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「徳 川 慶 喜 公---その歴史上の功績---」その3

 烈公の尊王攘夷論と慶喜公の開国論

                  木 下 英 明



 失礼致します。本日はこのような題のもと、暫時お話させていただきます。何卒よろしくお願い致します。
 最初に、お手もとの綴じ込みの資料を御覧下さい。第一に「諸外国の来航」としまして、欧米列強の動きなどを、年表の形で掲げました。次に「諸外国の政策」としまして、欧米の幾つかの国について、その対日政策ともいうべきものについて、若干の資料を掲げました。三番目は「烈公の尊王攘夷論」について、四つ目は「慶喜公の開国論」であります。そして、最後に、「徳川慶喜の書」として、これは史料として御覧下さい。「大政奉還上意書」、「御直書」、「将軍後見職辞職願」を掲げました。概略、このように進めていきますので、何卒よろしくお願い致します。
 それでは、幕末における諸外国の動きについてみてみましょう。資料の年表を御覧下さい(年表は東京学芸大学日本史研究室編『日本史年表』などにより作成)。年表では、英・仏・米・露など欧米列強の、中国、インド、ジャワなどアジアへの進出と植民地活動の動きと共に、日本近辺への来航から開国・通商などの要求等を含めて記入し、適宜水戸藩関係の事項も入れて、文政二年(一八一九)から明治元年(一八六八)まで記載致しました。
 主なものをみていきますと、諸外国船の来航は色々ありましたが、文政七年五月には常陸国大津浜でイギリス捕鯨船員が上陸するという事件が起きました。水戸藩では藩の役人を派遣し、筆談役に会沢正志斎らを派遣し、対応しました。会沢正志斎は、この事件を機として『新論』を著わすことになり(翌文政八年に成る)、またこの事件は幕府にも報告されますが、幕府は、文政八年二月に異国船打払令を出すことになります。しかし、この異国船打払令は、その後、アメリカ船モリソン号の事件(天保八年)やアヘン戦争(天保十一年)等が起きますと、天保十三年に取り止めとなり、薪水給与令と改められました。しかし、その後、外国船の近海出没が多くなると、嘉永二年(一八四九)には異国船打払令の復活の可否が論じられるようになり、この年、薪水給与令は修正され、その内容が厳しくなりました。
 アヘン戦争については、戦争が始まるとオランダ船・清国船により長崎奉行、幕府へ伝えられました。
この頃のオランダの動きについてみますと、天保十四年にはオランダ国王ウイリアムが将軍に開国勧告の書簡を送付することになり、軍艦パレムバンを派遣します。弘化元年 (一八四四)七月にパレムバンは長崎に来航し、使節コープスは、幕府に開国勧告の書簡を提出します。これに対して幕府は、翌弘化二年六月にオランダ国王に返書を送り、開国勧告を拒否します。その後、弘化三年六月にオランダ船が長崎に入港すると、風説書と幕府委嘱の武器・軍艦模型を持参し、弘化四年六月のオランダ船の長崎入港では、風説書を提出し、幕府の外交について忠告をします。そして嘉永三年(一八五〇)六月のオランダ船長崎来航では、風説書の提出と、アメリカが日本と貿易を開く意志のあることを報告し、嘉永五年八月にはオランダ商館長クルチウスが、長崎奉行に東インド総督の書簡を渡し、明年アメリカ使節が来航し、開国を要求することを告げました。そして、翌嘉永六年のペリーの来航となります。その外、オランダは、安政二年三月にオランダ商館長が、風説書で露土戦争の戦況と、イギリス艦の来航も告げています。
さて、ペリーの来航は幕末の動乱の開始となりました。ペリーにより開国となり、その後のハリスとの交渉で通商条約の締結となりました。そして、イギリス・フランスなど他の国とも同様の条約の締結となっていきました。これは皆さん、御承知の通りでありますが、内優・外患の始まりであります。この間、尊王攘夷論・運動はいよいよ高揚し、水戸藩では、嘉永六年に烈公齊昭が高知藩士中浜万次郎より海外事情を聞いたり(九月)、幕府に大砲七十四門を献じたり(十月)、また、幕府は水戸藩に大船建造を命じたりしました(十月、安政三年に竣工し旭日丸と名付けられる)。また、条約の勅許を巡っては、安政五年に大老井伊直弼の独断があり、このことからその後の安政の大獄となり、また、この間、勅諚が水戸藩ほか十三藩と幕府へ下され(八月、安政戊午の密勅)、翌安政六年には烈公齊昭や慶篤、慶喜公に国元永蟄居・差控・隠居謹慎などの処分がされます。そして、万延元年三月に桜田門外の変が起り、大老井伊直弼が倒れると幕府の政治は公武合体へと転回します。しかしこの頃、攘夷運動の激化で、オランダ商館長ら二名が横浜で殺害されたり(万延元年二月)、アメリカ通訳官のヒュースケンが三田で殺害されたり(万延元年十二月)、外国人に対する襲撃事件も多くなってきました。 一方、外国との交渉については、万延元年一月には条約批准交換のため、遣米特使として外国奉行新見正興ら米艦ポーハタン号で品川を出帆し、軍艦奉行木村喜毅らも咸臨丸でアメリカへ向い、同万延元年四月に米国務長官カスと条約批准書を交換します。また、文久元年十二月には幕府使節竹内保徳ら、開市開港延期交渉のためアメリカへ出発をします。これは、攘夷運動や国内事情により、交渉団の派遣となったものですが、その動きをみますと、
