HOME >大河ドラマ・ア・ラ・カ・ル・ト >part10

水戸光圀公と斉昭公

境内のご案内

常磐神社について

水戸のご案内

歳時記~季節の写真~

蔵~資料館~

写真館

English

お問合せ

水戸学

水戸学FAQ

祭事・催事・行事

サイト内検索

RSS配信中

part10

大河ドラマ
 part10


  • 元治甲子の水戸
       名越時正 著



はじめに

 建国以来の伝統に基づいて近代日本の第一歩を踏み出し、世界史上驚異的発展を成し遂げた明治維新は、もとより一朝一夕に成ったのものではなく、早くから日本本来の国体に目ざめた優れた先哲の見識と、この大事業達成のために生命を捧げて尽力し、また尊い捨石となった幾千人の人達に、私共は敬虔な感謝と鎮魂の祈りを捧げずには居られないものがある。
 ことにわが水戸は、明治維新を成し遂げる上に極めて大きな貢献をなしたが、又そのために払つた犠牲も他に比して特に多かった。思うにその貢献とは、日本の歴史の神髄を明らかにして、尊皇の精神に目醒めさせた義公の高い識見と、それを受け継いで、江戸時代末期の内外非常の国難の中で、国の向うべき方向、国民のなすべき道を示した烈公や藤田幽谷、東湖、会沢正志斎等の先哲の深い教え、とにあったと云えよう。
義公の偉大さはこゝに云う迄もないであろう。忘れてならないのは藤田幽谷である。彼は商家に生れ才を認められて士分に列した。そして四面悉く太平に馴れ金銭と地位を貪ぼる風潮の中で道義の尊厳を強調し、西洋列強のアジア侵略にさらされる国家の危機を憂えた。しかもその憂国慨世の意見は世に容れられず、幾度か嫌疑を豪り処罰さえも受けて不遇のうちに世を去った。だが、この幽谷あったために義公の精神は再び復活し、その門人教育によってこれを実践する勇気ある人々を生み出した。烈公の登場によって始められた水戸藩の改革はそれら門人による幽谷の学問識見の実践に他ならない。それは一世の停滞腐敗を一掃すると共に国際的危機を突破して日本改革の範を示そうとするものであったから、暗夜に光を求めつつあった全国各藩の有志の目を瞠らせ耳をそばたゝせたのも当然であった。天保、弘化、嘉永の頃、いかに多くの人々が水戸を目ざして集り、師を求め教えを聞いたことだろうか。
 私共は幕末の日本を指導し明治維新達成の大さな歯車を回転させた人物として、誰よりも先ず長州の吉田松陰と久留米の真木和泉守を挙げなければならない。その両先哲の目を開かせたものは実に水戸遊学であったではないか。ことに松陰が水戸に学んだ時、「身皇国に生れて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以つてか大地の間に立たん」との感奮を得たことは、水戸が松陰に与えたもの、すなわち水戸の学問の本質が何であったかをはっきりと示すであろう。又真木和泉守に水戸遊学を決意させたものは、友人から見せてもらった会沢正志斎の「新論」であったから、直に水戸に来て会沢翁を訪ねたところ翁はしきりに外国船のことを論じ、そのための改革を説いて強い感激を与えた。それはペルリ来航より数年も前の事である。水戸の先哲が最も憂えたものが何であるかはこゝに明らかであろう。尊皇攘夷論はこのようにして天下に弘められて国民を緊張させ奮起させたのである。

一、悲劇の原因

 (一)親藩水戸家の宿命


 水戸は明治維新の原理を生み出し、そしてその実践の力をまさ起した。それなのに、明治維新もあと少しという時になつて何故にあのような分裂、対立に陥り、しかもどうしてあのようなおびたゞしい犠牲者を出さねばならなかつたのであろうか。ことに元治甲子の惨劇の歴史を読む者は、何故それが避け得なかつたかを疑わずには居られない。たしかに水戸藩幕末史は私共に二度と繰り返えしてはならない大さな厳戒を与えるものである。だがしかし、藤田東湖も
  邦家の隆替偶然にあらず、人生の得失豈徒爾ならんや
と回天詩史に詠じたように、元治甲子の悲劇も決して偶然に起つたものではなかつた。それには種々の理由があり、深い原因があり、又その中に歴央的な意義もあつたのである。とすればそれを単なる悲劇としてのみ扱うことはでさないのである。
 ところで私共はその原因を考える前に、水戸藩のもつていた宿命というべさ、親藩しかも御家、の立場を考えなければならぬ。義公が尊皇を唱えたことは、公が家康の孫であり御三家の藩主であつた故に、貴くもあり意義も大きかつたが、それだけに幕府との間に至難の道を覚悟しなければならなかつたのである。「武公遣事」に見えるように、武公が景山公子(烈公)に向って、たとえ養子に出ねばならぬとしても譜代大名の養子にだけはならぬようにと戒めたあとで、「我等ハ将軍家いかほど御尤の事にても天子に御向ひ弓をひかせられなハ少も将軍家にしたがひたてまつる事ハせぬ心得なり」と明言し、今は幕府も天子を敬う故に自分も幕府を敬うのであると説いたことは、恐らく義公の遺訓であり、非常に際しての水戸家の心得であつたろう。しかし非常の場合に遭遇する以前に、道を尽さねばならぬのが親藩の使命であり本分である。こゝに水戸の困難な道があつたのである。
 そのような立場にあつた水戸家は、平常においても幕府に対してとくに心を使つて補佐しなければならなかつたが、幕府とくに老中や、将軍の側近者達の中には水戸家に対して微妙な神経を便う者があつた。義公時代に起つた藤井紋大夫事件などもそのようなことが少なからず原因となつていたのではないかと思われるが、幕末においては特にそれが深刻であつた。烈公の改革は日本の歴央伝統に墓づいて、日本の危機を救おうという深い念願から断行されたものであったからこそ、天下の英傑志士を奮起させ尊王攘夷の雄叫びは津々浦々に反響したが、政治の権力を握る幕府の中には、これを畏怖し敬遠し嫉視するものがあつた。又烈公の改革は刻々と迫る国家危機の自覚のもとに断行されたが故に、それは厳烈であり急激であつたが、それは自覚なき者にとつては恐怖であり不平であり不審であつた。この時、藩内の不平分子と、幕府の反水戸分子が結含さえしなければ、事はあれほど深刻なものにはならなかつたのではなかろうか。
 幕末における水戸藩の犠牲者で谷中忠魂塔に祀られた人々だけで千七百八十五名にのぼるがそのうち八割近くが元治甲子の変の殉難者である。これに反対派の犠牲者、および両者の病死者牢死者等を加えるときはどの位の数に上るであろうか。この悲惨なる変難のよつて来る原因をたずねると、その第一は弘化元年の変、すなわち甲辰国難にあろと云わなければならないが、甲辰国難の不幸は、水戸の不平分子と幕府の反水戸分子の最初の結合によつて起された悲劇であつたと云うことがでさよう。そしてその後の水戸には二つの党派が対立し互に理性のみを以つては解決し難いものを残して行つたのである。

