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「徳 川 慶 喜 公---その歴史上の功績---」その1

徳川慶喜の人格形成

                  久 野 勝 弥


 水戸史学講座の開講に当り、私は慶喜公に関する基本的なことについてお話いたします。第二回以降の講座の内容に及ぶことがあるかとも思われますが、この点はご了承願います。
 それでは最初に用意しました系図についてお話いたします。水戸の幕末の歴史は九代藩主烈公斉昭以降のことが中心になりますが、烈公の叔父に当る義和という方が、尾張の支藩である美濃の高須藩に養子に行っております。その孫に当る人々がやはり幕末史の中で重要な位置を占めております。最初に慶勝(よしかつ)、はじめ慶恕(よしくみ)といいましたが、尾張の徳川家を相続いたします。
次に茂栄(もちはる)、尾張の徳川家にも関係しますが、慶喜が十五代将軍になると一橋家を相続いたします。次に容保(かたもり)、会津の松平家を相続し、後に京都守護職に任命されます。その弟が定敬(さだあき)、桑名の松平家を相続します。会津、桑名といえぱ、幕末に最後まで幕府軍として戦ったことは皆さんご承知のことと存じます。この会津、桑名を含めて、尾張の慶勝、一橋家の茂栄、これらの人々はいわば水戸系に属する大名でした。
 もうひとつ、烈公の子昭武(あきたけ)は、慶喜公の名代としてパリーの万国博覧会に出席いたしますが、この時、清水家を相続して松平昭武となります。
 そうしますと、慶喜公が慶応二年十二月五日、十五代将軍となって、昭武に清水家を相続させた段階で、将軍家、水戸家、尾張家、一橋家、清水家を水戸系で固めることになります。いうなれば三家、三卿のうち三分の二を水戸系で押えることになったのであります。
 ところが翌慶応三年十月十四日には、大政を返上しますから、この体制は僅か十か月ほどで崩壊をいたします。この大政奉還の事情は段々とお話があろうかと思いますので、私は歴史的事実のみをお話させていただきます。
 続きまして、水戸家のことにつきまして若干触れておきますが、九代審主斉昭の跡を慶篤(よしあつ)が相続しますが、慶篤は明治維新の前に歿しますので、清水家を相続した昭武が十一代藩主となります。昭武は県北の大能の牧場に植林を積極的に行いました。別荘を作りまして、そこで生活をしながら植林事業を行います。非公開でありますが天竜院の別荘は大変美しい庭を持った別荘であります。晩年は松戸に隠居をしましたので「松戸さん」とか「四位(しい)さん」とか呼ばれています。その跡は篤敬(あつよし)が相続いたします。この方は長くイタリア公使として海外生活が長かったのでありますが、水戸からも多くの人々を留学させました。その一人が豊田芙雄子(ふゆこ)といいまして、イタリアで幼児教育を学び、帰国しまして保母の第一号となった方であります。女子教育にも力を尽しました。現在水戸第二高等学校の校門の側にある銅像が豊田芙雄子の像であります。
 次の圀順(くにゆき)さんになりますと皆様方の中でもご存知の方もあろうかと存じます。昭和四年侯爵から公爵になられたお方でありまして、奥様は慶喜公の第十一女(英子)でありました。その跡を蘭の研究で知られた圀斉(くになり)さん、それから当主の斉正(なりまさ)さんと続きます。
 一橋家に移ります。一橋家は慶喜公が十五代将軍となって徳川宗家を相続しますと、美濃の高須から出ました茂栄・達道(さとみち)と続きます。達道の奥さんは慶喜公の三女(鉄子)でした。達道の跡を水戸の圀順さんの弟宗敬(むねよし)さんが相続します。奥さんは池田家の仲博の娘幹子(もとこ)さんです。宗敬、幹子の両氏は終戦後、兄圀順さんの薦めもありまして、水戸の丹下の開墾に従事されまして、水戸に定住されました。昭和五十九年には一橋家伝来の書画、武具、刀剣、調度品、人形、文書等五千余点を茨城県に寄贈されました。茨城県では県立歴史館内に一橋徳川記念室を建設しまして、これらの宝物の保管展示をしております。この中には慶喜公に関係する資料も多く含まれております。
