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大河ドラマ
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  • 水戸藩沖に黒船来航
水戸第8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)(1816~1829)の時代には国籍不明の異国船が水戸領近海に盛んに出没した。藤田幽谷や青山拙斎など心ある者は日本の重大危機として深くこれを憂慮し、藩主自ら帰国して改革と海防を指揮するよう促したが、斉脩は「漢学者は恐れ過ぎ、武人は侮り過ぎる」と批判した。ところが文政7年(1824)5月に異国船の乗組員が領内の大津浜に上陸するという事態が起こり、藩は出兵するとともに、幽谷の門人、会沢正志斎・飛田逸民を派遣して事情を調べさせた。会沢たちは地図と手まねによって、それらが英国人であることを知り、またその世界征服の野心を察して藩に報告した。これを聞いた幽谷は一人息子の藤田東湖を現地に派遣して英人を切り殺すよう命じたが、幕府の役人が彼らに敵意は無いと見て薪水食料を与えて釈放してしまった。幽谷たちは幕府の事なかれ的軟弱外交を憤り、これからは尊王攘夷の実践によって国を守らなければならないと決意するのであつた。


  • 会沢正志斎(あいざわ せいしさい)天明2(1782)~文久3(1863)
藤田幽谷は青藍舎という私塾を開いて門人を教育したのであるが、その門人には会沢正志斎・飛田逸民・岡崎正忠・国友善庵・豊田天功・吉成南園・杉山復堂・吉田令世・川瀬教徳などすぐれた人物が育った。また幽谷の子、東湖は幼時から英傑の素質があり文武に励んでいた。彼らは家柄は低かったが、師の教えを守って困難の打開に当たろうと意気込みに燃えていた。中でも会沢正志斎は、10才のとき幽谷に入門し、彰考館(徳川光圀公の始められた大日本史編纂所)に進んで修史にたずさわるとともに、西洋列強のアジア侵略を憂えてその実情を研究していたが、大津浜で異国船を取り調べてから、急いで我が国の対策を立てなければならないことを痛感し、翌年(文政8年・1825)『新論』を著した。斉昭公の藩主就任後は郡奉行、彰考館総裁、弘道館教授頭取となる。


  • 『新論』
会沢正志斎の著した『新論』は、国体(上中下)形勢・虜情・守禦・長計の5編で構成され、日本の国体に基づいて世界の新情勢による非常事態に対応する改革を論じたものである。この書が完成すると幽谷の手を経て斉脩に差し出されたが、斉脩は幕府の嫌疑を恐れて公表を禁止した。しかし国を憂える同志たちは、ひそかにこれを写して勉強し、やがて藩外の志士たちにも拡がり、尊王攘夷論の教本とされ、明治維新の原動力となった。吉田松陰も橋本左内も真木和泉守も西郷隆盛も、この新論をはじめ「水戸の学問」、「水府の学」を学んで我が国の将来を考えたのである。


  • 藤田東湖(ふじた とうこ)文化3年(1806)~安政2年(1855)
藤田幽谷の次男として生まれ、正藍舎で儒学を修め江戸に出る。22才で家督を継ぎ彰考館編修となる。斉昭公の藩主就任の時には、これを擁立する改革派の先頭に立って活躍した。35才で斉昭公の側用人の重職に抜擢され、藩校弘道館の設立にあたり、斉昭公の意を受けて、建学の基本理念を示した「弘道館記」の草案を作り、その解説「弘道館記述義」をを著し、会沢正志斎の『新論』と共に、水戸学の精髄を述べたものとされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。弘化元年(1844)斉昭公とともに幕府から謹慎を命ぜられたが、やがて斉昭公が幕府の外交参与に復帰するにともない、中央で活躍する機会にめぐまれ、西郷隆盛、梅田雲浜などとも交友が生じ影響を与えたのであるが、安政2年10月の江戸大地震で母親をかばって生涯を閉じた。著書には他に『回天詩史』『常陸帯』など力のこもったものがある。
この『常陸帯』は明治の元勲、伊藤博文も読んでいて、本の末尾に次の和歌を書き留めているという。
    常陸帯よめば涙の玉ぞ散る 人を動かす人の真心
 付記・伊藤博文は、これを東北へ行く汽車の中で読んでいるが、この翌月[明治42年(1909)10月]ハルピンで遭難するのである。