    文久元年(一八六一)十二月 幕府使節竹内保徳ら、開市開港延期交渉のためアメリカへ出発する
    文久二年(一八六二)五月 幕府使節竹内保徳ら、「ロンドン覚書」に調印する
      八月 幕府使節竹内保徳ら、開市開港延期、樺太分界等約定書にロシアと調印する
      閏八月 幕府使節竹内保徳ら、フランスと開市開港延期約定書に調印する
    元治元年(一八六四)一月 イギリス代理公使ニール、ロンドン覚書の破棄を通告
となります。使節団はイギリスなど各国と開市(江戸・大坂)開港(兵庫など)延期を取付けていきます。「ロンドン覚書」は開市開港を五年間延期するというものでした。
また、幕府は文久二年に勅旨に従い攘夷の方針を決めますが、それを受けまして横浜鎖港が叫ばれるようになります。これは、外国人には国外退去をしてもらい、貿易港は閉じるというものであります。その為に、幕府は使節を欧州に派遣します。その動きをみますと、
    文久三年(一八六三)十二月 外国奉行池田長発ら、鎖港談判のため欧州へ出発する
    元治元年(一八六四)四月 仏・英・米・蘭、下関通行・横浜鎖港に関する覚書を幕府に通告
      五月 外国奉行池田長発(横浜鎖港談判使節)、フランスでパリ約定に調印
      七月 幕府、仏・英・米・蘭にパリ約定の廃棄を宣告
とあります。パリ約定は、外国奉行池田長発ら使節団がフランスのナポレオン三世に会い、七回の会談を経て成立した四か条から成るものであります。その中で、下関砲撃事件の賠償金の支払い、下関海峡の通行、輸入税の軽減などが決められ、横浜鎖港は認められませんでした。また、幕府は、パリ約定は国内の混乱を招き、平和を乱すものとして、廃棄を宣告したのでありました。この間、元治元年には水戸で天狗党の筑波山での挙兵があり、攘夷の決行を主張し、横浜鎖港を訴えたことでした。
 さて、国内の様子はどうかといえば、文久二年八月に島津久光の行列護衛の薩摩藩士がイギリス人を切る事件(生麦事件)が起り、翌文久三年四月に幕府、五月十日を攘夷期限と奉答すると、長州藩は下関でその五月十日に米船を砲撃し、同五月二十三日には仏艦を、同五月二十六日には蘭艦を砲撃する。これに対して、六月になると仏・英・米・蘭の四国代表が長州藩攻撃を決議し、翌元治元年八月五日には仏・英 ・米・蘭の四国艦隊一七隻が下関砲撃を開始し (下関戦争)、同月十四日に長州藩は四国艦隊と講和五条件を結び、九月になると仏・英・米・蘭の四国公使、幕府に下関事件の償金を求め、条約勅許を要求することになりました。またこの間、文久三年七月には薩摩藩がイギリス艦隊と交戦をし(薩英戦争)、十一月には薩摩藩が英公使に一〇万ドルを支払い、生麦事件は解決されることになりました。慶喜公は、この頃将軍後見職(文久二年七月より元治元年三月まで)・参与(文久三年十二月より元治元年三月まで)の立場にあり、一藩と外国との戦争ではありますが、政治の立場にある者として、これらの事件の推移を憂慮しながら眺めています。
 さて、その後慶喜公は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任し(元治元年三月から慶応二年七月まで)、その後将軍となります(慶応二年十二月から慶応三年十二月まで)。この間は条約勅許(慶応元年十月勅許なる)・兵庫開港(慶応三年五月勅許なる)を巡る問題が続きます。また、外国の公使とも会います。殊にフランス公使のロッシュ(元治元年三月着任)は、フランスの日本における地位の確立と、これまでの劣勢の挽回ということもあり、幕府へ対して、横須賀製鉄所の設立(慶応元年九月完工)、横浜フランス語伝習所設立、陸軍教官の招請などいくつか協力を申し出ています。一方、慶喜公は、イギリス公使のパークス(慶応元年閏五月着任)とも会いますが、イギリスは幕府は支持するに足らないとし、薩摩・長州二藩と親交し、討幕、王政復古を助成するようになります。

 次に、これら諸外国の政策をみることにします。フランスからみます。フランスは早くより琉球に来航していましたが、最初は、条約勅許を巡るもので、フランスからの情報です。
    仏蘭西軍艦が大坂に入港して京都に赴き、条約勅許を迫らんとするの説あり...(欧州よりの外国奉行竹内保徳、仏国新聞紙等の情報 文久二年暮 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とありまして、京都近辺の警備の急務が言われるようになります。つぎは、フランスの幕府にたいする姿勢を示しています。