 次に慶喜家はやはり一家を作ることが詐されまして、お孫さんの慶光さんは大日本史の研究で知られておりますし、喜久子さんは高松宮妃殿下であります。
 次に高松松平家でありますが、頼恕は斉昭の兄でありまして、水戸藩の天保の改革に学び、藩校弘道館の建設や、わが国の歴史の編纂などに取り組みましたが、その養子頼胤(よりたね)は将軍家斉の娘文姫を妻娶り、養子頼聡には井伊直弼の娘千代姫を娶り、井伊家と親類となります。水戸藩では弘化元年と安政六年の二度に亘り、斉昭が謹慎を命ぜられます。その時に後見の筆頭であったのが松平頼胤であります。彼は幕府の意を受けて水戸藩政に口出しをいたしますので、水戸藩はこのようなところでも混乱の度を増していったのであります。
 続きまして、有栖川宮家につきましては、織仁(おりひと)親王の王女楽宮喬子(さざのみやたかこ)が十二代将軍家慶の夫人であり、その妹登美宮吉子(とみのみやよしこ)が水戸斉昭の夫人で、喬子と吉子が実の姉妹であることを知っておいていただきたいと思います。

 それでは演題に従いまして、慶喜の人格形成の時期のことについてお話しいたします。慶喜の幼名は七郎麿といいまして、天保八年(一八三七)九月二十九日、小右川の水戸藩邸で誕生いたしました。翌年、二歳の時に水戸に移り、ここで青てられました。
 諸公子を水戸において教育するという斉昭の方針は、七郎麿の傅役(ふやく)であった井上甚七郎に示した書状に
    庶子は嫡子と異りて、養子に望む家あらぱ直に遣はすべきものなれば、永く我が膝下に教育し難し、されば文武共に怠らしむべからず。若し他家に出し遣る時、柔弱にして文武の心得なくば、我が水戸家の名を辱しむ事あるべし。水術・弓術・馬術の三科は并に修業せしむべし。中に馬術は馬場にて乗るのみにては何の用も立たず、山坂を乗り廻らん為に、度々好文亭の辺、千坡(波)のあたりを廻るべし。湊などへも、手軽に附の者どもと遠馬に出づるやうに扱ふべし。但し子供始め腰弁当たるべし。
と見えている。これは老中阿部伊募守に対しても、
    先年願之上、庶子ハ追々国へ下し指置申候義ニて、是ハ拙家(水戸家)のミに無之、諸大名ニも追々例(ためし)有之候ヘハ、右之通り順之上仕候処、此表ニては附人着服等の費のミニも無之、文武の修業も存分出来不申候ヘハ、たとへ他へ養子ニ遺候ても、御用ニ足り候様ニ無之候てハ不相成候故、可相成ハ願之上ニて国許へ指置候事故、此まゝに致度候処、御程合も難計候へハ、一先ツ御内々御問答
申し上げると、相談に及んでいます。これに対して、伊勢守は「公辺之御模様ニ拘り候義ニハ無御座」と答え、国許での教育について指障りはないであろうと返答しております。烈公がこのように七郎麿ら諸公子の教育に細かな配慮をしているのは、弘化甲辰の国難の後で、烈公の致仕謹慎は解けたものの、高松の松平頼胤ら三連枝及ぴ門閥派の監視のもとにあったためであろうと思われます。
 天保十二年、弘道館が開館いたしますと、兄の五郎麿(鳥取池田慶徳)、弟の八郎麿(川越松平直候)、九郎麿(岡山池田茂政)や十郎麿(浜田松平武聡)と弘道館で四書五経を学んだようであります。
 『昔夢会筆記』には、その頃の日課について次のように記されております。
    毎朝起き出で給うと、直ちに四書・五経のうち半巻を復読せらるる定めにて、近侍の者その間に髪を結い奉りながら、背後より検しまいらすなり。復読了りて朝餉(あさげ)したため給い、四つ時まで習字あり、それより弘道館に上りて、教官の素読口授を受けさせられ、館中文武の諸局に臨みて、諸生等が修業のさまをみそなわし、正午に至りて帰らせ給い、午後もまた習字・復読等に就かせられ、少しの余暇もあらせらず、
という厳しいものでありました。
 弘道館では会沢正志斎や青山延于らの指導を受けました。
 ただ、七郎麿が弘道館に通いはじめましたのは僅かに五歳の時でありました。五歳の子供が学問を好むことはなく、とくに読書を嫌ったようであります。お付きの人々は心配しまして、何とか学問させようとして、「この後学問を怠りますと指にお灸をすえますがよろしいですか」と懲らしめようとするのですが、七郎麿は、ただうなずくだけでありまして恐れる様子もありません。それでも学問をしませんので度々灸を人さし指にすえまして、そのところが腫れただれましても、書物を読むよりは灸を据えられた方がよいというほどでありました。