 (二)元治甲子の変の遠因

 弘化元年(一八四四)に烈公の改革を転覆させた水戸の不平分子を反改革派と名づけるならば、弘化以後は全く反改革派の専政であつた。彼等は幼主順公(慶篤)を擁して藩の要職を占め、烈公擁護の運動を起す者は藩士であれ農民であれ、悉く抑圧処罰した。しかし幕府の老中にも見識ある者があつたから、烈公の無実の罪は次第に晴れ、嘉永二年(一八四九)の頃から改草派は再び活動し同六年ベルリの来航と共に、烈公は海防参与として幕政に関与するようになり、東湖はじめ改革派は全く地位を回復した。反対に結城朝道を首とした鈴木石見守、大田丹波守等の反改革派は悉く退けられるに至つた。ことに結城氏が長倉に幽開されたことから、彼らはひそかに団結して改革派を倒そうと謀をめぐらした。それでも改革派は対外問題の重大化と共に尊王攘夷の精神を藩内農村にまで推弘めることに成功しつゝあつた。しかし、安政二年(一八五五)十月二日、江戸大震災によつて烈公の股肱であつた藤田東湖、戸田蓬軒の二大指導者を失つたことは改革派にとつてこの上ない大打撃であつた。反改革派はこの隙を見て再び運動を行つたため安政三年四月、結城は遂に死刑に処せられ、その一党は悉く弾圧をうけた。改革派は武田耕雲斎、大場一真斎、安島帯刀、茅根寒緑等を中心として、各藩志士と交わり朝廷公卿に接近する一方、弘道館本館開館式を挙げ郷校文武館を各地に興し、大船巨砲を建造した。ところが一方結城氏の残党はしきりに藩外に運動し高松侯に近づき、侯は溜間大名と共に井伊直弼に結ぴ、安政五年四月井伊直弼が大老に就任すると共に直ちに継嗣問題と通商条約を処理専断し、これに抗議した烈公はじめ改革派を抑えた。そしてこの年八月に水戸藩に降下した勅諚を井伊が返納を命じたことから水戸藩改革派の中にいわゆる激派と鎮派との分裂混乱が生じたことは、親藩水戸の苦しい立場によつたにもせよ、後年の変難に際して混乱を増大させる不幸のもととなつた。しかもその分裂と混乱の最中に安政の大獄が断行され、烈公は水戸城へ永蟄居となり安島、茅根等は死罪に処せられ、武田、大場等の改革派は職を免ぜられて、水戸藩は正に致命的な弾圧を蒙つたのである。そしてこの処断に憤激して起つた敢為義烈の士民も又概ね幕府と藩当事者のために鎮圧され処罰されたから、藩内には不穏の殺気漲り、もはや常態を以つては律し得られぬ非常の事態に陥つて行つた。こうして激派の中に或いは薩摩と盟約し、或いは長州と結ぶ者も出て、万延元年(一八六○)桜田門の変となり、丙辰丸の盟約となつた。しかも、この年八月烈公が薨じたことは、爆発の時期を一段と早めるに至つたものと云えよう。
(註)丙辰丸の盟約は万延元年(一八六○)七月、長州藩の軍艦丙辰丸上で艦長松島剛蔵、木戸孝允等が水戸藩の西丸帯刀等と会談し、改革のため、水戸が破、長州が成という役割を分担した盟約。(但し公的なものではない。)

 (三)嫌夷倒幕の気運の中で

 ペリー来航以来日本は内外非常の危機に陥つたが、安政の大獄と桜田門の変は、その非常時の中で幕府の権威を矢墜させ、これを倒して朝廷を中心とする新日本の体制を作り出す気運を一歩進めさせた。しかしながらこれに対して公武合体によつて幕府を改造強化しようとする勢も決して侮り得ぬものがあつた。親藩である水戸としては、この段階にあつても尚幕府をして朝廷の命を奉じ、外国の侮りを受けぬようにその体制を強化しなければならないというのが基本的方針であつたろう。しかし文久二年(一八六二)から三年にかけて、倒幕派の勢力は次第に合体派を圧倒し、文久三年将軍は京都へ上つて朝廷の命令を奉じ攘夷の実行を誓わなければならなくなつた。それは三条実美等の公卿や真木和泉守および長州の松陰門下の運動によるものであつて、幕府に攘夷を迫つて窮地に陥れようという倒幕派の計画であつた。この時に水戸も順公はじめ若干の藩士が将軍に従つて上京し、とくに順公は、攘夷の先鋒たるべき勅令を受けたのである。尊皇攘夷は烈公の遺志であつたから、水戸は喜んでこれを実行しなければならぬ筈である。しかも時勢はすでに往時と異つていた。すでに外国に条約を許した幕府もこゝに苦境に立つたが、親藩水戸もこゝにおいて容易ならぬ立場に立たざるを得ない。順公は一橋慶喜と共にこの時外交の転換のために努力したことは事実であつたが、倒幕派から見ればそれは微温的であり怠慢であるとの非難を免れなかつた。この時水戸藩士の中には複雑な動きが起つた。というのは順公と共に上京した藩士の中に、倒幕派と交わり国事奔走を約した者があつたことである。藤田小四郎も田中愿蔵もその一人であつた。彼らももとより水戸藩士である以上、表面的には倒幕運動には加わらなかつたのであろう。しかし彼等の幕府に対する態度はこのころ実質的に変化を遂げたのではなかろうか。
ところがこゝまで進展した倒幕の勢力も、成功寸前で挫折してしまつた。八月十八日の政変は公武合体派の人々が天皇の叡慮を奉じて危機に瀕した幕府を救うために行つた変革である。このために七卿落ちとなり、長州藩兵の京都退去となつて形勢は逆転した。憤激した倒幕勢力の一部による爆発が大和天誅組の挙兵となり生野の挙兵となつた。助かつたのは幕府である。幕府の態度は急に傲慢となり不遜となつた。行幸の中止によつても捜夷の叡慮は変らず、ということが布告されても、幕府はほとんど攘夷を放棄して顧みぬ状態であつた。この時江戸において形勢挽回のために、因幡藩士八木良蔵、長州藩士桂小五郎と東西呼応して事を起そうと謀りつゝあつたのが藤田小四郎である。

