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「徳 川 慶 喜 公---その歴史上の功績---」その2

  一橋家相続と将軍継嗣問題

                  仲 田 昭 一



 皆さんおはようございます。朝早くからお越し戴きましてありがとうございます。
 本日は二回目と致しまして、慶喜公が一橋家を相続された十一歳からです。それから幕末の将軍継嗣問題、そして安政の大獄で一時一橋家を隠居させられますが、文久二年に再相続されます。これが二十六歳の時です。この間の政治情勢に慶喜公がどのように係わられたか、ということを中心にお話しをさせて戴きたいと思います。
 お手元の資料は系図関係と年表関係であります。これを参考にしながら話しをさせていただきます。
 慶喜公が一橋家を相続されるということ。この相続問題がおこります背景は当時、元気で子供達が成長するという機会がまことに少なく、若くして亡くなるということが非常に多くございました。一橋家の系図をご覧戴きますと、最初に十一代将軍になりました家斉、これは一橋家の三代目であります。その子の家慶(いえよし)が十二代将軍になります。さらにその子の家祥(いえひろ)が家定(いえさだ)と改名して十三代将軍になります。家斉には男女あわせて五十一人の子供がおりましたが、しかしながらその内の三十三人が亡くなり残りは十八人です。その中の男子で成長したのが十二人だけであるという親としてはつらいことであったろうと思われます。十二代の家慶におきましては、生まれた子供達が二十三人の子宝があり、今から考えると羨ましい時代でありましたが、その中で成長したのは、男子は二人だけです。それが家祥であり慶昌(よしまさ)であります。この慶昌は、成長したとは言え天保八年に十四歳で亡くなっております。
 このように、子供達が成長して行かないという背景は何があったのでしょうか。一つは女性の化粧ではないかと言われています。当時は厚化粧でありました。これにはどうも鉛が入っていたようでして、母体に鉛が浸透するところまで行くかどうか、乳を飲ませます時に化粧が口の中に入ることがあったのではないかとも言われております。この鉛中毒が、子供を亡くする一つの原因ではないかと一言われています。それから病気としまして天然痘、この間、久野先生からも話がありましたけれども、慶喜公も疱瘡にかかりまして、静養をしている時には勉強もしなくていい、しかもお見舞いの品をいろいろ貰えるというので、疱瘡というのは嬉しいものだと言われたという話がございましたが、その天然痘で早く亡くなるということもございました。
 子供が成長する間はいろいろの問題を抱えて行きますが、夜泣き・カンの虫と言ったらみなさん何を服用させますか。宇津救命丸というのがありますね。この宇津救命丸が一橋家と関係があります。資料の一橋家という所をご覧ください。一橋家は十万石の領地を所有していますが、これは一カ所に纏まっているということではなくて、全国に飛び地としてありました。摂津・和泉・播磨・備中・武蔵・下総・下野の芳賀郡、塩谷郡・越後の岩舟郡などであります。その中で下野の塩谷郡、ここに高根沢という村がございます。宇都宮の北側になります。ここは平坦な農村地帯であります。そこの名主でありましたのが元、宇都宮家の家臣でありました宇津権右衛門であります。宇津家では元和の頃から、帰農しまして高根沢の名主となり、宇津救命丸の製造を始めたと言われています。ここが一橋家の領地になったものですから、天明元年から一橋家に上納が始まったのであります。それで一橋家の子育ての中で、夜泣きカンの虫、子供の健全な成長のために救命丸がよさそうだというので、子供達の健康維持のために上納させることが始まったようであります。私も今日の話をしなければなりませんので行って見ました。茨城県立歴史館の一橋家文書の中に、宇津権右衛門の家敷絵図があります。非常にきれいに描かれておりまして、行って見ますと絵図面の長屋門が現在でも残っておりまして、配置関係が図面の通りでしてびっくり致しました。その中の史料館の中に宇津家の資料などが収められています。いろいろお話しを致しまして、来年から慶喜公のドラマが始まりますが、誰か尋ねてこられましたかと聞きましたが、まだですということでした。
 宇津救命丸、たくさん戴いてきました。もって参りました。これですね。赤ちやんをお母さんが抱いている絵です。昔は箱に入っていましたが、現在では若いお母さん方にはあまり売れ行きがよくありませんので、「宇津子供熱冷まし」「宇津子供風邪ぐすり」などとタイトルを変えておりまして、「子供の薬箱」などというのもあります。「新マンガ育児物語り」などというのもありました。