    慶応三年十二月二十六日、英米仏蘭孛伊六国の公使・領事を大坂城へ御引見ありて、...その頃仏国公使ロセスは我が外国奉行の一人に向かいて「本国政府の命令は、どこまでも幕 府のために尽すべしというにあれども、幕府もし政権を失われては、さようにもなり難し」といいしより、...(『昔夢会筆記』)
とあり、また、
    初め公の東帰せらるるや(慶応四年正月十二日帰城)、仏国公使レオン・ロッシュ・及同書記官(兼訳官)カション等登城して謁見を請ひ、頻に再挙を勧め、軍艦・武器・資用の類は総べて仏国より便宜供給すべしなど、甘言をもてさまざまに誘ひ申したり。(『徳川慶喜公伝』)
とあって、後の資料は、このロッシュの申し出にたいしては、慶喜公は大政奉還をし恭順の姿勢をとっていますので、日本の国柄を述べて断ったという話が伝えられています。そして、もう一つ挙げておきました。それは、
    寺師君 ...既に仏蘭西公使等やらは日本を占領仕やうと思ひ、一方を助けれバ一方は倒れる、そこで占領して之を直ぐ六つに別けて、各国分領して取らうと云ふことを言出したことがあったが、夫を英国公使パークスが拒んだ、それは、仏蘭西と英国と始終拮抗して、あちらが右に出れバ、こちらは左に出で、...(『史談会速記録』第七輯 原書房刊)
とありまして、領土的野心を示しているものであります。
 次は、イギリスです。最初は、生麦事件に関してのものです。
    幕府が犯人の逮捕を怠り、若しくは薩藩に対して命令を確実に執行すること能はざる時は、他日両国間にゆゝしき国際関係を生じるに至るべし、...(文久二年八月の生麦事件に関しての英国代理公使ジョン・ニールの書 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
 ここでは、犯人の逮捕に強い姿勢を示していて、イギリスは翌文久三年二月に八隻の英国艦隊を横浜に入港させています。横浜鎖港については、
    斯かる談判を受くる上は、兵端を開くの外に途なし...(文久三年五月九日付横浜鎖港の告知について、英国公使これを聞きて 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とありまして、ここでは戦争の危険を示しています。そして、長州は攘夷決行と称し、文久三年五月十日に下関で米船を砲撃しました。それに関連して、
    我等両国の軍艦は、仏国の軍艦と共に遠からずして来港すべじ、孰れも下関の砲撃を憤慨して、屍を長州に晒すの決心なり...(勝隣太郎、英蘭両国の艦長に聞くに元治元年二月 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
という、決意を示しています。次は、将軍となった慶喜公との関係で、
    又此時の事なりき、パークスは公に申して、「貴国と交りて以来、未だ曽て此の如き歓を尽したることなし、是れ日英親交の始なり」と言ひ、...(慶応三年三月英米仏蘭四国公使に謁を賜ひし時 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とありまして、開市開港などの話をし、ここでは友好的な姿勢をみせています。また、外交については、
    貴国が諸外国と好を結びし以来、米国へは既に使節を派遣したれども、未だ欧洲各国に派遣せざるは、礼を闕くの嫌なきにあらず、宜しく特使を締盟各国に派遣し、親睦の意を表せしむべし。然らば英・仏二国は米国の例に傚ひて、行李の費用を弁ずべく、其待遇亦決して米国に劣らざるべし。(英国公使オルコック、仏国公使と議し、特使派遣を勧告 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とあって、欧州への使節の派遣を要望しているのであります。
 オランダについては、先程の国王ウイリアム二世の開国勧告は、次の史料です。
    大日本政府に贈る...日本に来ることの免許あり...近年英吉利の女王帝国支那と劇戦せしことは我国人の船より年々長崎に出せる風説書ニて已に政府の明知を経たるなるべし英武の支那帝久く無益の防戦を為して後遂に欧邏巴兵術の強大なるに屈し其和議を行なふに及ひて大に支那古昔よりの政法を改め且つ其五處の港を開きて欧邏巴人交易の地となせり...是に於て彼の国人其交易の新途を求めて休まず其求むるの切なるに至りては或は異邦の民と争闘に及ふことあり...是等の争より兵乱を興すへき事は我深く憂る所なり...(国王ウイリアム二世の開国勧告 天保十四年十二月 新伊勢物語 『茨城県史料幕末編I』所収)
とあるものです。イギリスなど欧州やアジアでの動きなどを説明し、兵乱の心配をしています。
ロシアについては、御覧下さい。色々あるところですが、
