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part17

大河ドラマ
 part17



   幕末志士と水戸藩
                  久 野 勝 弥


 皆さん受付の所で御覧いただけたことと思いますが、今回常磐神社のご努力で『常磐神社史』が刊行されました。御祭神の水戸義公、水戸烈公の事蹟につきましては詳しく記述されている処でございます。常磐神社の御祭神の事と共に、この神社が創建されて現在に至るまで、いろんな過程を経てきたという事に付きましては、詳しく記述されていますので御覧いただければありがたいと思います。その中に、私共の水戸学講座につきましても記述がございます。御参考までに御披露致します。
 本日は標題に掲げましたような題で、前回の水戸藩の中期の活躍を受けまして、これが幕末諸藩にどのような影響を与えたかということについてお話を申し上げたいと思います。水戸学を学んで諸藩に持ち帰って、明治維新の実現に大きな影響を与えたことで、最初に忘れてはならないのは吉田松陰並びに真木和泉守の両名であろうと思います。まずそのお二人について概略申し上げます。さらに明治天皇を補佐する立場にあった重臣としまして薩摩の西郷隆盛、土佐の谷秦山の子孫である谷干城、その間に介在致します有村俊斎こと海江田信義、この五名につきまして、本日はその概略を申したいと思います。
 最初に真木和泉守ですが、実は久留米藩の木村士遠という武士が水戸に参りまして会沢正志斎の塾に学びます。そのときに写し持ち帰ったのが、前回も御紹介ありました会沢正志斎の「新論」でありました。その「新論」を読みまして、非常に驚きまして、即刻水戸に行くと言って出て参りましたのが真木和泉守であります。真木和泉守の水戸に参りましたのは天保甲辰十五年であります。天保十五年西暦では一八四四年七月の事でありました。七月の二十日朝早く水戸の領内に入りました。道が大変広くて木が茂っております。こういう様子なので藩の政治がよく治まっているという事が感じ取られました。高岡駅に休みました。おそらく茨城町の長岡でありましよう。高岡と書いてありますが。長岡と思います。道を左に取りましたので千波村に入りました。千葉と書いてありますが千波だと思います。大体その間、一里有余の間でありました。大変木が茂っておって一軒の茶店もありませんでした。わずかに千波に入って農家を見付けましてそこで茶をもらい受けました。老農がおりまして水戸藩の政治が非常に充実しているという事をしきりに語る事でありました。午后水戸に入りまして伊勢屋彦六という宿屋に宿りました。風呂に入って、夕刻になるを待っておりまして、会沢正志斎翁に会う事が出来ました。「学制略説」という本を借りまして、持ち帰り、それをその夜写しました。「学制略説」は実は水戸の弘道館の建設に非常に重要な役割をする建白書の内容を持つ本であります。それを借りて帰りました。自分で「学制略説」を写すのですが、旅館の中は御客さんが非常に多くて雑踏耐え難いものがありました。午后たまたま会沢翁から使いが来まして小川修理という神主さんが来ているので会いに来られないか、という連絡がありましたので、すぐ駆け付けました。話が夜の九鼓(十二時)あたりまでに及びました。会沢正志斎はここの塾に泊まっても、---会沢正志斎の塾は南町の三丁目あたりにあったようであります。南町三丁目に会沢正志斎の銅像が作られています。あの辺りの事とお考え下さい。そこに塾が有りまして---ここに泊まってもいいのでありますが、いま御承知の通り天保十五年弘化甲辰の国難といいまして水戸烈公が幕府からとがめを受けまして、水戸藩全体が非常に苦しい情況にあります。従って自分の塾に泊まっていいのだけれども、どうもあなたが疑われると気の毒だと会沢先生が言われるので、その親切は感激に絶えないが、時勢がこういう情況にあるので、自分の事で先生の気持ちを患わせてはいけない。師弟の義において不可とする処であると、青柳の神主さんと話しあって青柳村の「米屋」という宿屋に移ったのであります。二十三日に再び会沢正志斎に会いまして種々色々話しを聞きまして、二十四日には太田に向かって西山荘を見学をして、それからまた水戸に帰ってきたのでありますが、そのときに自分の藩から使いが来まして、英船が長崎に上陸したので、直ぐ帰ってきて欲しいというので、詳しい話しをせずに真木和泉守は水戸を離れるのであります。その太田の西山荘・瑞竜山を見学する時に、日下部伊三治という人に大変世話になります。この日下部伊三治があとまた話しに出てまいりますので、注目しておいて下さい。
この日下部伊三治の案内で瑞竜山あるいは西山荘の見学をすることになります。
 真木和泉守は元治元年蛤御門の変に失敗をしまして、天王山に引き帰りまして自刃をして果てる訳でありますが、その真木和泉守に「信長論」という一文があります。その「信長論」の中には、