二、筑波山の挙兵

 (一)筑波勢の行動


 これより先、水戸藩では武田、大場を首とする尊攘改革派と鈴木、朝比奈、佐藤等結城残党からなる佐幕改革派の勢力が、互いに相伯仲する関係となりつゝあつた。戸田・藤田の災死、勅諚問題、安政の大獄、それに烈公の薨去と相次ぐ改革派の損失がその原因であつた。こうした状態の下で志を達し得ぬ改革派の勢力は水戸城下を離れて領内各地に新設された郷校に集結しつゝあつた。小川郷校の館長は藤田小四郎であり玉造の館長は竹内百太郎、野口時雍館長は田中愿蔵、湊文武館長は雨宮鉄三郎であり、何れも純情気鋭の青年志士であつた。彼等の下には藩の最先端を行く武士や郷士、庄屋およびその一族達が集つていたらしい。彼等は皆尊皇攘夷を唱え、開港に反対した。ことに貿易商人の致富に反感をいだいた。輸出のために国内の需要が困難になつて物価はどんどん上ると、国民の攘夷気分もそれにつれて増大して行つた。
藩政府では武田、大場達の尊攘改革派と結城残党との間に激しい政権争奪が起り、政府首脳は絶えず更迭されて安定しなかつた。順公もこの間に立つて常に動揺したが、郷校の激派の行動を恐れて、彼等を鎮撫するために武田、大場、岡田等を執政に任じたが、潮来勢などは武田の力でも鎮めることは難かしかつた。しかし藤田小四郎はこの長老武田を信じて、ひそかに挙兵の計画を彼に告げ、その協力を求めた。武田は時勢上とくに自重を要する事情を告げて小四郎を抑え、その行動を断念させようとした。しかもすでに長因諸藩と盟約した小四郎は到底断念することは出来なかつた。東湖の四子で才気人にすぐれ、学問また群を抜いた廿三才の小四郎は、元治元年(一八六四)早々各地に同志を糾合し、水戸藩士斎藤左次衛門と謀り、石岡で簿井督太郎と結び、安食の富農竹内百太郎、岩谷敬一郎等の同志を得、更に潮来、小川方面に遊説し、水戸城下に運動を進めて六十余人の加盟者を得た。更に町奉行田丸稲之右衛門の賛成を得て将帥と仰ぐことが出来たことは一同を勇気づけた。費用は貿易商等を責めて、提供させた。こうして元治元年三月二十七日遂に筑波山に兵を挙げたのである。彼等はそこで隊を編制し、烈公の遺牌を造つてこれを奉じ、更に近村の有志飯田軍蔵、大和田外記等を得、又田中愿蔵の参加を得、数日中に百七十余名に増強された。そこで軍議を開いた首脳部は、日光の東照宮に拠ることの有利を考え、四月三日隊伍を整え、宇都宮藩を威圧しつゝ十日日光廟に参拝し家康の霊に誓つて尊皇攘夷の貫徹を祈り幕府に要請したのである。そのころ一同は岡山藩主池田茂政、鳥取藩主池田慶徳(共に烈公の子)に書を呈し、衷情を訴えて攘夷先鋒の勅許を得んことを嘆願した。その中に述べた不可解三条、すなわち八月十八日の政変、幕府の攘夷不履行、幕府奸臣の放置は彼等の不満を表わすものであり、尊攘者の同感を得る事柄であったから、岡山侯は朝廷に嘆願し、鳥取侯は幕府に諌言を呈した。しかしどちらも効はなかった。しかも田丸等は直接書を板倉閣老に呈して痛烈にその無為を詰ったから、幕府は彼等を恐れ、関東諸藩に厳戒を命じたのである。勿論筑波勢はその激文にも記された通り、尊皇倒幕ではなくて尊皇敬幕であり、その故に攘夷の断行を幕府に促したにすぎなかつたが、もともと水戸の激派を憎悪すること甚しかつた上に、八月十八日の政変以来倒幕派を抑えた幕府は、この機に尊壌改革の勢力を断乎粉砕すべしと強硬処置に出るのである。そのため、日光滞在の困難を知つた筑波勢は下野太平山に移動してそこにしばらく陣を張つた。この間一同は今後の行動に関して重大な評議を行つた。当時幕府は筑波勢討伐を指令し、水戸政府は彼等の家族に対し不穏な宣伝を行つていた。このため議論区々に分れ田中は甲府城を突いて討幕を主張し、田丸は水戸の奸党を討つを先とし、藤田等は勅旨を奉じて幕府に攘夷を促すを道とした。田中が一隊を卒いて別行動をとつた理由はこゝにあつたろう。