    露国政府が日本に使臣を送れる所以は、争隙怨讐を生ずることなく、互に和睦安穏に交を結ぶ策を献ぜんとするにある。露国の希望するこの策は、両帝国の境界を定むることが第一、又、両国互に和親通商の約条を結ぶことが第二、即ち此の両件は露国政府の最も切望する所である。...(長崎でプウチャーチンが提出の国書を受取る 嘉永六年八月十九日 『維新史』所収)
 これは、プウチャーチンが提出の国書で、ロシアの態度をみることが出来ます。その他は、対馬をめぐる動きについて、載せておきました。これは、文久元年二月にロシアが不凍港を求めて、軍艦ポサッドニック号を対馬芋崎浦に滞泊させた事件で(『維新史』)、これについては、イギリスが早く動いて対応していますので、その史料からみてみることにします。それは、
    近時露国は、干戈を動かさずして巧に清国から大海岸線を獲得した結果、支那・北米両大陸を繋ぐ公道を作り得た。従来世界の商業航路から遠ざかってゐた露国は、...支那・日本を制し得る地位を占有して、更にペーチュリー湾(渤海湾)から米大陸西海岸に至る大商 業航路に覇権を握らんとするに至った。而して露国は此の欲望を満たす一階梯として朝鮮海峡の要衝に手を染めたのである。...(ロシア軍艦ポサッドニック号の対馬芋崎浦滞泊事件につき、英国公使オールコックの本国への報告要約 文久元年六月二十六日 『維新史』所収)
とあって、ロシアの動きを世界政策の上から論じています。そして、次いで、
    若し露艦が同島から退去を拒む場合は、英国自身之を占領すべきである。其の手段としては、日本政府に条約不履行の保證と大坂・兵庫の開市開港とを強要し、之を容れざる時は、従来の条約違反に対する賠償として割譲せしむべきである。...日本国には露国の野望を阻止する実力はない。英国は此の国が分割せられんとするを袖手傍観する事は出来ぬ。
    (ロシア軍艦ポサッドニック号の対馬芋崎浦滞泊事件につき、英国公使オールコックの対策意見文久元年 『維新史』所収)
と、これに対するイギリスの態度を示しています。また、ロシア側からの史料をみると、
    吾人の急務は対馬島を占有して極東のペリム島(紅海の南入口を扼する英領)と為すに在る。...(箱館駐在英国領事ホヂソンの「日本滞在記」における対馬観 『維新史』所収)
とありまして、対馬の占拠を述べています。
 もう一つ、アメリカをみます。最初は
    日本にして米国の要求に応ぜずんば、提督は日本に対して、其海岸に漂著せる米国の人民・及船舶を厚遇することを主張し、又将来も米国の人民に対して苛酷の処置を為す時は、厳に之を膺懲せんと明白に戒告すべし、且遠隔にして細密なる訓令は為し難きにより、臨機の処分権を提督に付与す、其処置に過ありとも之を寛仮すべし...(米国政府のペリーに与へたる訓令 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
で、アメリカ政府の姿勢が示されています。つぎは、ハリスをみます。それは、
    合衆国は他国の領土に対して毫も野心を挟まず...現今世界の形勢は一国の孤立を許さゞる が故に、日本は速に米国と条約を締結して国本を固くすべし...(ハリス、堀田正睦に世界の情勢を説く 安政四年十月二十六日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とあり、ハリスの姿勢、態度が知られるところです。また、
    英・仏両国若し来り迫らば、日本は過大の要求に苦しまん。今若し米国との条約に調印せば、余は日本の為に斡旋し、誓って他国をして米国と同様の条約に満足せしめん...(英・仏艦渡来の風説とハリスの文書 安政五年六月十七日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とあって、ここでは、英・仏を意識しての論の展開となっています。
 そして、これら列強に対しては、新政府が明治戊辰戦争の際に局外中立宣言をさせていることが注目されます。仏・英・米・蘭・普・伊の六か国に対してで、このことにより、国内の争いは、外国勢力の直接関与はなくなったのでありました。それは、次の資料です。
    今般徳川慶喜致反逆候に付、仁和寺二品親王え征討将軍被命、征討相成居候に付、貴国政府に於ては、何方にも偏頗無之筈に付、徳川慶喜又は其命を承る大名之兵卒を運送し、又は武器軍艦を輸入し、又は貴国之指揮官兵卒を貸す之類、総て彼之兵力を助候儀有之間敷候間、此旨各国臣民へ御申達被下、其政府より御取締可被下候。(明治元年一月二十一日、勅使東久世通禧の公文 戊辰中立顛末 『維新史』所収)

 次に烈公齊昭の尊王攘夷論をみることに致します。
 斉昭の思想について、「告志篇」よりみることにします。「告志篇」は、斉昭が天保四年七月に著したもので、藩内の諸臣に自分の心内を述べたものであります。その中から、いくつかみてみますと、
    日本は神聖の国
    ...天祖・天孫、統をたれ、極を建て給ひしより、...(「告志篇」 天保四年(一八三三)七月廿八日 水戸学大系5所収)