    右府性●(にんべんに周の文字)儻、大志あり、會々朝廷密使を発して之を勤はりたまふ、是に於て奮然大いに喜び、自ら意らく、朝廷もまた我を知りたまふか。内大難を平げて政を天子に帰したてまつり、外蠻夷を攘ひて、而して民を其の土に安ずるは、我の志なりと、また以為らく我に非んば則ち此の責に任ずるものなきなり。然ども此の喪亂を致すものは、由来する所遠し、能く尋常之平ぐる所に非ざるなり。若かず鼎沸する者は、之を盪滌し、魚瀾する者は之を振刷すること、譬へば雷霆の晦冥震動するが如く、万物を一洗して止まん、而る後始めてまさに禮楽刑政一に統べ、天下万民其の所を得べきなり。
 右府、これは信長であります。信長●(にんべんに周の文字)儻というのは才気優れて拘束されない。非常に奔放不羈である。信長という者は非常に才気高くて大きな志を持っておりました。たまたま朝廷では密使を発してこれをいたわり給ふことがありました。ここにおいて信長は奮然として大いに喜び、自ら思うに朝廷もまた私を知り給ふか、自分は内では大難を平らげて政事を天子に帰し奉し、外は外敵を攘いて、民をその国土に安んずるというのが自分の元々の志である。また別に考えるには、自分でなければ(信長でなければ)、この任務を果たすことは出来ないであろう。さらにこの戦国時代というものも平定することは出来ないであろう。この騒乱というものは由来する処は、非常に遠くにあるので、百年に及ぶ争乱が続いておりますから、尋常のことではこれを平らげることは出来ないであろう。鼎沸、鼎が沸き返るような混乱というものは、その鼎をひっくり返して、全部その湯を捨て去るということをしなければ、争乱というものは収まらないであろう。魚瀾これは魚のはらわたが腐って来る、そういうような政治の情況、まあ現在の政治もそれに近いと思いますが、はらわたの中から腐って来るような政治はそれを一刀のもとにプツッと切り捨てて、はらわたを切り取らなければ、平定することは難しいであろう、たとえばそれは雷鳴が空に震動して、一斉に雨が降ってきて、洗い流すという勢いがなければ、この戦国の時代というものは収まらないであろう。そして然る後に礼楽刑政が一つに統一され、天下萬民其の所を得べきであろう。即ちそういうような状態になって、初めてそれぞれの国民は其の所を得るであろう。このような意味のことが「信長論」の中で書いてあります。これは信長その人の事を言っていると同時に、幕末の置かれた状態、いま幕末の志士が活躍している時代の事をダブらせて、真木和泉守がこの論を書いている事は言うまでもありません。時代が両方ダブっているという事は言うまでも無いことです。以上のように信長の心情を察し、自分もこうでなければならないだろう、と考えているところであります。そして今述べたような事が実現出来なければ天下万民其の所を得る事は出来ないであろう。そのためには人を採用するのに外国の人であっても採用しなければならないのだ。賊といえども才能があればそれを採るし、あるいは乱暴で道理にもとるような事があったとしても、それは全部権謀なんだ。これが信長の言ったことでありますが、信長の胸中には一定する考え方、確然としたものがありまして動かすことは出来ないのである。こういうように言っております。
 その天下万民その所を得せしめるというところが、これが真木先生の政治理念であります。皆さんも何回かここでお聞きになられたと思いますが、民主主義というのは多数決でありますから、少数派が意見を無視されます。今度のアメリカ大統領選挙にあっても、一州で一票でも採ったものが、その大統領を投票するそういうような仕組みになっております。少数派は無視されます。ところが崩壊しました共産党政権におきましては、共産党という少数のものでなければその政権を担当する事が出来ない。それに対しまして、真木先生が考えられたところは、天下万民その所を得せしめる。国民が全て公務員になったら農業をする人が無くなります。労働者が無くなれば生産は出来なくなります。天下万民其の所で、自分の能力を精一杯に発揮出きるような、そういう政治形態、これが明治の理想であった訳であります。真木先生は元治元年天王山で自刃され、その後で、明治維新は実現しますが、その時に明治天皇は何んと仰せられたかといいますと、宸翰の中で、「天下万民其の所を得るような政治をしたい。」と仰せられております。「天下万民其の所を得せしめてなければ、朕が罪である。」このように仰せられております。その理想というものは、すでに「信長論」の中において、真木先生の考え方の中に出来ていたという事であります。水戸の学問の影響を受けまして、まず真木先生が久留米藩に水戸学・天保学を導入し、久留米藩を大いに改革した事であります。