 (二)険難の道

 筑波挙兵を深く憂えていた順公は、この鎮撫策として、彼等と同志である側用人美濃部亨、立原朴二郎、山国兵部(田丸の兄)を派遣して自重解散を奨めることとした。三人は直に太平山に赴いて田丸、藤田と会談したが、鎮撫どころか却つて説得される有様でやむなく別れて帰つた。一方順公は、攘夷はともかく幕府に横浜鎖港だけでも実現させることが、筑波勢鎮撫の一策として二条関自にも歎願して幕府を促がそうとしたが、これも幕府に妨げられて成功しなかつた。幕府はすでに水戸の結城残党と結び、暴徒討伐に決していたからである。すでに水戸政府を支配していた結城派は、かねて尊攘改革派を憎むこと仇敵の如くであつたところヘ、筑波挙兵が起つたので、これを機としてこの際幕府と結び、およそ尊攘改革を志す者を一挙に撲滅しようと策を進めていた。丁度そのころ弘道館の学生の間に藩の混乱を憂える者が起り、五月の初め岩船の願入寺に多数集会して筑波勢鎮撫の決議を行つた。その趣旨書には烈公の告志篇に「眼前の君父を指置直に天朝公辺へ忠を尽さんと思はゞ却て僭乱の罪を遁れ間敷」とある一節を引いて筑波勢の過ちを指摘し、彼等は「徳川御親藩之臣下として妄に将軍家を軽侮」する者であると非難した。これが諸生派の主張である。
 彼等諸生も決して私心によつたのではないに相違ないが、筑波勢とは切迫感に大きな開きがあつた。しかも諸生はその後家老や弘道館教職者に対し、至急江戸に出て事態の解決をはかるよう歎願したため、彼等は遂に結城派に利用されるに至つた。結城派の城代朝比奈禰太郎、家老佐藤図書、市川三左衛門等は鈴木石見守の邸に集り、いわゆる鎮派の渡辺半助等の同意を求め大挙して江戸に上る相談をまとめた。こうして五月二十五日朝比奈、佐藤、市川以下藩の有志および諸生五百余人は、武装に身を固め、千波原に集結して江戸に出発し二十九日江戸駒込邸に押しかけた。そして順公に謁して秘策を告げた結果、直に効果があつて六月一日藩人事の大交迭が行われ、市川、朝比奈、佐藤、鈴木等は悉く執政の要職を占め、反対派の山野辺義芸、岡田徳至、武田耕雲斎、山国兵部等は免職させられた上、謹慎の処分を受けた者もあり、中でも武田は危うく切腹を命ぜられる危地に立つた。結城派のクーデターは弘道館諸生、鎮派の有力者を巧みに利用して成功を得たのである。武田は順公によつて救われひそかに江戸を退いたが、だまされたことを知つた鎮派の渡辺等は憤慨して諸方に運動した。しかし政府を独占した市川派は彼等に反抗する者の全てを筑波勢の同類者と見なし、激しく排斥し、厳しい弾圧を下そうとしていた。

 (三)筑波討伐戦

 太平山にあつて更に同志を募つていた田丸、藤田等は五月の末日四百余名の隊員を率いて再び筑波山に拠つた。しかし田中愿蔵は遂に一行と別れて下野に運動し栃木の町を焼払つた。一方これらの情報に接した幕府は、市川等の建策を容れ、六月九日川越、谷田部、下妻、宇都宮、壬生、結城、下館、土浦、府中、足利、宍戸等関東の諸藩に筑波勢討伐を厳命し、十四日には水戸順公にそれを督促した。市川等の策略は正に成功した。彼は自ら水戸藩兵および諸生を率いて十七日に江戸を発し、筑波の紫峰を粉砕しようと意気込んで結城、下館を経て下妻に陣を構えた。幕府および諸藩の兵数千も又附近に集つた。戦闘は七月六日開始された。
筑波軍は少数ながら果敢に下妻を襲つた。最初の攻撃は失敗したが、九日払暁の奇襲は水幕軍の虚を突いたため天下の直参も狼狽混乱、算を乱して敗走し、筑波軍は意外の大勝利を得た。それは地利に熟した飯田軍蔵の功績であつた。
敗報を得た幕府は監軍を交迭して若年寄田沼玄番頭意尊に諸藩総指揮を命じて名誉回復をはかることとなつた。意尊はかの賄賂政治家の代表意次の子孫である。彼も祖先の汚名をそゝぐ好機と考えたか水戸討伐には血も情もない徹底振りを発揮するのである一方市川勢は幕府敗走によつて孤立し、一時結城に退いたが、諸生も戦意を失なつたのを見て江戸引あげを決意し、下野間々田を経て江戸に向う途中、偶然にも杉戸駅で、江戸から水戸に下ろうとする朝比奈、佐藤等の一行と会つた。しかも市川はこの時はじめて朝比奈等が再び失脚したことを知つた。
朝比奈、佐藤等の結城派が政権を握つたのも束の間、僅か一ケ月で再び退けられたのは何故であつたか。
 これより先結城派の政権奪敢に憤激した鎮、激二派は頽勢挽回を決議して団結を固め、結城派を政府に用いることを固く禁じた烈公の遺書を奉じて、榊原新左衛門ご戸田忠則はじめ大挙して六月十七日水戸から江戸に上つた。これを見て武田一族山国兵部等も引返して江戸に向つた。一行は途中種々の妨害を受け、江戸に着いても容易に目的を果せなかつたが、七月一日遂に順公を動かして、朝比奈、佐藤を罷免し謹慎させることに成功した。同時に穏和派が返り咲いて藩政ようやく正常に戻る緒を開いたのである。さて、杉戸駅でこの事情を聞いた市川は江戸行きを断念したが、一策を立て、空虚となつている水戸城を占拠するはこの時とばかり朝比奈、佐藤と共に百余の手兵を率い、下館、笠間を経て水戸に向つた。七月二十三日市川軍は武器を携え、殺気立つて水戸城下に入り、街中を捜索して筑波の同類と見るや、片端から逮捕し虐殺した。この暴行を抑止しようとした目付も、興奮した市川勢に囲まれて自決を強いられた。この時城内には殆んど人なく、彼党も此党も江戸に上つていたことは失態であつたが筑波勢の乱暴を討伐の口実とした市川勢がそれに劣らぬ暴行を敢えてするとは何という事か。
 一方筑波勢も兵器糧食次第に乏しくなり、何時迄も筑波山に拠ることは不可能となつた。一行はやがて山を降つて石岡、小川に出て、水路横浜を攻めて攘夷の先鋒を果たそうとの意見もあつたが、幕兵の警戒厳重を極めて動くことが出来なかつた。この間戸牧行蔵の率いる一隊は水戸に突入し、待機した市川軍と吉田附近で激戦を交えたが敗れて退いた。又本隊と分離した田中愿蔵の一隊は六月末野口時雍館に陣を張り、更に水戸の周辺をうかゞつた。このような情勢の下で、市川は執政となつた鈴木石見守等と共にいよいよ権をほしいまゝにし、敵を全滅させようと決戦の構えを整えたので、江戸から帰国した鎮派の渡辺、戸田等も全く手の下す余地がなかつた。そこへやがて松平大炊頭が乗り込むのである。