と日本の国の成立を述べられ、日本の国の特質を論じ、
    先君・先祖の恩、忠孝一致
    天祖の恩賚にて、万民生育いたし、東照宮の徳沢にて、国家太平に相成り、先君・先祖の餘慶にて、面々禄位を保ち居り候處、...恐れ多くも、今の天朝は、正しく天祖の日嗣(ひつぎ)に渡らせられ、...不肖ながら我等は、威公(頼房)の血脈を伝へ、...天祖・東照宮の御恩を報いんとならば、先君・先祖の恩を報いんと心懸け候外、之れ有るまじく候。先君・先祖の恩を報いんとならば、眼前の君父に忠義を尽し候外、之れ有るまじく候。万一、右の外に忠孝の道ありといはば、皆な是、異端邪説と存じ候間、忠孝一致と相弁へ、心得之れなき様致し度き事じ候。(「告志篇」 天保四年(一八三三)七月廿八日 水戸学大系5所収)
ここでは、天祖の恩、先君・先祖の恩を説き、その為の忠孝の徳目の重要さを述べています。そうして、このような日本の国柄を弁えて、外国との関係については、
    昔はともかくも、英吉利にても紅毛(和蘭を指す)にても、横文字通用の国々は、皆一つ 穴の狐と見通し、二念なく打払ふこと肝要なるべし...(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と打払い論を展開し、また、
    総て邪宗門の国々は盗賊同様に心得べく、神国の人は夷狄を悪み、夷狄人は神国を怨むやうに仕向けて然るべし...(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と論じています。しかし、外国船の来航が多くなり、色々難しい問題も出てきますと、
    以前の通打払がよろしく奉存候、第一異船に是迄漂流と申ハ承り及不申候ハ畢竟打払候を恐れ、日本近く船を寄不申故、漂流も無之事と存候、打払止候へハ自から日本海近くを乗り廻し候半も不被量候...(中略)...蘭学は追年開け行き、夷狄は追年親く相成、内地の手当ハと申候得ハ従前の侭此末如何相成可申哉と、不肖の拙老、見抜け不申、日夜御為相考申候得ハ、毎度寝食を忘れ候仕合ニ御座候...(弘化三年二月、烈公の老中阿部伊勢守への書簡 新伊勢物語 『茨城県史料幕末編I』所収)
と打払いについても苦慮するようになります。そして、ペリーの来航となると、
    拙老の憂苦建白せる事ども、御採用相成ざれば、今更如何ともすべきやうなし、然れどもそは今更申してもせんなし、拙老も今となりては打払をよしとばかりは申さず、さればとて彼が書翰を受取らば、十が十難題ばかりならん...(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と述べ、「海防愚存」を著します。これは「和戦」の覚悟を決めることが朝廷においても幕府においても急務のことであり、それにより武器、交易など対処すべきと論じ、大きな項目を七つあげ、そのうち第一の「和戦」の項では更に十か条をあげて詳論しています。資料を御覧下さい。

    海防愚存(嘉永六年七月八日 齊昭の意見十か条 『水戸藩史料』上編)
     一和戦之二字御決着廟算一定始終御動無之義第一之急務と存候事
      一ケ条 本文和戦之利害戦を主と致し候得バ天下之士気引立仮令一旦敗を取候而も遂ニハ夷賊を退け...(中略)...剰内海え乗込空砲打鳴し吾侭に測量迄致し其驕傲無礼之始末言語道断ニ而実に開闢以来之国恥とも可申候...
      二ケ条 切支丹宗之義ハ御当家御法度之第一に相成居...
      三ケ条 我金銀銅鉄等有用之品を以彼が羅紗繻子等無用之物に換候義大害有之小益無之候間和蘭陀之交易さへ御停止にても可然時勢に候處却而和蘭陀之外に又々無用の交易御開に相成候ハヾ神国之大害此上ハ有間敷...
      四ケ条 ヲロシヤ、アンケリヤ等先年より交易を望候得共御許容無之候處アメリカ江御許容被遊万一ヲロシヤ等より願出候ハヾ何を以御断可被遊候哉...
      五ケ条 異国人ハ...初ハ先交易を以因を求め遂にハ邪教を弘め又ハ種々之難題申掛候儀彼等の国風に有之...
      六ケ条 ...僅に数艘之船艦渡来候而さへも人心恐怖致し彼ニ要せられ候而交易始候様にてハ外国え渡り遠略を施し候事抔真に席上之空論に候...
      七ケ条 ...夷賊内海江乗入我侭に測量迄致し候而も打払之義不相成諸国之士民空く奔命に而已疲候様に而ハ人々解体之勢可有之...
      八ケ条 長崎の海防黒田鍋島江被仰付候義清国和蘭陀江御手当而已にハ無之惣而外夷へ之御手当に可有之處浦賀辺に而外夷之願書御請取ニ相成...右両家へ無用之関所番被仰付置候姿に相当り...
      九ケ条 此度夷賊之振舞眼前一見いたし候者ハ匹夫にても心外に存可く迄無礼之夷賊御打払も不被為遊候てハ御台場御備ハ何之御入用に可有之哉...
      十ケ条 夷賊打払之儀ハ祖宗之御旧法...今日にも弥打払之方に御決定被成候得バ天下之士気十倍致し...