 続きまして吉田松陰の「東北遊日記」の中からご紹介を申し上げたいと思います。嘉永四年(一八五二年)から嘉永五年にかけまして、松陰先生は水戸に参ります。吉田松陰が水戸で感激した事はいろいろあるのでありますが、時間の都合で、今回は嘉永五年(一八五二年)の正月の十七日の条、二十日の条と二十三日の条だけをお話致します。まず正月十七日晴、会沢を訪ふ。会沢を訪ふこと数回になるけれども、いつ行っても会沢先生は酒席を設けて接待をしてくれました。水府の風というのは他の国の人に接するときに非常に歓待優遇することが多くて歓然として歓びを交えて、心胸を吐露して隠す所がありません。本当に良くきてくれたと、心から歓迎をして、自分の考えていることを全部話してくれた。水戸の学問と言うものは完成するためには、このような地道な努力があったのだ。必ず有用なものを書記する。ただ書きとどめて置くだけでは無くそれを分析して検討を加えている。それが天下の事情に通じている理由なのではないか、こう記しています。
 二十日には永井政助という人の所にわらじを脱ぐのですが、その永井政助の家が実は先程言いました南町三丁目の裏側、現在のセントラルビルの辺りにあったという事であります。そこが永井政助の家の跡で、そのところに、今日お見えの名越時正先生が解説を書かれて、次の歌が刻まれておるのであります。実は水戸で他藩の人の文字が石碑に刻まれたのは恐らく初めてではなかろうかと思います。
    四海皆兄弟、天涯比隣の如し。
    吾れ山陽の陬に生れ、来って東海の浜に遊ぶ。
    長刀快馬三千里、路を迂げて水城に先づ君を訪ふ。
    一見天を指して肝胆を吐き、交際何ぞ論ぜん旧と新とを。
    席を分かつこと三旬にして吾れは去る、眦を決すれば奥羽万重の雲。
    浩然の気は天地に塞がり、東西何ぞ嘗て疆畛あらん。
    一張一弛あるは国の常、之れを張るは其の人に在り。
    澹菴の封事金虜を愕ろかし、武侯の上表鬼神を泣かしむ。
    大義今に至って猶赫々たり、丈夫敢へて車前の塵の望まんや。
    見る君年少にして気義を尚び、白日剣を学び夜文を誦するを。
    斗●(たけかんむりに肖の文字)の小人何ぞ数ふるに足らん、負くなかれ堂々たる七尺の身に。
    吾れ亦孩提より斯の志を抱き、韜略を将って国恩に報いんと欲す。
    聚散離合は意とする所に非ず、誓って功名を将って遥かに相聞せん。
松陰先生が長州から来られて自分の気持ちを述べている詩が原文のままで刻み込まれて居ます。碑は平成二年三月に建てられました。碑文には解説もありますので、読んでいただければ有りがたいと思います。二十三日には野口雨情の先祖の所に行ってから奥州に赴く訳であります。大津浜を通ったところで、二十八年前の文政八年の大津浜事件の事を書いております。大津浜事件の事につきましては、この前に講義の中にあった事ですから詳しくは申し上げませんが、この大津浜事件の時に会沢正志斎が「暗夷問答」という本を書いています。
 この中で大津浜事件の詳しいことを述べているのですが、英人が四隻のボートに乗り十二人上陸致します。会沢正志斎は飛田逸民と大津浜に急行しました。世界地図と着物の色で調査をするわけですね。「おまえさんの所の国旗はどういう国旗だ」ユニオンジャックの国旗で、ここが赤でここが白、ここが青だ、「おまえの隣の国はどういう国だ」フランスという国があるんだ。その三色旗を掲げまして、ここが赤でここが青だ、全部調べあげております。「おまえさんのその国はどういうような言葉を使っているか」ABCDと書いて、振り仮名はアー、ベー、ツェー、デー、エー、エフ、ゲーと振り仮名を振ってあります。「何しに来たんだ」、絵を書きまして、これ(鯨の図)取りに来たんだ。という風に書いて居ます。幾日かかったんだ。月が満ち欠けして三十日掛かった。と書いて有りますね。それを全部会沢正志斎は手真似と、地図と衣服の色で調べあげるのです。「おまえの所は今どうゆうふうになっているか」ナポレオン戦争をやっていて、フランスとあんまり良くないんだ、というような事を調べ挙げている。それからインドから清国まで全部おれの所の領地だ。その掌の下に日本列島が何回やっても入ってしまう状況を会沢正志斎は見逃さなかったわけで、それでイギリスは日本を侵略の意志ありと考えるのであります。一方幽谷先生も「これは斬らなければだめだ」と考え、自分の息子の東湖先生に命じて、「おまえ行って斬ってこい」と言われて、死を決して出向くわけですが、幕府の命令で英国人は追放されてしまいます。これは前回お話の有ったところであります、その後に、すぐに会沢正志斎は「新論」を書き始めるのです。「新論」というのは水戸藩の攘夷論を代表する。そしてその「新論」を松陰先生も真木先生も非常に驚いて読んでいる。それが天下を振動させた大きな理由です。実は水戸藩が諸藩に注目された一番始めは攘夷論ではありません。最初は民生でありました。あの天保の飢饉の時、一人の餓死者を出さなかったという事で、水戸ではどのような政治をやっているのだ。これが諸藩の水戸を注目する一番始めの理由であったのです。その後水戸の藩情を調べて見ると民生ばかりではない、教育も充実している、検地もやっている、学校も造ろうとしている。