三、那珂湊戦争

 (一)戦乱の拡大


 江戸にあつた順公は領内の混乱を聞いて、自ら水戸へ帰つて鎮撫しようと思つたが、尾紀両藩とも帰国して江戸に居なかつた上に朝命を受けた身でもあり、江戸を離れることは許されなかつた。そこで七月末、支藩松平大炊頭頼徳を目代として鎮撫のため水戸に派遣すべく幕府に願つた。八月四日大炊頭は家老山中新左衛門、榊原新左衛門、鳥居瀬兵衛等数百名の藩士を率いて水戸に向うと、かねて小金等に滞留していた水戸の士民数千名外、謹慎を命ぜられて水戸に下る途中の武田、山国一行もこれに加わり、筑波勢も又これに加勢した。そのため市川派は大炊頭はともかく、これに従つた者を全て敵視して入城を妨げようとし、途中の橋や道路を破壊して抵抗の意を示した。それでも大炊頭等は障害を越えて台町附近に到達したとき、市川の使が来て大炊頭以外の入城を許さぬ旨を伝えた。その使が交渉を終つて帰ろうとした時、早くも七軒町口で砲声が起り、両軍は遂に激戦を開始した。時に八月十日であつた。
 このため入城を妨げられた大炊頭は十二日迄薬王院に滞在したが、あくまで平和的に目的を達しようとして全軍を率い湊の夕賓閣に向つた。ところがこれを知つた城兵は到る所で一行を妨害し、大炊頭は湊に入ることも出来ず、やむなく一時磯浜の陣屋に入つた。この時願入寺にあつた城兵は寺を焼いて湊に移り別邸を陣として湊を守つた。あえて戦を避けようとした大炊頭は城兵に交渉したが、市川の戦闘命令を受けていた城兵はこれをきかずに攻撃した。このため十五日那珂川を隔て、両軍は激しく戦い湊の町は戦火につゝまれたが、武田、藤田等の応援を得た大炊頭の軍は遂に城兵を破つて湊を占領するに至つた。この時城兵は貪賓閣を焼いて遁走したので、大炊頭は文武館に入り、武田勢は館山浄光寺に拠り、筑波勢は平磯に屯した。
 大炊頭は心ならずも城兵と戦闘を交え湊に入つたが、何とかして水戸城に入り市川等を説得したいと考え、助川の山野辺義芸に援助を求め、又直接水戸の鈴木、市川に交渉した。これより先京都には禁門の変が起つて長州勢は再び雄図空しく敗退したが、このため幕府および佐幕党の鼻息はすこぶる荒くなつた。市川派は大炊頭はじめ、武田派も筑波派も皆同類と看做しこれを粉砕せずにはおかぬ勢であつた。このような中で大炊頭以下の軍勢は八月二十日に水戸神勢館に移動し、館長福地政次郎に命じて城内と連絡をとらせ、又城内の穏和派飯田正親、渡辺半介等の重臣に市川との談判を命じたが、市川等は一切を拒否するばかりでなく、二十二日には城兵を率いて神勢館を攻撃して来た。このため猛烈なる戦いが下市附近で四日間にわたり展開し、立原朴二郎等数名の戦死者を出した。しかも市川の要請によつて幕府と二本松藩兵が大挙来援し、田沼も笠間まで陣を進めて来たので、衆寡敵せず大炊頭は二十五日神勢館を撤退して再び湊に帰つた。市川等はその後水戸に居住した武田、山国、田丸、斎藤、田中等の家族を捕えて悉く獄に投じ、又鎮派の重臣を罷免し禁慎を命じた。
 九月に入つてから、湊の大炊頭達は市川勢の来襲近きを察し、榊原新左衛門を軍事総督として戦闘体制を整えたが、武田も別働隊となつて館山で防禦陣を布き、平磯では田丸、藤田等の筑波勢と、新たに来援した潮来の林五郎三郎等の一隊が、側面から大炊頭に協力した。これに対し笠間にあつた田沼は、幕軍はもとより水戸および関東諸藩の大軍を指揮して湊の北、西、南からこれを包囲させ、海上からは幕府の軍船に命じ砲撃させた。これを見た筑波、潮来勢は進んで額田を攻略し、田中勢は久慈浜で二本松兵を破つたが、救援に向つた山野辺勢は二本松兵に降伏するに至り、北方の形勢は混乱した。又南方でも小川、玉造は幕兵に奪われ、磯浜も敵の手に落ち、九月末になると幕軍は那珂川以南を殆んど占領してしまつた。二十五日には田沼はいよいよ水戸城に入り弘道館を本拠として湊総攻撃を指揮するのである。早くも領内で幕兵に捕われ斬られる士民が無数であつた。

 (二)湊戦争の結末

 湊総攻撃の日が迫るに従つて、大炊頭は情勢の意に反してこゝに至つたことを煩間し、遂に九月二十六日に至り、進んで幕営に降つて衷情を訴えようと決意した。そして三十余名の部下と共に夏海の幕営に赴いた。
 幕営はこれを田沼に報告すると、田沼は直ちに水戸城に召致し、大炊頭を松平頼道に預け、部下は獄に投ぜられ、やがて斬られた。そして大炊頭までも、事情を開明することさえ許されずに、公辺に手向つたとの理由で十月五日幕命によつて切腹を命ぜられたのである。
    思ひきや野田の案山子の竹の弓
         引きもはなたで朽果てんとは