今はこの十か条を要約して、掲げました。この文章は藤田東湖や戸田忠敝らが烈公齊昭の意にあずかり、そして書かれたものといわれています。そして、ペリーが再来すると、
    攘夷は固より余の望む所なれども、さりとて江戸を焦土となしても之を貫かんといふにあらず、宜しく此意を斟酌して事に従ひ、国難を醸すこと勿れ...(烈公の開港黙許 安政元年二月二十一日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
となりました。その後、ハリスの通商条約の件になりますと、通商条約の締結が決まり、その報告に老中堀田正睦と目付岩瀬忠震が来ますと、
    今に至りて何事をか聞かん、原来備中不埒なり、予て存寄あらば申せよとの事故、吾が意見を申遣せしに、備中・伊賀の二人かにかくに申すと聞く、以ての外なり、備中・伊賀に腹切らせ、ハルリスの首を刎ぬべし...(烈公の激怒 安政四年十二月二十九日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と激怒しました。これに対しては、後に慶喜公が諌めをします。
    公辺より御相談とあるに取り合ひ給はず、唯御自身建白の筋のみ申し募り給ひしは如何にぞや、父君二十余年の間思慮を焦し給ひて、尊王・攘夷の大義を主張しますこと、悪しとにあらず、又今更備中守等が申す如く、和親交易の説に左袒し給へとにもあらず、いづくまでも宿論を執りて動じ給はぬは、却て願はしけれど、屡京都へ文通し給ひて、輦下の人心を動かし、宗家施設の妨ともなるべき事を敢へてし給ひ、さては公辺御使に向ひて、あらぬ暴言を吐かせ給へるとは何事ぞや、...畢竟父上は御自らの赤心をのみ頼み給へど、世には讒構もあるものを、御遠慮もなく嫌疑に触るゝ事のみ申し立てらるゝは、御家の為、又御身の為然るべからず...(慶喜公、小石川邸で烈公に謁し諌言 安政五年正月二日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とあって、父齊昭のとった態度について慶喜公の考えを述べていますが、慶喜公の考えがよく表われていると思われます。

 最後に慶喜公の開国論についてみることに致します。慶喜公の外交に関する意見としまして、嘉永六年七月のものをみましょう。資料を御覧下さい。これは、ペリーが来航し、そして去った後、幕府は諸大名に米国国書を示して今後の対策の意見を求めました。その際のものです。
    国初よりの法度は改むべからず、其請を許さゞるを至当とす、因りて防御を厳重にすべし。万一戦を開かば、浦賀のみならず、所々に襲来せん、諸国廻米の漕運等故障なからんやう、予め計画せらるべし...(嘉永六年の答議の要旨嘉永六年七月 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と述べて、鎖国政策は守り、万一の不測の事態についてはその備えをするよう論じています。この時は、慶喜公、父斉昭にどのような論をすべきか相談したところ、自分の意見を述べるよう言われ、そのようにしたということも『徳川慶喜公伝』は記しています。
 次は、安政四年にハリスの通商条約の締結の要求につき、幕府は諸大名に意見を求めますが、慶喜公は封事を提出します。その要旨は、
    通商の事は天下の安危に関し、容易ならざる儀なり、古人も主将の法は英雄の心をとるにありといへば、今の時に際し、諸大名等の心服すべき御処置なくては協はす、...人才を選択して適所に用ゐるは、目下の急務なり...(安政四年の答議の要旨 安政四年 渋沢栄一 著『徳川慶喜公伝』)
とあって、通商条約の締結は大問題であるが、今の急務は人材の登用であると論じています。内政の重視を言っているのであります。その後、安政五年六月十九日に大老井伊直弼が勅許なくしての通商条約の調印をすると、同月二十三日に慶喜公は登城して大老井伊直弼を詰問します。それは、
    いやいや余が思ふ所は、条約調印の事、強に許すべからずとにはあらず、已むを得ざる事情ありてとならば、せんすべなけれど、さらば何故に即日にも御使を上京せしめざるぞ、たゞ一片の宿次奉書にて、届け放しの有様なるは何たる不敬ぞや、天朝を軽蔑し奉ること其罪重大なり...(慶喜公登城し、井伊大老詰責 安政五年六月二十三日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と論じているもので、条約調印は已むを得ない事と一定の理解を示しながら、朝廷に対しては、その処置が宜しくない、と責めているのであります。これに対しては、大老井伊直弼もその非を認め、後日の使者の京都派遣を誓っています(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)。しかし、前にも触れましたが、井伊直弼は反対者の処分を断行し、安政の大獄が引き起こされ、翌安政六年八月には烈公齊昭らとともに慶喜公も処分され、隠居謹慎を命じられてしまいました。しかし、翌万延元年三月の桜田門外の変で大老井伊直弼が倒されると、幕政は公武合体へと進んでいきます。また、慶喜公は謹慎が免じられ、文久二年(一八六二)七月には新たな職である将軍後見職に任じられます。いよいよ幼い将軍を助けて、政治の表面に登場することとなりました。そうしますと、世は京都を中心として尊王攘夷の嵐であります。外国との関係をどうするかの大きな問題に直面することになりました。そこで、政事総裁職の松平慶永と論争になります。松平慶永は破約攘夷説というのを唱えていました。それは、アメリカとの条約をはじめ、朝廷の許しを得ていない条約は無効なので、破約せよというものでした。時に文久二年九月、これに対して慶喜公は開国説をとなえて、