攘夷論が展開されている。軍事教練も実施している。そして大砲も作り軍艦もつくろうとしている。これは大変な事だ。さらに民心を一つにしなければだめなのだ、というところまで考えている。こういうことを知って諸藩の人々が非常に驚いて遊学してくるのであります。吉田松陰は水戸から帰りまして、すぐに手紙に、「身皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らず、急ぎ帰りて六国史を読む」と書いています。六国史を読んで、何をそこから学んだのかということなのです。どうも古代の歴史を読んで日本の国体論に目覚めたという事ばかりではなかったようであります。国体論に関連して、三韓征伐のように、古代においては天皇を中心にして、日本が一つにまとまっていて対外政策を実行していた。あるいは、外交政策が一定していた。これを長州藩とか薩摩とかばらばらに別れていては対外政策は難しいものではないか。これを一つにまとめなければ外交政策というのは出来ないのではないか。古代においては天皇を中心にして一つの外交政策にまとまり、場合によっては武力をもって、外国を討伐されることもあった。このような雄図、雄大な規模の歴史が六国史に書かれている。そこのところを勉強した。松陰先生の書かれた書物を見てまいりますとその辺の所が書いてあります。六国史を読んで一番感激したのは、天子が一系であって連綿と続いているという国体論と共に、天皇を中心にして外国に対していることを知ったからであると思われます。その他には水戸には人材が多く輩出していること、宗教政策が徹底していること、教育に見るべきものがあることを注目しております。これらの事を水戸から学んで帰られ、それを長州藩の政治に採り入れようと、努力をし、自らも松下村塾を作って教育に当たられる事になります。

 松下村塾で学んだ伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋、そういうような人々が明治維新になりまして、明治天皇を補佐し申し上げた事はここで言うまでもありません。長州が明治維新において非常な大きな活躍をした事を申しあげておきたいと思います。先程出ました織田信長ですが、信長が水戸義公と非常に似ているのではないかと言うことを、恩師から伺った事があります。それはどういうことかと申しますと、義公も、信長も非常な不良少年であった。あの尾張のウツケモノといわれて、どうにもならないような腕白少年であったのが信長、義公も十八歳の立志までは大変な不良少年であった。ところが翻然として悟った後は、まっしぐらに目的に向かって努力をしていった。心を皇室に寄せて日本を一つの国家にしようとした。戦国中世と言うものを終らせたものは信長であるが、近世近代の幕明けを展開させたものは家康ではなくて、家康の孫である義公ではなかったか、近世の学問思想というものが、これ程隆盛になったのは全て水戸義公のところから発していると考えられる。義公は僧契冲に「万葉集」の研究をさせたことが、国学の発展のもとになったことはご承知の通りであります。従いまして国学を育て上げたのは水戸の義公であります。それと水戸の「大日本史」の編纂過程で、山崎闇斎の門流の人々が「大日本史」の編纂に非常に多く参加致しました。栗山潜鋒、三宅観瀾、鵜飼錬斎、鵜飼尚斎というような人々です。ところがその先生であります山崎闇斎と水戸義公は、会津の保科正之邸で同席し、義公は山崎闇斎の講義を聞いておられます。義公はそのときに眠ってしまった。山崎闇斎は「中庸」を講じたようであります。「中庸」のどこを講じたかを考えているんですが、二つの場合が考えられます。といいますのは、記録が会津藩の公式記録と水戸藩の中村顧言という人の書いた「中村筆記」というものと二つのものが残っているからであります。それで「中村筆記」の方は、水戸義公は山崎闇斎の話を聞いて途中で居眠りをしてしまって、保科正之が、「どうお聞きになりました。」と聞いたら、「自分は眠ってしまったので分からない」と答えて終わったと見えており、その後に、その頃、鬼神論が義公の回りで非常に大きな問題となっていたと書いてある。ところが、会津藩の記録には「中庸」を講じて、その時、性の論に及んで、義公は性悪説を主張して譲らなかったとあります。