 こういうことで、救命丸を現在も全国に普及させています。当時どれだけ一橋家が宇津救命丸に期待をしていたかと言いますと、宇都宮の郊外の高根沢村から鬼怒川経由で江戸の屋敷ヘ運んだようでして、鬼怒川の河岸の板戸河岸というのがあって、そこから結城の久保田河岸から上がって境町の境河岸に、さらに利根川を関宿に上り、そこから江戸川を下って一橋家の御用宿である上州屋にあげ、屋敷へ運んだということであります。この上納をする時に、宇津家では、薬が無くなったといって、いつ何時上納の命令があるかわからない、その時のために一橋家の紋の入った弓張り提灯と、夜中でも屋敷に入れる門札を戴いていまして、寛政十年からは献上物となったそうです。
 この一橋家に慶喜公が入ることになった理由を次にお話し致します。
 その当時、水戸藩の藩政改革は烈公により検地・海防・教育の問題など非常な成果をあげ、全国から注目されていた所でありました。
 年表の天保十四年(一八四三)五月十八日には、将軍家慶が烈公の藩政改革を称えて「光圀の遣志を継述し、ますます誠忠を励むべし」と褒賞を与えています。この天保十四年というのは後でも関係ありますが、田安家から入り越前の藩主になりました松平慶永(この時十六歳)が、初めて越前国入りの時に、烈公を訪ねて藩主としてはどのように心掛ければよろしいか、とお伺い致しております。学問の奨励の方法とか、武技の訓練、百姓町人を扶育するには、良き人、そうでない人を見分けるにはどのようにすればよろしいかなどを尋ねています。烈公は、「今のこの覚悟があれば、どのような事も成し遂げる事ができる」と励まされています。
 烈公が天保十五年の弘化甲辰の国難によって幕府から隠居謹慎を命ぜられますが、この時本当に幕府は烈公を罰する気持ちがあったのかどうか。これは将軍家慶の気持ちとしては、斉昭公はなかなか油断のならぬお方である、という気持ちを持っていたと同時に、なかなか素晴らしい別段のお方である、という考えもあったようでありますから、将軍家慶は烈公に対しては、本当に憎くて処罰したとは恩われない所もございます。
 この甲辰の国難についてはいろいろと本講座でも話されておりますが、一点だけ申しますと水戸藩の中で、烈公の検地におきまして、その推進役になった吉成又右衛門が大番頭の武田耕雲斎に手紙を出しておりますが、その中でこういうことを言っております。水戸藩の附家老中山信守(備前守)が、烈公が呼び出しを受けられた事を聞き、これを心配して老中の土井利位(としつら)を訪ねた時、利位が実は決して口外できる事ではないが、親しい仲なので申し上げるが、この烈公の隠居謹慎の背景には、朝廷からそういう命令が発せられたのだ。こういう話を聞いたと、非常に心配して武田耕雲斎に書き送っております。それから吉成信貞(又右衛門)はこういう事も述べています。「ああ、やはり朝廷ということがあったのか」、それは、七カ条の詰問の中に、お宮のこと、とありますが、東照宮を建立した時には勅使をお迎えしてお祭りをしたのだ。此度はお伺いもなくて、仏式を神式に改めた、ということでお腹立ちがあったのかなあ、こういう事であれば、水戸家は西山公以来尊王の藩として皆に知れわたった藩なのに大変なことだなあ、という驚きが内部にあったようにも思われます。そのうちにだんだんと水戸藩を処罰しましたが、水野忠邦の後の老中阿部正弘は烈公の藩政改革の実績を高く評価しておりまして、処罰を続けるよりは烈公の力を借りたほうが良いのではないか、幕政運営の上には大切なお方だ、と考え方を変えて行きます。
 弘化二年を見ますと、烈公が阿部正弘に望遠鏡をお借りしたい、ということがこの年にありました。『新伊勢物語』の中に出てまいりますのは、七月七日の七夕の時に、烈公が、「このごろ望遠鏡を借りているのだが天候が定まらない、それに少々破損のようなものもあるので心配なのでお返ししたい」、と阿部正弘に言っております。この望遠鏡は将軍のものだと思いますが、こういう手紙のやり取りから阿部正弘との仲が良くなってまいりまして、八月二十日には阿部正弘を通じ『明君一班抄』(めいくんいっぱんしょう)、これは立派な為政者の事蹟を述べたものですが、これを将軍家慶に呈しています。家慶はこれを能書家に浄書させて自分の部屋に置いていたということでありますから、家慶としては烈公を高く評価していたことがわかります。
 烈公は弘化三年には島津斉彬(なりあきら)と蔵書の交換を致しますし、島津斉彬は琉球に異国船がやってきた状況を細々と報告するなど親交を深めます。
 幕府から処罰を受けた雰囲気を和らげる為に、高橋多一郎が大奥にいろいろと働きかけていきます。その当時の大奥の代表的な人物には三保山と呼ばれた斉脩(水戸家)の夫人の従姉妹に当たる方がおられます。姉小路という老女は当時権勢第一であったと言われる方であります。花の井は姉小路の妹になります。家慶の子、家定の生母であります本寿院という方、この方は慶喜公を嫌っていたようであります。将軍家慶夫人の老女が園山、義園院と呼ばれた方です。さらには水戸家の老女小川という人物が関係していました。こういう方々との間に高橋多一郎が周旋に回りまして、大奥の雰囲気を和らげて行くという、こういう背景がありました。もう一つは弘化三年の暮れを見ていただきますと、有栖川宮家の精姫(きよひめ)を将軍家慶は養女としています。この精姫を烈公の長男慶篤(よしあつ)の夫人としてはどうか、こういう話もございました。この辺を考えますと、幕府の将軍家慶と烈公との間は心が通い会うようになったのではないかと思われます。このような背景がありまして、慶喜公の一橋家相続の話が持ち上がる訳です。