 お付きの人々はほとほど手をやいて、このことを烈公に申し上げますと、烈公も心配をしまして、「それは捨置くべきではない。余の命令であると申し聞かせ、座敷牢を作り、その中にとじこめよ、この間一切食事をさせてはならぬ。」と命じ、座敷牢に入れられました。これには七郎麿も懲りたようでありましてその後は学問に出精するようになったといいます。
 弘道館へは兄の五郎麿、弟の八郎麿、九郎慶と四人で通うのでありますが、それぞれ路上の小石を蹴りながら、その速さを競い、弘道館の正門に到着するのを楽しみにしておりました。お付きの人々は、「そのような行儀の悪いことはしてはなりませぬ。帰りはきっとお止めなさい」と申しますと、四人で相談をしまして、その帰る道すがら、わざと左右に分れて小石を蹴りはじめました。お供の者は二人でしたので、こちらを制止しますと、向う側で蹴り、後を注意しますと前で蹴りはじめるというようなことで、お供の者は困りはて、このことを烈公に申し上げます。たちまち張本人は七郎麿であると解ってしまい、また、仕置されるというようなこともありました。
 また、武士たるものは寝相にまで心を用いるべきであるとして、枕の両側に剃刀を立てられたり、右手はきき腕であるので必ず右手を下にし寝せられたというようなことも伝えられています。
 さらに、お側役の井上甚七郎という人がいますが、ある時、七郎麿が家臣の者と歩打毬(ほだきゅう)をしておりましたが、熱中しておりましてつい手を使って、毬をすくって何気なくしておりますと、甚三郎が急に声高に近寄ってまいりまして、「公もし卑怯にも手もて窃かに毬をすくい給わば、某はこのごとく仕るべし」と顔色をかえ、一度に数十の毬をざるに入れて毬門に投入れ諌めることがありました。
 この時ばかりは「予はいたく慚じ入りて、答うるところを知らざりきしと述べております。
 このように、お側の者は心をこめて教育に従ったのでありますが、それには七郎麿の資質才能に恵まれていたことも関係があるようです。
 父斉昭は「五郎麿は堂上風にて御美男、御品よく、少し柔和に過ぎ、俗に申す養子向きと申す風、七郎麿は天晴名将になさせらるべく、去りながら悪しく出来なされ候へば、手に余りなされべく、いつれ頼母敷」考えていたようであります。
 さらに、水戸家の世子の控に置いて、しばらくの内は水戸城に残して置きたいとも考えておりました。 藤田東湖も
    一橋公は日角ありて、固より非凡の人なり、旦老公(烈会)よりは一等上の方なれば、此先き又と出で難き御人なり、後には天下を治むる人とならん、されば事を急ぐは宜しからず、方今天下に人なければ、自然に任せ置くとも、公に帰る外はあるまじきなり。
と評しております。
 幼少の頃の腕白振りは、今迄のお話の中でも触れてまいりましたが、自らも子の池田仲博に対して、
    おまえのおぢい様(五郎麿慶徳)は、文学を好まれ、水戸にいた子供の時から、友達をあつめて歌を詠み、その短冊を庭の梅の木に下げて楽しんでおられた。私は乱暴者で、仲間をあつめ、荒縄で猫をしばり、それを同じ梅の木につるして手裏剣の稽古をした
と語っております。いつも遊びは軍よ火事よと騒ぎ、仕置きはいつも七郎麿でありました。
 その頃、烈公の生母瑛想院(外山補子)は水戸城の翠の間にお住いでした。孫一同は月に三度ご挨拶に伺うのですが、瑛想院は七郎麿の悪戯を知っていて、厳しく戒めることがありました。七郎麿は謝ると思いのほか、すと立ち上り「この坊主め」と瑛想院の頭を打ち叩いたのであります。これには周囲の者も驚き、一室に閉じこめて謹慎させられました。
 このように七郎麿の腕白者で、「悪しく出来成され候へば、手に余り成されべく」と心配されたのは尤のことであります。
 一方、「天晴名将の器」「天下を治むる人とならん」と期待されていたことも事実であります。

会沢正志斎、青山延于や傅役の井上甚七郎ほど知られておりませんが、七郎麿の人格形成で大きな役割を担っておりましたのはお附きの女中衆であります。七郎麿お附の女中は何人かおりましたが、その中で四人だけは一橋家相続の後も七郎麿に従って水戸家より一橋家に移っております、名は磯山、いせ、よき、まりという四人です。