    世界万国が天地の公道に基きて互に好みを通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきにあらず。...然るに今に至り、従前の条約は不正なれば破却すべしと言ふとも、其説は内国人の間にこそしか言ひもすべけれ、外国人より見れば、政府と政府との間に取換はしたる条約なれば、決して不正とは言はざるべし。...今余が斯かる意見を立つるは、既に幕府を無きものと見て、日本全国の為を謀らんとするにあり。...此際余が開国論を主張する由世上に流伝せば、忽ち大害を惹起すべし、されば、周防(板倉勝静)越中(大久保忠寛)の外には、これまで談じたることなし...(慶喜公、松平慶永の破約攘夷説を退け、開国説を主張する 文久二年九月晦日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
と主張しました。この中では、これからの世界は各国と交わっていくのだから、日本のみ鎖国ということは出来ない。条約の破却というけれども、外国からみれば不正なことではない。そして、慶喜公がこのような開国説を主張することは、既に幕府はないものとして、日本の全体を考えてのことである、と述べています。また、これまではあまりこのような説は論じてこなかった、とも言っています。
このように、慶喜公の開国説は、世界の趨勢と、日本の進むべき方向とを考えてのことであり、外国と条約を結んだ現状を鑑みてのことでありました。しかし、慶喜公は京都を中心とする大きな尊王攘夷の影響を受けないわけにはいきませんでした。そこで、
    かねて御相談に及びたる開国説は、奏上し難き形勢に推し移りし故、已むなく攘夷に同意は為したれども、素より其効を挙ぐべき方案あるにあらねば、天下を誤るべきかと恐懼に堪へず、退職を願ふことに決せしなり...(慶喜公、将軍後見職の辞任を請い、松平慶永と対面 文久二年十月二十四日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
となり、攘夷の勅諚を奉じる勅使が江戸城にやって来るが、これに対しては、
    攘夷の勅旨を奉承せば、浮浪輩の奸計に陥りて、将来如何とも為し難き場合に至るべければ、到底出勤し難し...(慶喜公、登城せず、松平慶永一橋邸へ 文久二年十一月十七日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
となり、勅使江戸城に入り、攘夷の勅諚が伝宣されます。それは、
    攘夷は先年来の叡慮にして、今日に至るまで御変動あることなし、...宜しく攘夷の策を決して、速に諸大名に布告すべし、...速に衆議を尽し、至当の公論を決し、醜夷拒絶の期限を奏聞すべし...(勅使江戸城に入る、攘夷の勅諚伝宣 文久二年十一月二十七日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
というような内容であるが、文久二年十一月二十七日にこの勅諚を将軍とともに受けることになり、幕府は攘夷の決行を実行に移さねばならなくなったのであります。しかし、慶喜公には、その腹づもりも、実行に移す策略も何もありませんでした。それは、勅使饗応の際の問答に、
    勅使 ...然らば攘夷実行の策略を聴かん
    慶喜公 ...策略は秘密を要す、其方法を公言せば、いかで策略とは称せらるべき
    (慶喜公、勅使を清水の館に饗する 文久二年十一月二十九日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
とあり、この文久二年十二月に上洛に向うが、京都では攘夷の祈願が行われ、また幕府に対しては攘夷決行の期日が迫られることになる。その時の慶喜公は、
    行幸の間、将軍家を御前に召されて、如何なる勅命を下されんも計られず、...若し臨時の勅命下らん時、将軍家直領承せらるゝことあらば万事休すべし、若かず将軍家の供奉を止めんには...(慶喜公、将軍の石清水行幸の供奉を辞退させる 文久三年四月十日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
であり、已むなく攘夷期限を五月十日と決めるが、
    到底行ふべからざる攘夷なれば、亦行はれざる程の期日に定むべし...(慶喜公、攘夷期限五月十日について 文久三年四月二十日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
であり、また、幕府は騎虎の勢にて攘夷の勅を奉ぜざるべからざる窮地に陥りたれば、寧ろ将軍の罪責を重からしめんよりは、某躬ら将軍の身代りとなり、一切の委任を受けて関東に下らば、以て一時の激勢を緩ぶることを得ん、事成らざる時は力及ばずとて、責を引きて辞職せんのみ
    でありました。この頃の慶喜公の苦悩が偲ばれます。次を御覧下さい。