     『昔夢会筆記』によりますと、
     一橋家御相続の事情について、
     烈公の御自記によるに、一橋昌丸疾(やまい)危篤に陥られし時、老中阿部伊勢守(正弘)水戸の附家老(つけがろう)中山備後守(信守)を招きて、「七郎麻呂殿に一橋の家を相続せしむべしとの台命なり。ただし極秘の事なれば、ただなんとなく水戸より上せまいらすべし」と達したり。中山、すなわちこの由烈公に申し上げたるに、烈公は「上様(家慶公)とてもいまだ御出生あらせられざる御年齢とは白すにあらず、ことに西丸(にしのまる=家祥公、後に家定と改む)にはいまだ御壮年にましませば、今後かずかずの御出生もあらせらるべし。一橋は清水のごとく明け置かれたる方よろしからずや。ただし一橋相続の事は極秘の御内意とあれば、かれこれ申し出ずべきにあらず。また仰せとある上は、出府の事否み奉るべきにあらざれど、七郎は内々水戸の扣(ひかえ)の積りにてあるなれば、他の子供にてはいかがあらんか、阿部に尋ぬべし」との事なり。中山、困りてこの旨を伊勢守に通じたるに、こは深き思し召しのあることにて、七郎麻呂殿に限れる由なりければ、遂に水戸より上せて一橋には入れられたるなりとぞ。この深き思し召しとはいかなる意味なりけん知るべからざれども、これよりして世の人々は、慎徳公(しんとくこう=家慶・慎徳院)が予を西丸に入れ給わん思し召しありしなど推し測りて、かれこれいいはやすに至れるなり
とあります。「こは深き思し召し」、という事を考えてみますと、なぜ七郎麿であったのだろうか、これはなかなかわかりませんが、烈公は、五郎は公家風で品位が良くて柔和であるけれども、それは養子向きである、七郎は天晴れ名将となるであろう、されどよくせずば手にあまるべし、という非常に注目すべき評価をしています。また、尾張や紀伊にやるのであればよろしいけれど、七郎は水戸家の控えに残して置きたい、十五、六歳までは手元を離したくない、と言っていました烈公が、一橋家に出された。そこで一橋家の系図を見ますと、家斉の子供には、家慶(いえよし)・斉順(なりゆき)・斉彊(なりかつ)・峯姫(みねひめ)とありますが、この峯姫が、烈公の兄の斉脩の夫人になるわけです。二人の間には子が無かったので、斉昭公の娘の賢姫を養女とし、その賢姫と家斉の子の清水家に入っていました清水恆之丞(家斉の男・斉彊)を斉脩の跡に迎えようとの水戸藩保守派の画策がありました。その斉脩公の夫人峯姫は将軍家慶とは兄妹でありますので、峯姫から将軍家慶に慶喜公の一橋相続を申し入れたということが慶喜公伝の主張であります。
 もう一つは、烈公の夫人は登美宮(とみのみや)吉子であります。この登美宮は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の娘になります。織仁親王の娘には、吉子夫人のほかに姉の喬子(たかこ)がおります。この喬子は将軍家慶の夫人になっています。このことからしますと、有栖川宮家と水戸家と幕府とは関係が深いのであります。さらに烈公と登美宮との間には、長子として慶篤(よしあつ)が誕生します。そのあと二郎麿が生まれます(早世)。次が慶喜公です。登美宮と烈公の間の三人の子供ですが、相続問題が起こりますのは弘化四年でありますから、このとき慶喜公は十一歳、慶篤公は十六歳、二郎は亡くなっているので、有栖川宮家から言うと慶篤公は水戸家を継いでおりますので、慶喜公のみが有栖川宮家との関係からは養子に出る可能性が強い、しかも有栖川宮家ということは家慶夫人が有栖川宮家の出身でありますので、有栖川宮家関係の慶喜公ということで、名前が上がったのではないかと想像できます。
 それは、次の大奥での様子でもわかります。
     一橋相続の後、大城に上り給ひ、将軍家へ拝謁の式畢りて、始めて大奥へ入らせ給ひし時、廊下の両側に麗しく着飾りたる女中の数知れず列座して公を迎へたり。公は是まで水戸にて、女としては老女一人にかしづかれ給ひしかば、幼心に盛装せる婦人の多きに驚かれ、珍しげに眺めやり給ひ、やがて御部屋に入らせ給へば、かの女中等二三人ばかりづつ御目見に出で、御機嫌を伺ひては去る、此の如きこと幾度といふことを知らねば、公は其煩しさに堪へかね給ひ、軽く一言何やらん言ひ放たれしに(何と言いひしか記憶なしと後に仰せらる)、女中等は気を呑まれて更に平伏し、其後は皆詞少にて引去りしとぞ
                               (昔夢会筆記)

     世には此事を誤り伝へて、此時奥女中等公を待ち受け、四辺より打囲みて、「一橋様の御母君は御名を何と申さるるや」などと、公の幼なるを侮りて問掛くれば、公は徐に歩を止められ、御声高く、「麿は有栖川の孫なるぞ」と仰せられければ、女中等は一言もなく、平伏して敬礼したりと伝へたり。(渡井量蔵談話。葵之嫩葉)。之を朝比奈閑水に質ししに、「御登城の節に、奥女中など御逢あるべき事なし、又大奥へ入らせ給ひし時にても、全体女中は一般に御尋ねに対して御返答するは格別、御三卿に対して物いふ事は出来ぬ規制なり」とて、此事を否認せり。然れども始めて大奥へ入らせられし時は例外と見えたり、今親しく伺ひし所は本文の如し。