 よきは七郎麿の乳母でありました。四ツ谷新宿紺屋丁子屋新介の娘で、阿部伊勢また奉公の後、七郎麿の乳母となり、乳が離れて後は宿下りをする筈でありましたが、自分の子供より七郎麿のことを大切に考え、「右の段を夫へ申聞、自分の子は夫へ頼ミ候て、外ニ妻を持候やう申聞て、其まゝ七郎麿へ是迄奉会」をしたのでした。
 まりは奥平大膳の家中長谷川某の娘でしたが、一度薩摩藩に奉公に出た後に、七郎唐の誕生を待うけて召抱えた女性であったといいます。「外ニてハ人の見不申節ハ打兼ハ致間敷申位」と見えていますので、文面通り解釈いたしますと、「家の外では人が見ていない時は七郎麿を打擲することはないと申すほどなので」とありますから、反対に人の見ているところでは打擲することもあったと解釈できます。「七郎麿きらい申節ハがかや抔へくるミ候事も追々承り及び申候へき」とあり、云うことを聞かない時はかやなどにくるみ押込まれたようであります。続いて「愛しい者ハケ様手あらの事ハ出来兼申者なるが、実に子供を仕込候にハよき人にて、七郎麿事もまりニハ恐れ候へ共、又誰よりも親ミ大切ニ存候。単意常ハ愛して怠り候節のミ厳重ニ致候故也」このように厳しさの中にも情愛深き教育を試みたのであります。
 これは烈公の手記「一橋相続略記」に見えております。さらに手記には
    まり、よき何レも七郎麿学問手跡等の世話よく致し候。尤子供の附ニは何レも判下ニ至り候迄も、自然と四書、五経杯よミ不申ハ無之候へは、まり、よき義も同様に候へき
が理想であって、事実彼女らは、
     まり、よきニ限らず、子共(供)とも夜中寝候後ハ、自分々々の可致私用をも打捨置て、互に不知書物ハ知る人に聞候て、自分々々預りの子共を教へ候様心かけ
るような努力を重ねている訳であります。烈公はさらに「是等は認ニ不及様なれとも、後年附候の心得にも相成故記し置也」と書き添えているところを見ますと、まり、よきなどの教育方法に満足している様子が窺えるのであります。
 弘化四年、七郎麿は一橋家相続のことが決り、一橋屋敷に移ることになります。まり、よき両人とも、「七郎幼年より十一ケ年も奉公致候。且つ今養□(限か)参候とて引放し候てハ、外(の)子共へ附置候者共気受も不宜、折角骨折文武も教へ成長いたし、養子ニ参り候節、残され候てハ、張込悪く相成事故」、七郎麿附きとして、一橋家へ移籍することになったのであります。
 ところが一橋家の附人は三家三卿、旗本の子女でなければならぬというので、旗本を借宿として、親類書きまで作成して、一橋家に移りました。磯山ら四名が一橋家に入りましたのは弘化四年十月五日のことであります。まりは森山と改名して錠口役となり、いせは側詰、よきは錠口介として、七郎麿に仕えたのであります。
 七郎麿の教育からは少々離れますが、四人が一橋屋敷に移りますと居間は八量二間で、隣部屋の住人は、一度磯山の部屋に挨拶に来たので一切顔を合せることはなかったといいます。その意味では金銭の出費は少なかったのであるが、「兼てつき合に物が入るゝゝと申ハ何事かと存居り候処、一橋ニてハ何レも法革大信心ニて、申合せ祖神杯へ金銀を遣しニ、物(金)が入候事のよし」、もうひとつは「雛抔ハ何レても美々敷候よし故、なくてハ不相成と人々申候故、無已こしらヘ、万事方つき合いと雛へ金の出候ハおしき物に申候よし」と見えております。烈公は日頃質素倹約と旨として藩政を担当し、さらに仏教を好まぬ性格でありました。その指導のもとに生活してきました附の者が、法華の信心と雛のために多額の出費をすることにとまどっている様子が窺えます。
 一橋家伝来の雛人形が立派であることは音さんもご承知のことと思いますが、このような事情を知り得ますと、また見る眼が変ってくるように恩います。

 一橋家を相続しますのが弘化四年九月一日のことであり、同年十二月一日には元服をしまして、従三位、左近衛中将、刑部卿の位を得して慶喜と名を改めます。
 慶喜と改名をいたしましてからも学問は続けられました。