の辞世を残して三十六才の一生を終つた大炊頭の心中を察すると粛然胸迫るものがある。幕府はたゞ権力を維持するために幕軍に手向つた者に対しては、事情も道理も無視して極刑に処しようというのである。西に長州の征討、東に水戸の弾圧、それは幕府最後の虚しい示威となるのだが。
 十月に入つて幕軍諸藩軍の湊総攻撃の火ぶたは切つて落された。しかし十日の部田野の戦は、湊軍の必死団結の力によつて遂に幕府および宇都宮軍を敗走させた。又、十七日の戦も湊軍の勝利に帰した。しかし湊軍もそれより次第に疲れ、食糧弾薬も続かなくなつた。十月二十三日という日、湊軍に運命の日が来た。それは決して敗北ではなかつた。元来武田勢や筑波勢と全く別個の立場にあつた榊原以下千余名の士民は、水戸の戸田忠則のはからいにより、薦められて幕府に自首したのである。しかるに幕府は、自首した一行を悉く捕えて佐倉藩にあずけ、塩ケ崎の長福寺に禁固し、やがて佐原に移した。のみならず京都から松平昭訓の遺牌を護つて水戸に帰ろうとして道を塞がれ、やむを得ず大炊頭一行に加わつた石川吉次郎以下三十余名も捕えられて水戸に禁錮され、湊に残留した郡奉行村田正興等四百余名も、高崎藩や関宿藩に預けられて、どんな運命が待つとも知らず各地を転々するのである。水戸では戸田忠則、藤田健も又同じように幽閉された。
 幕府権力と結んだ市川派の強圧それは安政戊午以来の恐怖時代を再現するものであつた。
 なお、筑波勢と別れて戦いつゝあつた田中愿蔵等は各地に出撃して水戸城兵と戦い、九月十八日には助川城を占領したが、やがて城を焼き払つて八溝山に登りここで戦おうとした。しかし糧食の便を失つた一隊は遂に戦意を失つて解散のやむなきに至つた。そして田中は遂に捕われ十月十六日塙代官所で二十一才の一生を終るのである。その部下も又殆んど同じ運命をたどつた。

四、筑波勢と榊原勢の最後

 (一)武田勢の西上


 榊原新左衛門等が幕軍に自首降伏すると、とり残された武田の一隊は筑波勢潮来勢と共に幕藩軍の鉾先の下に曝されることとなつた。決意した武田はこの時自害しようとしたが藤田等に止められ、共に田沼の本営に突入すべく八百余名を率いて中根に向つた。ところが田沼はすでに撤兵して居らず、水戸を攻めるも力ないため北上して南酒出に向つた。井田平三郎、朝倉源太郎の同勢三百がこれを追つて合隊した。但し飯日軍蔵だけは重傷のため行動できずひそかに湊を脱出して鉾田に向つたが、遂に幕軍に捕えられ笠間に送られて獄に入り、獄中病のため惜しくも三十一才でこの英傑も没した。
 武田、藤田の一行千余名は、それより大宮を経、敵中を突破して二十五日大子に達したが、こゝでも諸藩や郷民の攻撃を受けた。しかしそれらを撃退すると武田以下藤田、山田、田丸、竹内、井田、朝倉等の諸将は軍議を開いた結果、これより千山万岳を踏破して京に上り、事情を訴えて裁断を乞おうと決心した。そして六十二才の武田を総軍の大将とし、天勇・地勇・龍勇の三隊は田丸が指揮し、正義・義勇の二隊は井田、朝倉が指揮することとなり、五ケ条の軍令を定めて規律正しく行軍を開始した。これを見た幕軍は早くも追討令を発し、水戸の城兵は月居峠に陣を布いて迫つたから武田勢はこれと戦い、一撃を与えて敗走させた後大子から下野国境を越えて西に向つた。黒羽藩では消極的抵抗を示したが、無事これも突破し、間道をへて那須を過ぎ、佐倉領飛地、宇都宮領の警戒の中を雨と餓にたえて行軍した。しかし、そのころ笠間に引上げた田沼玄番頭は近国諸藩に武田勢攻撃を指令し武田、田丸等の首級に賞金を懸けた。しかし沿道の諸藩は武田の一隊が迫るとその雄勢におそれ、ひそかに間道を通したので、一行は六日鹿沼を経、十日には太田に進んだ。
 そして高崎城外から中山道に入り、下仁田に達した所で遂に高崎藩兵と兵火を交えたがこれも一蹴して信州に入り、十九日和田峠の宿に泊つた。かねて幕命をうけて待機していた松本藩高島藩の軍兵はこゝで激しく武田勢に挑戦したのでついに激戦となり、わが方でも豪傑不動院金海外数名の戦死者を出したが、彼方の中には国学勤皇の士のわれに同情する者もあつて、一行は無事通過することができた。しかし困難はそれより次第に加わつた。一行は下諏訪から山道を抜けて美濃に入つたが、隊の中にはこれより遠路長州に向つて共に事をはかるべきだと主張する者もあつた。長州と水戸は同じ運命にあつたので、その間に、一脈通じようとしたのは無理もない。しかしそれは到底容易なことではなかつた。