                               (徳川慶喜会伝)
 これは、一橋家相続をしたときに、将軍にあいさつに行きますが、そのときの様子です。
「麿は有栖川の孫なるぞ」と仰せられたとありますが、それだけの意識があると言うことからしまして、有栖川宮登美子との間に誕生したお子さんに限るという背景があったとも考えられます。峯姫からだけでは、七郎に限る理由が明らかではありません。
 では、水戸家以外では適当な候補者がいなかったのかどうかをみてみます。
系図の、一橋家初代は宗尹(むねただ)で二代目は治済(はるさだ)、その子に家斉(いえなり=後に十一代将軍)斉敦(なりあつ)・斉匡(なりまさ=田安家ヘ)がおります。斉敦が跡を継ぎ、斉礼となりますが、跡がありませんので斉位が田安家から入ります。本来は跡がなければ空けておいてよろしいのですが、田安家から迎えました。そうしますと、御三卿はこの相続により、必ずしも直系でなくてもよいことになります。
 そのあと、また養子を迎えます、これが慶昌(よしまさ)で家慶の子であります。それが天保九年に亡くなりまして、田安家から慶寿(よしとし)が入ります。これが弘化四年の五月七日に亡くなります。それでも空けておかず、また田安家から斉荘(なりたか)の子の昌丸(しょうまる)を迎えますが、これは弘化三年に生まれたばかりです。斉荘は田安家そのものではなく、天保十年に尾張藩を継いでおります。その子供であります。この昌丸が入ったということは御三卿から迎えたということです。こういう慣例が生れます。その昌丸が跡を継いだにもかかわらず、七月十六日に亡くなってしまいます。それで慶喜公に白羽の矢が立ったのであります。
 そのころ尾張藩は慶臧(よしつぐ)が弘化二年に十三歳で跡を継いだばかりです。
 紀伊藩は、斉順(なりゆき=清水家から)のあとの斉彊(なりかつ)も清水家から弘化三年に入ったばかりで二十八歳です。この年、斉順には慶福(よしとみ=弘化四年斉彊の養子となる)が生まれます。
 水戸藩では跡継ぎの慶篤公が十六歳です。
 田安家はどうか、慶頼(よしより)が天保十年に跡を継いで弘化四年には二十歳になっています。
 清水家はどうか、家斉の子、斉彊が継いでいたが弘化三年に紀伊藩を継ぐことになり其後二十一年間は空邸になっていました。
 相続問題では、田安家も無理、尾張・紀伊も無理で水戸家となって、水戸家の中でも慶喜公に限ったということは有栖川宮家との関係ということになるのでは、と考えます。峯姫がどうして七郎麿とされたかということも、はっきりとは分かりません。烈公のお子はたくさんいるわけですから、峯姫の口添えよりは有栖川宮家関係の筋が強くなるのではとも思われます。こうして慶喜公は一橋家を継ぐことになりました。家慶は慶喜公をかわいがられます。年表の弘化四年十月十一日に「登城して将軍家慶に謁し、饗応に与かり、ヤマガラ・カナリア・鴬などを拝領し、ついで菊花を拝見す。『七郎磨は初之丞(家慶の実子で一橋慶昌)に能く似たり』と大奥も賢明さと眉目秀麗なるを喜びて、ともどもに噂す」とある通りです。
 十二月一日には登城して将軍家慶・右大将家祥に謁し、将軍の偏諱を賜り慶喜と名乗り、従三位左近衛中将兼刑部卿に叙せられ、次いで一橋邸において元服の式を挙げています。十二月十八日には一橋邸に移って後初めて小石川の水戸邸に赴きその嬉しさを報告し、嘉永元年三月十八日には将軍家慶吹上邸より一橋邸に立ち寄って四つから六つまで歓談をしています。さらには嘉永二年一月八日将軍家慶と小金に鹿狩りし、夜四つ過ぎに帰館しました。この鹿狩りに行くときのエビソードとして慶喜公は準備万端凝り性で、馬に乗って鹿狩りをする訳ですが、馬が鹿を追うのに慣れるようにとプタを使って練習したといわれています。こういうように徹底して準備をしたようです。一緒に行けるという嬉しさもあったのでしょう。同年七月五日には将軍家慶大川筋にて水泳を見る。これに同道し、次いで、浜邸を借用して遊ぶ、三年六月三日将軍家慶吹上にて犬追物を見る、慶喜公も登城してこれを見物する。嘉永四年十一月二日将軍家慶四つ刻、吹上庭より一橋邸に臨み六半刻に及ぶ。こういうことがあります。このようにしばしば一橋邸を家慶が訪れていたことがわかります。五年九月二十一日には将軍家慶・右大将家祥が駒場に放鷹し、慶喜公も同行し羽合わせする。十二月にも家慶三河島での鶴の羽合わせに将軍は慶喜公を同行させようとしたが、老中阿部正弘が、これに反対しました。それは鶴の羽合わせは、将軍手ずから獲物を朝廷へ献上するそういう鷹狩りであるから世継ぎ以外は同伴することはないのだとされています。それで家慶は「まだ少し早いか」と言ったと言われて居ます。このころ既に家慶は慶喜公を将軍の跡継ぎと考えていたのではないか、ということも考えられます。最初に宇津救命丸のことが出ましたので、触れますが、嘉永五年の二月十五日には野州塩谷郡上高根沢村宇津権右衛門が一橋家へ救命丸三百粒を献上しています。これは二十五粒入り一ダースで毎年二月の献上でありました。こうして慶喜公に対する将軍の思いが深く、可愛いがられていた事が分かります。そこで将軍も慶喜公の婚姻問題を考えて嘉永元年十二月老中松平乗全を上使として一橋邸に遣わし大納言一条忠香養女千代姫との縁組を告げます。同じく将軍家から水戸藩主慶篤へも有栖川宮線宮幟子(いとみやたかこ)を将軍の養女として同年三月に縁組の命がありました。このように将軍家慶と水戸家の間は非常に親密になったということが窮われます。