 一と六の日は手習で、師匠は戸川播磨守、御相手は大塚武右衛門、鈴木有之丞の二名、二と七の日には素読で、師匠は久保喜三郎、御相手は外山清五郎、鈴木有之丞、久保安次郎、山本茂三郎の四名、三と八の日は剣術で、師範は木村左衛門、御相手は武田軍治、水谷斧吉の二名、五と十の日は大坪流の馬術で、師範は諏訪部八十郎でありました。
 その他に宝生流の仕舞を宝生弥五郎に、弓術を小笠原縫殿助に、槍術を北蕃五郎に学んでおります。それぞれ御相手が選ばれていましたが、大塚武右衛門、鈴木有之丞、峰岸小膳らは七郎麿付きの小姓であります。
 大坪流の馬術を諏訪部八十郎に学び始めたのは弘化四年十一月十五日のことでありますが、その始めは木馬からでした。槍術・弓道は同年十一月二十七日から稽古を始めております。北蕃五郎から槍術の伝書を与えられましたのが、嘉永四年五月六日、同六年十月六日には免許皆伝となりました。剣術も四年七月二十三日に伝書を与えられ、同六年五月六日は免許皆伝となっております。
 砲術は篠山景徳に学び、伊束一郎治を御相手としました。安政元年八月十九日には小石川邸に赴き、鉄砲方伊東一郎治弟子の銃陣を見学しております。
 嘉永六年八月三日には山国喜八郎から兵学を学んでおります。絵画は狩野探渕に(嘉永三・三・四)、音楽は東儀将曹(安政二・九・五)の指導を受けました。
 ところが、安政三年(一八五六)十一月十日、「慶喜の手跡稽古、御用多きにつき当分これを断る」とあります。
 十一月七日には八ツ時(一時半頃)一橋邸を出て水戸邸を訪問して、夜五ツ時(午後七時半頃)帰邸することがありました。
 後述の烈公の教諭はこの日のことではなかったかとおもわれます。十一月十日は、慶喜の幼少から続いた学問稽古の一区切り、いうなれぱ卒業の日と考えられます。烈公の教論は成人となった慶喜への教戒であると同時に、幼少から続いてきた学問稽古の卒業の教戒でもありました。
 父斉昭の七郎麿教育を知る好資料に「銃術問答」があります。この問答は安政二年(一八五五)六月十九日、一橋慶喜の質問に烈公斉昭が答えるという形で編纂されております。質問の内容は西洋流の銃術に始まり、政治、制度の状態、武将のあり方等十か条に及んでおります。
 最初の質問は、
    問て曰、拙者是迄某流の砲術を学ひ候得共、近来世上専ら哲洋の砲術行ハれ候間、新ニ西洋流を学ひ候ハんと存候処、得失如何可有之哉。
続いて烈公の見解であります。
    答て曰、我仏尊しとやらんいへる諺の如く、世の武芸を学ひ候者、己れか流儀のみ尊候て、他流の善を取候事をしらす、然るニ貴殿既ニ某流を被学、又西洋の流をも被学候八ハんとの儀、近頃感心の至ニ候。西洋の術如何ニも着実便利の事多候間、国体の本来、制度之異同、風俗の厚薄等よくよく合点被致、其上ニて彼か長する所を取て我か短なる所を補ひ、我長する所ハますます是をふるひ候御志ニ候ハゝ、西洋流御研究の儀至極御尤ニ存候。
 関連して、質間は国体の本末、制度の異同、風俗の厚薄に及び、砲術に是等の事柄を関遵させるのはどのやうな理由からか、禍患の萌とは何か、四十八人の銃陣の得失などに及んでおります。
 四十八人の陣は足軽等下輩の学ぶべきものであるとの回答に対して、慶喜の質問は、
    問て曰、四十八人の陣はいかさま下輩の用ゆへき業ニてハ、拙者修業いたし候ニハ不及儀勿論之儀、家中も下輩のものゝみ為学可然哉。
 烈公は、
    答て曰、物頭ハ一組の将、番頭ハ一隊の将、家老ハ一軍之将、貴殿ニハ貴家惣軍の大将ニ候。惣隊の本は一組より初り候得ハ、一組の情合御承知無之候得ハ、惣軍の釆配も届兼候理合ニ候間、平日の調練ニハ、試みニ家老・番頭・又ハ物頭の采配へも御立入、又御近習初めも、試みニ同心等の立場ニ代り、得失利害研究いたし候ハゝ尤可然候。
と述ベ、続いて武道論に及びます。
    一体武士一人前之武道と、領主・国主等の武道ハ次第相違いたし候。譬へは槍・剣・銃・馬等一円ニ修行致し、萬一の節ハ諸人ニ抽て一番鑓・一番乘・ねらい打等の功名をあらハさんと日夜心懸ケ候ハ、一人前之武道ニて、如此者ハ実ニ天晴之武士と可申候。扨わが組子支配共を、不残右之如くニ仕込候半と日夜丹滑を尽し侯ハ、物頭・番頭・家老之武道ニ候。一領・一国の主ハ、一家中不残武道ヲ励ミ、君臣上下一致候て、天朝・公辺の御恩に報ひ奉らんと志し候を、国主・領主の武道と可申存候。
