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  • 蛤御門の変(禁門の変)



 元治元年(1864)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い、禁門の変ともいう。前年の8月18日,尊攘派の勢力を一挙に京都から追放した政変で、長州尊攘派に擁せられた三條実美以下七卿は長州に下ったが、翌年、京都の公武合体派諸侯の連係が破れ、また水戸藩では3月に天狗党が挙兵し、6月には、新撰組が尊攘派の勢力挽回を画策していた長州などの志士たちを襲った池田屋事件がが起こるに及んで、福原越後、国司信濃、益田右衛門介の三家老と来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉守らは、藩兵と諸藩浪士軍を率いて上京し、6月末には山崎、嵯峨などに屯集して京都の包囲態勢をとった。
これに対して朝廷および禁裏守衛総督徳川慶喜は、この対策に苦慮し長州側からの嘆願の扱いを協議するかたわら、洛中、洛外および宮門の警備にあたらせた、この間、真木、久坂らの陳情書の提出などがおこなわれ、ついに7月18日夜半から長州軍は行動を起こし、世子の率いる本隊が到着しないまま、19日、伏見、蛤御門、堺町御門で戦闘に入った。来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩らの藩兵に阻まれ、来島は、戦死、久坂、真木らは自刃した。
この戦いで京都は2万8千戸余りが焼失し、これを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こした。この変により、文久2年以降の尊攘運動は終止符を打ち、朝廷・幕府にあっては公武合体派を分解させ、長州藩においては、4国連合艦隊の下関攻撃と相まって、討幕派の成立を促した。
(吉川弘文堂、国史大辞典より)