 ところが嘉永六年二月七日忠香養女千代姫病気により、この婚約は解消されます。
 これは天然痘であったようです。この縁談は老女姉小路がまとめたようでありますが、大奥の反姉小路派が言い立てて破談にしたようです。天然痘はたいしたことがなかったようです。ここにも大奥の争いが出ていたように思うへわれます。そこで同年五月五日に将軍家慶は老中松平乗全に今出川中将実順の妹、延君(後に美賀と改名)を一条忠香の養女として慶喜公と縁組の上意を伝えます。
 そして、この慶喜公に将軍の跡継ぎにどうかという話が持ち上がってまいります。
 この頃、嘉永六年の六月三目にはペリーが来航します。六月二十七日には、老中阿部正弘が諸大名に対してこの難局をどう乗り切るかということを諮問するわけです。いままで幕府のみで行っていた幕政を諸大名に公開するわけでありますから、いわば情報公開に踏み切ったといえます。この背景には、阿部正弘と烈公が難局にあたって、御三家といわず外様大名にも意見を聞くぐらいの度量をもって臨むことがいいのではないかと言う話を常々していたようでありまして、そのような意見も参考にされたかと思われます。しかもこの難局に当たって残念なことは、七月二十二日に慶喜公はご機嫌伺いに登城して、去月二十二日に家慶が亡くなった事を初めて知るのであります。将軍が亡くなって、次ぎの将軍は家定と決まっていますが、家定は病弱で子がない、このことからすれば、ぜひとも将軍跡継ぎというものは、よくよく考えておかなければならない、そういう状況にあったと思われます。しかし『慶喜公伝』の中では家定は不運お方だ、と書かれています。家定は癇が強くてじっとしていることがない、と言われています。しかし、「この江戸湾の水は遠くアメリカまで通じている、よくよくこの世界の情勢を考えなければ」、と側近の者たちが申し上げると、「その通りだ」と言うほどの賢明な方でもありました。普通の時勢であれば、十分将軍は務まったであろうといわれています。
 家定は、あばた顔になっていて、人前に出るのをいやがっていたのではとも言われ、そのことが家定の評判を悪くしたのではないか、ともいわれています。
 そういうことから、跡継ぎは優秀な人物を立てなければ難局を乗り切れないだろう、という動きが出て来ます。そこで嘉永六年の五月、紀伊藩の附家老水野忠央(ただなか)が紀伊の慶福を将軍の跡継ぎにしようと画策いたします。このことを知った大奥の姉小路が、水野忠央は中々のものだ、注意しなければならないと告げていたとも言われています。早くから慶福を跡継ぎにしようという動きがありました。もう一方、六年七月二十二日将軍家慶が亡くなった事が発表になりますと共に、家慶が生前、斉昭と協力して国難に当たるべしと遺言をされていたことがわかります。阿部としては水戸家との結ぴ付きを心して行くのであります。この日に越前藩主松平慶永が島津斉彬と共に、慶喜公将軍擁立の周旋を約束して八月に老中阿部正弘を訪問、此事を告げますと、阿部正弘も同意は同意でありまして、しかしながら今これを打ち出すことは時期的にまずいのではないか、秘密にして置こう、折りを見て打ち出そう、と約束します。阿部正弘としても慶喜公の将軍家養子を考えていたようであります。
 このような話が慶喜公に伝わったのでありましょうか、八月十二日には烈公に具申書を提出しまして、このごろ私が将軍家の養子になる話があるけれども、もし父上が城中でこれを聞かれた場合には、絶対そのような事はあり得ないと申してほしい、と頼んでいます。慶喜公としては、跡継ぎに入る意志はないということです。
 ところで、松平慶永や島津斉彬は将軍継嗣問題を進展させるためにどのような画策をしていたかと言いますと、安政元年三月五日(三月三日に目米和親条約が結ばれています)に越前藩士、橋本左内が松平慶永の命を受けて江戸に入ります。(翌年には水戸藩の藤田東湖などと接触しまして、教えを受けます。)翌日、島津斉彬の参府に従い西郷隆盛が江戸着、水戸藩邸に出入りし藤田東湖に私淑致します。こういう事が続きます。
 西郷隆盛が藤田東湖と接触した喜ぴがどのようなものであったか、ということが次の資料で分かります。
 安政元年の七月二十九日に、藤田東湖からいただいた書を郷里の鹿児島の伯父に送りますが、その手紙におよそ次のように書いています。