      ...ついては余先づ帰府して、十日より拒絶の応接に取懸るべしと仰付けられ、...拒絶の儀、江戸・神奈川を始め、長崎・箱館まで同時に鎖さるゝは勿論にて、御所向にては唐・蘭までも拒絶に相成るやう申さるゝなり。...両国のみを残し置かば、諸外国承知せざるべきにより、総じて拒絶と御治定あり。其応接の大意は、先年条約を結びたるは政府限りにて、奏聞を経ざりしにより、人心甚だ不折合となり、今度改めて天朝より拒絶の厳命を蒙りたれば、これまで和親通商は致せしものゝ、以後は全く差止むべし。...如何やう申諭しても承知致さずば、すぐさま戦争に及ぶべき事なれば、...速に防戦の術を立つべし。...(慶喜公の老中への訓令 文久三年 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    また、
      此度攘夷の聖旨を奉じ東帰したるは、全く勝算ありての故にあらず、...老中大小の有司一人も同心する者なく、...勅旨を貫徹すべきやうなし。...(慶喜公、関白鷹司輔煕に将軍後見職の辞任を請うの大要 文久三年五月十四日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    であり、そこで将軍後見職の辞任を願い出るのであります。ここには三度に及ぶ辞任の史料をあげました。
      ...抑攘夷は叡慮より仰出されたる事なれば、之に違背せん者は一人もあるまじけれども、もともと重大至難の事なる上に、当今開鎖の異論紛々として人心一定せざれば、万一将軍家月日を限りて御請ありとも、行届き難きは顕然たり。...無謀の攘夷をなさば、或は皇土を讐敵に附するの誹を免れざるべし。...(慶喜公、再び関白鷹司輔煕に将軍後見職の辞任を請う 文久三年六月十三日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
      ...此程薩長二藩の処分は、大に国体に関係すべければ、傍観に堪へず。...斯くてはたとひ攘夷の期限なく、見込の如く仰出さるとも、及び難きは分明なり。斯かる体にて万一洋夷と戦はゞ、必敗疑なく、皇国の恥辱之に過ぐべからず。...将来忠勤を遂ぐべきの見込なきにより、...(慶喜公、再び関白鷹司輔煕に将軍後見職の辞任を請う 文久三年六月二十四日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    とこのように述べて、期限付きの攘夷でも、期限なしでの攘夷でも不可能であり、もし外国と戦争にでもなればと国の安危を憂慮しているのであります。  しかし、文久三年に京都で八月一八日の政変が起ると、朝廷の様子が一変してきました。それは、公武合体派により尊王攘夷派が京都より一掃されると、開国への動きが出てきたのでした。そこで、慶喜公は、
      既に横浜鎖港談判の使節も差遣したることなれば、今に至りて開国の方針に変ずべきやうなし、先ず遣外使節の事を公布し、国是を鎖港攘夷に定め置き、...今急に開国と定めば、人心鎮定の道なし...(慶喜公、幕府の意見として鎖港論を述べる 元治元年二月 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    と国是としての鎖港攘夷を述べました。また、
      竊に聞く、朝廷は開国を以て国是と為さんとせらるゝ由、...今日は鎖港論にあらざれば、恐らくは天下の人心を協和すること能はざるべし。...朝廷よりも横浜鎖港の事を仰出されたし...(慶喜公、二条関白に答えて 元治元年二月十四日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    と述べ、ついに、中川宮邸に赴くと、
      ...天下重大の事件をたやすく陪臣風情に物語り給へればこそ、斯かる異動も出来すれ。...さりながら、原来朝廷の基本立たざる故に、とかく朝夕に変化し、天下信を取る所なし。...明日老中を以て、横浜鎖港の事断然御請申上ぐべし。...此三人は(松平慶永・伊達宗城・島津久光)天下の大愚物・天下の大奸物なるに、何とて宮は御信用遊ばさるゝか。...
      (慶喜公、中川宮邸で松平慶永など三人と 元治元年二月十六日 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    という言動になってしまい、攘夷と開国との動きが、複雑に錯綜してしまうことになったのでした。また、条約勅許・兵庫開港にも腐心をし、後年、慶喜公は死を三度決意したと言い、その一つに条約勅許奏請をあげていますが、それについては、
      ...条約勅許あらせられ、至当の処置致すべしとある以上は、兵庫開港は勿論なり、開港を諾せずば至当の処置とはいひ難し、其開港差止とあるは、期限の来らざるが故なり(条約勅許・兵庫開港につき 慶応元年十月 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)
    と述べています。時間がきました。最後に、大政奉還した後のことでありますが、列国公使を接見しました時の史料をみたいとおもいます。それは、
      余既に條約の箇條残る處なく履行ひしなれば、猶此上とも令誉を失さる様各国の利益を扶け、追々全国の衆論を以て我が国の政体を定るまでは、條約を履み、各国と約せし諸件を一々取行ひ、始終の交際を全するは、余が任にある事なるは諒せらるべし
      (慶応三年十二月十六日、徳川慶喜の列国公使接見 続通信全覧 『維新史』所収)
    とあって、外国との信義を重んじる態度が窺えます。以上をもちまして、私の粗末な話を終わらせていただきます。有難う御座いました。

                   (平成九年十月五日講座)
                   (茨城県立歴史館主席研究員)