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大河ドラマ
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  • 原市之進(1830~67)



幼名は小熊、名は忠敬、のち忠成。元服して任蔵と称し、安政6年(1859)10月市之進と改めた。
天保元年(1830)正月6日、水戸藩士原市左衛門雅言の次男として生まれ、初め弘道館に学び、また会沢正志斎について経史を修め、従兄の藤田東湖にも師事した。
嘉永5年(1852)12月江戸に出て翌6年昌平黌に入学、同年ロシア使節プチャーチン長崎来航の節、川路聖謨が応接のため出張を命ぜられるや、東湖の指示で川路の従者として随行、安政2年10月弘道館舎長、翌3年私塾菁莪塾を開設、3月弘道館訓導となり彰考館編修兼務。
同4年3月訓導職のまま小十人組。同5年8月戊午の密勅が水戸藩に伝達されるや諸藩への回達を主張、翌月同士を率いてひそかに出府、斡旋につとめた。同6年5月、定江戸奥右筆となったが、前藩主斉昭公の水戸永蟄居にともない再び水戸勤務の弘道館訓導となる。
万延元年(1860)2月、藩庁が密勅返納を決議すると、その不可なること十カ条を列挙して藩庁に建言した。同年4月からまた彰考館編修兼務。文久元年(1861)5月東禅寺事件が起こって幕府の攘夷派への圧力が強まると、大橋訥庵らとともに老中安藤信正の要撃を謀議した。
同2年12月慶喜公に随従して上京、そのまま滞京して慶喜公の宗家相続、さらに将軍職に就くことに奔走。この間、元治元年(1864)4月一橋家に入り、慶應元年(1865)9月同家御側御用取扱を命ぜられ、翌2年慶喜公宗家を継ぐと幕臣となり、目付に任ぜられ、一転して兵庫開港を推進する立場を取った。
同3年8月14日、京都二条の官舎で幕臣の鈴木豊次郎・依田雄太郎らに暗殺された。38歳。墓は京都東山の長楽寺と水戸の常磐共有墓地にある。
明治34年贈従四位。(吉川弘文堂、国史大辞典より)