     「藤田東湖の家を訪間すると清水を浴ぴたような気になって、心中一点の曇りなく爽やかに平常な心になって、帰る道を忘れるような気持ちになった。水戸の藤田東湖たちの学問は始終、武士となる覚悟を教えてくれる学問で、学者風の一般の学問とは大いに違っている。自画自賛するのではないが、藤田東湖も私の事は低くは思わないようであって、頼もしくとも、有り難いとも申してくれる。身に余り国家のため甚だうれしいことである。であるから、藤田東湖の主君である烈公がもし異国船の来航に対して鞭を挙げて先駆けするときには、自分は埋め草にでもなる覚悟である。」
また安政三年五月四日、鹿児島にいる大山正円に当てた手紙で、
     「一橋候を西上へ引上られ候賦(つもり)に相決し(相決しとは、水戸の武田耕雲斎・桑原信毅・原田兵介・安島帯刀等と密談をして決定しています。そうしますと越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らの画策と同時に、それを知らなかった水戸の志士たちも、このような動きをしたことが知られます)
    福山候(老中阿部正弘)能々(よくよく)御呑み込みに相成り、君公(薩摩藩主島津斉彬)ヘ一向(ひたすら)御願い申す訳に御座候。此の一条を初めて言上仕り候時は、実に難題に相成り居り、思召しは決して別に御座なく候。弥(いよいよ)御許容在らせられ間敷(まじき)に就いては只安然として罷り在りがたく、両田(藤田と戸田)の恩義を親しく受け居り候もケ様なる時節に寸分なりとも報いたく、山々相含み若しや再三諌争申し上げ奉り、弥別に御決定に候ては、水へ面の向け様も相叶わず、頓と共れ迄の儀と思い明らめ居り候事故余り考え過に候に付き、暫時は胸に迫り声を振り申し候。御笑察下さるべく候。然る処、思いの外思召し込み宣敷、深く御汲み取り遊ばされ、有難き次第飛揚候。天下の為め我が御国家御難事もいたし安く、且つ水府を御救い下され候儀、此より良策は御座有(間敷)候。幕府も一改革出来申すべく、神州扶持仕るべき道、更にこれなき儀に御座候。
 こういう手紙を送っていますが、これによって水戸藩を含む志士たちも将軍継嗣問題に奔走していたことがわります。つづいて安政三年に参りたいと思います。
 九月二十九日上州安中領主板倉勝明、書を阿部正弘に呈し慶喜公を将軍養君とするよう建言、勝明はこの写しを越前の松平慶永に送ります。さらには十月六日には松平慶永が密書を尾張慶勝、蜂須賀斉裕に送り、慶喜公の将軍継嗣問題に協力してくれるように依頼するのであります。尾張の慶勝は一面識のみでよくわからないからと拒否致しますが、斉裕は賛意を示します。十二月十八日を見ますと、島津斉彬が近衛忠煕(ただひろ)の養女篤姫(島津斉彬の女)を将軍家定の夫人とし、大奥から慶喜公擁立の支援を計画致します。安政四年四月二日、島津斉彬は松平慶永に「実に早く西城と仰ぎ奉り候御人物、しかし御慢心之処を折角御慎み御座候様仰せ上げられ候て然るべし」との書簡を送っています。さらに八月十四日にはペリーのあと参りましたハリスが江戸に入って将軍に謁見することが決定します。ますます家定の後の将軍をはっきりとさせなければならない情勢が迫ってきます。残念なことに六月十七日、このさなかに阿部正弘が亡くなります。
 この頃、川路左衛門尉(聖謨=としあきら)や藤田東潮は慶喜公の事をどのように見ていたか、ということを見てみます。
     藤田東湖嘗て、「一橋公は日角(にっかく=額の骨が高く出ている人相、帝王の相という。東湖もあったと言われている)ありて、固より非凡の人なり、且、老公(烈公)よりは一等上の方なれば、此先き又と出で難き御人なり、後には天下を治むる人とならん、されば事を急ぐは宣しからず、方今天下に人なければ、自然に任せ置くとも公に帰する外はあるまじきなり」といひしとぞ(大内毅遺書)。是れ公が十七八ばかりの事なるに、東湖は既に其不世出の資を具へ給へるを看破せり。勘定奉行川路左衛門尉も亦東湖に語りていひけるやう、「一橋公の英明にましまして、才気迸り給ふことは驚くばかりなり。先程御家中の噂を承るに、用人某といへる者木綿の服にて御前に出たるを、それは何と申すものにやと御尋ありしかば、綿服なる旨申上げしを聞召して、綿服にて出仕する程ならば、もはや娘が躍りの稽古は止めし事ならんと仰せらる、何某いたく赤面して退きしとかや。さりながら、斯くばかり御気象をあらはし給はんは如何あるべき、何処までも英気は内に秘め置かれて、唯々の有り難き御方なりと下々にて評判し奉るやうに仕りたきものなり」とて、家老・用人の人選に注意すべき事などをも物語れりといふ。是れも公十八歳の御時なり。
                                (東湖全集所収東湖書簡)