 次に鬼神論という事になれば、「中庸」の第十六章を講義されたのではないかと思うのでありますが、それはちょっと考えられない。といいますのは、講義のことと鬼神論のことを「中村筆記」では別けてあるからであります。山崎闇斎の身辺の事について「中村筆記」の中には何カ条か記されている。さらに水戸義公は安井算哲という闇斎の弟子を水戸藩に呼びまして、天球儀を図に書かせてそれを将軍家に献上している。その安井算哲が義公からいろんな事を聞いてそれを闇斎に報告している。例えば水戸の義公は日本の事を倭国というのはいかん、また、中華、中国というのは日本のことなんだ。大陸の国は唐とか明とか云えばよいのだ。その内容を山崎闇斎のところに報告している。山崎闇斎は最初の頃は自分でも唐、明の事を中国と述べている。それがしばらくしますと自分でも唐、明を中華、中国ということを言ってはいかんという説に変わるんです。それから、安井算哲は水戸の義公は「孟子」という本が大嫌いだということを山崎闇斎に報告している。それはどういうことかというと、「孟子」には湯武放伐論、革命論が出てまいります。義公はこれを好まないんだという事を、安井算哲が山崎闇斎の処で言うのです。そうすると山崎闇斎はだまって聞いていて、そのことについては否定も肯定もしなかったというのです。後に山崎闇斎も「孟子」否定の立場に立つのですが、水戸の義公の考え方というのは山崎闇斎の方にずーっと入り込んでいるのではないか、山崎闇斎の学統が水戸の「大日本史」編纂の方に大きな影響を与えている。これは否定しません。否定しませんが、その根本は義公に始まっているのではないか、ということを考えています。間違っていましたら後でご指導願います。そういうことが義公と山崎闇斎という人の間にやりとりがあって、闇斎学派の中にも水戸の義公の影響というものが考えられるのではないか。そうしますと、国学のほうにも、水戸の義公の考えかたが入りますし、山崎闇斎の考え方の中で、特に「孟軻論」と「中国論」とはどうも義公の考え方を山崎闇斎が取り入れたように思われる節があります。明治維新を醸成した三つの学問、即ち、崎門学と水戸学と国学と、その種を播いたのは水戸の義公である。即ち近世、近代と言うものの学芸を勃興させたのは水戸義公であると言えると思います。信長が中世を終焉させたのであれば、義公が近世の花を開かせた。二人の人物をこのように対比させて考えることもできるのではないかと思うわけであります。
 話が途中で切れてしまいましたが、西郷隆盛に移りたいと思います。西郷さんの関係の資料はたくさんありますが、その西郷さんは「水戸の党」なんだということを山路愛山という歴史学者が文章にしておりますので参考の為に掲げました。この山路愛山という人は幕臣であります。そして後に徳富蘇峰の「国民新聞」で歴史評論を書いております。山路愛山は、西郷隆盛という人は九州に育ったけれども水戸組なんだ。水戸党なんだ。その活躍というのは全部水戸の範畴で行なわれていることなのだ、と言うことを申しております。
    人の善に感じ易かりし西郷が東湖に於て理想の豪傑を発見したりしこと敢て怪むに足らざるなり。是より後西郷及び同志者は数ば東湖、其外の水戸人と往来したりければ、朱に交れば赤くなると云ふ譬に泄れず、自ら水戸流れの思想に薫染したり、安政一年八月西郷が江戸より国に在りし樺山三円に与へし書に幕府にて有名なる儒者に謁見を賜ひしことを報じ、兼て西郷の徒が慕ひ居りし水戸の会沢伯民も、それが為に出府したり、会沢には兼ねて面会の機会を得たしと思ひ居りしに奇妙に望が達したるは嬉しきことなりと云ひ
    越前の矢島錦助と申人、霊岸島の下屋敷学問所に被罷居、至極閑所に而津田企に而柳川池辺藤左衛門、原田、月々両度づつ定日相定め、朝より終日の会にて誠に面白、先度共は貴兄の噂共津田仕出申候。御遠察可被下候。皆々水府与にて至極深密の談話に相及び雄会催候
    と結びたるを見れば熊本の津田山三郎、越前の矢島錦助、柳川の池辺藤左衛門、薩摩(水戸)の原田才助(八兵衛)、西郷と共に水戸学の信者にて会沢の新論などは其信仰個条の様に読まれたることを察するに堪えへたり。
水戸の面々と薩摩の面々あるいは越前の矢島、土佐の人々が霊岸島に集まって勉強会をやっているということで有ります。西郷さんの心底に水戸の学問というものが染み込んでいた。ということがこれでお分かりで有りましょう。そのあと東湖先生が安政の地震で亡くなった後に、樺山に与えた書に「頓と此限にて何も申口は無御座候」なんとがっかりしたことか、もうこれ以上何にも言うことばがないという手紙を書いているのであります。
    西郷並に其仲間は薩人の子にして薩摩の臣たりしには相違なかりしかども、思想の上より云へば概して水戸学に感染し、水戸氏を尊敬したるものなりと云ふべきは前文に説く所の如し。されば日下部伊三次が実父の古主薩摩に帰参せし時も西郷は大いに之を喜び水戸の家風を熟知し、水戸家に在りし時、同家の為に尽力し身の危きをも思はざりし此壮士を尊敬し、数ば会見して之を益友としたり。
とも書いてあります。
これが山路愛山の西郷隆盛論であります。即ち西郷隆盛は水戸の範畴で動いた人なのだ。ということをはっきりと明言しております。そしてさらに西郷を内村鑑三が「代表的日本人」としてとりあげ、そのほかいろいろな人々が西郷を悲劇の人であるけれども、度量の大きさによって、明治維新における大功臣と評価していることであります。
 次に海江田信義が西郷さんと藤田東湖先生のことについて一文を書いております。これをご紹介致します。