と懇切丁寧に教諭しております。
 「銃術問答」にもまして、慶喜に大きな影響を与えたのは、慶喜が二十歳の時に、小石川の屋敷に招かれて烈公斉昭から受けた教諭であろうと思います。
     おおやけに言い出だすべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ぱざることながら、もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときこともあらんか、我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ。
 この教諭は慶喜の脳裏に焼き付き、生涯忘れることのできないものでありました。
 この偶然の機会に伊藤博文と慶喜がただ二人になった折に、伊藤が「維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしか」と質問しましたその答に、「そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず」といい、さらに「水戸義公来の庭訓、及び烈公斉昭の教諭に従ったまでである」と語っていることでも知られるのであります。

慶喜は明治になって、彰考館の浪華梅に因んで、父烈公斉昭が天保四年(一八三三)三月に詠んだ歌、「家の風 いまもかほりの つきぬにぞ ふみこのむ木の 盛りしらるる」を万葉仮名で揮毫しました。この碑は義烈館の前に移されてあります。
 意味は好文木と称された梅の咲き薫り、『大日本史』の編纂の隆盛を詠まれたものであります。ただ、慶喜が「家乃風伊萬母 薫理乃都伎 努爾存不美 古能武 起乃佐可 梨知良流々」と揮毫した時には、水戸家代々の家の風、家風ということを考えていたと思われます。
 義公が浪華梅を彰考館に植えて珍重したのは、十八歳立志の時『史記』の伯夷伝を読んだからのことでありまして、そこには伯夷・叔斉の兄弟の譲り合いのことが記されていました。
 義公は兄弟の譲り合いのことについては、ことに意を用いております。浪華梅は浪華高津の宮で即位した仁徳天皇の故事に因んでおります。父応神天皇は仁徳天皇の弟、菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)を皇太子に立てていました。稚郎子は兄が皇位に就かれるのが道理であるとして、兄弟譲り合ったが、遂に稚郎子は自刃して、皇位を兄に譲ったのであります。義公が浪華梅を大阪から移し、彰考館に植えたのはこのような事情によります。
 烈公もまた兄弟譲り合いの厳しい状況の中で藩主となりました。兄斉脩の遺言が残されていなければ、烈公の藩主としての位置はさらに困難な状況に置かれたに違いありません。烈公は斉脩の跡に養子清水恒之丞を迎へようとした門閥派の対応には殊の外苦慮しております。
 藩主に就任して最初に水戸藩に入った烈公斉昭が、彰考館に赴き、浪華梅の咲き匂っている中で、自分の置かれている立場を考えて水戸家の家風を想い起こしている様子が伝わってくるように思われます。
 慶喜もまた水戸藩主慶篤をはじめ、鳥取池田家の慶徳、両山池田家の茂政など多くの兄弟に気苦労がありました。とくに武田耕雲斎ら一行の西上の際の、慶徳、茂政の嘆願には困惑しております。それだけに兄弟の関係には細心の気配りをしております。
 水戸家の家風は兄弟謙譲のみではございません。伯夷叔斉が武王の放伐を否定したように、革命を否定し、尊王の大義に生きる家でありました。それは義公以来の家訓として伝えられてきました。
 まさに慶喜が水戸家の家訓に生きたことによって、内乱の危禍を乗り越え近代国家として第一歩を踏み出すことが可能となったと考えるのであります。これは最後の将軍徳川慶喜の最大の功績でありましょう。
長い間ご静聴ありがとうございました。

                 (平成9年8月3日講座)
              (茨城県立水戸第三高等学校長)