 それらをまとめて、安政四年九月十六日に、松平慶永・蜂須賀斉裕の連名で、賢明の人を将軍の跡継ぎにしなければならない、それには慶喜公のほかに人はいない、と阿部正弘の後を継いだ老中堀田正睦に進言します。また反対派の松平伊賀守忠固や久世大和守広周らに『橋公行状記』(平岡円四郎著、橋本左内整理)を示して理解を求めるのであります。さらに十月十二日にも松平慶永が再ぴ老中堀田正睦を説いて、継嗣のことは朝廷の許しを伺うべきかどうかと問うています、これは注目すべき事ではないかと思います。外交問題について朝廷の意向が伝わったのは、弘化二年八月二十九日に孝明天皇から幕府に対して海防の勅諭が下されます、それ以後幕府では異国船のことについて朝廷に報告するようになります。その最初は文化四年にラクスマンの後に参りましたロシアの便節レザノフが、長崎に入ったところが根室に行けと言われ、根室でも断られたので北方を荒らします。その北方を荒らすロシアの勢力から我が国を守ろうとして津軽藩なども出兵しますが、この荒らし方が激しかったので、幕府では朝廷に報告するのであります。そのことあるので日米和親条約は後から報告致します。政局が非常に緊迫してからは、日米通商条約の調印は報告でなくて勅許を得なければならない、こういう世論に変わって行く。この辺が朝廷という意識が国内に非常に強くなって来たということが分かります。この将軍継嗣についても勅許を受けるべきかどうかということになってきたのであります。ですから違勅かどうか、という事は深刻な問題になって来ました。堀田正睦はそういう前例はないので、将軍の意向によって跡継ぎは決まると拒否しています。しかもこの難局を乗り切るためには、賢明な人物で年長で人望が厚いかどうかで判断して決めてもらいたい、と言うのが松平慶永などの考えでありました。
 安政四年十二月十四日、西郷隆盛から橋本左内に対して「橋公御行状記略」を届けてほしいと依頼します。その日のうちに橋本左内は承諾の書簡を送っております。
 「橋公御行状記略」というものは、慶喜公の業績を調べたものでありまして、安政四年十一月末に松平春嶽(慶永)から老中松平伊賀守(忠固)に送った慶喜公の業績で、これは平岡円四郎に命じて認めさせたものを多少取捨を加えたものであります。
    橋公略行状
       (金沢の遠乗)
     安政四年五月には、金沢まで遠乗りあり、早暁発邸ありしに、析悪しく途中より大雨となりしも厭はせられず、保ケ谷より金沢まで六里の途は歩行せられしに、道路泥濘にて、御供の者ども皆疲れ果てて、後るる者も多かりしが、公は元気ますます旺盛にて健歩ありしかば、近臣より、御供には老人もある由を申上げしに、肯かせられて緩歩ありき。金沢の景勝御覧の時は幸に晴れしも、やがて夕刻帰途に及ぴては、またも降出す五月雨に、「保ケ谷までは御駕籠召させ候ヘ、然らば御供の面々もゆるゆる歩行することを得ん」と、近臣より申出でしに、「否とよ、路次濘りて一人の歩行だに難渋なるに、我を乗せ歩く輿夫の難儀は如何ばかりぞ」との仰せなれば、「箱根の瞼岨も日々舁き馴れては、自然に平地同様と心得る駕籠人足は、賃銀を貰ひ人を乗せて却て喜ぶ者なれば、御駕の者へ御手当下されなば、有難がり申すべし、必ず御遠慮は無用なり」と申せしに、公重ねて、「然らば此処の人足に舁かするにや、駕籠の者どもは我等同様江戸育ちなれば、泥濘悪路の稽古は致すまじく、万一過失あらば咎人も出来べし」と宣へば、又「さ候はば御駕籠は何の為に御用意あるにや」と伺へるに、公笑はせ給ひ、「駕籠は怪我急病の為の用意にて、遠乗に出で雨に逢ひたり籠に乗らば、講武の本意にも背かん、尤も如何にも濘ることならば、上下一同怪我なきやう杖を用ゐるべし、我も緩歩せん」との仰せにて、遂に歩して保ケ谷へ著かせ給ひ、それより乗馬あり、家老は思召にて途中より御供を免さる、公は風雨の為肌衣まで湿ひて、夜四つ時(十時頃)帰邸ありしも、翌日疲労の姿も見せ給はざりしとぞ。是亦公が剛毅の一端を窮ふべし。                       (橋公略行状)
 他には、例えば薩摩藩が幕府のライフル銃を見せてほしいと言った時に、外様だからまかりならんとの幕府の答えに、そんな狭量なことでどうする。と言われた事も書かれています。
 このような内容のものを西郷に届けた。その手紙が次のものです。
    安政四年十二月十四日橋本左内より西郷吉兵衛ヘ  (倶に在江戸)
     昨日は乍例失敬而己相働、多罪奉萬謝候。小拙不快は逐々宣方に御座候間、乍憚御休情可被下候。偖橋公御行状記略認出来候間、貴介へ附托仕候。餘は明夕迄に呈上可申候。左様御含置被下候様希度候。早々拝復。
      臘月十四日
                                   橋本左内
          西郷吉兵衛様                   (原本所在不明)
 この手紙を西郷は明治十年城山で亡くなるまで肌身離さず所持していた、橋本左内と西郷の心の通い、同輩では橋本左内を推薦すると言った西郷、先輩では藤田東湖に服すると言った西郷、私はこの西郷の話を聞いたとき胸の熱くなるのを禁じ得ませんでした。
 そういうことが将軍継嗣問題の中にも現れています。
 このような慶喜公擁立の動きがある一方で、紀州の慶福は何と言っても血筋が問題である。という動きが水野忠央の動きと併せて井伊直弼の主張になって来ます。
 ところで、この将軍継嗣問題について、慶喜公自身はどのように考えていたのでしょうか。『慶喜公伝』に、「安政年間継嗣問題に関する談話」というのがあります。
