうしてもそうしなければならない総指揮官としての悩みがあったと思われます。


 4 徳川宗家相続と将軍就任

 さて、最後のところで、徳川宗家相続の問題になりますが、慶応元年において、天狗勢の処置が終ったあと、慶喜公が最も意を注いだのは何かと言いますと、条約勅許であります。
 安政五年の通商条約調印の際に勅許が得られませんでした。それからずーっと此処まで来ています。ですからこれはきちっと勅許を戴くことが第一でありまして、ここで慶喜公は命を懸けたと言われています。
 後に慶喜公は回想して、三度死を決したと申されております。
 一回目は、禁門の変の時に御所をお護りする為に、二回目はこの条約勅許の奏請の時、何時襲われるか分からない中で、十月五日に勅許を得るのであります。第三回目は、江戸城攻撃の時であったと言われています。
 慶応二年正月二十一日には秘かに薩長同盟が成立します。六月七日には第二次長州征伐が開始されました。将軍家茂は大坂城に出陣致します。しかし七月二十日家茂は二十一歳で亡くなります。困ったのは幕府です。なんとか将軍の後継ぎを考えなければなりません。そして白羽の矢が立ったのが慶喜公でありました。
その将軍就任当時の様子については、慶喜公自身の言葉でまとめたいと思います。資料に掲げました『昔夢会筆記』第一の「将軍職を襲ぎ給いし事」をご覧ください。一読します。
    昭徳公(将軍家茂)薨じ給いし時、板倉伊賀守(勝静、後に松叟と称す)永井主水正(尚志、後に介堂と称す)は御遺命と称し、予に相続を勧めてやまず。予は、
     「先年御養君の一件ありて、」(但野註、十四代将軍の継嗣問題のことです)
     「予に野心ありしごとく世に伝えられしことあれば、今もし足下等の言に従わば、いよいよ世評を実にするものなれば、受け難し」
    とて拒みしに、両人は、
     「仰せ誠に御道理にはあれども、今国歩艱難の際、貴卿ならでは局に当り給わん人なし。とかくの御議論なくして受けさせ給うべし」
    という。されど予は、なお辞して聴かず、
     「たとい朝廷より御沙汰ありとも御受けはすまじ」
     といえるに、両人は、
     「決して朝廷の御沙汰を請うようの事は仕らず。ただ誠意をもって、貴卿の御許諾を待つのみなり」
    とて、それより後は日ごとに来りて、「今日はいかに、今日はいかに」と迫るのみなりき。
    されば予もこの間に思い運らす節ありて、密かに原市之進を召して衷情を語り、
     「板倉・永井の両人には、先年の御養君一件をもって辞とせしも、実を云わば、かかるこかに成り行くらん思い計られず。
    いずれにしても、徳川の家をこれまでのごとく持ち伝えんことは覚束なければ、この際断然王政の御世に復して、ひたすら忠義を尽さんと思うが、汝の所存はいかに」
    と問えるに、
    (此処が大事なところですね。もう徳川家はだめだよ。持ちこたえることは難しいのだから、この際王政復古をしようと考えるのだが、そちは、どう思う。と市之進に聞いたわけであります。慶喜公の王政復古の考えは、土佐の山内容堂(豊信)が勧めたからその気になった。大政奉還を決めたというのではない。もうこの時に決心しているんですね。ただそれを言い出す。発動するチャンスというのが難しい。)
    市之進は、
     「御尤もの御存寄なれども、もし一著を誤らば非常の紛乱を招くべし。第一かかる大事を決行するに堪うる人の候や。今の老中等にては、失礼ながら仕果たせらるべしとも思われず。また人材なきにあらざれども、今の御制度にては俄かに軽輩を登庸して大事の局に当らしめ難し。さればむしろ力の及ばん限り、御先祖以来の規範を御持続ある方よろしからん」
    といえり。かかる次第なれば、予もいまだ政権奉還をこの際に決行するを得ずして、遂に板倉・永井を召し、
     「徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わん」
    といいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。
    (ということで、八月二十日に慶喜公は宗家を相続されます。)
     されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。
    (この外国との関係は慶喜公が最も気をつかったところです。要するに外国は、幕府だ朝廷だ、では無いのです。日本国として条約を結び外交関係を持つのですから、時の政治の表に立つ慶喜公としては、外国の信用を失ってはならない、ということが最も大きな命題でありました。ですから将軍職も受けないと日本が危ないということで、結局これも受けることになりました。)
     かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。
 これが、慶喜公が将軍になった時の心なのです。自分は幕府を葬る、その為の将軍である。そういう自覚であります。(慶応二年十二月五日に将軍に就任致します。三十歳でした。)
 とにかく誠心誠意、将軍になった以上は幕府の政治・軍制を改革して、外国の侮りを受けないような国家の基盤を作り上げなければならない。しかし最終的には幕府の幕を閉じる。政権を奉還し王政復古の実を挙げる。そこまで行かなければならないというのが慶喜公の考え。
 その慶喜公の心の根本は何か。まさにそれこそ義公(光圀)以来の「水戸の心」であったわけであります。
 以上、文久二年・三年、元治元年、慶応元年・二年と話をして参りましたが、最後に一つだけ申し添えておきたいことがあります。
 先程申し上げましたように、慶喜公は将軍になりました。「征夷大将軍」という名前は皆さんもよくご存じですが、正式に征夷大将軍に任命された時には、
 「正二位権大納言・征夷大将軍・源氏長者・奨学淳和両院別当・兼右近衛大将・ 右馬寮御監」
という長い名前がつきます。なお途中で、慶応三年八月には「従一位内大臣」となります。
 最後の「右馬寮御監」は、朝廷の律令制度の読み方では「うまりょうごげん」と読むのだそうです。
 こうして将軍職に就いた慶喜公は、慶応三年を迎え、その年の十月に将軍職を辞任することになりますが、この慶応三年以後のことは、特に大政奉還に関することは、次回に講座のまとめとして宮田正彦先生がお話し下さることになっておりますので、本日の私の話はこの辺でとどたいと存じます。長時間にわたり御静聴ありがとうございました。

               (平成九年十一月二日講座)
               (県立茨城東高等学校教諭)