 (二)一行をはゞんだもの

 そのころ京都にあつた水戸藩の一勢力は武田勢の西上が幕軍の追討を受けて苦しむのを聞き、これを幕府の手に委ねるに忍びず、自らの手で鎮撫しようと烈公の子である徳川昭徳(後の昭武)はじめ一橋慶喜に歎願運動した。慶喜も朝廷に申し出て鎮撫の命を拝した。武田一行はもちろんそれを知らず十二月一日揖斐宿に達した。ところがこの時、薩摩の西郷隆盛の秘命をうけた桐野利秋が突然一行を待ちうけて会見を求めて来た。桐野は薩藩として尽力することを約し、これより本道を経て入京することを奨めた。しかし藤田等は一橋慶喜が鎮撫のため自ら大津まで出ようとしていることを聞いて薩摩の使を謝絶し、それより道を北に取り万獄を越えて越前に向つた。折しも厳冬の最中、深雪は道を埋め凍傷は勇士達を激しく苦しめた。木の本、薮田を難行して漸やく今庄に達したのは十二月九日のことであつた。
 これより先一橋慶喜は徳川昭徳以下の水戸勢と共に京を出発し、三目大津において軍議を開いた。軍中にあつた会津と金沢の士は、武力討伐に反対して鎮撫を主張したが、小田原と桑名は断乎討伐の意を変えなかつた。朝命は必ずしも追討に及ばぬことを仰出されていたが、幕臣譜代の嫌疑を受けていた慶喜は、この際武田勢をかばうならば尚一層の不審と疑惑とを受けねばならない。その上禁門の変後の情勢は攘夷党に全く非であり、朝廷も横浜鎖港は長州征伐終了まで保留するとの御沙汰を幕府に下されたのであるから、武田勢の念願とする攘夷も今やその支えを失う如き場合であつた。慶喜ももとより、武田勢に重罪を課する意は毛頭無いが勢いその決断は鈍らざるを得なかつたのである。
 十二月十二日、武田、藤田等は腹を決め、金沢藩を通じて歎願書を慶喜に呈しようとした。その歎願書には、尊王敬幕の至誠を吐露し、水戸における結城残党の暴政を訴え、初志の外夷掃攘を貫徹しようとする熱烈なる念願を述べたものであつた。これを受け取つた金沢藩は最大の同情をよせ、「暴に押詰討取候は実に武士の遺憾」と認めた副状を附して慶喜に届けた。しかるに慶喜周辺の幕臣は冷酷にも武田の歎願を拒否し、金沢藩の処置を手ぬるいとし、同藩の監軍永原甚七郎を呼んで詰問した。この時の永原の抗弁は美事だつた。
     元来かゝる変事の常陸に起りしは、詮ずる所公辺に於て水戸家の御処置宜しからず、天下の動揺のみならず、宸襟を迄悩し奉るに至り候ひしなり。能々処置すれば百万の軍にも当るあたら勇士を、駕馭する道を失ふて、討伐の止む可からざるに至れる事、自ら放つ天下の勢にて、其責誰にか帰し申すべき哉(「近世日本国民史」)
と云い放つて却つて幕府の責任を間うた後、必死突入の決意を告げたのである。しかも永原は十四日に至り白米二百俵、潰物十樽、銘酒二石、するめ二千枚を武田勢に贈つた。そして十七日に至つて幕命致し方なく武田勢攻撃の体制を整えた。これに対し武田勢はとるべき態度を協議した。七十二才の山国はあくまで降伏犬死を恥とし、間道より長州に向うべきを主張した。だが、藤田も田丸、竹内も皆降伏のやむなきを考えた。
 こゝにおいて武田は降伏の文書を認めて金沢藩に差し出した。その文中に
     曾て公辺に対し奉り、御後闇き意念を懐き大不敬の挙動相働き候様にはこれなく候処今更空しく流賊の汚名を蒙候様にては千載の後死して遺憾ある儀に御座候と述ベ、貴藩においてこの情よろしくお酌み取り願いたい
と依頼した心中を察するとき、私共は千万無量の感慨を懐かずには居られぬ。
 永原は二十一日敦賀に赴いて降伏文書を幕府に伝達し、幕府はこれを受けとつた。その時も永原は、浪十の捕縛禁獄を命ぜられたのを断乎拒否して武田勢を護つた。二十四日武田勢は新保より敦賀に護送され本勝寺等の寺々に入つた。間もなく元治元年の年は暮れ、明けて慶応元年(一八六五)正月を迎えた浪士達八百二十三名は、金沢藩心尽しの鏡餅と七樽の酒で、異郷幽囚の中に新年を祝した。
 これより先浪士処分について大原重徳卿は中川宮に寛典を歎願した。又池田慶徳、同茂政の兄弟も朝廷に歎願して浪士の救われんことを祈つた。永原甚七郎は慶喜に歎願した。しかるに、武田一行は、その歎訴の効もなく十八目に江戸から上京した田沼玄番頭の手に引き渡されてしまつたのである。水戸で魔刀を振い尽した田沼はなおも血に餓えたのか、武田勢をもその手に掛けようとして東海道を急いで京にかけつけたのである。あゝこの時、一橋慶喜や或いはその股肱の臣であり、曾て東潮の教えを受けた原市之進が何故に先師の子や同志たる先輩を、むざむざ田沼の手に引渡してしまつたのか。