    (前書きに)一橋家小姓平岡円四郎、松平慶永を後見とするの条件をもって、頻りに公に御養君たらんとことを勧めたれども、聴き入れ給はず、此事は既に伊賀(松平忠固、老中)大和(久世広周、老中)に断りて済みたりと仰せられ、又誠願院(故一橋斉位夫人)徳信院(故一橋慶寿夫人)両夫人、公の御養君たらんとすることを聞きて之を憂ひしかば、公より大奥の模様を探られたる由、昨夢紀事に見えるにつきての談話なり。
     予を御養君となさんとて種々周旋する者ある由は、かねがね諸方より聞き及べるのみならず、越前守(松平慶永)及び川路左衛門尉(聖謨、勘定奉行)岩瀬肥後守(忠震、目付)又は松平薩摩守(島津斉彬)などよりも、同じ意味よりして、学問の必要なること、身体を大切にすべきこと等につきて、注意を受けたることあり。且つ円四郎よりも、切に御養君たらんことを勧めたれども、西丸へ入りたりとも何の見込みも立たねば、固く之を辞したり。但圓四郎が、越前守を後見たらしめんとの条件を以て勧めたることはなかりしと覚ゆ。又「伊賀・大和に断りて済みたり」といへりとあるは虚説なり。尤も堀田備中守(正睦、老中)へなりしか、本郷丹後守(泰固、御側御用取次)ヘなりしかは記憶せざるも、御養君一条は固く御辞退申すといひしことはありしやに覚え居れり。こは備中守の上京前なりしか、上京後なりしか確かならず。
     予が斯く御養君となることを嫌ひしは、当時の幕府は既に衰亡の兆を露せるのみならず、大奥の状態を見るに老女は実に恐るべき者にて、実際老中以上の権力あり。殆ど改革の手を著くべからず、之を引受くるも、徹底立直し得る見込み立たざりしによれり。されば予は真実御請はせざる決心なりしなり。
     徳信院様いづれよりか、予が遠からず御養君たるべき由を聞き及ばれ、一タ共に晩餐したためたる席にて、「折角年頃馴染みたるものを、又々外へ移られんことは如何にも心細し」と、しみじみ仰せられしかば、予は「さまでに思召さるるは有難けれども、自分は御養君の事は決して御請せざる決心なれば、御心安かるべし、ついてはさる仰せ出されのなき中、前以て御断り申上げ置くべし」
 平岡円四郎は藤田東湖の紹介もあって慶喜公の家臣となった人です。慶喜公は将軍家への養子となるつもりはありませんでした。こういうなかで、将軍継嗣問題は最後の局面に入ります。
 安政五年四月二十三日に井伊直弼が大老になります。そのあと、四月二十七日に目付岩瀬忠震と大老井伊直弼が激論に及んだのであります。
 岩瀬より橋本左内に当てた書簡に「今日彦公へ余程の激論を発し申置候。---万々一愈不可為に至り候共、有志固結候はば、亦興業之秋も候はん。---文通類全て連やかに丙丁を願い候。翰も直ちに悉く投火候」とあります。
 激論は日米通商案約を調印するということです。調印も勅許を得るかどうか、井伊直弼としては勅許を得るという考えであったようでありますが、もしそれが間に合わず締結をハリスから強要されたらどうするか、そのときはやむを得ない、というような事を話しあっております。岩瀬は開国論者でありますから、勅許はなくてもと考えていたようであります。もう一つは余程の激論のなかには将軍継調問題もあるのではないか、とも思われます。岩瀬としては、慶喜公を跡継ぎとしてこの難局を乗り切ろうと考えていたようであります。この激論の結果、井伊直弼とは合わないと言うことを知り橋本左内に対してこの書簡を出すのであります。
 六月十九日に、日米通商条約が岩瀬・井上清直など外国奉行の手によって締結されます。これを宿継奉書で朝廷に報告をするのであります。これの宿継奉書が朝廷を無視したということで大問題になります。この違勅調印に対し、慶喜公は二十三日、二十四日と登城して抗議するのであります。さらに翌二十五日には慶喜公は田安と登城します。この時、条約調印問題の外に将軍の跡継ぎは慶福とする旨を告げられます。これに関しては、慶喜公は自分では将軍の跡継ぎになる意志はないのでありますから、二十六日に登城して将軍の機嫌を伺って井伊直弼や老中一統と会って跡継ぎ決定の祝儀を述べています。これは慶喜公としては筋の通った事だと思います。しかしながら田安慶頼を誘い不時登城して調印に抗議をした廉をもって、井伊直弼から「登城当分の間見合わせ」の処分を受けます。さらに翌安政六年八月二十七日には慶喜公の「隠居・慎み」の処分が決定されます。領地・家臣はそのままということです。将軍継嗣は実現せず、安政の大獄の処罰を受けたのであります。一橋邸の回りには草も生い茂ると言う状況になり、万延元年になって、やっと除草の許可が出ました。文久二年になって情勢が変わりまして七月六日、一橋家再相続が許されたのです。今日は、最初に起こった慶喜公の将軍継嗣問題の成り行きの概略を申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

                        (平成九年九月七日講座)
                        (県立太田第一高等学校教頭)