    一日、西郷・津田山三郎(肥後)鮫島庄助(薩摩)と共に藤田翁を訪ふ、翁談論の序次、三士の気禀を評して曰く、西郷子は勇者の資あり、津田子は仁者の資あり、而して鮫島子は智者の資あり、而して余は孰れに属せんか、敢て三子の評を買んと、鮫島卒爾として答て曰く、先生の人為りや、智仁勇を兼具せりと、翁儼乎として叱して曰く、嗚呼、子の余に於るや、交日猶浅し、而して子は何に由てか余の三徳を兼ぬるを知認せしや、余の未た三徳を具へさるは、余の精神自ら既に之を識れり、曷為れそ子の評語を博して、自ら妄信すへけんや、余か子等を評するに、智仁勇を以てすれば、直ちに採て余に三徳を属するか如き、是れ即ち余か子を評して、智者の資ありと称する所以なり、然れとも斯の如きは、即ち真正の智に非ず、所謂智術に属するものなり、夫れ真の智者なるものは、智を以て主とすと雖も、未だ須臾も仁と勇とを離れす、智中常に仁勇を有せり、苟も仁と勇とを離るの智ならは、決して真智に非さるなり、仁と勇とに至ても、亦復然り、仁にして智勇を離れ、勇にして仁智を離れ、仁中に智勇なく、勇中に智仁なきか如きは、真正の仁と勇とに非さるなり、是を以て智にして苟も仁勇を離るるときは、智者は反て邪智狡獪の徒に陥り、仁にして苟も智勇を離るるときは、仁者は変して因循姑息の徒となり、勇にして苟も智仁を離るるときは、勇者は化して匹夫の勇と為り、俗に所謂短気短慮に失するの暴徒と為るなり、豈深く戒慎せさるへけんやと。三士皆敬服せりとそ。
 これは東湖先生の人物評と教育論として非常に面白い。「お前さんは頭がいいよなぁ」と云っておいて、ところで私はどういう風に思う。といったら鮫島庄助が図に乗って先生は三徳を兼ね備えているという。お前が智者だというのは、そういう言い種を言うから言ったのだと、しかり付けるわけであります。そして更に教えて言うには、本当の智者は頭がいいだけではだめなのであって、人々に対する愛と敢然とした勇気をもっていて本当の智者といえるのだ。と教えたと書いてあります。この海江田信義の筆記をまとめたのが河西称という人でありますが、その人が後に評論を加えて次のように述べています。
    称曰く、翁の三士を訓戒する所、実に金科玉条なり、然り而して三徳を具備するの人と雖も、運用其宜を得るに至りては、吾人常に其難きを見るなり、西郷其人の如きは、維新の元勲中、最も其魁たるもの、豈三徳兼具の大家に非すや、然して征韓の議、一たひ廟堂に諧はさるに方て、容易く冠を挂るか如きは、之を勇退と称すと雖も、素志の貫徹せさるの原因亦巳に是日に胚胎するを知らさるものの如く、且つ其官軍に抗敵して、賊名を鳴らさるるか如きに至ては、愈々志を失ふに至るや固よりなり、顧ふに西郷其人にして堅忍以て廟堂の重に任し、諄諄乎として上下の人心を収攬し、以て時機の熟するを期せは、復熟れか之を非議せん、然るを其計終に此に出さりし所以のもの、安そ知ん三徳の運用其宜を誤り、短慮に失せし者に非さるなきを、当時翁の訓戒する所、果して見る所あるものの如し、翁の炯眼実に畏るへき哉、翁又一日西郷に告るに、王室の親政を復すること、及ひ之を図るに斉彬公を推て之か主動者とすること、且つ人心凝一有形無形惟一の国力を挙ることを以てす。西郷感激に勝へす、而して、翁に答ふるに、斉彬公に謁する機会を得ること甚た至難なることを以てせり。
 有村という人は実は薩摩の茶坊主でありました。江戸時代には身分制度がはっきりしていまして、士農工商の別ははっきりと固まっていて、どうにもならないんだというように言われておりますが、水戸藩の人材登用はどういうところで行なわれたかというと、「大日本史」編纂の彰考館がございました。実は東湖先生の父君、幽谷先生は、その祖先は農村から奈良屋町に来まして古着屋をやっていた。その古着屋の息子であった幽谷先生が、抜てきされまして、彰考館の書き役、そこからどんどん登用されて武士になっていったのであります。決して身分が固定していて固まっていたとはいえないのであります。それと同じ事は高萩の赤浜の長久保赤水という地理学者にも言える事でありますし、水戸藩では彰考館の学者として人材を登用したのであります。
 薩摩藩では藩主に一番近付く事のできる近道は茶坊主になることでありました。有村の家には、一番上に俊斎がおりまして、その次に一人いて三番目が雄助、四番目が治左衛門です。この治左衛門が桜田門で水戸の浪士と井伊大老の首級を上げたわけです。兄の雄助は逃げまして、浜松辺りまで逃げるので有りますが薩摩藩士に捕らえられまして、薩摩藩に送り帰されます。雄助は自分等の功績を藩は認めてくれるだろうと思って帰りましたら、おまえ一切の責任を取れということで自刃を命ぜられます。先程、出てきました日下部という人が居ましたね。その日下部伊三治は讓夷の密勅を水戸に運ぶことに努力を致します。其の密勅を水戸藩に届けたために捕らえられまして、子供の裕之進と共に切復を命ぜられます。主人と子供を失った日下部の奥さんは娘さんと共に有村家を頼るんです。