 (三)悲劇中の悲劇

 武田、藤田達の運命はもはや決つた。正月二十九日、永原等は一同に酒肴を贈つたのち、幕命を武田等に伝え、旧冬以来の不行届きを詫びて去ろうとすれば、武田等はこれまでの手厚い処遇に涙ながらに謝意を表し、一族処刑に至らば、死して泉下に恩を報いようと答え、しぱしの歓談の後別れた。それより田沼の手に渡されてからの一行は言語に絶する扱いを受けた。一同は敦賀浜手町の鯡肥蔵に一棟五十人づゝ押込められ、明り取りの窓も板で釘付けられ、筵少々に食事は握り飯一個づゝ一日二度だけ、袴も帯も全て取上げられる状態であつた。そして田沼は永覚寺に白洲を設け二月一日から数名づつ裁判を始めた。裁判と云つても形式的に申し分を聞くだけで、刑はすでに決つていた。その申し分はそれぞれ異るものであつたが、中でも最も明快であつたのは藤田小四郎である。小四郎は、市川三左衛門等の奸状罪悪を挙げてこれを討果す決心であつたこと、又戦争に際しては勿論相手が幕府と知りつゝ敢えてこれと戦つたことを毫も恐れなく悪びれる所なく喝破した。彼の眼中に最早幕府は無かつたのである。断罪の日附と人数には諸書に異同があるが、「水戸藩央料」によれば
 二月四日武田耕雲斎以下山国、田丸、藤田等  二十四名  斬罪
 二月十五日秋山又三郎以下         百三十五人  同
 二月十六日浜野松次郎以下           百二人  同
 二月十九日綿引左近以下           七十五人  同
 二月二十三日朝倉三四郎以下          十六人  同
 斬罪は右三百五十二人であつた。その刑の執行は護衛の任に当つた福井、若狭、彦根の三藩が命を受けたが、その中、福井藩兵は藩主慶永の、水戸浪士をかばつて烈公の遺意を奉じて攘夷を貫こうとした者を処刑する事に協力は出来ないとの意を伝え、断乎として刑執行の任を拒否して引き上げた。金沢藩と共にその態度堂々として、しかも幕府を圧するものがあつたと云うべきであろう。
 尚武田勢の処分は、右の外、武田金次郎等百十一名は遠島、百八十七名は軽輩につき追放、百三十人は水戸藩引渡しとなつた。これらの中には獄死病死した者数十人に及んだが、最も惨虐耳を覆うのは武田、山国、田丸、藤田で、その首は水戸に送られて城下および湊で梟された後憎悪と罵倒の中に打捨てられ、それらの妻子家族、三才の幼児に至る迄打首に処せられ、八十二才の老母迄永牢に投ぜられたことである。市川三左衛門いかに多年の恨み骨髄に徹したとは云え、執念こゝに至るとは何たる非道暴虐であろう。
 惨劇はそれだけではなかつた。十月末幕軍に降つた榊原新左衛門以下一千余人、石川吉次郎以下三十余人等は慶応元年三月から幕府の取調べを受けたのち程なく切腹、死罪、或ひは投獄の処分を受け、村田正興は佐貫で自刃し、田尻新介、下野遠明、雨宮鉄三郎等も死罪、十月には岡田徳至美濃部又五郎も死罪に処せられた。皆幕府に反抗した罪というのである。その他病死獄死は無数であつた。しかもこれらは市川等の乞いによつて幕府が処断したと云われる。
 しかし、その翌々年慶喜は大政を奉還して幕府は自らを解消した。そして明治維新の成ると共に暴威を振つた市川等結城残党も遂に刑死或いは戦死し、一方幕府のために罪せられた者は赦免されて悪夢の如き水戸の党争は終つたのである。

おわりに

 元治甲子の水戸の惨惜たる状態を回想して感ずる所は種々多様であり、殊に人によつて想いを異にするところがあるであろう。それにしても、義公以来あれほど天下の景仰を受け、又、日本歴史上比類少い優れた先哲を生んだ水戸が、どうしてあのような終りをとげなければならなかつたのか。これは特に水戸の歴史を考える上に大きなそして又困難な課題として残されている。しかし、われわれはこれを水戸だけの問題として狭隘な見解に拘わり、彼を善とし此を非とするだけでよいであろうか。
 慶応元年二月十一日、敦賀の惨刑を聞いた大久保利通はその日記にこう記している。
    常野浪士は、越前敦賀え土蔵に押込、去る四日に武田始廿七人尽刎首、七日迄に七百余人几て死刑に処し、殺尽いたし候由、其取扱苛刻を究、衣服を割取、赤身になし、束飯にて獣類の会釈に候由、是は田沼取計にて、橋公辺えは全く談合に不及候由、実に聞に不堪次第也。是を以幕滅亡の表と被察候
その内容、数に誇張のあるのは誤聞であるが大久保のこゝに肝銘する所、特に最後の一句を見落してはならない。
 幕府側でも勝海舟は
    特に惜む、政府其事の大に発せざるに当り、公平至誠両道を考査し、惇々戒諭、按撫の策に出ずして其一方を助け、俄に官兵を発して剿誅せんとするに至りては、彼れ騎虎の勢、自新の途を開くに由なく、不得止してこれに抵抗するに至らしめ、多数有為の士をして玉石共焚の惨禍に陥れ、其降伏の後も酷刑に失し、之が為志士一層憤慨の心を激動し、往々邦家の不利たるを思はざるは、余の深く遺憾とする処なり
と幕府の大なる過失を認めたことは、正しく正論というべきであろう。この正論、この判断が佐幕党にも反幕党にもあつたからこそ、やがて幕府を滅亡に至らせ、王政復古、明治維新によつて新日本の基を樹てるに至つたのではないか。徳富蘇峰翁は「近世日本国民史」に元治の水戸を記して後
     天下の大局から、此の一挙の顛末を考察すれば、幕府の瓦解に一大拍車を加へたるものと断言せねばならぬ。所謂俗吏時勢に通せず、天下の大勢は非常なる速力もつて推移しつゝあるに拘らず、幕吏は尚ほ昔ながらの幕吏として、妄りに時勢と逆行するの施為を敢てし、遂ひに天下の人望を絶つに至らしめた。然も筑波義徒が半歳以上に一且りて、幕府は固より、天下の大小名環列の間を横行潤歩したる行動は、実に幕府の与みし易きを天下に向つて一大宣伝したるものにして、幕府が如何に酷法苛刑もて之を払拭せんとするも、却て其の弱点を暴露し、反感を刺激するに過ぎなかつた。筑波一党の目的は攘夷にありて、倒幕ではなかつたが、その結果は攘夷にあらずして、倒幕となつた。
蘇峰翁のこの一言は、以つて元治甲子の水戸の悲劇を日本歴史上に大きく意義づけ、この変難に殉じた幾千の人々の霊を弔し魂を慰めるに足るものではないか。それと共に私共は祖国の危難を救ひ日本の興隆の基を開いた明治維新が、このような深刻な犠牲によつて成遂されたことを、心深く思わなけれぱならない。
 しかも、これら水戸の先祖たちが、その志の至純なるが故に、生前信濃路において、又薩摩藩金沢藩福井藩等において情ある温い同情と保護を受け、又死後に至つても敦賀市をはじめ、長野県飯田市、群烏県下仁田町、福島県塙町等そのゆかりある各地において、今日に至るまで、誠に懇篤鄭重な敬意を受けて来たことに対して心からの感謝を捧げずには居られないのである。