 その娘さんを俊斎が見初めまして、それではというので日下部の娘と俊斎は結婚するのです。そして日下部の旧姓であった海江田姓に戻ったのです。俊斎が海江田信義というようになるのはそういうことです。さらに言うならば海江田信義は明治になりましてシュタインという人の憲法学を聞きます。その憲法学を聞きましてこれを講義録として、明治憲法の制定に大きな貢献をしています。「シュタイン氏講義」というものを作りました。その根底にはやはり水戸の学問があった。明治の憲法の制定は迂余曲折があった事でありますが、海江田の活躍というものを忘れてはならない。東湖先生と薩摩あるいは海江田信義の事は、この一つのエピソードに限らない。東湖先生が海江田に対して、「あるいはおまえさん君子になりたいか、君子になりたいのであればどうやったらよいか」「分かりません」「おまえさん本を読むか」「読みません」「自分の考えで行動します」「君子になりたいといっていて本を読まないというのは一体どういう事だ」「君子になりたいと言えば、こうこうこういう人が君子であろう、その人に直接会うことは出来ない、会うことが出来るのは読書以外にはないではないか」このように読書をすることを東湖先生が教えたことなどが書かれています。これは海江田信義が非常に東湖先生の教育に感激をしまして、「実歴史談」に書いているのですが、「実歴史談」の第一巻は全て東湖先生で埋まっているというくらい多くのエピソードが載せられております。水戸との関係では、越前、長州、久留米などについては、いろいろ言われておりますが、薩摩についても水戸の学問がこのような型で定着していたということがお分かりいただけたことでありましょう。
 最後に谷干城についてお話をしたいと思います。実は西南戦争の時に、西郷隆盛が、何としても大久保のやり方に我慢がならずして、あるいは不本意ながら兵を挙げなければならなかった。一時は九州全体を平定する勢いで有りましたが、そのときに熊本城に入って、熊本城を死守したのは谷干城将軍であります。その谷干城という人の先祖は谷秦山は実は義公のころの人でありました。谷秦山が「水戸藩に仕えた」いうことを書いてある本があります。義公と山崎闇斎との関係を調べるきっかけになったのですが、実はその谷秦山は山崎闇斎の弟子であります。山崎の弟子であると共に安井算哲の弟子でもあります。安井算哲が闇斎先生から聞いた事を谷秦山に伝えるのです。水戸ではこうだ、水戸の義公さんというのはこういうことなのだ。谷秦山は土佐にいて水戸のことをよく聞いている。非常に感激して義公は恐らく近世の学問の始まりでは無いだろうかと言うので「西山遺事の後に書す」という文章を書いている。その「西山遺事」というのは「桃源遺事」のことで、この「桃源遺事」も実はこの常磐神社で、先年義公の三百五十年祭が行なわれました時に、「水戸義公伝記逸話集」という本を作りまして、その中に収められたのでありますが、そこにも谷秦山の跋文が書いてあります。そこにはどのように書いて有るかといいますと、
    西山遺事は水戸の臣等其の主西山の行実を紀すなり。西山剛方正大の気、孝友忠純の誠、固より至性に出でて、其の国を譲りて以て彜倫之叙を全くし、嫡を正して以て邦家の本を立てると夫の皇統を正閨し、春秋の権を寓し、礼儀を辨裁して蠻夷の衝を折とは、事みな天理民彜の源に関はり、意実に経綸建立の奥に根差ざす、学問の功大なる哉と謂つべきなり。
と述べ、さらに
後水尾天皇が御即位になられまして、そのあと家康が将軍になってから政治というものが良く治まりました。そして百年経っております。教育がだんだん広がりまして、上には土津霊社、これが会津の保科正之です。また水戸の義公のような人がありました。下には垂加翁のような、これは山崎闇斎のような人がありました。
そしてそれらの人々は相共に、正学厚徳を以て初めてこの道を千載の後に挽回し、この三人が日本の学問を、千載の後に挽回してそれを発揮引重して余力を残さず、吾朝の中興の祖となったのだ。後の世に政治を願う人が出てきて、あるいは学に志す人が出てきて、其風を聞いて恐らく感憤興起しないものはないであろう。自分は、それは後世にも大きな影響を及ぼすのではないかと言うことを予想して三嘆するのだ。自分は、自分の知識ではこのことの判断が難しいけれども、後に生まれて来た人が考えて、百年の後に論定まったら自分の考えを訂正してくれ。自分はこの三人によって、近世の学問が開け、天理、道徳というものが、確立したと確信する。そういう跋文を書いているわけです。まことにみごとなもので三百年後の明治維新を予言しているようなところがあります。
 時間がなくなってまいりましたので話しを進めますが、秦山は「大日本史」を読みたい。「大日本史」を読みたいのですが手に入らない。そこで自分はなんとかして「大日本史」がほしいというので、「大日本史」という上書きをした箱を作って、自分の子孫にここに「大日本史」を入れるようにと遺言して死んでいくのであります。その子供が垣守というんです。垣守は垣根を守ると書くのです。自分の子供に言うのには、自分はお前に残す物は何も無いかも知れないけれども、自分の学問を残す、お前はもし京都に何か異変があった場合、直ぐさま京都に行って、御所の塀の、土塀の土となって死ね。それで垣守と名前を付けるのであります。その垣守が父の遺志を受け継ぎまして「大日本史」を探すのでありますが、手に入らないのであります。その次が真潮というのです。秦山の孫にあたります。孫の時になって、ようやく「大日本史」を筆写することが出来ました。殿様の教育係をやっていたので、若殿様に頼んで大殿様に願い出て藤堂家に伝わっている「大日本史」を借りて、写させてもらいました。三年がかりで、二本写すのです。一本は自分の所蔵とし、一本は土佐藩の山内家の所蔵と致しました。それが完成した時に書きましたのが次の一文です。
    谷真潮「大日本史の後に書す」
    今繕装成ってこれを祖父秦山銘する所の櫃に蔵む。三世夢寐の宿志今にして償ひつくすことを得たり。嗚呼若し祖父秦山にして還へり給ひ、父垣守にして世にあらば、雀躍の状如何ならん。今業を卒へて感慨に堪へず、本末を詳録して子孫に知らしむ。夫れ父祖の畢生此の書を夢寐したまひし所以のもの、豈この書の帳中の奇秘なるためならんや。ただこれを以て道となすがためのみ。子孫たる者この意を體して失墜することなかれ云々。
最後の方に、これは秘本であるから写すというのではないのです。ただこれを以て道となすがためなのです。「大日本史」をもって道義、道徳の中心とするがために自分で写したのだ。だから子孫たるものは、この意を体して失墜することなかれ。「大日本史」を大切にしなさいということを言っているのであります。
 その孫に当たるのが、直系ではないのでありますが谷干城なのです。その谷干城が西南戦争で、一方は熊本城を守り、一方の西郷軍はそれを攻撃する。しかしその西南戦争が、悲劇ではあるけれども、その悲劇が西洋に見られるような非常に骨肉相苦しむものでないのは、同じ学問、思想のもとで育まれた日本人の一体感があるからであって、これが民族が違い、宗教が違ったら、どうにもならない戦争になってしまうだろうと思うのであります。そこのところに同じ日本人であり、同じ学問の流れの中で育った人々が争った、この戦争は歴史の悲劇でありますが、その後、さっと水に流せるという、そういうような気風というのも、同じ学問が底流にあるからだと思うのです。谷干城と西郷隆盛を出せば話は明治十年の西南戦争に行かざるを得ないのでありますが、そういうような事を感じます。
 最後に、私は学問というものは、このように継続させて行かなければならないという事を思います。谷秦山の「大日本史」を読みたいという念願が孫に伝えられて、それが谷家代々の学問に成って行ったように、学問とは継続し連続させて行かなければならないものだと考えます。谷干城は実は西郷さんとは、明治の初年では仲が良かった。谷干城は「私は御維新の戦争前、慶応四年頃に、色々老西郷の世話になり、万事の指図を受けたものである。」と、述べております。
 結論と致しまして、真木和泉守から吉田松陰、さらに西郷隆盛、谷秦山と見て参りました。どの人一人をとっても水戸の学問というものが、骨身になって、定着をしていく、そして水戸学が、それらの人々の肉体を借りて明治維新というものを展開し、明治の御代というものを構成していったと思うのであります。残念ながら明治以降において水戸は表面だって明治政府に、明治の歴史に踊り出る事はありませんでした。しかし学問思想と言うものは他人の肉体に宿って展開するような場合もあります。水戸の学問は皆さんのように理解していただける方ばかりでは無い。あるいは「今何で水戸学か」という評価を受けるかもしれない。しかし必ず何時の時代にかまた、花開く時代があると思います。東湖先生が「本邦の貴ふへき所以のもの、海外萬邦に卓越するものあればなり。萬邦に卓越する所以のもの、一に皇統連綿たる天然の帝国にして、人造に出たるに非されはなり」と言われておりますが、「人間が頭で作ったものは-民主主義であれ、社会主義であれ、共産主義であれ、-全部これは崩壊しますよ。しかし、歴史の中から自然の形で出来てきた日本の国柄というのは、絶対に変わりませんよ。」と言うことを東湖先生は海江田信義に説いています。その通りだと思います。その形と言うものがいま理解されないかもしれないし、また、歴史の中から生まれ育った水戸学ということもなかなか理解してもらえないと思うのですが、日本の国の形というものは、歴史の中から生まれ育った自然の形でなければ残らないものだのだという東湖先生の確信は正しいものであると思うのであります。
 本日は大変お忙しい所、お集まり戴きましたことをお礼申し上げ、これをもって私の話しを終わらせていただきます。

        平成4年11月講座
           茨城県立常北高等学校教頭---当時---